2019年09月30日

内地台湾航路ついに途絶

内台航路途絶.jpg太平洋戦争も最末期の昭和20(1945)年3月20日に徳島県岩倉局が引き受けた台湾宛て書留軍事郵便です。最近のネットオークションで苦戦の末、辛くも落札しました。

この12日後に郵便料金は全面値上げされますが、当時の書留料金として富士桜20銭は適正です。しかし、第1種料金はまだ7銭だったので、3銭乃木×3=9銭では2銭過剰でした。1銭切手の手持ちがなく、局の窓口でも切らしていたのでしょう。敗戦間近の混乱ぶりを示すと言えそうです。

多少の無理をしてでも欲しかったのは、このカバー上辺に小さな付箋が貼られていたからです。ガリ版刷り青色で「本郵便物ハ送達ノ方法無之ニ付キ返戻ス/下関局」とあります。台湾への逓送は不可能になったから返す--。これこそ内台航路途絶を示す証拠資料に他なりません。

この年初頭、米軍にフィリピンを奪還され、次は台湾か沖縄が攻撃されると日本全土が脅えました。大本営は米空母艦隊の来襲を陸海軍共同の航空攻撃で撃退する「天号作戦」を3月1日に立案します。泥縄的に特攻機部隊が編成され、次々と九州南部の航空基地に送り出されました。

そんな折、3月18日に所在を捕捉できない米空母の艦載機によって九州、四国地方が大空襲を受けます。23日に奄美・沖縄にも同様の空襲。4月1日にはついに米軍4個師団が沖縄本島に上陸を始めました。既に制海・制空権とも日本軍にはなく、日本本土と台湾を結ぶ内台航路はここに至って途絶してしまいます。しかし、その事実は国民には隠されていました。

内台航路は元々は大阪商船が神戸-門司-那覇-基隆間に就航し、戦時中は船舶運営会に移管されました。主力船の高千穂丸、富士丸、大和丸が次々と米潜水艦に撃沈された後も、船腹をやりくりして不定期ながら維持していたのですが、航路の海域自体が戦場となっては万事休すです。

この書状は徳島県を出た後、台湾との交換局である下関局で台湾行きの待機を始めた直後に逓送路途絶、やがて付箋を貼られて返戻となったのでしょう。四囲を敵艦に包囲されて外部との交通が完全に遮断され、敗戦必至の情勢に陥った日本の生々しい現実を伝えています。

余談にわたりますが、届かなかった宛先の「武1524部隊」とは第9師団歩兵第7聯隊を表します。第9師団は沖縄防衛のエースとしていったんは沖縄本島に配備されたのですが、台湾に転出させられ無傷で敗戦を迎えました。沖縄の防衛戦力を削いだ大本営の戦略的無能を示す皮肉な資料でもあります。
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2017年11月23日

沖縄本島から最後の便り

沖縄.jpg沖縄 1.jpg沖縄本島守備の軍人から新潟の故郷に宛てたはがきです。最近のヤフオクで入手した同一人発着の満州と沖縄発信ロットの1点です。

鳩兜の軍事郵便はがきに乃木3銭切手を貼り、博多局飛行場分室で昭和20年(1945)3月23日に引き受けられています。受取人の書き込みがあり、3月27日に新潟県の宛先に届いたことが分かります。

この軍人の沖縄からの11通目で、これ以後の通信はありません。沖縄は3月下旬から米軍の大艦隊に包囲されて大規模な艦砲射撃を受け、45年4月1日に米軍が本島に上陸、猛烈な戦闘が始まります。このはがきは沖縄本島からの結果的な「有料最終便」例と言えるでしょう。

発信アドレスは「那覇郵便所気付 台湾第19159部隊」で、第8飛行師団(台北)に属する第21航空通信隊です。沖縄防衛の「天1号作戦」部隊として44年(昭和19)7月に満州の寧安から沖縄本島に転進してきました。第8飛行師団はこの作戦中に第6航空軍(福岡)の指揮下に入り、隷下部隊の多くを南九州や沖縄に展開させました。このような事情から、沖縄と台湾が同居する形の特異なアドレス表記が生まれたと見られます。

沖縄には45年4月10日から無料軍事郵便が適用されますが、沖縄と鹿児島を結ぶ船便は3月上旬頃から途絶していました。郵便物は米軍の目をかすめるわずかな軍用機と潜水艦の連絡便に託して運ばれる程度です。このはがきも通信文に「急に便を得て走り書き……」とあります。福岡・太刀洗の陸軍飛行場に急に飛ぶことになった連絡機に託したと見られます。

4月以降、沖縄本島からの有料郵便は未見で、軍事郵便でも稀です。残存する4月以降の郵便のほとんどは陸上戦闘のなかった先島諸島や大東島方面部隊の軍事郵便です。発信者が属するこの第21航空通信隊は、大内那翁逸編『旧帝国陸軍編制便覧』によると、「玉砕部隊」となっています。
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2017年05月05日

モンテンルパへの特便

横山中将.jpg昭和28(1953)年6月12日に栃木局で引き受けた炭坑夫8円2枚貼りの、一見ありふれた印刷物書状です。ただ、宛先の「ヒリッピン モンテンルパ」が目を惹きます。

「モンテンルパ」とは、渡辺はま子の往年の大ヒット歌謡曲「あゝモンテンルパの夜は更けて」で有名になったフィリピンの日本人戦犯収容所を指します。これは拘禁中の戦犯に宛てた「戦犯郵便」ともいうべき特殊なカバーです。

名宛人の横山静雄氏はフィリピンに派遣された第41軍司令官(中将)として、米軍のレイテ上陸から敗戦時までマニラ首都圏地区防衛の最高指揮官でした。戦後、米軍が開設したマニラ軍事法廷で、マニラ市街戦に多数の市民が巻き込まれ犠牲となった責任を問われました。1949年に死刑判決を受けましたが、未執行のまま4年経過していました。

この封書は「復員局法務調査課気付」でモンテンルパ収容所(正確にはマンティンルパ市にあるフィリピン共和国管理下のニュービリビット刑務所)の横山氏に宛てられています。200グラムの印刷物だと国際料金では25円が必要ですが、この書状は内国印刷物2倍重量料金の16円で済んでいます。

復員局は独立官庁ではなく、厚生省の一局でした。旧陸海軍省の後継官庁として軍人の復員や恩給、戦没者遺族の援護などの事務を取り扱い、現在でも厚生労働省社会・援護局として存続しています。復員局当時、軍事裁判や戦犯に関する事務は法務調査課が担当していました。

モンテンルパへの手紙の英文宛名書きが困難な人が多かったのか、あるいはフィリピンへの郵便輸送が不安定だったためでしょうか。この書状は復員局から定期便で一括して収容所に直送されたと考えられます。あるいは外交行嚢が利用されたかも知れません。収容者たちとの間に何らかの特別な送達ルートがあったことは確実です。

この封書の直後、高位の軍人として受刑者代表になっていた横山氏ら死刑囚を含むフィリピン関係戦犯110人全員は幸いなことにキリノ大統領の特赦を受けました。減刑されて1953年7月22日に帰国し、東京の巣鴨刑務所で服役しました。この年の年末にさらに特赦があり、全員が釈放されて戦後8年ぶりで家族の元に帰ることが出来ました。

横山氏関係の郵便物は数十年前に段ボール数箱分が出回り、先輩収集家の青木四三雄氏が入手して大門会などで収友に分けてくれました。これもその内の1点ですが、このアドレスの郵便物は他にはなかったので、短期間使用だったのかも知れません。見るたびに青木氏の飄々として人懐っこい笑顔が浮かんできます。
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2016年06月21日

病院船「高砂丸」の戦後

高砂丸.jpg戦後、引揚病院船として活躍した「高砂丸」の乗組み医官から発信された速達はがきです。今日到着したネットオークション落札品の同一人発着ロット60通ほどの中から出てきました。差出人は巡洋艦「愛宕」に乗り組んでいた元軍医大尉です。

戦前の高砂丸は大阪商船の内台連絡船として台湾航路で運航されていました。1941(昭和16)年11月に海軍に徴用され、聯合艦隊直属の特設病院船に改装されてフィリピン、インドネシア、ラバウル、サイパンなど南方海域で活動しました。

9,347トンという大型船でも生き延びられたのは、敵国側にも通告される非武装・非軍用の病院専用船だったからです。米潜の誤認で魚雷攻撃されながら致命傷は免れたこともあります。

敗戦後は海軍省を引き継いだ第2復員省に復員用の「特別輸送船」としてチャーターされました。1949年までは中国から、その後はソ連からの復員傷病兵の収容に当たったようです。特別輸送船の病院船は他には有名な「氷川丸」と「菊丸」の2隻しかありませんでした。

このはがきは日付印が不鮮明ですが、佐世保局で昭和21(1946)年7月15日に引き受けられています。紫色の印色がいかにも物資欠乏の戦後時代を表しているように見えます。第2種(はがき)5銭料金としては最末期の使用例で、この10日後からは戦後大インフレによって郵便料金が一挙3倍に値上げされています。

アドレスの肩書き「佐世保局気付」は戦争中の軍事郵便と同じです。佐世保が中国・上海方面との間の特別輸送艦船の母港として戦前に引き続き利用されていたことを示唆しています。軍事郵便と大きく異なるのは、検閲印がなく、禁じられていた「病院船」「医官」などの船種、身分の表示が見られることです。

その後の高砂丸は不運の道をたどりました。1951年ごろまでに特別輸送船の役目を終えて大阪商船に戻りましたが、主要航路には復帰できません。石炭を燃料とする蒸気タービン動力なので運用が困難だったためです。最終的に1956年に売却され、スクラップとして解体されてしまいました。
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2015年09月29日

船便送りの沖縄航空便

雁ノ巣.JPG部隊検閲印を持つことから軍人差し出しらしいというだけの、平凡な3銭楠公はがきです。ことし6月の「松本の大会」で百円均一の箱から拾い出したものです。最近になって、意外に貴重な資料かも知れないと気が付きました。

「松本の大会」とは、既に旧聞となってしまいましたが、6月13、14日にあった「切手大好き人の集い」のことです。松本郵趣会が主催して松本市郊外の美ヶ原温泉で開かれました。

GANも収友の田中寛さんとご一緒し、初めての特急「あずさ」に乗って行ってきました。各地から百数十人もが集まり、盛大で楽しい一夜を過ごしました。

児玉敏夫さんから貴重な情報を耳にしたのはこの春先、大門会の例会でのことでした。「リキさんが郵趣から引退するので、ほとんどの収集品を大会を開いてオークションで処分する」。

「リキさん」とは、郵趣界で知らぬ人もない藤野力さん。戦後の消印とエンタイア(今で言う郵便史)収集では、松本を大阪と並ぶ日本の一大中心地とした立役者です。GANはこれまで半世紀近くにわたり軍事や検閲などで大変お世話になってきました。確か今年あたり米寿のはずですが、ご高齢が進んで郵趣どころでなくなったのだそうです。

これは行かないという手はありません。(児玉さんは鉄郵印の専門家として知られていますが、実は松本の郵趣界の「大ボス」でもあったことが、今回現地に行って初めて分かりました)。申し込むと、簡単なオークションカタログも送られてきました。

「もしかしたら、ご本人にお目にかかれるかも」と、はかない期待も抱いて行ったのですが、結局、藤野さんは見えられませんでした。代わりにご子息夫妻が大会に参加され、藤野さんの近況報告を兼ねた挨拶をされていました。

期待のフロアオークションがまた、ものすごい熱気でした。GANが狙っていた数点は、いずれも関東の若いコレクターたちに、あれよと思う間もなく、かっさらわれてしまいました。結局、百均の段ボール箱から20数点を抜き出した程度で敗残の身ををかこった次第です。これらもまた、藤野さんの膨大な未整理コレクションの一部でした。

さて、このはがきですが、発信アドレスは「福岡県雁ノ巣航空局福岡支局気付イ131」と書かれています。引受機械印は「鹿児島局 昭和20年2月9日」です。当時の運輸通信省航空局は福岡県雁ノ巣飛行場構内に福岡支局を設けていました。「イ131」は海軍の部隊区別符で第27魚雷艇隊を意味します。

部隊は沖縄県運天港にあり、2カ月後の沖縄戦でのいわゆる「玉砕部隊」です。このアドレスは昭和19(1944)年10月の「海軍公報」で正式に指定されていました。福岡のアドレスを持つ沖縄の海軍部隊差し出しのはがきが鹿児島で引き受けられていたことになります。

沖縄方面根拠地隊など沖縄の海軍部隊の一部から県内の郵便局に差し出された郵便物は、海軍機で九州など本土に運ばれて到着地郵便局で引き受けられていたようです。南西諸島方面の制海権も危うくなった戦争末期、本土との郵便連絡を速達するためですが、これを規定した内部文書は未見です。

このような「軍用航空郵便」は、普通は各地航空隊や航空基地気付を肩書きとするアドレスが使われています。陸海軍の部隊ではなく運輸通信省という行政官庁を肩書きとしている点で、このはがきのアドレスはとてもユニークです。沖縄の那覇飛行場と雁ノ巣飛行場を結ぶ軍用定期航空の存在が示唆されます。

それにもかかわらず、福岡局でなく鹿児島局の消印があるのは、何らかの事情で航空機に搭載できず、船便で那覇から鹿児島に運ばれたのでしょう。太平洋戦争最末期の沖縄部隊の郵便逓送状況を具体的に物語るはがきだと思います。
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2014年05月01日

郷土防衛に満州からシフト

NISHIKI-1.jpgNISHIKI-2.jpg本土決戦のため終戦間際に満洲から呼び戻された郷土防衛部隊の兵士が出した私製はがきです。部隊の検閲も受けていますが、軍事郵便ではありません。有料の普通郵便です。今日到着したヤフオク落札品です。

発信アドレスは「高知局気付 錦第2445部隊」です。「錦」は第11師団を、「2445」は歩兵第44聯隊を表します。また、内地部隊の「気付」局は外地部隊と異なり、配達受持局を表します。この部隊が高知局の集配区内にあることが示唆されます。

44聯隊(高知市)は第11師団(善通寺)の基幹部隊です。1939(昭和14)年以来「満州国」の新密山に駐屯し、北方からのソ連侵攻に備えていました。新密山は周辺に多数の開拓移民団集落が密集し、満州東北部の軍事上の要地でした。

米軍が沖縄に侵攻した45年4月、師団は関東軍隷下を抜け、西日本防衛の第2総軍(広島市)に転属しました。今度は太平洋を南方から攻め上る米軍に備えて郷土を守備することが新任務です。聯隊は高知東部沿岸で陣地構築の最中に終戦を迎えています。このように、満州は空っぽで放置されたままソ連軍の侵攻を迎えたのです。

このはがきは私製ですが、料金5銭を局に納めて切手代わりの収納印を受けた「暫定予納はがき」です。郵便切手の製造能力すら失った時代を反映し、特例として45年2月1日から実施されました。裏面の通信文から5月中の発信と分かります。

裏面左下部に「面会禁止」印があります。普通は病院や秘密部隊からの発信に押され、通常の歩兵部隊にまで使われるのは異例です。米軍の本土上陸を控えて泥縄式の準備に大童の中、面会どころではない、せっぱ詰まった雰囲気が窺えます。
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2014年04月18日

日米開戦を突破した最終便

憲兵隊.JPG憲兵隊-2.jpg日米開戦直前の1941(昭和16)年10月31日、アメリカ・サンフランシスコの邦人から静岡県に宛てた船便による封書です。

表面に「比島憲兵隊検閲済」の紫色角印が押され、和文「大日本憲兵隊検閲済」と英文「検閲による開封検査済み」が赤色印刷された封緘紙で再封されています。近年のヤフオクでの落札品です。

日本を遠く離れた比島(フィリピン)にどうしてこの封書が行ったのか。紛来でしょうか? だとすると、日本の憲兵隊が検閲したという意味が分からない。日本軍に押収されたとしても、なぜにフィリピンで?

実はこれと受取人が同じ「兄弟エンタイア」が荻原海一氏によって、既に発表されています。同氏の「龍田丸第一次引揚船の郵便物」(「切手研究」第431号=2006年4月)を参考に、解明を試みます。

1941(昭和)年7月に日本軍が南部仏印進駐を始めると、南方侵略具体化の第一歩と見た米政府は直ちに日本資産凍結、石油禁輸の経済制裁を発動しました。日本政府は北米航路の船舶が拿捕されることを恐れて8月4日に航行中の全船に日本帰港を命じ、この航路はストップしてしまいます。米西海岸諸港には日本宛て郵便物が大量に滞留しました。

米側にも荷役拒否など対処を誤った責任があったため、米陸軍が客船プレジデント・グラントを徴用し、日本向け郵便物を輸送することになります。日本近海や中国沿岸を廻る通常ルートだと、逆に日本によって拿捕される危険があります。これを避けるため南太平洋経由のコースが採られました。ハワイかマニラで郵便物を降ろし、第三国の船などで日本に運んでもらう目算です。

プレジデント・グラントは41年11月9日にサンフランシスコを出港しました。11月16日ハワイ到着・出港後、大きく南下してオーストラリア・ニューギニア間に迂回し、12月4日に無事マニラに到着しました。郵便物は結局マニラで陸揚げされ、マニラ局で一時保管されました。

直後の12月7日(日本時間では8日)、ついに日米は開戦し、日本軍機のマニラ攻撃が始まります。プレジデント・グラントは危機一髪で12月11日にマニラを脱出し、シドニー経由で42年2月にサンフランシスコに帰り着きました。

プレジデント・グラントの次に、米海軍徴用船リパブリック(米陸軍徴用船プレジデント・ブキャナンを改名)が11月21日、やはりマニラをめざしてサンフランシスコを出航しました。フィリピン防衛強化の兵員・兵器輸送が主目的です。

リパブリックはハワイを11月29日に出帆した後、開戦を知ってフィジーに避難するなど右往左往の末、12月22日にオーストラリアのブリスベーンに入港しました。兵員などを降ろし、シドニーを経て帰航しています。リパブリックにも日本宛て郵便物が搭載されたと思われますが、目的は達せられません。結果的に、プレジデント・グラントが極東への最終便となりました。

さて、この封書ですが、通信文が残っていて、「只今の所日米間には船便はなきが、支那を廻りて手紙が米国へ来る故、御手紙下され度……」とあります。プレジデント・グラントの出航を知り、通常航路の上海経由で日本に届くと考えて発信したのでしょう。

フィリピン攻略とその後の守備を担当した第14軍参謀長が42年8月30日、陸軍次官にマニラ局保管のこれら郵便物の処理について指示を求めています。「戦前米国より日本及び支那並びに仏印向け郵便物の行嚢2,089個が留置されている」とあります。この封書もその内の1通だったに違いありません。

この回答として、9月8日に陸軍省から第14軍に「全部を東京中央局軍事郵便課に送付するよう」指示が出ています。これらの文書はいずれも防衛省防衛研究所資料にあります。アジア歴史資料センターのネット公開文書の中からGANが発掘しました。

郵便物はマニラで第14軍憲兵隊の開封検閲を受け、42年末ごろ東京に着いたのでしょう。当時の郵趣誌「切手文化」43年3月号に、「戦前米国からの手紙に赤色のセンサーラベルが貼られて本年1月に吉田一郎、荒井国太郎氏ら数人に届いた」との趣旨の豆記事が載っています。まさにこの一連の郵便物です。

戦前最後の米日間通信は開戦をはさむ1年3ヵ月がかりの難行苦行の果て、こうして配達されました。開戦を挟みながら実際に逓送が行われ、送達された点が貴重です。開戦により発送できずにとどまったり、対戦国に拿捕されて終戦を迎えたりした一般の抑留郵便物(SUSPENDED MAIL)とは異なる、珍しいケースと言えるでしょう。

アメリカは当時の日本を「侵略国家」と強く非難し、41年秋から冬にかけては和平交渉も行き詰まって開戦直前の状態でした。それでも米側が懸命に日本向け郵便物を届けようとした誠意は汲むべきでしょう。この封書は歴史の証人であるばかりでなく、日米郵便従業員の「努力証明」とも言うべき記念品だと思います。
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2014年04月14日

崩壊した絶対国防圏

SAIPAN-RETOUR.jpg金沢市から南洋群島サイパンに宛てた封書です。しかし、戦局の悪化で南洋に逓送されることのないまま、空しく差し出し人に返送されています。引受印は不鮮明ですが、裏面書き込みから金沢局昭和19(1944)年6月9日と推定されます。

表面に付箋が貼られています。「本郵便物ハ送達不納(不能の誤り)ニ付差出人ニ返戻ス 神奈川郵便局」と謄写版印刷され、昭和19年8月16日の日付印が押されています。

この封書は神奈川局で南洋への便船を待機した後、2ヵ月ほど過ぎたこの日に差出人に宛て返送したと見られます。公表されませんでしたが、神奈川局は南洋群島との交換局でした。

サイパンは日本軍が「絶対国防圏」と位置付けた戦略上の最重要拠点の一角でした。米軍はそこに狙いを定め、44年6月11日から空襲と艦砲射撃を繰り返し、15日に上陸を始めました。激戦の末、サイパン守備隊は7月7日に玉砕します。グアム、テニアンも相次いで陥落しました。

これらマリアナ諸島を奪われると、日本本土は航続距離の長い米陸上爆撃機の攻撃に直接さらされます。事実、B-29重爆撃機の本土空襲基地となり、米軍の翌45年3月の硫黄島占領まで使われました。広島・長崎への原爆投下機もテニアンから発進したことで知られます。

中部太平洋での絶対国防圏の崩壊は、太平洋戦争が「日本敗戦」と決まったことを意味します。衝撃で、開戦以来の東条英機内閣も崩壊しました。大局を理解できない大本営は、今度は「本土決戦」「一億玉砕」を呼号するに至ります。

荻原海一氏『南洋群島の郵政始終』(「切手研究」第395-398合併号)によると、サイパン局は6月13日の艦砲射撃によって局舎が全壊し、局員は各自退避しました。逓信省は7月18日、大本営の「サイパン玉砕」公表に合わせて「サイパン局の一時閉鎖」を内牒しています。しかし、事実上のサイパン局閉鎖(廃止)日は6月13日が妥当でしょう。

この封書は内牒から1ヵ月近くも経った後に返戻されています。その理由は分かりません。サイパン奪回作戦が行われ、局も再開できるという、はかない望みがつながっていた期間と考えるべきでしょうか。
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2014年02月27日

厚生省創設の留守宅通信

HIKIAGE.jpg戦争が終わって内地に帰国して来る引揚者・復員兵のための「留守宅通信」のはがきです。戦後の社会史、郵便史を物語る極めて興味深いアイテムとGANは考えています。

留守宅通信は1946(昭和21)年6月に厚生省の外局の引揚援護院が創設しました。逓信当局ではない官庁が立案した郵便システムとして、極めて異色の存在です。

逓信省(正確には46年7月以前は逓信院)の省令・告示類にこの留守宅通信は表れていません。郵便法令を変更するものではなく、現業の郵便官署の郵便取り扱いを著しく変えるわけでもなかったからと思われます。

当時の日本内地は戦争中の空襲被害や疎開、食糧難などが重なって、居住環境が崩壊していました。旧植民地や戦地からの帰国者がまず知りたい情報は「留守宅の所在」「家族の安否」です。これに応えようと、引揚当局が考案したサービスでした。

外地からの引揚者を待つ留守家族は、引揚者宛ての手紙を上陸が予想される地の引揚援護局気付であらかじめ出しておく。引揚援護局は通信を都道府県別・氏名別に整理し、名簿を調製しておく。引揚者は引揚援護局で名簿を閲覧し、自分宛ての手紙があれば受け取る――という仕組みです。

この制度の最もユニークな点は、郵便物の不特定期間保管と、不幸にも受取人が現れなかった場合の処置にあります。援護院の後身の厚生省引揚援護局は、ソ連抑留者が最終帰国した1958年末、残された53,700通に付箋を貼り差出人に返却しました。それまでも含めた返却総数は約20万通で、受付総数の半数にも達しています。

通常の郵便物は、宛先(この場合は各引揚援護局)に配達した段階で郵政当局の逓送義務は完了します。時に転送・差出人戻しもありますが、それは配達直後だけです。局留めにしても1ヵ月程度で返却されます。留守宅通信の場合は、それを最大で12年後に行いました。空前絶後の保管・返却例ではないでしょうか。

さて、このはがき(画像=クリックで拡大できます)は東京・牛込局で昭和23(1948)年10月8日に引き受けられています。差出人が「引揚者通信」と書き込んでいますが、そういう言い方もされたのでしょう。返戻付箋はなく、付けられた形跡もないので、受取人は無事に帰国し、このはがきを受け取れたと思われます。はがき下部の数字「1542」は、保管整理のための一連番号です。

アドレスの「北方派遣 摧」は南千島守備の第89師団を表し、「第12647部隊」は混成第3旅団通信隊(択捉島)を意味する符号です。この受取人は、北海道が目前というのに遠くソ連に連行され、抑留の苦難をなめ尽くしての生還だったことでしょう。

MIYAO.JPG追記(2015.07.22) この留守宅通信はがきの受取人が発信した軍事郵便がネットオークションに出品されているのを偶然見つけ、落としました。今日到着し、2通の郵便物が敗戦・抑留・帰還をはさんで「再会」を果たしました。

二つのはがきを見比べると、留守宅通信の発信者は本人(軍人)の妻のようです。一方の軍事郵便は昭和19(1944)年10月24日に配達されていて、受取人は本人の妻ではなく妹と見られます。

軍事郵便と留守宅通信ともにアドレスの部隊名は同じ混成3旅団通信隊ですが、部隊通称号が独立混成43旅団(奇)から89師団(摧)に変わっています。この間に部隊の編合があったことが分かります。
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2014年02月15日

空襲時の配達停止特例

KUSHU.jpg今から70年前の1944(昭和19)年2月17日、サイパン。開戦以来聯合艦隊最大の前進根拠地のこの環礁は、米空母艦載機の急襲を受け一挙に壊滅してしまいます。米軍は南洋群島の日本軍守備隊を次々と全滅させ、B29爆撃機の発進基地を整備して日本本土への戦略爆撃(という名の無差別大量殺戮)を始めました。「サイパン大空襲」は日本敗戦への最終章の幕開けとなります。

「本土決戦」が秒読みに迫る中、当局は45年1月17日に運輸通信省令第2号で「戦時、事変、又ハ非常災害時ノ郵便物取扱措置」を定めました。ここでいう「非常災害時」とは、「空襲を受けて大混乱に陥った時」の官僚語です。この中で(空襲時には)隣組に一括配達したり窓口交付できることにしました。史上初めての政府の信書配達責任放棄です。

ここに示す「郵便物交付証」(画像=クリックで拡大できます)は、三重県津郵便局が省令に基づいて大口利用者に渡したと見られる、窓口交付を受けるさいに示す証明書です。はがき大の厚紙を二つ折りし、「本証提示により交付されたる郵便物は正当宛所に配達したるものと看做します」と謄写版印刷されています。受取人の「岡三商店」は津市で創業した今日の岡三証券会社の前身です。

恐らく全国大都市の郵便局では、あらかじめこうした措置が取られていたのでしょう。窓口交付は局前にその旨を掲示するだけで実施できる決まりなので、文書記録としては残りません。郵便物交付証の存在はこれまで他の例を見ませんが、空襲下の郵便事情を物語る興味深い資料だとGANは考えています。

津市は45年3月以降7度もの空襲にさらされ、とくに7月28日には市街地のほとんどが焼失しています。この交付証にも出番があったかも知れません。ただ、郵便物自体に特段の表示は求められませんでした。エンタイア上での証明は難しそうです。

一方、「隣組一括配達」については、それと思われる表示をした郵便物があります。機会があれば、またご紹介したいと思います。
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