2017年11月16日

徐州陥落記念印の使い方

徐州裏.jpg徐州.jpgいわゆる「中支野戦局記念印」の一種が押された実逓カバーです。「中北支連絡記念」赤色ゴム印で鳳陽野戦局が昭和13年(1938)6月6日に引き受けています。最近のヤフオクで入手しました。

華中の野戦局で使われたこの種の記念印や風景印は逓信省からの告示類はいっさいありませんが、使用当時から郵趣界に報告されていました。この印の場合は『切手趣味』第17巻第6号(1938年11月)のコラム「中北支連絡記念」に図入りで簡明に紹介されています。筆者の「NA生」は不明ですが、中支那派遣軍野戦郵便本部の関係者と思われます。

「NA生」によると、この記念印は徐州陥落を記念して鳳陽、徐州の両野戦局で使われました。鳳陽は南北からの連絡が通じた5月15日から使用開始し、徐州は攻略した5月19日に日付を固定して更新しなかったといいます。実際の軍事郵便に押されたこの記念印を見ても、確かにこの2種の日付が多く、鳳陽では5月15日以降6月に入っても使われています。

徐州作戦概念図.png徐州攻略作戦は38年4、5月に北方から北支那方面軍(の第2軍)と、南方からの中支那派遣軍が中国軍を挟み撃ちする形で行われました。北支軍は天津-浦口間の津浦線鉄道に沿って済南方面から、中支軍は長江を隔てて浦口対岸の南京方面から、同時に進撃しました(左図参照)。徐州占領により津浦線の打通には成功しましたが、本来の目的だった中国軍主力の包囲殲滅には失敗しました。

ところで、この記念印が表示する「鳳陽野戦局」「徐州野戦局」という名称の野戦局は実際には存在しません。野戦局は移動が前提なので、局名はすべて番号で表示され、原則として地名の野戦局はありません。鳳陽で開設されていた野戦局は中支軍野戦郵便隊の第110局でした。

中支軍郵便隊は陥落翌日の徐州で5月20日に第120局を開きますが、23日に撤退して第2軍野戦郵便隊の第61局に引き継ぎました。徐州での野戦局はその後も6月9日に第65局、7月10日に第60局と、激しく交替しています。いずれも第2軍の野戦局です。

この書状は裏面に「13.6.5」、通信文にも「嘉興ニテ六月五日」と発信の日時と場所が明記され、記念印の日付「6月6日」にマッチします。しかし嘉興は上海の南西で、鳳陽とは400㎞ほども離れており、徐州作戦とは無関係です。

中支那派遣軍管内で最も徐州に近い野戦局は、一時的開設に終わった前出の120局を除けば、鳳陽の第110局でした。このため記念印に「鳳陽野戦局」名が使われ、嘉興を含む管内の野戦局でもこのままで共用されたのでしょう。

一方の「徐州局記念印」はそれほど広範囲に使われた様子が見えません。第2軍管内の野戦局で徐州とは無関係に使われたのではないでしょうか。第2軍は徐州作戦に続いて計画されていた武漢占領作戦に備え、漢口方面に向け次々と西進中でした。

要するに「中北支連絡記念」印は、日付はともかく局名が実際の引受局(発信地)を表していません。このような印を「通信日付印」と呼ぶのは、かなり難しい。「野戦局が自由な使用に提供した単なる記念スタンプ(私印)だが、通信日付印として使われた場合もある」と考えればよいと思います。
posted by GANさん at 04:34| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする
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