2018年09月30日

アッツ米川部隊の通称号

北部83-表.jpg北部83-裏.jpg太平洋戦争の初期、日本軍は米領アリューシャン列島の一部を占領していました。その守備隊の「物語」は、アッツ島の「玉砕」やキスカ島からの奇跡的全員脱出という劇的展開で、今日の私たちにも涙させる強い魅力があります。

しかし、ここほど軍事郵便の収集家・研究者を泣かせる地域もまたありません。アリューシャン撤退後に関係部隊がすべて廃止や改編されたため、当時の部隊記号(通称号)を読み解く資料がまったく失われてしまいました。通称号は陸軍の軍事郵便アドレスとして必ず使われるで、解読できないと部隊名が分かりません。

そんな中で、いくつかあるアッツ部隊の通称号解明を1件だけですが増やすことができました。上図は最近GANが入手したはがきで、発信アドレスに「北海派遣 北部第八十三部隊気付」と書かれています。この通称号「北部83部隊」とは、アッツ守備隊の主力として戦い全滅した「北千島要塞歩兵隊」と分かったのです。

米川浩部隊長.jpg収友の大上養之助氏に頂いていた北方部隊関係資料の内の1冊、『はんの木-北千島戦友会誌』(1989)を最近読み返していて、たまたま気づきました。北千島要塞歩兵隊長だった米川浩中佐のご遺族が寄せた文章にアッツの米川中佐からのはがき(右図)が添えられ、そのアドレスが「北部第八十三部隊」と、上図のはがきと同じなのです。

隊長自身が記しているのですから、北部83部隊の正式名は「北千島要塞歩兵隊」以外にあり得ません。この部隊は1941年(昭和16)7月に札幌で編成され、9月に北千島の占守島別飛に派遣されて駐屯していました。42年10月にアリューシャン作戦に転用されてアッツを占領し、「米川部隊」と通称されました。

ところで、GANのはがきは米川部隊長からのものと少し異なり、「北部83部隊気付」と「気付」が付いています。これは何を意味するのでしょうか。ここでの「気付」は、歩兵隊本隊でなく、歩兵隊の「指揮下に配属された別の部隊」の意味で使われていると考えました。

通信文に「昨年の四月、北鮮の国境より帝都の防空設備の為八月迄出張、東京生活も僅かで又北の一線に飛び出した」「内地よりの便りは上陸以来六ヶ月になるのにまだ何の消息も耳に出来ません」などと書かれています。工兵関係の兵士が43年4月末か5月初めに発信したと推定できます。

公刊戦史『北東方面陸軍作戦<1>』によると、米川部隊への配属部隊はそう多くありません。これは北千島要塞歩兵隊に従ってアッツに進出した「第24要塞工兵隊ノ1小隊」でしょう。小隊長荒井善之助少尉以下、恐らく数十人の小部隊だったと思われます。部隊長の1枚のはがきをキーに、多くのことが分かりました。
posted by GANさん at 14:21| Comment(2) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
GAN様 過日、ご丁寧なご指導をたまわった川島茂裕です。その節は、大変ありがとうございます。
さて、今回の9月30日付「アッツ部隊の通称号」につき、ご教示をたまわりますれば、ありがたく存じます。
今回の郵便は、43年の新春、2月頃の発信ではありませんか。
42年4月、「北鮮」から東京に移駐。
42年8月に、東京から、発信先に移駐。
それから、「六ケ月」になる、と書いてあります。43年2月に発信先に移駐。
郵便冒頭に、「新春」とあります。
文面では、「雪焼」「防寒服」「思ったより寒くな く」「スキー」とあって、冬期を感じさせます。
当方、不勉強につき、ご指導をたまわりますれば、ありがたく存じます。
Posted by 川島茂裕 at 2018年10月03日 04:13
川島様、コメントをありがとうございました。結論から先に言うと、このはがきはやはり「43年4月末か5月初め」の発信で間違いないと思います。
「42年8月」は「発信先に移駐」した時期ではなく、帝都の防空工事のため北鮮から出張していた期間です。工事終了後はそのまま東京の本部勤務となったものの、わずか2ヶ月でアッツ派遣を命じられ、幌筵島柏原あたりで米川部隊(北千島要塞歩兵隊)に合流、同じ船でアッツに渡航、着任したと思われます。
米川部隊は42年10月25日に任地の占守島を出発して柏原で乗船し、10月30日にアッツ島に上陸しています。この日から起算すると、6ヶ月先は、「43年4月末か5月初め」です。
大本営は42年8月当時はアッツ放棄方針だったため占領部隊はキスカに転進してしまい、9月中旬から10月末まで(米川部隊が来るまで)アッツは無人島でした。
Posted by GAN at 2018年10月03日 04:17
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