2018年03月31日

切手・消印なし罹災郵便

罹災郵便-02.jpg罹災郵便-01.jpg切手も消印も一切ない封筒ですが、これでも立派な第1種書状の郵便物です。1923年(大正12)9月の関東大震災の際に短期間認められた制度に基づいています。近年のヤフオクで入手しました。

関東大震災で壊滅状態となった東京、横浜両市では被災を免れた郵便局でも手持ちの郵便切手類はわずかしかありません。着の身着のままで逃げ出した被災者は言わずもがなです。被災者からの私製はがきと有封書状は無切手で受け付け、郵便料は受取人から徴収すればよいと逓信当局は柔軟に対処しました。

これが「罹災郵便」制度で、9月10日付「逓信公報」第1号外で逓信省令第58号として公表、即日実施されました。一部にある8日や9日開始説は誤りです。9月8日は計画が決まった日で、翌9日に省令公布の運びでしたが、逓信公報が2日以降発行不能でした。ようやく10日に手書き原稿を起こす形で応急復刊し、省令を掲載できたのです。旧逓信省保存の公報(製本済み)も公布日は手書き赤ペンで「10日」と直されています。

この書状は戒厳令によって横浜市の警備についていた軍隊から制度開始1週間後の9月16日に発信された罹災郵便です。横浜局は第一震で倒壊し焼失しましたが、9月9日までに横浜駅前、桜木町駅前、横浜公園内など8個所にテント張りの郵便受付所を仮設していました。切手も日付印も失い、受け付けた郵便物を東京や静岡方面へ送り出すだけの業務でした。

発信アドレスは「横浜市大岡町/千保警備隊/歩57ノ3」とあります。「歩57ノ3」とは歩兵第57連隊の(第1大隊)第3中隊を意味します。57連隊は第1師団歩兵第2旅団(旅団長:奥平少将)に属し、千葉県佐倉に駐屯していました。千保警備隊にはこの第3中隊がそのまま充てられたのでしょう。

神奈川県内の治安を武力で維持するため、9月3日に戒厳司令部による命令が出されて相模川以東に神奈川警備隊、以西に小田原警備隊が設置されることになりました。神奈川警備隊司令官には歩兵第2旅団の奥平旅団長が任命され、即日、現在のJR横浜駅西口の北側、青木町高島山に司令部を開設しました。

神奈川警備隊はさらに、桜木町駅付近で横浜港に流入する大岡川を境に横浜市内を南北二分し、北部をはるばる青森から駆け付けた第8師団歩兵第5連隊第1・2大隊に、南部を57連隊第1・2大隊にそれぞれ警備させました。別に、藤沢・鎌倉方面の警備に5日から騎兵第15連隊が派遣されています。

アドレスにある「千保」は大岡町の小字で、現在の京浜急行本線(当時は予定線)上大岡駅北口の鎌倉街道(現在の県道21号)との交差地点に当たります。鎌倉方面から横浜に入る南の関門として中隊規模の警備隊が配置されたのでしょう。通信文から発信者はこの第3中隊の中隊長(中尉)のようで、故郷の兄に近況報告しています。

8個所の郵便受付所の一つは被災した無集配3等局の横浜大岡町郵便局跡地にも設けられていました。この書状はそこで受け付けられたに違いありません。軍用方眼紙を流用した封筒表面に赤ペンで「罹災郵便」と「◎郵税先払」、裏面に「切手無イカラ先払ヒ御免」「兵ノコシラヘテクレタ封筒デス」などと書かれ(上図)、発信事情をよく物語っています。

この当時、東海道線は不通のままで、海軍の軍艦が品川-江尻(清水港)間で貨客の臨時輸送に当たっていました。この書状もそれによって横浜港から運び出されたのでしょう。東海道線は沼津以西なら通じていたので、豊橋まで運ばれて飯田線に積み替え逓送されたと思われます。宛先の長野県下伊那郡市田村は現在の高森町で、下市田局が配達局でした。

もしこの書状に切手が貼られていたら、最初に通過した江尻局で引き受け・抹消したはずですが、無切手なので引受印は押されていません。封筒に未納印や付箋の跡などが見当たらないことから、あるいは配達した下市田局が「同情的配慮」をして3銭の不納料金を請求しなかったのかも知れません。
posted by GANさん at 20:54| Comment(0) | 関東大震災 | 更新情報をチェックする
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