2017年06月30日

幌筵島の陸地測量部員

幌筵.jpg幌筵-2.jpg陸軍参謀本部の下部機関である陸地測量部の測量要員が1913年(大正2)に北千島北端の幌筵(ほろむしろ=パラムシル)島から発信した紫分銅はがきです。近年のネットオークションで入手しました。

ありがたいことに、現在ではこの陸地測量部員の行動が、かなりの程度解明できます。アジア歴史資料センター(JACAR)がネット上で公開している膨大な資料の中に、断片的ながら記録した文書が残されているからです。

明治末から大正時代にかけて、海軍は毎年春から夏に樺太や千島に軍艦を派遣してラッコなどの密猟を取り締まるかたわら、水路の測量や北洋情勢の調査などを続けていました。大正2年度は幌筵島沿海部の水路測量で、2等海防艦「大和」(初代、1,480トン)を派遣する計画でした。

これを知った陸軍も幌筵島の地形測量を計画、陸地測量部の技師らの便乗派遣を海軍側に申し入れて承認されました(大正2年3月24日付海軍次官発呉鎮長官・水路部長宛「千島国幌筵島測量ニ関シ軍艦便乗ノ件」)。陸地測量部の目的は、空白状態の北千島各島の地形を三角点測量し、縮尺5万分の1地形図などにまとめることでした。

「大和」は6月2日に根室に2回目の寄港をしたさい、陸地測量部チーム68人と60トンの測量器財をピックアップし便乗させました。8日に出港し、6月12日に幌筵島に入港して部員らを降ろし、6月15日には千島列島最北端、カムチャツカ半島と向き合う占守(しむしゅ)島に着きました。これを含め、9月下旬に任務を終えて帰投するまでの間に根室-占守島間を3往復しています。

このはがきの差出人は「地形科附」とありますから、2人の測量士を補佐する11人の測量手のうちの1人ではないかと思われます。幌筵到着3日後の6月15日に書かれた安着を知らせるはがきは幸便を待ちましたが、いっこうに北海道に向かう船が来ません。結局、一時帰航する「大和」に搭載されてようやく7月25日に根室に着きました。

北千島に日本人が入り、越冬施設も出来るのは北洋漁業が盛んになる大正中期以降のことです。この時代は郵便機関など影すら見えません。幸便に恵まれなかったこのはがきは、40日もが過ぎてから初めて根室局で正式に引き受けられました。千葉県の宛先に届いたのは7月末でしょう。1ヵ月半もの「超長旅」です。

海軍は「大和」乗員や便乗者宛ての郵便について、大正2年4月19日付「海軍公報」で、「5月1日以降は根室局に宛てるよう」指示しました。このはがきの発信アドレスもそれに従っています。実際に「大和」は4月7日に所属する呉軍港を出て根室を5月5日に出港、占守島に向かいました。根室局に溜まる「大和」宛て郵便物は幸便頼みだったでしょう。

これらの経緯から、このはがきは軍艦利用の海軍連絡ルートに乗った陸軍軍人の通信と分かります。北千島郵便史の前史を物語る得がたい資料と思います。
posted by GANさん at 23:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍事行動 | 更新情報をチェックする
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