2017年06月08日

山海関事件の占領部隊

山海関02.jpg山海関01.jpg満州事変の末期に起きた「山海関事件」の当事者と思われる人物が事件直後に発信した軍事郵便はがきです。ヤフオクで落とし、今日届きました。

発信アドレスは「山海関警備隊本部に於て」ですが、裏面通信文に「天下第一関を三日占領接収、本夜帰錦予定なり」とあります。山海関に近い「満州国」錦州(錦縣)に駐屯していた部隊の幹部で、山海関占領に当たった後、帰営するという知らせでしょう。山海関警備隊は関東軍が占領地に新設した部隊です。

山海関は中国河北省の最北東端、万里長城が渤海湾に没する地点で長城南壁に接した交通の要衝です。1933(昭和8)年1月1日に日本の北支駐屯軍山海関守備隊と現地中国軍との間で小規模な軍事衝突が起きました。局地解決のつもりが満州国内から関東軍部隊が応援に駆けつける本格的戦闘に発展し、日本軍は海空からも攻撃を加えて1月3日に山海関を占領してしまいます。

この山海関事件は日本だけでなく国際社会に大きな衝撃を与えました。当時は国際聯盟から派遣されたリットン調査団が「満州事変は日本の侵略行動か」を現地調査し、報告書が提出される直前だったからです。中国東三省(いわゆる「満州」)にとどまらず本土の都市まで攻撃・占領する日本軍の侵略性が明らかとなりました。

事実、関東軍は事件直後の2月に熱河作戦を発動して熱河省全部を満州国の版図に組み込みます。続いて起こした関内作戦では一斉に長城線を越えて華北一帯に侵攻し、北平(北京)-天津を結ぶ線のすぐ手前まで迫りました。やむなく中国軍は5月31日に関東軍との間で塘沽停戦協定を結びます。中国が武力に屈服させられた形で満州事変が収束しました。

山海関事件は関東軍による満州支配を確実にさせ、日本政府や国際聯盟にさえあった宥和的な解決策を崩壊させる「最後の一撃」への引き金となりました。以後、日本は国際聯盟脱退-日中戦争-太平洋戦争-敗戦に至るレールに転がり込みます。このため、事件は突発でなく日本軍内部の謀略だったとする見方もあります。

山海関-L.jpg山海関-L2.jpg前置きが長すぎました。このはがきは満州国郵政の大型丸二印で大同2(1933)年1月19日に引き受けられています。「山海関」と入るべき印影下部は空欄のままです(左図の左)。入れ忘れたのでしょうか。突発的な開設に局名部の印材製作が間に合わず、空白のまま使用開始したとGANは見ます。

満州国は中国山海関郵局を接収して1月13日に山海関臨時郵局を開設しました。占領からわずか10日後のことです。外国領土内への開設可否の検討、その決定、要員・資材の手配、現地への送り込み、局舎の準備などと慌ただしい中、日付印だけ間に合ったとはとうてい思えません。予備の資器財は何とか回せても、局名印材は発注手続きをするのがやっと、が実情だったでしょう。

ところが、『切手趣味』第7巻第5号に藤堂太刀雄(戸田龍雄)氏が開局当日・大同2年1月13日印の官白を発表しています(上図の右)。しかし、情報を得てから満州国郵政当局に郵賴し、それが開局に間に合うよう現地に届くわけがありません。日付を遡って後日に作成した「記念押印」でしょう。やはり、実際には開設直後のこの局は局名なしの日付印を使っていたと思われます。

この印影の「奉天省」はもちろん虚偽で、山海関の所在地は中国本土の河北省です。満州国郵政は外国地名を表示するわけにもいかないし、中国局と誤認・混同される恐れも生まれます。隣接する自国の行政地名で当面を糊塗したのでしょう。あるいは局名が空白なのも、「山海関」局としてよいか迷いがあり、「表示出来なかった」が意外な真相だったりするかも知れません。

じっさい、1935年に中国と通郵協定を実施するさいに局名「山海関」は「南綏中」と改称されています。綏中は山海関近くの満州国内に実在する地名で、「綏中の南」を意味するバーチャル地名が考案されたのです。他に、大型丸二印時代の似たケースとして「熱河省」の南灤平(古北口=河北省)、「興安省」の多倫(察哈爾省)局があります。
posted by GANさん at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事行動 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック