2017年08月25日

5倍遠回りしても鉄道便

駿河小山.jpg静岡県小山から山梨県吉田に宛てた書状です。菊赤紫3銭を貼って小山局明治37年(1904)10月20日ハ便で引き受け、吉田局に翌21日ロ便で到着しています。最近のヤフオクで入手しました。富士山麓を四分の一周ほどめぐるだけの平凡な郵便ですが、封筒下部に「東京静岡間10月20日上り便」の鉄道郵便印がありました。これは大問題です。

小山から吉田局に逓送する場合、通常は隣の御殿場局経由で須走を経て甲駿国境の籠坂峠を越え、谷村、大月方面に至る逓送路を利用します。小山 → 御殿場 → 吉田間は50㎞足らずで、翌日配達か、便の連絡が非常によければ即日配達だって可能な距離です。

ここで蛇足をしておくと、吉田、御殿場、須走(現在は小山町の一部)はいずれも富士登山道の登り口です。受取人の刑部おさかべ氏は吉田口では知られた御師おしでした。御師とは山岳信仰「冨士講」の神職兼登山ガイド兼宿泊所経営者のことです。

これに対し、東海道線に乗ったら東京まで運ばれてしまいます。東京からは現在の中央線で大月から運ぶほかありません。東海道線と中央線は共に100㎞以上あり、大月 → 吉田間を加えると合計250㎞にもなります。通常の御殿場経由ルートの5倍もの遠距離です。

そもそも200㎞も余計な大回りをした挙げ句、翌日に平然と吉田に着くことなど可能でしょうか。それとも単に誤って郵便車に乗せられただけ? 鉄郵係員が国府津駅あたりで降ろし、御殿場に逆送して通常ルートに乗ったというシナリオもあり得ます。鉄郵印が「紛来印」として使われるのも時に見られるケースです。

結論から言うと、東京回りの翌日配達は時間的に可能でした。収友の鉄道郵便専門家・児玉敏夫氏に貴重な当時の時刻表をご提供いただき、併せて「逓信公報」告知欄を日を追い調べたところ、行程時間は次のようになります。「東京静岡間」が1日上下1便ずつしかないので時間を確定できました。(下図参照

10月20日 小山局 → 東海道線駿河小山駅18:05発(東京・静岡間上り便) → 新橋駅21:35着 → 東京局(泊)
10月21日 東京局 → 甲武鉄道飯田町駅04:50発(東京・八王子間下り1号便) → 八王子駅06:35着 → 中央線八王子駅06:45発(八王子・韮崎間下り1号便) → 大月駅08:40着 → 大月局 → 吉田局

小山吉田間逓送路.pngアリバイ成立! この書状が東海道線と中央線を経由する東京大迂回ルートで逓送されたことが確実となりました。鉄郵印は紛来印などではなく、堂々たる中継印だったのです。

すると次の問題は、なぜ通常の御殿場 → 須走ルートでなく、「逆方向」で面倒な積み替えが何度も必要となる東京 → 大月ルートが選択されたかです。「急がば廻れ」を地で行ったというのでしょうか。

当時は須走局から御殿場局へ1日2回の持ち戻り便があり、戻る須走局員の御殿場局発が04:29と14:10でした。小山局の引受印「ハ便」は恐らく夕方の時間帯でしょうから、御殿場局に回すと須走行き第2号便の出発後となる可能性があります。機転を利かせた小山局員が「逆転の発想」で、これから到着する東京行き郵便車に積み込んだのかも知れません。

しかし、実を言うとこの推測もやや危うい。書状を御殿場局に送って、そのまま1泊したにしても、翌日の須走行き第1号便で差し立てれば吉田には即日到着出来るはずだからです。

ただし、小山局の20日最終便も出た後だったら話は別です。やむなく小山局で1泊すると、今度は御殿場局未明発の非常に早い第1号便にも間に合わないかも知れない。御殿場局で第2号便まで10時間も待たされると、須走には夕方近い15:42着となってしまいます。須走局での再度の1泊を免れて籠坂峠を夕暮れに越えたとしても山麓の山梨・中野局で21日は終わりです。結局吉田へ着くのは22日となり、3日掛かりの最悪ケースも考えられるのです。

小山局のとった処置の当否は結局、「ハ便」の時間帯が実際には何時か、それは御殿場局行き最終便に間に合うのか、に依ります。今後の資料の発掘に期待しましょう。便数の極めて少ない当時の田舎の局として、ユーザーのため最善の配慮をした結果だったろうとGANは理解しています。

再び蛇足ですが、この鉄道郵便印、丸一型東京静岡間「37年10月20日上り便」は上・下便を通じて最古データを更新するもののようです。最新刊の『てつゆう=梶原ノート=』(2014年、鳴美)によると、最古は「38.7.17上り便」となっています。
posted by GANさん at 02:16| Comment(0) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする
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