2019年06月06日

区別符なかった兄島部隊

兄島.jpgアドレス表記が興味深いので、最近のネットオークションで入手した軍事郵便です。発信者は「横須賀局気付/膽6681部隊」の兵士。「膽(胆)」は小笠原諸島を守備した小笠原兵団主力の第109師団を、「6681」部隊は独立歩兵第275大隊を表します。

これは海軍の軍事郵便交換局である「横須賀局気付」を肩書きする海軍式と、「膽6681」という陸軍式の部隊表記が混在した、いわゆる「ハイブリッド型」のアドレスです。このタイプのアドレス表記は、海軍側が軍事郵便業務を担当する地区に配属された陸軍部隊で使われました。

硫黄列島を含む小笠原諸島の防衛は陸軍の担当で第31軍隷下部隊が配備されましたが、その補給は輸送能力のある海軍の責任でした。昭和19年(1944)6月にサイパンが陥落し、そこに司令部を置いていた第31軍が壊滅すると、小笠原では第109師団以下の各守備部隊が31軍を離れて大本営直属の「小笠原兵団」として再編されました。

父島.jpg「興味深い」というのは、通常のハイブリッド型なら必ずある海軍の所在地区別符を持たない、珍しいアドレス表記だからです。例えば、小笠原父島なら「ウ24」、硫黄島なら「ウ27」といった場所を表す「所在地区別符」を通常は通称号の前に記す(右図)のですが、このはがきにはありません。書き忘れでしょうか。

結論から先に言ってしまうと、「この部隊がいた島には区別符がなく、アドレスに書きようがなかった」のでした。独立歩兵第275大隊は昭和20年(1945)1月の編成直後から父島の北に隣接する無人島・兄島(下図=国土地理院「地図globe」から)を守備しました。しかし海軍は戦略的に無価値とみて、この島に区別符を振らなかったのです。

兄島2.jpg区別符のない地点に海軍の陸上部隊が派遣されることもありますが、ほとんどは直後に新しい区別符が振られました。間に合わず、直近の区別符で「代用」したケースもあります。海軍陸上部隊(海軍担任地区の陸軍部隊も含めて)では、移動中の陸戦隊など一部を除きアドレスには必ず所在地区別符が表記されました。

兄島には現に陸軍の守備隊が駐屯したのに、最後まで海軍から所在地区別符をもらえなかったのは事実です。かなり例外的なケースでした。海軍にとって陸軍は所詮は「他人」。陸軍の小部隊1隊だけが駐屯する小島など無視し、「海軍公報」にいちいち登載して公布するなどの面倒な手続はスルーしても、とがめる人がいたでしょうか。しかも、実務上の支障はほとんどなかったはずです。

軍事郵便が集中する交換局の横須賀局は、「膽」の1字だけを目印にすべて父島に置かれた海軍の第17軍用郵便所に送り込んでいたでしょう。17郵便所では「6681」部隊とあれば兄島にあるただ一つの部隊とすぐ分かりました。

要するに、所在地区別符がなくても、郵便物としての区分・逓送に混乱しなかったはずです。非常に特異なアドレスですが、それが生まれた背景にはこのような事情があったと思われます。
posted by GANさん at 01:57| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2019年02月06日

従軍記者が運ぶ軍事郵便

従軍記者内-戦表.jpg従軍記者内-戦裏.jpg日中戦争期の軍事郵便に新聞社や通信社名で「従軍記者托便」と印刷されたりスタンプが押されたりしたものを見ることがあります。

前線の兵士が書いた手紙を従軍記者がついでに運び出したのかと漠然と考えていました。しかし、最近になってもっとシステム的に奥があることに気づかされました。

上図は東京の大手フロアオークションで先月落札したはがきです。東京日々新聞(=東日、現在の毎日新聞)の「従軍記者托便」により故郷から戦地宛てでした。よくある従軍記者が前線から後方に運んだものとは逆です。この通信文面に次のように印刷されています。

従軍記者上海戦線.jpg 此のはがきは本社特派員が上海戦線へ持って行きます、
 十二月六日迄にお便り御書入れの上販売へ御届け下さい


東日は上海付近の戦地へ取材記者を派遣するに当たって、取材先の部隊の出身地である栃木県那須村(現在の那須町の一部)周辺の購読者にこのはがきを配ったのでしょう。この文面に「販売へ」とあるのは、東日新聞の販売店のことで、記入済みはがきをまとめて東京の本社に送ったと思われます。

那須村長以下の村の要人たちの連名で「武威高揚に感謝、奮闘を祈る」という趣旨がガリ版印刷されています。村役場の兵事係が村出身兵士一人一人の宛名を懸命に書き、印刷したのかも知れません。宛先の「山田常部隊」とは1938年当時華中で作戦中の宇都宮第22師団かと考えましたが、解明できませんでした。

このはがきには「郵便はがき」の表題はありますが、実際は郵便逓送でなく、記者が持ち運んだ東日の無料「会社便」でした。だから、切手貼付位置を示す枠や「軍事郵便」表示は不要で、印刷がありません。宛先も最初から特定されているため、「上海派遣」などの表記は不要だったのです。

従軍記者戦-内裏.jpg従軍記者戦-内表.jpg銃後と前線兵士を結ぶ東日のサービスはこれに留まりませんでした。記者は取材終了後、兵士から故郷への通信も預かって帰国しています。

上図のはがきとセットで作られた「帰り便」の軍事郵便はがきを右図に示します。前線の兵士の故郷宛て通信を従軍記者が運び出していますが、どこかで野戦局などに引き渡して郵便逓送されたのか、あるいは内地まで持ち帰って販売店から宛先に直接配達したのかは分かりません。

いずれにせよ、従軍記者が故郷と前線の間で双方向の通信を媒介していたことになります。取材以外にこんな負担まで抱え込んで、果たして十分な報道活動はできたのでしょうか。背景には大手新聞社間の激烈な部数獲得競争や軍部への阿りがあっただろうことが十分に想像できます。

[追記](2019.02.07)「通りすがり」さまから別記コメントを頂き、はがき宛先の「山田常部隊」とは宇都宮の歩兵第66聯隊と判明しました。「通りすがり」さまに感謝します。
posted by GANさん at 17:40| Comment(2) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2018年10月31日

間島出兵の短期間野戦局

第16野戦局.jpgシベリア出兵時の第16野戦局から発信された大正10年(1921)の年賀状です。読みにくい発信アドレスですが、浦潮(ウラジオ)派遣軍隷下の第13師団歩兵第58連隊第1大隊本部の兵士が「支那三岔口さんたこう」から発信しています。ごく最近のヤフオクで入手しました。

「シベリア出兵時」と書きましたが、実はこのはがきはシベリア出兵とは無関係の「間島出兵」の軍事郵便です。「間島」とは中国吉林省南東端で図們江(豆満江)を隔てて朝鮮咸鏡北道やロシア沿海州と接する国境地域を指し、現在の吉林省延辺朝鮮族自治州に相当します。

間島は日本の植民地を脱して独立を取り戻す朝鮮人ゲリラ部隊の根拠地になっていました。中朝露3国国境の接壌地帯という特殊性から、日本や中国官憲の統制が及びにくかったからです。その間島の中心地・琿春で1920年(大正9)10月2日に朝鮮人馬賊の一団が日本総領事館を襲撃して放火し、在留日本人数十人が殺傷される事件(琿春事件)が起きました。

植民地支配の動揺を恐れる日本政府と陸軍はただちに朝鮮軍に朝鮮独立ゲリラ弾圧のため間島への越境出兵を命じます。シベリア出兵中の浦潮派遣軍、満洲駐屯の関東軍も協力して部隊を派遣しました。10月初めから12月20日まで2ヵ月半ほどのこの軍事作戦が間島出兵と呼ばれます。

浦潮派遣軍は間島出兵に当たり、吉林省三岔口に11月7日から12月18日までの期間、第16野戦局を特設しました。三岔口は中東鉄道東端の綏芬河(ポグラニーチュナヤ)駅南方40キロにある山中の小集落です。さらに南方へ直線150キロの琿春への兵站・前進基地でした。

出兵の主力を担った朝鮮軍には軍事郵便が適用されず、野戦局は開設されていません。部隊からの郵便物は龍井村の間島局や豆満江を渡って朝鮮の慶源、会寧局に運ばれ、有料で扱われました。また関東軍は間島西部の奉天省東辺道地区を示威行軍しただけで、郵便とは無縁です。結局、間島出兵の野戦局は浦潮派遣軍第16局だけの短期開設に終わりました。

実はこのはがきの日付印「10年1月1日」には浦潮派遣軍の全部隊は既に間島全域から撤兵後で、三岔口には野戦局もありませんでした。第16局閉鎖の12月18日以前に差し出され、年賀状として特別取扱を受けて元旦の日付が「先付け」で押されたのです。野戦局が12月中に移動・閉鎖された場合の年賀状では、時にこのような例が起こります。
posted by GANさん at 22:19| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2018年09月30日

アッツ米川部隊の通称号

北部83-表.jpg北部83-裏.jpg太平洋戦争の初期、日本軍は米領アリューシャン列島の一部を占領していました。その守備隊の「物語」は、アッツ島の「玉砕」やキスカ島からの奇跡的全員脱出という劇的展開で、今日の私たちにも涙させる強い魅力があります。

しかし、ここほど軍事郵便の収集家・研究者を泣かせる地域もまたありません。アリューシャン撤退後に関係部隊がすべて廃止や改編されたため、当時の部隊記号(通称号)を読み解く資料がまったく失われてしまいました。通称号は陸軍の軍事郵便アドレスとして必ず使われるで、解読できないと部隊名が分かりません。

そんな中で、いくつかあるアッツ部隊の通称号解明を1件だけですが増やすことができました。上図は最近GANが入手したはがきで、発信アドレスに「北海派遣 北部第八十三部隊気付」と書かれています。この通称号「北部83部隊」とは、アッツ守備隊の主力として戦い全滅した「北千島要塞歩兵隊」と分かったのです。

米川浩部隊長.jpg収友の大上養之助氏に頂いていた北方部隊関係資料の内の1冊、『はんの木-北千島戦友会誌』(1989)を最近読み返していて、たまたま気づきました。北千島要塞歩兵隊長だった米川浩中佐のご遺族が寄せた文章にアッツの米川中佐からのはがき(右図)が添えられ、そのアドレスが「北部第八十三部隊」と、上図のはがきと同じなのです。

隊長自身が記しているのですから、北部83部隊の正式名は「北千島要塞歩兵隊」以外にあり得ません。この部隊は1941年(昭和16)7月に札幌で編成され、9月に北千島の占守島別飛に派遣されて駐屯していました。42年10月にアリューシャン作戦に転用されてアッツを占領し、「米川部隊」と通称されました。

ところで、GANのはがきは米川部隊長からのものと少し異なり、「北部83部隊気付」と「気付」が付いています。これは何を意味するのでしょうか。ここでの「気付」は、歩兵隊本隊でなく、歩兵隊の「指揮下に配属された別の部隊」の意味で使われていると考えました。

通信文に「昨年の四月、北鮮の国境より帝都の防空設備の為八月迄出張、東京生活も僅かで又北の一線に飛び出した」「内地よりの便りは上陸以来六ヶ月になるのにまだ何の消息も耳に出来ません」などと書かれています。工兵関係の兵士が43年4月末か5月初めに発信したと推定できます。

公刊戦史『北東方面陸軍作戦<1>』によると、米川部隊への配属部隊はそう多くありません。これは北千島要塞歩兵隊に従ってアッツに進出した「第24要塞工兵隊ノ1小隊」でしょう。小隊長荒井善之助少尉以下、恐らく数十人の小部隊だったと思われます。部隊長の1枚のはがきをキーに、多くのことが分かりました。
posted by GANさん at 14:21| Comment(2) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2018年07月31日

差出人に還付し倍額徴収


ダルニー未納-2.jpgダルニー付箋.jpg私製絵はがきですが、「清国ダルニー」という片仮名の宛名はともかく、「勅令違反」というような付箋(左図の右側)に驚かされます。意外と珍しい使用例かも知れません。

これは、日露戦争中に福岡県三井郡御井町から大連の碇泊場司令部付き軍医に宛てた軍事郵便です。切手を貼り忘れたまま投函されたので、久留米局ではがき表面に角枠「未納 徴収額 三(筆書)銭」の朱印を押して差出人に戻しています。消印がありませんが、1905年(明治38)春ごろの発信のようです。

これだけならよくある未納郵便に過ぎませんが、このはがきは軍事郵便ならではの特別取扱を受けていました。普通の未納・不足郵便物は宛先に配達し、受取人から料金(不足料金の倍額)を徴収します。しかし、戦地宛て(=有料)軍事郵便に限っては配達せず、差出人に還付して料金の倍額を徴収する規則でした。

それが付箋に筆書されている「勅令第19号第3条」です。この勅令は日露戦争の直前に制定された軍事郵便の最も基本的な法令です。戦地では野戦局員自身が直接受取人を捜すのは極めて困難で、受取人も現金を持ち合わせているとは限りません。互いに手間がかかり過ぎるので「発送せず還付」することになったのでしょう。

明治人は律儀ですから、料金の計算間違いはあっても全くの未納、まして戦地宛ての未納はごく稀だったでしょう。還付されても付箋をはがし、改めて切手を貼って再投函した例も多かったはずです。再投函も捨てられもせずに残ったこのはがきは、勅令第3条の適用を証明する貴重な存在と思います。

宛先の「ダルニー」は現代の大連(正確には中国旅大市の一部)です。帝政ロシアは東清鉄道の支線を大連湾に面した漁村「青泥窪(チンニワ)」に引き込み、商港を築いてダルニーと名付けました。日露戦争でこの地を占領した日本軍は1905年2月11日に大連と改称、このはがきはその改称前後の発信とみられます。
posted by GANさん at 21:47| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2018年05月31日

戦地発の「未納軍事郵便」

旅順未納-4.jpg旅順未納-1.jpg未納の軍事郵便。そんなものってあるのでしょうか。軍事郵便はもともと無料。タダなんだから、料金不足の未納なんて発生するわけがない!

それが、かなりレアな話ですが、日清戦争と北清事変ならあり得たのです。右図は日清戦争中の1895年(明治28)に戦地から発信した無料軍事郵便…のはずですが、「未納」印がペタペタと押され、確かに未納料金が徴収されています。数年前にヤフオクで入手したものです。

書き込みを見ると、発信地は「清国旅順口」で、発信者は「第6師団第24連隊 歩兵1等軍曹」。無料軍事郵便の条件は十分に満たしているように見えますが、封筒には「軍事郵便」の表示が見当たりません。代わって、左側上部に「先払」と書かれていて、これが曲者です。

この書状には野戦局印がなく、日本への輸送船に直接搭載されたようです。内地に着いて最初の揚陸地の福岡局で引き受けられ、明治28年3月6日の褐色丸一印と角枠「未納」印が押されました。同じ日に配達局の大川局で倍額料金の新小判4銭を貼って未納印で抹消しています。料金先払いは未納扱いで、受取人から倍額を徴収する規定でした。

日露戦争以降の軍事郵便は何通出しても無料となりましたが、それ以前の日清戦争と北清事変では厳しい発信通数制限がありました。下士官・兵卒が無料で差し出せるのは月に2通までです。それも、95年1月まではわずか1通だけでした。3通目以上は有料で、2銭切手を貼らなければなりませんでした。輸送船の回数や積載能力が少なかったからと考えられます。

通信文には「先日御送付に相成りし郵便切手なくなり、この先払を以て御無礼申上候也」とあります。「送ってもらった切手は使い切ってしまった。切手なしの料金先払いで出すが悪しからず」という趣旨です。この軍曹さんは野戦局で切手を買う2銭にもこと欠く貧乏状態だったようです。

当時の2銭を現在の郵便料金に相当する100円足らずの価値とすると、「わずかでも給料が出ていたはずなのに、なぜ」と考えてしまいます。「どうしても必要な通信だったら、同僚や上官に事情を話して借りればよかった」とも。いずれにせよ、戦地の兵士が郵便を先払で出すのは非常に稀なケースだったと言えるでしょう。

法令を厳密に当てはめると、この書状は軍事郵便でなく、単に戦地発信の「料金未納の第1種郵便」に過ぎません。しかし、軍事郵便差し出し資格を持つ人からの郵便なので、広義に解釈して軍事郵便と言えなくもありません。なお、北清事変ではこのようなケースはまだ報告されていません。
posted by GANさん at 22:40| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2018年02月28日

支那駐屯軍の秘密軍郵

支那駐屯軍無料-表面.jpg支那駐屯軍無料-裏面.jpg1900年(明治33)の北清事変以来、日本軍は中国の天津、北京など華北の一部に部隊を駐屯させ続けました。「支那駐屯軍」(俗に「天津軍」とも)と呼ばれるその部隊の一部が1937年(昭和12)7月に盧溝橋事件を起こし、日中戦争の引き金となった事実はよく知られています。

支那駐屯軍に対する無料軍事郵便は、日中戦争に伴って37年8月2日に初めて適用された(逓信省告示第2226号)とこれまで考えられています。しかし、実際にはそれより1年早い36年(昭和11)夏から満州の関東軍と同様に無料軍事郵便が秘密裏に適用されていたことが最近の軍事郵便研究から明らかになってきました。

上図は支那駐屯軍司令部(天津)の兵士が昭和11年夏に発信した無料扱いの暑中見舞いはがきです。このはがきは駐屯軍の定期連絡兵によって天津から山海関まで鉄道で持ち運ばれたと考えられます。山海関には関東軍の軍事郵便取扱所(奉天中央局第7分室)が開設されていました。分室で引き受け、関東軍本来の軍事郵便に紛れ込ませて逓送ルートに乗ったのでしょう。

12年賀状-2.jpg12年賀状-1.jpgこの時期、支那駐屯軍には無料軍事郵便は適用されていないので、本来は1銭5厘切手を貼って有料扱いにしなければなりません。しかし、まったく同じ取り扱いがこの後の昭和12年(1937)年賀状(右図、皇紀2597年は1937年)でも見られることから意図的・組織的に行われたことが明らかです。宛先の内地局で未納料金を徴収された形跡はなく、逓信当局もこれら「不法郵便物」を黙認していたと推定されます。

この事実にGANは着目して、天津や北京の日本在外局が廃止された1923年(大正12)1月以降の支那駐屯軍からの郵便物を時系列で集めてみました。逓送ルートの明らかな変化があることが分かりました。初めは陸軍運輸部の定期連絡船などで大連や門司、神戸局まで運ばれ、普通有料便として発信されています。一部は中国切手を貼って中国郵政を利用したものも見られます。

1933年(昭和8)2月に関東軍が山海関軍事郵便取扱所を開設すると、少量ながら「奉天/7」「奉天中央/7」(共に山海関所在)の取扱所印で引き受けた無料軍事郵便が混じるようになります。そして36年夏からはおおっぴらにスタンプレス(切手も消印もなし)の無料軍事郵便が増加します。これは36年4月から支那駐屯軍が急速に兵力を拡張していたこと、前年12月から関東軍が軍事郵便への消印を省略したことと深い関係があると思われます。

このはがきにはリターンアドレスとして「神戸運輸部気付」が表記されています。内地から支那駐屯軍に宛てた郵便は陸軍運輸部神戸出張所が事実上の「交換局」だったことが示唆されます。運輸部では神戸局から配達された郵便物を郵袋にまとめて中国塘沽へ陸軍定期連絡船で運び、塘沽に着くと駐屯軍自身が軍用トラックで天津・北京へ輸送したのではないかと思います。

いずれにしろ、これらのエンタイアが存在することは、陸軍省と逓信省間で何らかの「裏協定」があったことを強く示しています。その流れの中で37年4月に事実上の野戦局として「支那駐屯軍軍用郵便所」が開設されたのでしょう。文書資料は未発見ですが、日中戦争以前から告示もないまま支那駐屯軍の無料軍事郵便が秘密裏に実施されていったことが分かります。
posted by GANさん at 22:34| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2017年11月16日

徐州陥落記念印の使い方

徐州裏.jpg徐州.jpgいわゆる「中支野戦局記念印」の一種が押された実逓カバーです。「中北支連絡記念」赤色ゴム印で鳳陽野戦局が昭和13年(1938)6月6日に引き受けています。最近のヤフオクで入手しました。

華中の野戦局で使われたこの種の記念印や風景印は逓信省からの告示類はいっさいありませんが、使用当時から郵趣界に報告されていました。この印の場合は『切手趣味』第17巻第6号(1938年11月)のコラム「中北支連絡記念」に図入りで簡明に紹介されています。筆者の「NA生」は不明ですが、中支那派遣軍野戦郵便本部の関係者と思われます。

「NA生」によると、この記念印は徐州陥落を記念して鳳陽、徐州の両野戦局で使われました。鳳陽は南北からの連絡が通じた5月15日から使用開始し、徐州は攻略した5月19日に日付を固定して更新しなかったといいます。実際の軍事郵便に押されたこの記念印を見ても、確かにこの2種の日付が多く、鳳陽では5月15日以降6月に入っても使われています。

徐州作戦概念図.png徐州攻略作戦は38年4、5月に北方から北支那方面軍(の第2軍)と、南方からの中支那派遣軍が中国軍を挟み撃ちする形で行われました。北支軍は天津-浦口間の津浦線鉄道に沿って済南方面から、中支軍は長江を隔てて浦口対岸の南京方面から、同時に進撃しました(左図参照)。徐州占領により津浦線の打通には成功しましたが、本来の目的だった中国軍主力の包囲殲滅には失敗しました。

ところで、この記念印が表示する「鳳陽野戦局」「徐州野戦局」という名称の野戦局は実際には存在しません。野戦局は移動が前提なので、局名はすべて番号で表示され、原則として地名の野戦局はありません。鳳陽で開設されていた野戦局は中支軍野戦郵便隊の第110局でした。

この隊はさらに徐州陥落翌日の5月20日に第120局を開きますが、23日には撤退して第2軍野戦郵便隊の第61局に引き継ぎました。徐州の野戦局はその後も6月9日に第65局、7月10日に第60局と、激しく交替しています。いずれも第2軍の野戦局です。

この書状は裏面に「13.6.5」、通信文にも「嘉興ニテ六月五日」と発信の日時と場所が明記され、記念印の日付「6月6日」にマッチします。しかし嘉興は上海の南西で、鳳陽とは400㎞ほども離れており、徐州作戦とは無関係です。中支那派遣軍管内で最も徐州に近い野戦局は鳳陽(第110局)にありました。このため記念印に「鳳陽野戦局」名が利用され、第110局以外でも嘉興など管内の他の野戦局で共用されたのでしょう。

一方の「徐州局記念印」はそれほど広範囲に使われた様子が見えません。第2軍管内の野戦局で徐州とは無関係に使われたのではないでしょうか。第2軍は徐州作戦に続いて計画されていた武漢占領作戦に備え、漢口方面に向け次々と西進中でした。

要するに「中北支連絡記念」印は、日付はともかく局名が実際の引受局(発信地)を表していません。このような印を「通信日付印」と呼ぶのは、かなり難しい。「野戦局が自由な使用に提供した単なる記念スタンプ(私印)だが、通信日付印として使われた場合もある」と考えればよいと思います。
posted by GANさん at 04:34| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2017年10月29日

消えた龍岩浦野戦局

丸一龍岩浦2.jpg日露戦争終結後、朝鮮から満州に宛てた公用の軍事郵便です。韓国・龍岩浦局の丸一印で明治39年(1906)8月29日に引き受けられ、即日満州の安東県野戦局に到着しています。つい最近のヤフオクで入手しました。

龍岩浦は朝鮮の最北西端に当たる鴨緑江河口南岸にある港湾です。現代では忘れ去られていますが、日露戦争当時は極めて時事的な地名でした。北清事変で満州を占領したロシアは更に朝鮮進出を目指し、鴨緑江岸の木材伐採を名目に03年8月に租借して砲台を築きます。日露が開戦すると第1軍がただちに龍岩浦を占領し、仁川-大連航路の重要な中継港としました。

その後、鴨緑江軍、遼東守備軍、遼東兵站監部、関東総督府などと所管が目まぐるしく変転しますが、龍岩浦には一貫して野戦局が置かれました。05年11月1日には関東第5野戦局となり、更に06年5月1日から他の野戦局と共に地名を名乗り「龍岩浦野戦局」に改称されています(右下図)。5月21日からは龍岩浦も含む大部分の野戦局で民間人の普通郵便事務も扱い始めました。

龍岩浦野戦局.jpg軍政機関の総督府は06年(明治39)9月1日から民政組織の関東都督府に切り替わります。同日の都督府告示第1号は全野戦局所の普通局への継承を定め、告示第3号で普通局55局の全局名を挙げています。例えば、元の安東県野戦局は安東県支局(正確には関東都督府郵便電信局安東県支局)となりました。しかし、この中に「龍岩浦支局」だけがありません。

この局だけ朝鮮にあったからでしょうか。前後の朝鮮統監府や関東総督府の関係通達類を調べても、龍岩浦野戦局の廃止にかかわる記事はまったく見当たりません。以後、一切の記録から消えているのです。この野戦局は06年8月31日に廃止されたまま継承されなかったと考えられてきました。

龍岩浦電信印.jpg龍岩浦には一方で普通局もありました。06年3月20日に電信だけ扱う新義州局龍岩浦出張所が開設されています。龍岩浦軍用通信所が3月19日に廃止されたのを継承するためです。従って、同じ丸一型「龍岩浦」印でも、06年3月19日までは軍用通信所(左図)、20日以後は普通局(出張所)の日付印として区別する必要があります。

龍岩浦出張所はさらに5月1日から郵便事務も開始し、7月1日には独立局に昇格しました。5月以降の龍岩浦には野戦局と普通局の2郵便局が併存したことになります。朝鮮の丸一印は出張所も独立局も形式上の違いがありませんが、左上図の軍事郵便書状は龍岩浦局時代の取扱いです。

軍事郵便を普通局で引き受けていることから、龍岩浦野戦局はこの8月29日以前に既に廃止されていた可能性が濃厚です。この野戦局はいつ廃止され、普通局との関係はどうだったのか。丸一印時代の龍岩浦のエンタイアは少なく、他には出張所時代の「明治39年6月29日」の軍事郵便1点しか知られていません。今後のエンタイアや新資料の発掘を待ちたいと思います。
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2017年08月15日

キスカ「熊」部隊を解明

熊2.jpg熊1.jpg先年、函館の古い収友、大上養之助さんに無理を言って、アリューシャン派遣部隊の貴重なエンタイアと資料類を譲って頂きました。おかげで、これまで厚生省資料などには漏れていた部隊通称番号を偶然にも解明することができました。

右図がそのエンタイアの1通です。発信アドレスは「小樽局気付 北海派遣 熊9237部隊 宇佐美隊」とあります。「北海派遣」は米領アリューシャン列島のアッツ、キスカ両島を占領・防衛するために派遣された陸軍部隊を意味します。小樽局はこの軍事郵便の交換局でした。「熊」はこの部隊を編成して送り出した「親元」の第7師団(旭川)を表します。

しかし、肝心の9237という部隊通称番号が分かりません。陸軍省編『陸軍部隊調査表』(1945)や最も信頼できる大内那翁逸編『旧帝国陸軍編制便覧』(1995)には9236まではありますが、9237から9240までは欠番となっています。これは、アッツ玉砕、キスカ撤退でアリューシャン完全放棄により解散した部隊と思われました。

終戦前に廃止された部隊は資料がなく、経歴を調べるのは至難の業です。あきらめていたところに大上さんから電話があって、あっさり解決してしまいました。「あの手紙を差し出した人の部隊の写真集だったんだね。中隊長の名前が一致したんで驚いたよ」。こちらはもっとビックリし、頂いた資料群をあわてて取り出し、見直しました。

確かに、『想い出の栄光 北魂 宇佐美隊』という大判の写真集(コピー)がありました。アッツ・キスカから北千島と転戦した穂積部隊宇佐美隊の大量の写真フィルムを戦友会が編集して1983年に刊行したものでした。「穂積部隊」とはアッツ攻略のため編成された北海支隊(穂積松年支隊長)の通称です。

支隊の主力は穂積少佐が大隊長として指揮する独立歩兵第301大隊で、1942年(昭和17)5月5日に第7師団で編成されました。「宇佐美隊」とはその大隊の第4中隊(宇佐美利治中隊長)の通称だったのです。さらに、書状の発信者である源光男氏は中隊幹部の軍曹だったことも写真集の記事から分かりました。

ここまでくれば、もう間違いありません。「9237部隊」とは「独立歩兵第301大隊」のことです。大隊はアッツ攻略後、42年9月にキスカに転進したため命拾いしました。43年7月末に「奇跡」とされるキスカ完全撤退に成功した後、大隊は北千島・幌筵島で復帰(解隊・廃止)し、大部分の隊員は新たに編成された千島第1守備隊(幌筵)に転属しています。

この書状はキスカから43年4、5月に発信されたと考えられます。「北海派遣」という派遣名は陸軍省内牒「陸亜密第347号」によって43年1月30日以降の使用が指定されました。また、アッツ・キスカとの連絡は、伊号第7潜水艦の5月4日アッツ入・出港を最後に途絶しています。書状表面に「7月4日着」の書き込みがあり、恐らく最後かそれに近い潜水艦便で運び出されたのでしょう。

念のためですが、「9237部隊」が大隊の上級部隊である「北海支隊」やその後身の「北海守備隊」を表すとは考えられません。「宇佐美隊」が中隊名であることが確定した以上、その前の「9237部隊」は中隊が所属する連隊なり大隊名でなければなりません。この場合は301大隊しかあり得ないのです。
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2017年07月05日

病院船に託す日赤ルート

日赤02.jpg日赤01.jpgフィリピン(比島)に派遣された日本赤十字社の従軍看護婦に宛てた特別軍事航空往復はがきの返信です。つい最近のヤフオクで落札しました。

このはがきは航空料金往復無料の特別便で、軍属も利用できました。3銭レートで1944年(昭和19)5月12日に新潟・関山局が引き受けています。宛て先の「渡9766部隊」は第14軍に配属された第138兵站病院を表します。「317班」は医師・看護婦からなる日赤救護班チームの番号です。

はがきには、付箋をはがした形跡も「返戻」印や米軍押収印なども全くなく、キレイなものです。比島現地の名宛人に無事に届き、日本内地に持ち帰られたことを物語っています。

宛先のアドレス表記が類例を見ない特異さなのが目につきます。「横浜市山下町 日赤神奈川支部留置/比島派遣……」と書かれています。通常の軍事郵便アドレスは「派遣方面+部隊名」だけなのに、なぜ「日赤神奈川支部」と余計なものが付くのでしょうか。日赤独自のルートで確実に届けるためだった、とGANは考えます。

大戦末期の44年の段階では公用でもない限り、まして陸軍では航空便などまったく利用できなくなっていました。もちろん日赤が管理する航空機などもありません。しかし、敵国にも安全を保障された、氷川丸など一群の病院船がありました。運航権は陸海軍側ですが、スケジュールや乗務について、日赤は綿密な連絡協議を受けていたはずです。

となると、日赤が前線との通信にもこの希少で確実なルートを利用しない手はありません。病院船の連絡・発着港が横浜だったのでしょう。当時の日赤支部長は県知事が務めるのが慣例でした。これらの関係郵便物は神奈川県庁内の日赤支部に集められ、病院船の入港を待って搭載されたと考えられます。

通信文を読むと、「○○の由、一同喜こんでゐます」「南の国から母国迠遙かな波路一路平安なれ」などと書かれています。「○○」は「帰国」でしょう。当時はマリアナ方面で「絶対国防圏」が崩壊し、次は「比島決戦」必至として大本営で「捷1号作戦」が練られていました。激戦を前に、看護婦やタイピストなど女性軍属の優先帰国が配慮されたのかも知れません。

GANの推測に過ぎないこの「日赤ルート」は、まだ実証する資料がありません。しかし、この特異なアドレス表記は以上のような理解が最も合理的です。いずれにせよ、名宛て人は無事に帰国し、受け取っていたこのはがきを持ち帰ったと見られます。なお、本人が勤務していた第138兵站病院(飯田浩造病院長)は「レイテで玉砕」と記録されています。
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2017年03月31日

幻の平海作戦第120局

F.P.O.120-2.jpgF.P.O.120-1.jpg「平海作戦」という、今では戦史でも触れられることのない作戦に動員された台湾の野戦局からのエンタイアです。この野戦局も当局資料から無視され「幻の野戦局」となっています。

日中戦争が全面的に拡大した1937(昭和12)年秋、中国国民政府(国府=蒋介石政権)は上海が攻略され、首都・南京も陥落必至となると、重慶に首都を移して徹底抗戦の構えを示しました。

逆に追い込まれた形の日本軍は、「蒋介石の継戦意欲を挫く」として、支援物資輸送の要の武漢(漢口、漢陽、武昌)と南方の入口、広東(広州)を抑える「援蒋ルート」遮断作戦を立案します。

ところが、日本軍兵力は武漢作戦までで手一杯で、広東の攻略、占領に回す余裕がありません。代替策として広東と漢口を結ぶ粤漢線鉄道沿線の1地点を占領して援蒋ルートを遮断する作戦が立てられました。それが広東省平海半島の小都市・平海を攻略する「平海作戦」だったのです。

この作戦軍として37年12月7日に第5軍が台湾の高雄で編成されました。軍司令官は古荘幹郎台湾軍司令官の兼務です。隷下に第11師団と台湾守備隊(当時は「重藤支隊」として大陸で作戦中)が配属され、高雄や屏東など台湾南部の港湾に集結を続けます。作戦発起(出撃)予定日は12月20日とされていました

まさにその時、日本軍が国際的な大問題を引き起こしてしまいます。12月12日に長江を航行中の中立国である米艦パネー号を爆沈、英艦レディバード号を砲撃してしまったのです。いずれも中国船と誤認しての攻撃でした。大本営はあわてふためき、国際非難をかわすため平海作戦の当面中止が発令されました。

作戦部隊は台湾南部で待機の態勢を維持したまま越年し、38(昭和13)年2月15日になって第5軍は編成解除(解散)されました。平海作戦は再興されませんでしたが、38年10月に改めて本格的な広東攻略作戦が行われることになります。そのため新たに第21軍が編成され、司令官に台湾軍司令官だった古荘幹郎中将がまたも任命されました。

120局1.jpg最初に示した封筒ですが、2月5日(年欠)に「今井部隊兵站本部付 第百二十野戦局」の局員が出身職場(東京・荒川局)の同僚に宛てて発信したものです。発信アドレスの野戦局名は赤色スタンプでも重ねて押されています。通信文が残っており、1月1日に第120(高雄)、121(屏東)、122(潮州)の3野戦局が開設され、「今は待機中」と記されています。右図は通信文の一部です。

「今井部隊」というのは分かりませんが、これら3局こそが第5軍の野戦局であることは間違いありません。作戦発起直前の部隊は通信封鎖されるのが普通なので、恐らく一般兵士の軍事郵便は禁止されていたでしょう。野戦局員という特殊な身分だったからこそ出せた通信と思います。

120局2.jpg左図の第120野戦局印は別の機会に入手した官白に押されているものです。第5軍戦闘序列の解除が下令された翌日の日付なので、野戦局閉鎖の記念押印と考えています。この日付印が押されたエンタイアは未発表で、今後も出現の見込は極めて薄いです。

平海作戦の野戦局については、関雅方氏『大東亜戦争(支那事変を含む)下の軍用郵便施設』を含め逓信当局の記録が全く存在しません。38年6月になって江蘇省徐州で120局が開設されましたが、こちらは半年前に高雄で開設された野戦局とは全く別の存在です。ただし両者の日付印は同じ特徴を持ち、台湾でのものが徐州で流用されたことが分かります。121、122局は平海作戦以外では開局されませんでした。

(本稿で平海作戦についての記述は主として井本熊男『支那事変作戦日誌』(1998年、芙蓉書房出版)に拠りました。同書ではこの作戦名を単に「南支作戦」と表現しています。また、よく知られている満州の第5軍は平海作戦の第5軍とは全く無関係で、39年5月に関東軍隷下で編成された同名の別部隊です)
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2016年11月11日

山東最終部隊の軍事切手

軍事切手-1.jpg軍事切手-2.jpg第1次大戦後、中国山東省駐屯の青島守備軍の兵士が軍事切手を使って発信した封書です。11月6日のフロア落札品3点目です。

軍事切手は田沢旧毛紙広幅加刷で、青島局が大正11(1922)年11月24日に引き受けています。裏面発信アドレスの「青守歩三ノ一」は「青島守備歩兵第3大隊第1中隊」を表します。

日本は第1次大戦でドイツに宣戦し、山東省の膠州湾ドイツ租借地とドイツ資本の膠済鉄道(山東鉄道)を占領しました。ドイツ権益「横取り」が狙いです。鉄道沿線の守備と占領地の軍政のため歩兵4個大隊の兵力の青島守備軍を開設しました。

1919(大正8)年6月にベルサイユ講和条約が締結されると、逓信省は「戦争は終わった」と青島守備軍に山東での軍事郵便の廃止を求めます。守備軍とその後ろ盾の陸軍省は廃止に強く抵抗し、日露戦争後の満州などの守備隊との間で起きたときと同じ紛争が再燃しました。

軍部には初めから理がなく、結局は逓信省が押し切って無料軍事郵便は1921年3月限りで廃止されます。以後は軍事切手制度(1人毎月2枚支給)に切り替えることになりました。この切り替え時に軍事切手が届かず、現地で臨時の「青島軍事」切手が生まれた事情はよく知られています。

ところで日本の思惑は大きくはずれました。日本の山東領有に対して中国はもちろんアメリカなど連合諸国が強く反対したのです。講和会議で日本代表は孤立し、全面放棄を約束させられてしまいます。最終的には1922年2月のワシントン会議で締結された「中国に関する9ヵ国条約」で中国への返還が確定しました。

これを受け、青島守備軍は22年4月から兵力の大幅縮小を始めます。主力部隊の青島守備歩兵隊は4個大隊のうち3個大隊が5月までに解散されました。第3大隊だけ残りますが、これも22年12月15日に解散し、17日までに全兵力の撤退が完了しました。

郵便機関は部隊の撤退より少し早く、12月10日に全局が廃止されました。結局、山東地区で軍事切手が使用されたのは1年8ヵ月ほどの短期間でした。従って、この封書は最後まで残留した第3大隊の兵士が撤退の約3週間前に発信した最末期使用例となります。

一方、海軍は陸上の小部隊・臨時青島防備隊を開設していましたが、22年3月に撤退しました。防備隊にも軍事切手が交付されたはずですが、使用例の報告はありません。要員が100人単位と少ない上に使用期間が1年間しかないので、残存数は陸軍よりさらに希と思われます。
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2016年01月30日

通州事件の「当事者」部隊

萱島部隊.jpg通州事件02.jpg1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件(中国でいう「七七事変」)に連続して起き、日中全面戦争の発端ともなった通州事件の「当事者」部隊からの無料軍事郵便はがきです。ごく最近のネットオークションで入手しました。

北京(当時は北平)東方郊外の通州は、当時「冀東防共自治政府」という日本軍の傀儡政権の「首都」となっていました。冀東政府の武装警察隊である保安隊は日本軍の指導、援助を受けていましたが、その日本軍に対して「反乱」したのです。蒋介石の国民政府による抗日の呼びかけに応じたとされます。

盧溝橋事件から3週間後の7月29日、冀東保安隊の千数百名が日本軍の通州守備隊と通州特務機関を急襲し、日本人居留民と併せ約260人を殺害しました。日本の傀儡と見られていた冀東政府首班の殷汝耕は拘束され、失脚します。日本軍の反撃で保安隊は逃亡し、反乱は1日で終わりました。

この事件で、多数の日本人が殺人、暴行、強姦、放火、略奪の被害を受け、殺害方法も極めて残虐だったため、日本の世論は激高します。「偶発事件」の線で収まりかかっていた盧溝橋事件の収拾が宙に浮き、ついに全面戦争に発展する引き金ともなりました。

さて、このはがきですが、発信アドレスは「北支那 萱島部隊平本隊」となっています。「萱島部隊」は支那駐屯歩兵第2連隊(萱島高連隊長、本部・天津)を表します。「平本隊」は中隊名でしょう。派遣地の表示が単に「北支那」で、「北支派遣」ではない点が要注意です。「派遣」のない「北支那」だけのアドレスは1937年以前にしか見られません。

通州は元もと支那駐屯第1連隊(北平)から派遣された1個小隊が守備していました。盧溝橋事件の発生で支那駐屯軍は第2連隊(天津)を7月18日に通州に移動、増強して守備隊主力とします。その第2連隊が北平方面に出動した7月29日に冀東保安隊が100人足らずの留守部隊を襲い、全滅させました。

はがき表面下部の通信面に「絵の中の塔に御大将の殷汝耕が住んでおります」と書かれています。ごく平穏な文面から、事件「当事者」の第2連隊が駐屯開始した7月18日から事件発生の7月29日まで10日ほどの間に通州から発信されたことが明らかです。まさに通州事件当事者部隊の軍事郵便です。

日中戦争によって華北に侵攻した日本軍には1937年8月2日に無料軍事郵便の適用が正式に告示されました。それ以前に実施されていた無料軍事郵便の使用例としても、このはがきは貴重です。

支那駐屯軍はこの年4月1日に2個連隊5,500人の旅団規模に大増強されています。それに合わせて兵営内に「支那駐屯軍軍用郵便所」が開設され、無料軍事郵便が秘密裡に適用されたばかりでした。このはがきも駐屯軍軍用郵便所で取り扱われたに違いありません。

ここで少し触れた日中戦争直前の支那駐屯軍の秘密軍事郵便については、いずれかの機会に詳述したいと思います。また、今回のテーマに関連して、2014年4月22日4月29日の本ブログ記事もご参照下さい。
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2015年10月28日

満洲国内地への軍事郵便

TSITSIKHAL.jpgこのカバーはかなり例外的な軍事郵便の取扱状況を示す一例として、なかなか面白いと思います。最近のネットオークションで入手しました。

軍事郵便は原理的には、前線と家郷とを連絡するため戦地である外国の一部に内国郵便網を伸ばして行う通信です。が、それ以外の軍事郵便ももちろんあり、戦地-戦地、つまり外国にある部隊間発着の軍事郵便もよく目にします。では、戦地-外国内の非戦地という無料軍事郵便はあり得るでしょうか。

軍事郵便法令は「条約(UPU条約がその代表)によって取り扱う郵便物は軍事郵便としない」と定めていました。日露戦争当時、前線の高級将校や外国観戦武官が野戦局経由で欧米に出した郵便がよく知られていますが、これらはすべて有料で、小判や菊切手で外郵料金が支払われています。

四平街3.jpgイギリスやフランスなどなら「完全な外国」なので、UPU条約が適用される、つまり無料軍事郵便とはならないことに問題はありません。しかし、中国や「満洲国」のような郵便法令上の「特殊な外国」との間ではどうでしょう。日本はこれら2国との間で郵便交換協定や条約を結び、内国並み料金を適用していたからです。

では、中国や満洲国に派遣された日本軍兵士が相手国内地に宛て無料軍事郵便を出すことはできたか。(この場合斉斉哈爾.jpgの「内地」は、日本在外局や野戦局の受持範囲から離れた、中国・満洲局の郵便区域を指す専門語です。)それとも、これも「条約により扱う郵便物」として有料なのでしょうか。

実は、これについての明確な規定は見当たりません。日本軍将兵が日本普通局のある都市や野戦局範囲内の部隊に宛て郵便を出すことはあっても、中国・満洲局しかない内地=奥地に宛てることはない、と考えられて富拉爾基.jpgいたからだと思います。確かに、どういう場合か考えると、かなりなレアケースです。

さて、このカバーを見てみましょう。裏面書き込みによると、満洲国斉斉哈爾(チチハル)に駐屯した騎兵第1旅団の司令部員が昭和8(1933)年5月8日に同じ黒竜江省内にある景星県公署の日系高級官僚に宛てています。引受局は四平街局第3分室(斉斉哈爾)です。役所宛てですが「公用」指定はなく、私用便です。

斉斉哈爾の野戦局(分室)は取扱いにさんざん迷ったようで、引受けて15日も経った5月23日になって地元の斉斉哈爾郵局に引き渡しています。さらに3日後の5月26日に北満鉄路(旧中東鉄道)沿線の富拉爾基(フラルキ)郵局が中継し、景星郵局で配達されたようです。

地図で見ると、斉斉哈爾-富拉爾基間は3-4キロ、富拉爾基-景星間は5-6キロといった距離でしょうか。確かに、景星周辺に日本系の局は影も形もありません。

このカバーに見る限り、日本野戦局と満洲国郵局との間で郵便交換が行われ、満洲国郵政が無料で逓送、配達しています。いったい、満洲国側に外国軍隊である日本軍の軍事郵便など引き受ける義務、根拠はあったのか。長くなり過ぎましたので、この考察は次の機会でしてみようと思います。

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2014年05月23日

インパール作戦を予告

IMPHAL-2.jpgIMPHAL-1.jpg太平洋戦史でも最も大量の犠牲者を出した愚劣で悲惨な作戦として知られるインパール作戦に参加した兵士からの「作戦予告」の軍事郵便です。ヤフオクの落札品で本日到着しました。

インパール作戦とは、抗戦中国への「援蒋空輸ルート」根絶を目指し、インド東北部に進攻して要衝インパールを攻略する作戦です。ビルマ第15軍隷下の3個師団で44年3月8日に作戦を開始、大失敗に終わって7月3日に中止命令が出されました。

このはがきの発信アドレス「弓第6822部隊」は、15軍に属する第33師団213聯隊を表します。部隊は南方から真っ先に攻撃する「おとり」役でした。英軍を引き付けている間に他の2師団が山岳地帯を密行して北と東からインパールを急襲する作戦です。

通信文末尾に太平洋戦期の軍事郵便としては珍しく、「(1944=昭和19年)2月20日」と発信日が明記されています。この時期にはすでに作戦展開命令が出ていて、33師団は作戦発起点のチンドウィン河岸に着き、渡河準備の最中だったと見られます。

非常に稀なことですが、通信文にこの作戦が予告されています。「次のたよりはインパールからだ。印度(インド)派遣軍となるだらう」。通常なら次期作戦など書いたら絶対に検閲を通りません。日本に着く頃には作戦は終わっているとでも考えたのでしょうか。

33師団は勇戦してインパール南方10キロに迫りますが補給が途絶して英軍に撃退され、アラカン山脈を敗走します。作戦全体で10万の将兵が参加しましたが、5万人を飢餓などで失い、生存者も病気と飢餓で半死半生の全軍壊滅状態で敗戦を迎えました。
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2014年04月07日

台湾陸軍部隊に臨時局印

MOJI.jpg「第六十六臨時」のいわゆる「臨時局」印で昭和19(1944)年10月9日に引き受けられた楠公3銭はがきです。発信者が陸軍の兵士である点が特異です。本日入荷しました。

臨時局印は、聯合艦隊所属の艦船が内地港湾に入港したさいに差し出す郵便物に限って、1941(昭和16)年夏から太平洋戦争の全期間に使われました。艦船の行動秘匿のため、日付印の局名を地名でなく「第○○臨時」という番号に変えたのです。

目的からいって、陸軍はこの日付印と本来は無関係のはずでした。しかし、実際には、千島・樺太方面に派遣された北部軍(後に北方軍)からの郵便物にはかなりひんぱんに使われています。この問題については、いずれ機会を得て検討してみたいと思っています。

今回のはがきはアドレスに「門司局気付」とあり、北部軍ではありません。門司を交換局とするような派遣方面は、まず台湾でしょう。1945年4月に台湾の陸軍部隊に無料軍事郵便が適用されたさいの逓信省告示にも、「門司局気付」を肩書きするよう指定されています。

差出人が所属する「第10275部隊」は「海上挺進基地第25大隊」を意味します。比島の次は台湾に米軍が侵攻すると誤判した大本営が急派した、陸軍の海上特攻部隊ではないでしょうか。大内・津野田氏「旧帝国陸軍編制便覧」によると、この部隊の通称符は「湾」です。これは台湾防衛の第10方面軍を表すので、やはり台湾発信は確実と思います。

さて、最大の問題。陸軍部隊の郵便物に、なぜ聯合艦隊用の臨時局印が押されているのか? 現時点でGANには分かりません。本来の台湾局に差し出す時間を惜しみ、内地直行の海軍輸送船に委託搭載された可能性があることを、当面は指摘しておきます。
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2014年04月04日

ラバウルの最初期陸軍部隊

TATE.jpg太平洋戦争中に陸軍兵士から発信された、「横須賀局気付ウ109 楯第8423部隊」という極めて特異なアドレスを持つはがきです。きょう到着した落札品です。

この部隊は第55師団(楯)所属の輜重兵第55連隊(8423)です。55師団はビルマに派遣されました。

さて、「極めて特異」とは何かというと、陸軍の部隊なのに「ビルマ派遣」とか「比島派遣」といった派遣方面の表示がなく、その代わりに「横須賀局気付ウ109」という海軍のアドレスを記していることです。陸海軍ハイブリッドのアドレス表記です。

海軍軍事郵便で、「片仮名+数字」のセットが「○○局気付」の次にあれば所在地を、さらにその次なら部隊名を表します。「ウ109」の所在地は千島の択捉島ですが、いかなる「楯」部隊の戦歴も千島とは無関係なので、これには問題がありそうです。

仮に「ウ109」が所在地でなく部隊名だとすると、第10海軍軍用郵便所第10派出所を意味します。この派出所はラバウルに置かれていましたが、1942(昭和17)年10月にラバウルに第12軍用郵便所が開設されたため廃止されました。

このはがきはいったい、千島から出されたのか、真逆方向のラバウルか。それとも、やはり55師団主力が派遣されていたビルマからなのか--。

じつは開戦前、55師団の歩兵144連隊を基幹とする大本営直轄の機動部隊「南海支隊」が編成されていました。支隊の本来の目的は開戦直後の米領グアム島攻略ですが、攻略後は海軍のラバウル占領に協力する任務も与えられていました。師団の各兵種ごとに中隊・小隊単位の小部隊が抽出され、南海支隊に編入されていました。

その抽出された小部隊には輜重兵55連隊第2中隊も含まれていました。このはがきの差出人がまさにその中隊員で、本隊と別れて南海支隊に加わっていたのです。前問の正解は「ラバウル」。このアドレスは「ラバウル所在の陸軍楯部隊」を意味することになります。

海軍はもちろんですが、陸軍も「太平洋は海軍の縄張り」と決めつけていました。開戦前の陸海軍中央協定でも、太平洋の島嶼防衛は海軍の担任と明記されています。陸軍は小部隊を太平洋に派遣するにしても短期・臨時の措置として補給は海軍任せ。軍事郵便のアドレス表記などにはまったく無関心でした。

1942年夏のガダルカナル島戦以降、ソロモン、ニューギニア方面へ陸兵の逐次投入が続き、第17、18、19軍と第8方面軍が新設されます。43年1月末にようやく「南海派遣」という派遣方面が設けられました。それより前、42年夏ごろまでにラバウルに到着した陸軍諸部隊に短期間だけ「間に合わせ」でこの特異なハイブリッド表記が適用されたのでしょう。

南海支隊はポートモレスビー攻略作戦に転用されますが42年9月に失敗、ラバウルに戻って43年5月に解隊されます。生き残り兵員は55師団主力を追及し、43年10月にビルマで2年ぶりの合流を果たしますが、その数はわずかでした。
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2014年04月03日

中支風景印の航空便

SHANGHAI-2.jpgSHANGHAI-1.jpg
日中戦争期の軍事航空郵便です。田沢30銭切手が「上海野戦局 13(1938)年4月19日」の風景印で抹消されています。この風景印自体は記念押印として残っているものが多く、ありふれていますが、通信日付印として実際に使われた例は非常に少ないと思います。かなり以前に入手した品です。

華中の野戦局で使われた、いわゆる「中支野戦局風景印」の性格については、これまでいろいろと論じられてきました。郵便用の通信日付印か、単なる記念スタンプに過ぎないかの問題です。局名や日付とは無関係に各野戦局にセットで置かれ、来局者が自由に押捺できた、という使用実態が分かってきたからです。

この風景印が押された軍事郵便はたくさん見かけます。しかし、本来の通信日付印として使われたことを証明できる使用例はまず見られません。軍事郵便は無料であるため本来的に日付印を押す必要がなく、たとえ発信地や日付が合っていても引受印であるとは言い切れないからです。

上海派遣軍野戦郵便長を務め中支風景印を企画立案した佐々木元勝氏を70年代に四谷三丁目の事務所にお訪ねしたことがあります。この風景印は正式な通信日付印として調製されたものか、どうか。GANはかなりしつこくお聞きしたのですが、佐々木氏の返答はあまり明確でなく、どっちとも取れそうな印象でした。

さて、この封書ですが、「上海野戦局」というものはなく、上海にあった第42野戦局で引き受けたと思われます。局員は航空郵便の引受を証明し、航空料金として貼られた30銭切手を抹消するのに正規の「第四二野戦/★★★」櫛型印でなく「上海野戦局 市政府」の風景印を使いました。

この風景印がとくに問題を起こした様子もないことは、福島県平局13年4月22日の到着印が正常に押されていることからもうかがえます。押捺した局員を始め、取り扱った職員の間でこの風景印は通信日付印の一種であるという共通認識があったからでしょう。「一般的には記念スタンプだが、通信日付印として使われることもあった」と考えてよいと思います。
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2014年02月13日

武装移民団の軍事郵便

TIBURI-2.jpgTIBURI-1.jpg無料軍事郵便が軍人ではない民間の農業移民に適用された例です。戦前日本の農村事情や中国侵略の実態、「残留孤児」の源泉などを考える上で興味深い資料とGANは考えます。つい最近入手しました。

武力で「満州国」を作り上げた関東軍は、満ソ国境沿いへの日本人農業移民を着想します。新国家、ひいては本国・日本をソ連の攻撃から守る最前線を築く、開発と防衛との一石二鳥の狙いです。明治初年の北海道の屯田兵がヒントになったともいわれます。

拓務省が呼び掛け、退役軍人500人に軽武装させて1932(昭和7)年秋から試験的に満州国北東部の佳木斯(チャムス、ジャムス)周辺に送り出しました。「試験移民」「武装移民」「屯墾団」などとも呼ばれています。

翌33年にも第2次移民団が送られました。このはがきは佳木斯南東の湖南営に入植した第2次移民団から発信されたものです。湖南営は漢名ですが、現地満洲語では七虎力(チフリ)と呼ばれていました。移民団は入植地にこの満洲語の音を宛てて「千振(ちふり、ちぶり)」と名付けました。外国領土の現地名が日本名に改称された典型例です。

企画者でありスポンサーでもあった関東軍は、農業移民団に無料軍事郵便の恩典を与えました。軍事郵便法令には「野戦軍の司令官は(野戦局所の業務に支障のない限り)一般人にも軍事郵便の適用を認めることができる」と定められており、これが適用されたと考えられます。入植地は基本的に辺地が多く、満州国郵便の利用が困難だった事情もあります。

裏面に「昭和11年1月1日」のゴム印が押されており、年賀状です。関東軍管内の軍事郵便はこの直前、12月1日から日付印を省略するようになりました。アドレスの「佳木斯野戦局」は実際には存在せず、佳木斯軍事郵便取扱所を意味します。これより前の第2次農業移民の軍事郵便にはこの取扱所で使われた「新京中央/8」の分室用日付印が押されています。
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