2019年04月21日

玉砕部隊に宛てたはがき

クェゼリン-2.jpg太平洋戦争中に南海の孤島や大陸奥地で敵軍に包囲され、援軍のないまま全滅した(当時は「玉砕」と美化して発表された)部隊は数知れません。そうとは知らない家郷から全滅部隊の兵士に宛てられた軍事郵便はどう取り扱われたでしょうか。一つの回答を与えるはがきがあります。

このはがき(左上図)は2銭楠公に1銭女工を加貼りして、昭和19年(1944)9月25日に埼玉県熊谷局で引き受けられた軍事郵便です。宛名の「ウ90」は南洋マーシャル群島クェゼリン環礁のクェゼリン島、「ウ50」は海軍の第61警備隊を表します。「うらら丸」は海軍省の『徴傭船舶名簿』によると、阿波国共同汽船会社の貨客船(407t)で、41年(昭和16)11月に海軍に徴用されました。

クェゼリン-1.jpg付箋があり、横須賀局軍事郵便課で「軍当局ノ指示ニ依リ返戻」と印刷されています(左下図)。結局このはがきは戦地には渡らず、熊谷-横須賀間を往復しただけに終わったわけですが、差出人は「軍当局ノ指示」とは何か、なぜ戻されてきたのか、理由が見当も付かなかったでしょう。

日本領土の最東部に当たるクェゼリン環礁には開戦以前から太平洋を進攻してくる(はずだった)米艦隊を迎え撃つ海軍の潜水艦基地などが建設されていました。実際、開戦劈頭のハワイ真珠湾攻撃に加わった第6艦隊の潜水艦部隊はここから出撃しています。

クェゼリンには基地施設を守るため海軍第61警備隊や、後になって陸軍も海上機動第一旅団、南洋第一支隊のそれぞれ一部を配置します。中部太平洋方面最前線の中枢基地として整備されていました。

米軍は44年1月下旬からクェゼリンに空襲と艦砲射撃を加え、2月2日から上陸を始めました。6日にクェゼリンと、同環礁内で飛行場のあるルオットの日本軍は全滅してしまいます。このはがきの宛名「うらら丸」は「44年1月30日沈没」と記録されています。61警備隊に所属していて、環礁内で米軍上陸直前の空襲を受けて撃沈されたのでしょう。

大本営は2月25日になって初めてクェゼリン、ルオットの陸海軍守備隊の「玉砕」を公表しました。一般国民もクェゼリンの兵士が全滅したことを知るわけですが、軍事郵便で「ウ90」と表示されるのがその場所とまではだれも知りません。知らないまま差し出されたこのはがきの宛先は、実は半年以上前に部隊が全滅してしまっていたクェゼリンだったのです。

これが日中戦争までだったら、「名宛人戦死」という付箋付きで戦地から返戻されていました。太平洋戦争で当局は「戦死」は国民の戦意高揚に有害と考えたようで、禁句でした。このはがきは、まして全滅部隊宛てなので、戦地に送るまでもなく軍事郵便交換局の横須賀局からそのまま戻されています。

この付箋は「名宛地ノ部隊玉砕セルニ依リ」と言わず、単に「軍当局ノ指示ニ依リ」としか説明していない点が不親切です。いかにも「大本営発表」で悪名高い軍部の独善的な秘密主義を表しています。名宛人がクェゼリンで戦死したと聞かされ、はがきが届かなかった真の理由を差出人が覚ったのは戦後になってのことだったと思われます。
posted by GANさん at 02:08| Comment(0) | 軍事郵便(海軍) | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください