2019年10月30日

内地兵営で部隊検閲開始

部隊検閲01.jpg部隊検閲04.jpg召集を受け青森市郊外の第8師団歩兵第5聯隊に入隊した兵士からのはがきです。昭和12年(1937)10月7日の青森局機械印で引受けられています。

これだけなら、ありふれた「入営挨拶状」に過ぎませんが、はがき表面の下部に押された角枠「十月七日/中隊長点検済」の紫色スタンプ(「十」「七」は手書き)が目に付きます。差出人の新兵が属する中隊の、いわゆる「部隊検閲」印です。通信文の一部が抹消されているのは、召集の種別を書いたため検閲に引っかかったのかも知れません。

このとき、第5聯隊は青森に「留守隊」を残し、第8師団主力に従って「満州国」北東部の綏陽周辺に駐屯していました。差出人も短期間の補充兵訓練を経て、遠く北満州の駐屯地に派遣されたはずです。時期的に言って日中戦争初期の激戦中なので、検閲が実施されたのはそうした「緊張感」の反映かも知れません。

初期検閲#02.jpg初期検閲#01.jpg似た例をにもう1点示します。やはり第8師団に属する青森県弘前市の部隊からで、上図より1ヵ月早い12年9月5日の弘前局引受印があります。消印に重なって押された検閲印らしい認印は「石岡」と読めます。部隊名が「口澤」か「日津」か分かりませんが、弘前駐屯の歩兵第31聯隊、騎兵第8聯隊、野砲第8聯隊のいずれかではないかと思います。

軍事郵便、あるいは服役(在営)中の兵士からの郵便が検閲を受けたことは、今日では常識のようになっています。ところが意外なことに、この部隊検閲がどのように始まったのか分かっていません。検閲の開始時期や根拠、運用などの事情を明かす軍側の資料が見つかっていないのです。

日露戦争時代には、戦地からの無料軍事郵便でも無検閲が原則でした。軍事切手貼りの軍事郵便も検閲されていません。反面、太平洋戦争時代になると、台湾、朝鮮も含む内地(戦場の後方)の兵営にいるだけで、一兵卒から将校、さらには「閣下」と呼ばれる将官の旅団長・師団長に至るまで例外なく検閲を受けています。

無料軍事郵便の検閲については別に考えるとして、内地部隊の兵士の郵便が検閲を受けるようになったのはいつからか、に関心を持って関連する郵便物を集めてきました。GANの知る限り、在営兵士の発信で部隊検閲を受けた郵便は、に示した2点のはがきが最古の使用例です。第8師団として隷下部隊に検閲を指示していたのかも知れません。

では、内地の部隊検閲は日中戦争の開始によって始まったのでしょうか。37、8年中の「入営挨拶状」はたくさんありますが、大部分は検閲を受けていません。この2点が例外的に早いのです。「戦時下」となっても陸軍省・参謀本部に検閲についての統一方針がなく、部隊ごとの判断に任されていた状況を示唆しています。

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2019年07月23日

愛妻にバラした軍事機密

国崎支隊.jpg国崎支隊-3.jpg軍事郵便の通信文には日清戦争以来「軍事機密を漏らしてはならない」という一貫した大原則があります。機密とされる内容は時期によって細部の違いがありますが、通常は部隊の編成と作戦計画(今後の行動予定)が主要なものでした。

満州事変以降は制限事項が格段に増え、通信の発信日と発信地の秘匿が厳禁されました。組織的に徹底させるため、「部隊検閲」が開始されたのがこの頃です。部隊(多くは中隊)ごとに指名された人事担当准尉など下士官が発信前の通信を検閲しました。「〇〇日に無事〇〇に着きました」などという笑えない無意味な表現が増えます。

ところが、この軍事郵便最大のタブーを完全に破った、それも最高機密ダダ漏れという、とんでもないものを最近入手しました。軍事郵便の通信文は長年にわたって読んできましたが、これほどのものは初めて見ました。軍機漏洩の最高に極端な例としてご紹介します。

金山衛城-1.jpg右上図は柳川部隊国崎支隊のある少尉が故郷(地名の一部は加工済み)の妻に書き送った軍事郵便です。達者な万年筆の通信文により、昭和12年(1937)11月1日に朝鮮西海岸の木浦沖に停泊中の船内で書かれたことが分かります。木浦港との連絡船艇で木浦局に運ばれたのでしょう。

「明11月2日当港発、11月5日上海の南、杭州湾北岸の金山衛城に敵前上陸」「上海の戦況膠着なので、背面攻撃で敵を殲滅する命令」「この方面の軍司令官は柳川中将で、指揮下に第6、18、114師団と我が国崎支隊が入る」「国崎支隊は敵前上陸専門部隊なので、今度も第一番に上陸」

便箋5枚にわたって、このように具体的な作戦計画と部隊編成が詳細に綴られています(左図)。最後に「以上は前信と同様軍事機密ですから、‥‥斉藤、楢崎、吉川に回覧のうえ、保管しておいて下さい」。当の妻だけでなく、知人3人にも回覧して知らせてほしいと、完全な「確信犯自覚行為」です。

これほどの軍紀違反が堂々と罷り通ったのは、一にも二にも差出人が将校だったからです。封筒の表面には部隊検閲を通った証明として「小田」の認印がありますが、恐らくは中身を見てもいないメクラ判でしょう。読んでいたら、いくら上官でもチェックせざるを得ません。帝国陸軍の将校と兵卒とでは軍律適用もダブルスタンダードだった悪しき一例です。

なお、この少尉が属する「柳川部隊」は10月14日に新編成されたばかりの第10軍、「国崎支隊」は華北で作戦中の第5師団から引き抜かれた歩兵第9旅団(旅団長・国崎登少将)です。第10軍は少尉の「予告」通りの日に杭州湾逆上陸を果たします。腹背から攻撃を受けた上海の中国軍は潰走し、南京・漢口陥落と続く結果を招きました。戦史上に著名な事実です。
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2018年05月29日

特高検閲(?)のはがき

ヘルマン・ヘッカー.jpg昨日到着したばかりのヤフオクで落札した絵はがきです。一見して部隊検閲を受けただけのありふれた郵便ですが、二重検閲らしい点に注目しました。

この絵はがきは乃木3銭が貼られ、帯広局昭和19年(1944)9月16日に標語機械印で引き受けられています。裏面は札幌出身の水彩風景画家・繁野三郎が描いた北海道帝国大学のキャンパス風景です。

発信アドレスは帯広市の「北部軍経理部出張所気付 学徒隊第2中隊第4小隊」です。発信者は帯広の陸軍施設に勤労動員された北大学生のようです。

宛名は札幌市の戦時下では珍しい片仮名名前で「ヘルマン・ヘッカ」。わきに「独逸(ドイツ)人」と国籍が書かれています。ヘッカーは北大予科でドイツ語とフランス語を教えていた専任講師でした。

寺島.jpg発信アドレスの右端に角枠「検閲済」印が紫色で押され、枠内に「木村」の赤色認印があります。この検閲印の右隣に単独で紫色「寺島」認印が押されています。「寺島」印は角枠検閲印とは同じ紫色系でも色合いが異なり、別の場所で押されたことを示唆しています。

角枠検閲印は太平洋戦争直前から部隊・軍衙に課された部隊検閲印であることが形式から明らかです。それでは「寺島」印は何でしょう。部隊検閲を2人で行ったのでしょうか。

戦地発信の軍事郵便では部隊検閲が二重に行われた例をよく見ます。戦況から軍機保持が特に必要な場合、郵便担当の下士官による通常の検閲に加えて将校がダブルチェックしました。しかし、このはがきの場合は日本国内での経理事務を扱うだけの軍事官庁で、しかも出先の地方機関です。特別重要で機微な軍機を扱ったとはとても思えません。

あるいは、部隊内でドイツ語で書かれた通信文が翻訳され、その認印が押されているのでしょうか。墨の抹消部分が5ヵ所もあり、そうとも見えます。しかし、その場合も責任者はあくまでも郵便担当下士官なので、翻訳者が捺印することはあり得ません。そもそも検閲に不向きな外国語での通信自体を禁止したはずです。

実は北大では41年12月の開戦直後、特別高等警察(特高)によるでっち上げだったことが戦後になって分かる「レーン・宮沢スパイ事件」が起きていました。ヘッカーの同僚の米国人で英語の専任講師ハロルド・レーン夫妻が教え子の学生宮澤弘幸と共に逮捕され、軍機保護法違反で共に懲役15年という重刑判決を受けた冤罪事件です。

レーン家とヘッカー家は北大構内で隣合う教員宿舎に住み、2人で教師・学生の文化交流サークル「心の会」を運営していました。レーン最大の「同志」ヘッカーはまた、ファシズム反対・ナチス嫌いの言動でもよく知られていました。同盟国のドイツ人なので事件への連座こそ免れましたが、「危険人物」として特高の厳重な警戒・観察下に置かれました。

そうしたヘッカーに発着する郵便はすべて、特高の「要観察者名簿」つまりブラックリストに基づいて発信地か配達先の郵便局で秘密裏に検閲されていたはずです。となると、この「寺島」印は札幌局か帯広局に常駐していた特高の「検閲済」印ではないでしょうか。

戦前の特高が「要観察者」たちの郵便物を秘密検閲していたことは当局側の多くの断片的な資料から明らかです。しかし、その詳しい実態は不明で、検閲印や再封緘紙が使われるなどの「痕跡」はまだ全く知られていません。

ヘッカー宛てのこのはがきが特高による秘密検閲を受けたであろうことは、蓋然性の高い推測です。が、「寺島」印をそれに結びつける直接的な根拠はありません。「特高の検閲印」の可能性は五分五分とGANは見ます。将来、特高(及び憲兵隊)による郵便検閲の資料が発掘、解明されることに期待を託します。

(本稿執筆に当たって上田誠吉『ある北大生の受難 国家秘密法の爪痕』(1987年)、逸見勝亮「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考」(2010年)を参照しました。)
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2018年05月18日

刑務所の収監者郵便検閲

橘刑務所-0.jpg「郵便物」の定義を「郵便システムを利用して輸送される信書や小型包装物」とした場合、その郵便物(書状・はがきや小包など)の状態が輸送中on routeか、輸送以前や輸送完了後かが問題となる場合があります。GANが特に強い関心を持つ郵便検閲も、その一つです。

左図は最近のヤフオクで入手した封書です。昭和12年(1937)5月31日に大阪中央局で引き受け、神戸市に宛てられています。表面左側中央部に黒紫色の「検閲済」ゴム印、右側下半部に角枠「昭和12年6月1日/第六三六号」(数字は手書き)と「昭和十二年六月四日」のいずれも紫色ゴム印があります。

これらの印が検閲を受けた記録らしいことは想像できます。だれがした、どういう検閲でしょうか。書状の宛先の「橘刑務所内」が手がかりです。正確には「神戸刑務所橘通出張所」といい、1941年に「神戸拘置所」と改称され現在も存続しています。名宛人はここの収監者(名前の姓を画像処理で消してあります)なのでしょう。

橘刑務所-2.jpg桜マーク.jpgそうすると、ゴム印が示す「6月1日」は刑務所が書状を受け付けた日、「6月4日」は検閲が済んだ日付と思われます。刑務所の事務当局者には収監者に書状受け取りを許可する権限はないはずで、この3日間は担当検事の検討期間だったのでしょう。通信文の第1行目右上部に検閲済みの朱印が押されています(右図)。5枚の単弁に10本の蕊が描かれた桜マークです(上図)。

「刑務所検閲の桜マーク」については以前から郵趣界でも興味を持たれ、発表が重ねられてきました。直近では裏田稔氏が「拘置所内の郵便検閲」(北海道第壹郵趣廼會會誌『郵趣記念日』第262号所載、1998年)として東京拘置所以下全国10ヵ所の刑務所、拘置所など行刑施設ごとの桜マークの形式区分を紹介しています。これに「橘刑務所」は含まれていず、もしかしたら今回が新発表かも知れません。

最初の問題に戻ります。この書状のように、宛先に到着後に行われた検閲も「郵便検閲」に入るのでしょうか。GANの考えは「郵便検閲とは言えない」です。名宛人からすれば受け取り前の郵便物を検閲された事実に違いはありません。しかし、書状が刑務所に配達された時点で郵便物としての輸送(逓送)は完了し、狭義の郵便物でなくなっているからです。

浦和高女2.jpgこれは郵便物到着の場合でしたが、逆に差し出しのケースでの典型例が女学生寮の「舎監検閲」です。戦前、女子学生の寮や寄宿舎には舎監という監督者がいて、寮生が発信する郵便物を投函前に検閲していました。検閲を経ない郵便発信は寮の規則で禁止され、許可済み郵便物に「舎監検」などといった印が押されました。左図はその一例で、浦和局昭和9年(1934)4月引受のはがきに浦和高女の「第一寮舎監検」朱印があります。

刑務所検閲が郵便ルートから降りた後の検閲なら舎監検閲はルートに乗る前の検閲で、共にオフルートoff routeでの検閲です。狭義の郵便物状態でないときの検閲という点で両者は同じ意味を持ち、郵便検閲とは言えません。つまり「郵便検閲」とは、郵便システム上の輸送ルートにある(=逓送中の)郵便物に対して行われる検閲をいうべきだとGANは考えます。

もちろん、これらの検閲も郵便に膚接し、郵便検閲を調査する上でも重要で興味深い存在であることに違いはありません。GANの真意は郵便検閲と非郵便検閲との境界を明確にすることにより、郵便史調査研究水準の向上を目指すところにあります。
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2018年04月30日

米検閲解除印に名古屋型

検閲解除印.jpg今月20日から東京で開かれたスタンプショウで、浜松の切手屋さんのブースに米占領軍検閲の検閲解除印が押されたはがきばかりの箱を見かけ、店頭に座り込んで時間を掛け点検(買うための調査です!)しました。

東海地方ばかり1千通ほどの検閲解除印のはがきを調べ、改めて確認できたことが3点あります。

 1、名古屋地区の検閲では、3種に細分できる丸型(円形)検閲解除印が併用されている
 2、うち1種は一見して分かる名古屋地区での検閲だけの特異なタイプである
 3、発信・到着のどちらの地区でも「検閲解除」処理が行われている

敗戦直後の日本に乗り込んだ米占領軍はまずマスコミと通信の検閲から占領行政を開始しました。総司令部(GHQ)で情報を担当する参謀第2部に属する民間情報部の外局として民間検閲局が開設され、その下部機関として45年10月1日に東京、大阪、福岡の各地区検閲局、翌年1月に名古屋分局が設けられて郵便検閲が実施されました。

米軍検閲では、逓送中の全郵便物の1割が無差別に抜き取られて検閲局に提出されました。検閲局は差出人や名宛てなどから簡単な判定をして「検閲すべき」郵便物をさらに2割選びます。残り8割は実際の検閲を解除releaseされて郵便ルートにそのまま戻されました。検閲を解除された郵便物に押されたのが検閲解除印です。

検閲解除印名古屋B型-4.jpgGANが今回確認できたとする「名古屋型検閲解除印」は上図に示したはがき下部に赤色で押されています。昭和22年(1947)9月6日に名古屋中局が引き受け、同じ愛知県内の犬山町に宛てたものです。この検閲解除印を拡大したものが左の図です。櫛型印でいうD、E欄に相当する位置に点「・」が入っているのが特徴です。このタイプの印色には赤のほか紫色もあります。

これを「名古屋型」と呼ぶ最大の根拠は、発信と着信が共に名古屋分局管内(愛知、三重、岐阜県)だけのはがきに押されていることです。この印のあるはがきは、東京や九州など他地区検閲局管内からの発信であっても必ず名古屋分局管内宛てであることも分かりました。これは検閲局提出郵便物の抜き取りが差出地だけでなく、到着地でも行われたことを意味します。この印が名古屋分局のものと確定したことによる三段論法的結論です。

この種の丸型検閲解除印は、既に森勝太郎氏(1955、74年)と裏田稔氏(1982年)が共に4タイプの存在を報告しています。「名古屋型」は第5タイプとなるはずです。GANはこれら各タイプを検閲局別に区別できると考えており、今回の名古屋型の同定はその仮説の明白な端緒になると思います。続きを読む
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2018年03月24日

2.26事件の通信取締り

帝都の変.jpg1936年(昭和11)に東京で起きた青年将校らによるクーデター未遂の「2.26事件」で逓信当局による通信取締関連の電報群を直近のヤフオクで入手しました。

福岡県底井野局が2月26日の事件発生直後からの4日間に受信した熊本逓信局監督課からの局長親展局報・官報の9本です。事件の状況や関連した「不穏行動」を伝える電報と郵便の停止、事件を報道した地元新聞の差押えなどが指示されています。逓信本省からの指令に基づいて管内の九州全局に同文が打電されたと思われます。

第1報は2月26日午後7時3分受信の局報で、関連電報をすべて差し止めるよう、次のように指示しています(原文は略号を含む全文片仮名)。
「本日東京市其ノ他ニ於ケル軍隊ノ不穏行動並ビニ之ニ関スル事項ヲ記載シタル内外、日満電報ハ停止スベシ」

午後8時15分受信の第3報では「局報ノ件ハ自今総テ送達方経伺アレ。暗号ニシテ事件ニ関スル事項ヲ記載シタル疑ヒアルモノハ受付ノ際訳文ヲ提出セシメ之ヲ付記シ経伺アレ」と、差し止め電報の処理方法が指示されました。「経伺アレ」とは、電文を逓信局に知らせて指示を仰ぎ、許可を得て送達せよ、との意味です。

これらの指示は2月27日午前2時23分受信の第7報で「政府ヨリ発表セル範囲ニ属スルモノニ限リ自今送達方経伺ヲ要セズ」と緩和されました。国民の不安や動揺を鎮めるため、政府発表の範囲という最低限の官製情報を与えて流言蜚語を抑える政策から出たのでしょう。第2次大戦中の「大本営発表」を思い起こさせます。

2月27日午後7時45分受信の第8報(上図)で、電報に加え郵便の取締が初めて指示されました。
「今回ノ帝都ノ変ニ関シ其ノ筋ニ於イテ公表セラレタル以外ノ事項ヲ記載シ其ノ他不穏ノ内容ヲ有スル郵便物ハ厳ニ取締ノ上該当ノモノ発見ノ場合ハ内国郵便物ハ郵務局業務課長、外国郵便物ハ外国郵便課長宛テ特別親展ト表示シ直接送付アレ」

「郵務局」は東京の逓信省にしかありません。「不穏郵便物」を発見したら、その現物を熊本逓信局を経由せず本省に直送せよという指示です。はがきはともかくとしても書状ならなおさら、封筒内部の通信文を調べなければ「不穏」に該当するかどうかは分かりません。これは事実上の郵便検閲・差押え指令です。

「戒厳令ニ依リ開緘」印で知られる郵便物の憲兵検閲が許されたのは、戒厳令施行地の東京に限られます。一連の電報指示が熊本逓信局管内だけだったとは到底考えられず、全国規模で実施されたのでしょう。明治憲法下でも保証されていた信書の秘密を侵す重大な違反行為でした。1941年(昭和16)の臨時郵便取締令以前にも密かな通信検閲が行われていたことを証す初めての1次資料です。
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2017年06月16日

岡山局引受「8」検閲印

OKAYAMA 8.jpg東郷5銭が貼られ、岡山局昭和18(1943)年7月10日引受の大阪府堺市宛て書状です。逓信省検閲を受け、下部に貼られた再封の検閲封緘紙が検閲印で割印されています。ヤフオク落札品で、今日到着しました。

検閲印はA欄「逓信省」、C欄「検閲済」の、よく見るタイプの検閲印のようですが、B欄はアラビア数字でただ「.8」とだけあるのが特異です。年月日を表示したが「年」と「日」活字が出ず、「月」活字だけが表れた、というのではありません。引受日から20日以上過ぎないと8月にはならず、矛盾するからです。

これは初めから「8」と表示するつもりだったと見るべきでしょう。数字の前に余計なピリオドが付いていますが、「8月」や「8日」活字で代用すると、こうなります。検閲印のローカルなバラエティーの中にはB欄アラビア数字2桁のものを名古屋逓信局管内などで見かけますが、1桁タイプはこれが初出と思います。

では、検閲局番号「8」とはどこか。GANの見立てでは広島局です。広島局は臨時通信取締令の適用当初から検閲司掌局に指定され、「第八」の検閲局番号を使いました。広島逓信局管内の広島、鳥取、島根、岡山、山口の5県で検閲を受けるべき郵便物は原則として広島局に集められ、検閲後は「第八」検閲印が押されました。ただし、国際郵便は下関局「第九」で検閲しています。

この書状は広島逓信局管内の発信で、時期も「第八」検閲印が使われた期間内です。アラビア数字「8」検閲印は何らかの事情があって、「第八」検閲印の代わりに臨時的に使われたのかも知れません。あるいは、単なる想像に過ぎませんが、広島局だけでなく岡山局でも検閲することになって、この検閲印が使われた、などということはないでしょうか。

岡山県内発信の検閲郵便物は非常に少なく、GANはまだ現物を見たことがありません。わずかに1点、名古屋の田中茂氏から「第八」検閲印押し「玉島局20年1月14日」のデータをお知らせ頂いたばかりです。今後、他のアラビア数字1桁の検閲印や岡山県発信の同時期の検閲郵便物の出現を待って、使用状況を解明したいと考えています。

追記(2017.06.18) この記事について田中茂氏からご連絡頂き、田中氏もアラビア数字1桁「.8」検閲印のエンタイアをお持ちで、しかも同氏から既にGANにご提供頂いていた検閲データ群の中に含まれていることを知りました。田中氏にお詫びと感謝を申し上げます。

田中氏データは「岡山局18年6月21日」でした。記事で紹介したエンタイアと同じ岡山局引受けで、しかもほぼ同時期の使用例です。「岡山局での臨時的な検閲を示すのではないか」とのGANの勝手な憶測を補強するように見え、意を強くしています。
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2017年03月23日

国籍を書かず還付処分

白系露人-1.jpg白系露人-2.jpg臨時郵便取締令スタートから半年足らずの1942(昭和17)年3月に東京から上海に宛てた封書です。

検閲で「相手の国籍が書いてない!」とチェックされ差出人戻し。国籍を書き加え、切手も貼り直して再投函し、やっとのこと配達された、戦時下ならではの涙ぐましい現物です。

米英を相手に乾坤一擲の戦争準備が進められていた41年10月4日、信書の検閲を合法化する臨時郵便取締令が施行されました。取締令は細則で、郵便差出人は「自己又ハ受取人ガ日本人ニ非ザルトキハ」その国籍明記を義務づけていました(昭和16年逓信省令第108号)。

取締令の本来の目的は、戦争遂行上で致命的に重要な防衛情報が外国に漏れるのを防ぐことにありました。送・受信者が日本人かそうでないか、外国人だとしたら敵性国か友好国人か、は検閲上の重要なポイントだったのです。しかし、「国籍明記」など日本郵便史上で初めてのことです。初期はこうした「違反書状」が多発したことでしょう。

改めてこの封筒を詳しく検討すると、書状の送達をめぐって次のような経緯が浮かび上がってきます。このうち3~8の過程が検閲体制下でなければ起きなかった「異常事態」です。結局、この書状は差出人と東京中央局の間を往復させられ、到着まで10日間近くを空費したことになります。

 1、昭和17年3月21日ごろ差出人が赤坂局ポストに投函
 2、赤坂局で取り集め、引き受けて東京中央局に逓送
 3、中郵局で検閲課に回り、検閲官が開封検閲し、受取人の国籍記載漏れに気付く
 4、検閲官が表面右下部に鉛筆で「国籍不書」と書き込み、左辺の開封部を検閲封緘紙で
   再封し、上辺部切手左側に「還付」付箋を貼り付ける
 5、赤坂局を経て差出人に差し戻し
 6、差出人はめげずに封筒左下部に「白系ロシア人」と万年筆で書き込み、封緘紙の一部に
   かかるように東郷4銭切手を再度貼り、「還付」付箋をはがして3月30日に再投函
 7、赤坂局で取り集め、再度貼られた切手を抹消して引き受け、東京中央局に逓送
 8、中郵局検閲課は国籍記載済みと検閲封緘紙の封緘状況を確認し、再開緘せずにパス
 9、中郵局から長崎局経由で中国上海局に逓送
 10、上海局で4月10日に到着印を押し、受取人に配達

取締令下で外国郵便の差出は、切手は貼らずに添えて窓口に持ち込むのが原則ですが、「満洲国」と中国(日本軍占領地区)宛てに限りポスト投函が認められていました。窓口持ち込みだったら最初から国籍不記載を注意され、こんな騒ぎにはならなかったでしょう。両国は日本の「友邦」であり、日本人同士の通信が圧倒的に多かったための優遇策が仇となりました。

東京中郵で貼り付けた付箋は再投函のさいに剥がされ、残っていません。恐らくは「臨時郵便取締令ニ基ク左記ノ命令違反ニヨリ差出人戻シ 二重封筒/国籍記載漏レ/通信文手書」といった趣旨が印刷された外国郵便専用のものだったでしょう。「国籍記載漏レ」に○を付けるか、他の2項を抹消して使います。

二重封筒違反はありふれたものですが、「国籍記載漏れ」「通信文手書」は少なく、とくに後者の実例をGANはまだ見たことがありません。タイプライター打ちの文章の方が手書きを判読するよりは検閲の効率がよいということでしょうか。よく分からない規則です。
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2016年07月27日

最初期の米軍検閲はがき

C.C.D.-1.jpgC.C.D.-2.jpg米軍検閲印、いわゆる「金魚鉢」の最初期使用例と思われるはがきを最近のネットオークションで入手しました。切手も消印もないスタンプレスで、恐らく料金別納郵便として差出された内の1枚が、引受けの際に別納印の押捺漏れになったのだと思います。

神奈川県小田原市から家族の死亡を知らせる印刷された訃報です。「昭和20年9月5日」とあることから発信日は1945年9月の5日以降、上旬と推定できます。宛先は朝鮮の京城ですが、この時期は関釜連絡船が途絶していて送達不能で、「差出人戻」となっています。

このはがきには下部にC.C.D.J-342の米軍検閲印が正置で、また上部にはC.C.D.-620が倒置で押されています。日、米の検閲員による二重検閲を受けたことが分かります。両印とも灰黒色で、まだ検閲日の書き込みはなされていません。

無条件降伏した日本を占領統治するため、連合国軍総司令官マッカーサーが厚木飛行場に降り立ったのが45年8月28日のことでした。そのわずか10日か2週間ほど後の9月上旬に、もう郵便検閲を実施していたとすれば、確かに最初期です。が、ことはそう簡単にいきません。

米軍がいつから郵便検閲を始めたか、直接示す資料はまだ知られていません。連合国軍総司令部(G.H.Q.)は日本政府に「覚書」を出して命令していました。45年10月1日付の覚書SCAPIN第AG311.7号によれば、「すべての郵便物は適当な範囲で検閲が必要であり、指示があれば郵便物を提出しなければならない」とされています。

日本政府はこれを受けて45年10月12日に閣令第43号を出し、日本の関係官吏に占領軍が実施する郵便、電信、電話の検閲への協力を義務づけました。これらから類推して、検閲は10月12日以降、そうでなくとも10月に入ってからだと考えるのが普通です。

ところが、これより早い9月中に、博多局に米軍検閲係官が突然現れ、ピストルを突きつけて郵便物を押収し、検閲所まで運ばせた、いわゆる「ピストル事件」が起きました。郵政省編『続逓信事業史資料拾遺第2集 野戦郵便局・通信情報取締等関係資料』に記述(P.75)されています。実際の検閲は9月に始まっていたことを示唆する事実です。

この事件なども考慮に入れると、小田原市で郵便物が9月上旬に検閲を受けた事実も「何かの間違い」とは言い切れなくなります。GANが分かることはここまでです。さらに資料を集め、郵便検閲の正確な開始時期を解明していきたいと思います。
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2016年01月31日

石川県内の新検閲印

片山津.jpg戦前の臨時郵便取締令による最末期の検閲を受けた封書です。温泉で有名な石川県片山津町から京都市に宛てられています。昨秋東京で開かれた大手のフロアオークションで思いがけない大苦戦の末、やっとのことで落札できました。

どうしても欲しかった理由は、使用状況がよく分かっていない北陸地方での検閲だったからです。裏面に押されている紫色の通信院検閲印「48.3」という番号は未発表でした。

この封筒の表面は状態があまりよくありません。東郷7銭が1枚だけ貼られ、3銭切手1枚が脱落しています。消印の局名は読めません。素直に考えて片山津町の受持集配局である片山津局なのでしょう。日付は裏面書き込みと同じ1945(昭和20)年6月24日です。

最大の問題は、実際にこの検閲を行った「48.3」局とはどこか、ということです。もちろん、片山津局もその候補になり得ますが、ここは東隣の小松局ではないかと推定しています。

48.3.jpgこれまでのGANの調査によると、1943(昭和18)年当時の名古屋、新潟両逓信局管内の各県(と名古屋市)には40~49の検閲局番号が割り振られていました。名古屋市に「40」、愛知県に「41」……、福井県「47」、石川県「48」、富山県「49」といったぐあいです。

従って、「48.3」は石川県内「3番目」の検閲局を指します。県庁所在地の金沢局は石川県中央部を受け持ち、「48.1」または単に「48」を使ったでしょう。「48.2」は石川県能登地方の中心、七尾局だろうと思います。すると、「48.3」を使ったのは片山津町のある石川県西部地域最大の小松局のはず、というのが推定の根拠です。

検閲印は配達地の局で押されることもありますが、この書状の場合は除外できます。宛先の京都府ではまったく別形式の検閲印を使っているからです。将来「48.4」以上の番号の検閲印が出現すれば、「小松説」という推定は崩れます。が、考え方の大筋はまあまあ、これでよかろうと思っています。
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2014年05月31日

米軍検閲済み演劇台本

HAKODATE.jpg今日のマテリアルは近着のネット落札品ですが、郵便物ではありません。しかし、郵便と密接な関係にある米占領軍による検閲資料です。

藁半紙を袋綴じ状に折った半面に、次のように筆書されています。
検閲台本/防犯劇「戦慄の街」2幕1場追加分/函館市警察署捜査課/(氏名)/新軽演劇集団(これだけは万年筆書き)

そして、米軍が押したPC検閲印(俗称「金魚鉢」)と「FILE No. H-503」のスタンプがあります。検閲官番号は「C.C.D.J-5013」です。右辺には紙縒(こより)などで綴じられていたような綴じ跡の破れがあります。

これらから推測すると、これは、米軍検閲当局に提出された演劇台本の表紙のようです。勧進元は函館市警察署。ペンに自信のあるデカさんあたりが防犯啓発用に書き下ろした脚本なのでしょう。1947(昭和22)-54年の間、米占領軍の指示により消防と同様に警察も自治体(市町村)が自前で運営しました。戦前の道警函館署が一時は函館市警察署として独立していたのです。

検閲印は郵便検閲用と同じ形式ですが、検閲日の記入位置が「金魚鉢」の中ではなく、下部に書かれている点で大きく異なります。「金魚鉢」の右側に接して押されたプロ野球球団のマークと酷似した「YG」の小型印は何を意味するのか、不明です。

森勝太郎氏「占領下の日本に於ける連合軍の郵便検閲」(切手研究会創立5周年記念論文集所載)によると、連合国軍総司令部(G.H.Q.)の1部門である民間情報部は、外局として民間検閲部(C.C.D.)を東京に置きました。

C.C.D.はさらに下部機関として東京、大阪、福岡など6ヵ所に地方検閲部とその分局を配置し、地方検閲部の通信課で郵便と電報・電話を検閲、印刷舞台放送課で新聞・雑誌・図書と映画・演劇、それに放送の検閲を実施させました。当時のメディアすべてが網羅されています。

この演劇台本も、札幌市の北海道農業会館にあった民間検閲局第4支所(福島鋳郎氏「占領下における検閲政策とその実態」による。森氏は「第4地方検閲部」と訳す)に提出され、49(昭和24)年4月20日に検閲を通過、上演許可となったのでしょう。

森氏と裏田稔氏(『占領軍の郵便検閲と郵趣』)は膨大な量の検閲郵便物に押されている検閲官番号を調査しました。その結果、ほとんどの番号が連続して使われているのに、5000番台と5100番台は、郵便検閲用には使われていず、スッポリ抜け落ちていることが分かりました。

裏田氏は一方で、「C.C.D.J-5001」が雑誌検閲に使われていることを著書で発表しています。今回の5013が演劇検閲に使われている事実と併せ、5000~5099番は通信課でなく印刷舞台放送課の検閲官に割り当てられたと推測することが可能でしょう。

森氏は「金魚鉢」検閲印の「PC」を「Post Censor(郵便検閲)」の略だと述べています。しかし、雑誌や演劇の検閲にも使われていることから、これは誤解だったことになります。やはり「Passed Censor(検閲済み)」が正しいのではないでしょうか。つまり「検閲を通過したので配布・流通を許可する」意味と受け取るべきだと思います。

小さな知見ですが、新たに付け加わることで不明な点の多い米軍検閲が少しずつでも実態解明に近づけばいいな、とGANは思います。
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2014年05月05日

最末期の米軍検閲カバー

MINER.jpg戦後、連合国占領軍(米軍)の開封検閲を受けたカバーです。上京局昭和24(1949)年10月13日引受の封書が翌10月14日に検閲されています。最末期の検閲例です。

米軍は日本占領直後の1945年10月16日から郵便と電報の検閲を開始したといいます。連合国軍総司令部(G.H.Q.)内に設けられた民間検閲部(C.C.D.)が担当し、東京、大阪、福岡、名古屋、札幌に検閲支局を置いて地区ごとに分担して検閲したことが明らかになっています。

米軍検閲は1949年10月末に終わっていますが、各検閲地区ごとの最終的な終了日は明確ではありません。GANの知る限りでは、最新データは昭和24年10月17日なので、このカバーはそれに次ぐ例です。

検閲印(封筒下部の赤色印=いわゆる「金魚鉢」印)の押捺方向と日付記入の表示方法から、この封書は第2検閲支局(大阪)で検閲を受けたことが分かります。検閲印を押された後、開封部はセロファンテープを使って再封緘されています。

福島鋳郎氏の「占領下における検閲政策とその実態」(『アメリカの初期対日政策*』所載)によると、第2検閲支局は大阪中央郵便局内に置かれていました。
*文末の追記兼訂正ご参照

郵趣界での米軍検閲の研究は、森勝太郎氏「占領下の日本に於ける連合軍の郵便検閲」(『切手研究会創立5周年記念論文集』所載=1955年)、裏田稔氏『占領軍の郵便検閲と郵趣』(1982年)によって深められてきました。

この封筒の検閲では検閲官番号として「C.C.D.J-12258」が使われています。両氏の調査によると、12,200番代は第3検閲支局(福岡)の検閲官に割り当てられました。検閲終了間近に、福岡から大阪へ検閲官の異動があったのでしょうか。他にこのような例は少なく、未解決の課題です。

占領期日本.jpg追記兼訂正(2017.04.15) この記事に対し本年4月6日に新井氏からコメントをいただきました。「本文中にある福島鋳郎論文を載せている資料を確認したい」というご照会です。改めて調べ直したところ、本文の下から3段目で「『アメリカの初期対日政策』所載」と書いたのは誤りでした。正しくは「『占領期日本の経済と政治』所載」です。

この本は1979年に東京大学出版会から中村隆英氏の編集で出版されました。12本の論文が収載されており、福島論文はその内の1編です。40年近く経過した今日でも米軍検閲に関して最高の学術的業績を保つ基本文献と思います。本件については飯塚博正氏から多大のご教示をいただきました。感謝します。
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2014年03月27日

佐世保局での戒厳地検閲

SASEBO-1.jpgSASEBO-2.jpg日露戦争の旅順攻略戦や日本海海戦などで活躍した新鋭の装甲巡洋艦「吾妻」から開戦直後に出された書状です。ネットオークションの落札品がきょう到着しました。

発信日は2月19日で、佐世保局明治37(1904)年2月22日の引受印が押されています。封筒の表面中央部に明朝体で「(佐世)保戒厳地司令官開緘」の朱印があります(画像=クリックで拡大できます)。裏面の最上部には薄い和紙が貼られており、それに押されている丸型の認印は「田邊」と読めそうです。

開戦直後の2月14日、長崎、佐世保、函館の3要塞地帯と対馬全島はロシア軍に攻撃される可能性の高い臨戦地境として戒厳が宣告されました。戒厳令が施行されると、その第14条で戒厳司令官に郵便・電報の検閲権が与えられます。

この封書は戒厳令に基づいて佐世保戒厳地の司令官が開封検閲したものと思われます。裏面に残る和紙は検閲後の封緘紙の一部で、認印は検閲者を表しているのでしょう。佐世保戒厳地司令官は、とくにそういう役職が新設されたのではなく、佐世保鎮守府司令長官の兼務とされていました。

第2艦隊に属する「吾妻」を含む聯合艦隊はこの時期、第1次旅順口攻撃を終えて次の旅順港口閉塞作戦の準備中でした。朝鮮の鎮海湾か佐世保に入港中だったと思われます。この封書はアドレス表記や引受日との関係を考え合わせると、鎮海で発信されて輸送艦などで佐世保まで運ばれた可能性が高そうです。

2月22日に佐世保局で引き受けられ、3月1日に浜松局に到着しています。6日間というのはあまりにも時間の掛かりすぎで、検閲のため数日が費やされた可能性があります。軍艦の乗員が時期作戦に関する情報を漏らさないか、警戒されたのでしょうか。

実際の検閲作業は佐世保局に「田邊」氏ら検閲官が派遣されて行ったと見られますが、詳しい実態は分かっていません。この後、海軍の検閲は郵便局に到着してからでなく、発信時にあらかじめ部隊(艦船)内で検閲するようになります。効率を考えれば当然の措置でした。そのため、海軍兵士の郵便が一般局で検閲されたのは、最初期だけに限られると思います。

戒厳地での郵便検閲は、これまで長崎局で数通知られています。長崎局以外は外国郵便交換局ではなく、検閲はなかったのではないかとも考えられていました。佐世保局で、しかも内国郵便の検閲は、これが初めてです。すると、函館局や対馬の厳原、鶏知局などではどうだったのか、興味が持たれるところです。
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2014年03月07日

検閲で削除された米誌

WRAPPER.jpgアメリカから送られた雑誌のラッパー(郵便帯紙)の一部です。横浜局1938(昭和13)年3月1日の日付印のある付箋が貼られています(画像=クリックで拡大できます)。

このラッパーで送られたのはニューヨークタイムズ社発行の月刊誌CURRENT HISTORYで、東京の立教大学図書館司書に宛てられています。

付箋には「本誌第22頁ハ安寧秩序ヲ紊スモノト認メラレ、逓信省郵務局ニ於テ削除処分ニ付セラレタルニ付……」とあります。「安寧秩序ヲ紊ス」記事があったので、東京の本省でその部分を切り取った、と検閲実施が明記されています。この雑誌はラッパーごと横浜-東京間を往復した後に東京へ配達されたことになります。

当局が「安寧秩序ヲ紊ス」と認定した記事とはどのようなものか。CURRENT HISTORY誌は国際的な大事件や書評を主に扱っていました。タイミングからいって、1937年12月に日中戦争の中で日本軍が引き起こした南京虐殺事件の評論ではないかとGANは推測しています。

逓信省郵務局業務課が1938年4月に作成した内部文書「通信取締ニ関スル参考資料」によると、1928(昭和3)年の共産党大弾圧事件(3.15事件)をきっかけに、逓信省は外国からの「不良思想潜入防止」のため検閲を格段と強化したようです。

「外国郵便交換局及船内局ニ語学ニ精通セル者合計140名ヲ配置シ外国来書籍印刷物ニ対シ個別ニ検査セリ。不穏ノ疑アルモノヲ発見シタルトキハ本省ニ送付セシメ本省ニ於テ再審ノ上内務省ニ移送ス」とあります。この雑誌はまさにこの検閲で上げられたのでしょう。

明治憲法の下でも信書の秘密は保障され(第26条)、検閲は禁止されていました。しかし、逓信省の法解釈では、それは第1種(封書)だけに限られ、第2種(はがき)、第3種(定期刊行物)、第4種(印刷物)などはすべて検閲できると、この内部文書に記述されています。

一般に、日本で郵便検閲が開始されたのは太平洋戦争直前の1941年10月の臨時郵便取締令からだと理解されています。しかし、実際には検閲はそのずっと以前から半公然と行われていました。それを史料として明らかにするこのようなラッパーが後世に伝わるのは、極めて稀な例だと思います。

追記(2016.06.12) 『続逓信事業史』(三)「郵便」に、この件に関連した記事(pp.302-303)のあることに気が付きました。1929(昭和4)年、主要な外国郵便交換局に特別要員を配置して外国からの「不穏記事」掲載誌など印刷物の検査を開始。出版法、新聞紙法などに関連させて輸入禁止、差押え、内務省に通報などの処置をとった。1938年度に開披検査した外国来印刷物は315万個、差押えは3万3千個にのぼった、と記述されています。このラッパーの存在は、差押えまでに至らない処分も行われていたことを示しています。
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2014年02月16日

認印を押し「検閲済み」

SAIPAN.jpg太平洋戦争の前夜に施行された臨時郵便取締令による検閲が、南洋庁管内でも行われていたことを示すはがき(画像=クリックで拡大できます)です。印面下にさりげなく押されている「須貝」の認印が検閲印に相当します。

南洋庁では、検閲した職員の認印を押して「検閲済み」であることを表示しました。必ず印面の直下に押されているのが特徴です。この「須貝」印の主の須貝春吉は通信書記という身分の幹部職員でした。荻原海一氏『南洋群島の郵便史』によると、サイパン局では須貝書記以下4人の職員が代わる代わる検閲に当たっていたことが分かります。

南洋庁で検閲が始まり、この種の認印が使われるのは、内地で検閲が始まってから1年も過ぎてからだったようです。同書によると、これまでに昭和17(1942)年12月30日-19年3月21日の間のデータが見つかっています。このはがきの日付印は17年12月8日なので、使用開始時期を3週間ほど遡る最古使用例ということになります。

19年春頃から南洋庁管内にも丸二型「南洋/検閲済」と入った正規の検閲印が導入されます。それまでの1年数ヵ月間はこういった認印が各局ごとに使われました。受取人には、無関係な他人の認印がはがきに押されている理由も、南洋庁が検閲を実施している事実も、まったく分からなかったことでしょう。
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