2018年06月06日

南洋から「国内軍艦郵便」

沖島-12.jpgつい最近のヤフオクで奇妙な絵はがきを入手しました。南洋から発信されたことが明らかなのに内地局の消印が押されているのです。

左図がそれで、書き込みによると、軍艦「沖島」の参謀が2月4日にパラオから発信し、13日に神奈川局の機械印で引き受けられています。年号部分が不鮮明ですが、裏面(下図)ヤップ局風景印の日付から昭和12年(1937)と分かります。風景印の図案が絵はがきと同じ現地民族の集会所「アバイ」だったので記念押ししたようです。

沖島は5千トンと大型な新鋭敷設艦ですが、巡洋艦並みの性能がありました。36年12月に聯合艦隊直属で第12戦隊が新編制され、旗艦となります。戦隊には水上機母艦「神威」と駆逐艦「朝凪」「夕凪」が編入されました。

沖島-2.jpg12戦隊の任務は「南洋委任統治区域の警備」です。しかし実際は、来たるべき対米戦争に備え、軍備が禁止されてきた南洋群島を海軍基地化することが真の任務でした。

差し当たっては水陸飛行場や艦隊泊地用の適地を探る視察と兵要調査です。米国に知られるのを恐れ、戦隊の全行動は軍機とされました。

12戦隊の沖島以下4艦は37年1月28日、南洋群島、フィリピン、蘭印、ニューギニアに及ぶ初航海へ横須賀を出港します。日本でも稀な総合南方調査だったため、外務省、海軍軍令部、南洋駐在海軍武官らが身分を隠して同行しました。途上で日中戦争が勃発したため、秋までの予定を切り上げて急遽横須賀に7月13日に帰投しています。

海軍は通常、行動する艦船への連絡予定地を例えば「2月10日までに到着する郵便物宛先はサイパン」などと『海軍公報』に掲載しています。しかし、今回の12戦隊の出港後アドレス予定は異例にも「神奈川局気付」とだけされました(37年1月20日付『部内限 海軍公報』雑款)。行き先や目的は内部にさえ一切秘密にしたのです。

南洋定期航路のターミナルは常に横浜港です。南洋との郵便物集中局(=交換局)も当然、当初から横浜局でした。このため、艦船の郵便物アドレスが「横浜局気付」だと南洋で行動することが分かってしまいます。海軍省の要請で1935年(昭和10)7月、南洋への集中局は横浜港直近の神奈川局に変更されますが、この事実は外部には秘密でした。

詳しく調べたところ、アドレスを「神奈川局気付」とした艦船部隊の行動は5回だけありました。36年8月の第3航空戦隊、37年1月の第12戦隊(今回)、38年4月の測量艦「膠州」、40年1月と5月の第4艦隊で、すべて南洋での基地調査と設定のための秘密行動です。36-38年の郵便は有料ですが、40年の2回は無料軍事郵便として扱われています。

さて、前置きが長くなりすぎましたが、この絵はがきの逓送路を推定します。12戦隊ではこのはがきを含む乗員からの有料郵便物を一括して郵袋に納めて閉嚢とし、パラオ局に持ち込んだのでしょう。パラオ局は閉嚢のまま横浜行き最速の便船に搭載したはずです。横浜入港後、閉嚢はただちに神奈川局に運ばれて初めて開けられ、引受押印をしたと思われます。

この方法は、実は軍艦郵便(軍艦閉嚢)とまったく同じ取扱です。ただ、軍艦郵便の適用はUPU加盟の外国港に停泊中の日本艦船に限られます。12戦隊の郵便物は日本領土の南洋群島から発送した点で異なりますが、いわば「国内版の軍艦郵便」でした。軍機保持の必要から生まれたのですが、この時期の南洋でしか考えられない極めて稀なケースでしょう。

以上の逓送路と方法はすべてGANの推定に過ぎません。しかし、当時の軍事情勢と、現実に神奈川局の消印が押された郵便物が存在する事実とを考え合わせると、それほど大きな誤りがあるとは思えません。
posted by GANさん at 09:09| Comment(0) | 軍艦郵便 | 更新情報をチェックする
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