2019年09月30日

内地台湾航路ついに途絶

内台航路途絶.jpg太平洋戦争も最末期の昭和20(1945)年3月20日に徳島県岩倉局が引き受けた台湾宛て書留軍事郵便です。最近のネットオークションで苦戦の末、辛くも落札しました。

この12日後に郵便料金は全面値上げされますが、当時の書留料金として富士桜20銭は適正です。しかし、第1種料金はまだ7銭だったので、3銭乃木×3=9銭では2銭過剰でした。1銭切手の手持ちがなく、局の窓口でも切らしていたのでしょう。敗戦間近の混乱ぶりを示すと言えそうです。

多少の無理をしてでも欲しかったのは、このカバー上辺に小さな付箋が貼られていたからです。ガリ版刷り青色で「本郵便物ハ送達ノ方法無之ニ付キ返戻ス/下関局」とあります。台湾への逓送は不可能になったから返す--。これこそ内台航路途絶を示す証拠資料に他なりません。

この年初頭、米軍にフィリピンを奪還され、次は台湾か沖縄が攻撃されると日本全土が脅えました。大本営は米空母艦隊の来襲を陸海軍共同の航空攻撃で撃退する「天号作戦」を3月1日に立案します。泥縄的に特攻機部隊が編成され、次々と九州南部の航空基地に送り出されました。

そんな折、3月18日に所在を捕捉できない米空母の艦載機によって九州、四国地方が大空襲を受けます。23日に奄美・沖縄にも同様の空襲。4月1日にはついに米軍4個師団が沖縄本島に上陸を始めました。既に制海・制空権とも日本軍にはなく、日本本土と台湾を結ぶ内台航路はここに至って途絶してしまいます。しかし、その事実は国民には隠されていました。

内台航路は元々は大阪商船が神戸-門司-那覇-基隆間に就航し、戦時中は船舶運営会に移管されました。主力船の高千穂丸、富士丸、大和丸が次々と米潜水艦に撃沈された後も、船腹をやりくりして不定期ながら維持していたのですが、航路の海域自体が戦場となっては万事休すです。

この書状は徳島県を出た後、台湾との交換局である下関局で台湾行きの待機を始めた直後に逓送路途絶、やがて付箋を貼られて返戻となったのでしょう。四囲を敵艦に包囲されて外部との交通が完全に遮断され、敗戦必至の情勢に陥った日本の生々しい現実を伝えています。

余談にわたりますが、届かなかった宛先の「武1524部隊」とは第9師団歩兵第7聯隊を表します。第9師団は沖縄防衛のエースとしていったんは沖縄本島に配備されたのですが、台湾に転出させられ無傷で敗戦を迎えました。沖縄の防衛戦力を削いだ大本営の戦略的無能を示す皮肉な資料でもあります。
posted by GANさん at 21:05| Comment(0) | 大戦前後混乱期 | 更新情報をチェックする
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