2018年10月31日

間島出兵の短期間野戦局

第16野戦局.jpgシベリア出兵時の第16野戦局から発信された大正10年(1921)の年賀状です。読みにくい発信アドレスですが、浦潮(ウラジオ)派遣軍隷下の第13師団歩兵第58連隊第1大隊本部の兵士が「支那三岔口さんたこう」から発信しています。ごく最近のヤフオクで入手しました。

「シベリア出兵時」と書きましたが、実はこのはがきはシベリア出兵とは無関係の「間島出兵」の軍事郵便です。「間島」とは中国吉林省南東端で図們江(豆満江)を隔てて朝鮮咸鏡北道やロシア沿海州と接する国境地域を指し、現在の吉林省延辺朝鮮族自治州に相当します。

間島は日本の植民地を脱して独立を取り戻す朝鮮人ゲリラ部隊の根拠地になっていました。中朝露3国国境の接壌地帯という特殊性から、日本や中国官憲の統制が及びにくかったからです。その間島の中心地・琿春で1920年(大正9)10月2日に朝鮮人馬賊の一団が日本総領事館を襲撃して放火し、在留日本人数十人が殺傷される事件(琿春事件)が起きました。

植民地支配の動揺を恐れる日本政府と陸軍はただちに朝鮮軍に朝鮮独立ゲリラ弾圧のため間島への越境出兵を命じます。シベリア出兵中の浦潮派遣軍、満洲駐屯の関東軍も協力して部隊を派遣しました。10月初めから12月20日まで2ヵ月半ほどのこの軍事作戦が間島出兵と呼ばれます。

浦潮派遣軍は間島出兵に当たり、吉林省三岔口に11月7日から12月18日までの期間、第16野戦局を特設しました。三岔口は中東鉄道東端の綏芬河(ポグラニーチュナヤ)駅南方40キロにある山中の小集落です。さらに南方へ直線150キロの琿春への兵站・前進基地でした。

出兵の主力を担った朝鮮軍には軍事郵便が適用されず、野戦局は開設されていません。部隊からの郵便物は龍井村の間島局や豆満江を渡って朝鮮の慶源、会寧局に運ばれ、有料で扱われました。また関東軍は間島西部の奉天省東辺道地区を示威行軍しただけで、郵便とは無縁です。結局、間島出兵の野戦局は浦潮派遣軍第16局だけの短期開設に終わりました。

実はこのはがきの日付印「10年1月1日」には浦潮派遣軍の全部隊は既に間島全域から撤兵後で、三岔口には野戦局もありませんでした。第16局閉鎖の12月18日以前に差し出され、年賀状として特別取扱を受けて元旦の日付が「先付け」で押されたのです。野戦局が12月中に移動・閉鎖された場合の年賀状では、時にこのような例が起こります。
posted by GANさん at 22:19| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする
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