2017年06月30日

幌筵島の陸地測量部員

幌筵.jpg幌筵-2.jpg陸軍参謀本部の下部機関である陸地測量部の測量要員が1913年(大正2)に北千島北端の幌筵(ほろむしろ=パラムシル)島から発信した紫分銅はがきです。近年のネットオークションで入手しました。

ありがたいことに、現在ではこの陸地測量部員の行動が、かなりの程度解明できます。アジア歴史資料センター(JACAR)がネット上で公開している膨大な資料の中に、断片的ながら記録した文書が残されているからです。

明治末から大正時代にかけて、海軍は毎年春から夏に樺太や千島に軍艦を派遣してラッコなどの密猟を取り締まるかたわら、水路の測量や北洋情勢の調査などを続けていました。大正2年度は幌筵島沿海部の水路測量で、2等海防艦「大和」(初代、1,480トン)を派遣する計画でした。

これを知った陸軍も幌筵島の地形測量を計画、陸地測量部の技師らの便乗派遣を海軍側に申し入れて承認されました(大正2年3月24日付海軍次官発呉鎮長官・水路部長宛「千島国幌筵島測量ニ関シ軍艦便乗ノ件」)。陸地測量部の目的は、空白状態の北千島各島の地形を三角点測量し、縮尺5万分の1地形図などにまとめることでした。

「大和」は6月2日に根室に2回目の寄港をしたさい、陸地測量部チーム68人と60トンの測量器財をピックアップし便乗させました。8日に出港し、6月12日に幌筵島に入港して部員らを降ろし、6月15日には千島列島最北端、カムチャツカ半島と向き合う占守(しむしゅ)島に着きました。これを含め、9月下旬に任務を終えて帰投するまでの間に根室-占守島間を3往復しています。

このはがきの差出人は「地形科附」とありますから、2人の測量士を補佐する11人の測量手のうちの1人ではないかと思われます。幌筵到着3日後の6月15日に書かれた安着を知らせるはがきは幸便を待ちましたが、いっこうに北海道に向かう船が来ません。結局、一時帰航する「大和」に搭載されてようやく7月25日に根室に着きました。

北千島に日本人が入り、越冬施設も出来るのは北洋漁業が盛んになる大正中期以降のことです。この時代は郵便機関など影すら見えません。幸便に恵まれなかったこのはがきは、40日もが過ぎてから初めて根室局で正式に引き受けられました。千葉県の宛先に届いたのは7月末でしょう。1ヵ月半もの「超長旅」です。

海軍は「大和」乗員や便乗者宛ての郵便について、大正2年4月19日付「海軍公報」で、「5月1日以降は根室局に宛てるよう」指示しました。このはがきの発信アドレスもそれに従っています。実際に「大和」は4月7日に所属する呉軍港を出て根室を5月5日に出港、占守島に向かいました。根室局に溜まる「大和」宛て郵便物は幸便頼みだったでしょう。

これらの経緯から、このはがきは軍艦利用の海軍連絡ルートに乗った陸軍軍人の通信と分かります。北千島郵便史の前史を物語る得がたい資料と思います。
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2017年06月08日

山海関事件の占領部隊

山海関02.jpg山海関01.jpg満州事変の末期に起きた「山海関事件」の当事者と思われる人物が事件直後に発信した軍事郵便はがきです。ヤフオクで落とし、今日届きました。

発信アドレスは「山海関警備隊本部に於て」ですが、裏面通信文に「天下第一関を三日占領接収、本夜帰錦予定なり」とあります。山海関に近い「満州国」錦州(錦縣)に駐屯していた部隊の幹部で、山海関占領に当たった後、帰営するという知らせでしょう。山海関警備隊は関東軍が占領地に新設した部隊です。

山海関は中国河北省の最北東端、万里長城が渤海湾に没する地点で長城南壁に接した交通の要衝です。1933(昭和8)年1月1日に日本の北支駐屯軍山海関守備隊と現地中国軍との間で小規模な軍事衝突が起きました。局地解決のつもりが満州国内から関東軍部隊が応援に駆けつける本格的戦闘に発展し、日本軍は海空からも攻撃を加えて1月3日に山海関を占領してしまいます。

この山海関事件は日本だけでなく国際社会に大きな衝撃を与えました。当時は国際聯盟から派遣されたリットン調査団が「満州事変は日本の侵略行動か」を現地調査し、報告書が提出される直前だったからです。中国東三省(いわゆる「満州」)にとどまらず本土の都市まで攻撃・占領する日本軍の侵略性が明らかとなりました。

事実、関東軍は事件直後の2月に熱河作戦を発動して熱河省全部を満州国の版図に組み込みます。続いて起こした関内作戦では一斉に長城線を越えて華北一帯に侵攻し、北平(北京)-天津を結ぶ線のすぐ手前まで迫りました。やむなく中国軍は5月31日に関東軍との間で塘沽停戦協定を結びます。中国が武力に屈服させられた形で満州事変が収束しました。

山海関事件は関東軍による満州支配を確実にさせ、日本政府や国際聯盟にさえあった宥和的な解決策を崩壊させる「最後の一撃」への引き金となりました。以後、日本は国際聯盟脱退-日中戦争-太平洋戦争-敗戦に至るレールに転がり込みます。このため、事件は突発でなく日本軍内部の謀略だったとする見方もあります。

山海関-L.jpg山海関-L2.jpg前置きが長すぎました。このはがきは満州国郵政の大型丸二印で大同2(1933)年1月19日に引き受けられています。「山海関」と入るべき印影下部は空欄のままです(左図の左)。入れ忘れたのでしょうか。突発的な開設に局名部の印材製作が間に合わず、空白のまま使用開始したとGANは見ます。

満州国は中国山海関郵局を接収して1月13日に山海関臨時郵局を開設しました。占領からわずか10日後のことです。外国領土内への開設可否の検討、その決定、要員・資材の手配、現地への送り込み、局舎の準備などと慌ただしい中、日付印だけ間に合ったとはとうてい思えません。予備の資器財は何とか回せても、局名印材は発注手続きをするのがやっと、が実情だったでしょう。

ところが、『切手趣味』第7巻第5号に藤堂太刀雄(戸田龍雄)氏が開局当日・大同2年1月13日印の官白を発表しています(上図の右)。しかし、情報を得てから満州国郵政当局に郵賴し、それが開局に間に合うよう現地に届くわけがありません。日付を遡って後日に作成した「記念押印」でしょう。やはり、実際には開設直後のこの局は局名なしの日付印を使っていたと思われます。

この印影の「奉天省」はもちろん虚偽で、山海関の所在地は中国本土の河北省です。満州国郵政は外国地名を表示するわけにもいかないし、中国局と誤認・混同される恐れも生まれます。隣接する自国の行政地名で当面を糊塗したのでしょう。あるいは局名が空白なのも、「山海関」局としてよいか迷いがあり、「表示出来なかった」が意外な真相だったりするかも知れません。

じっさい、1935年に中国と通郵協定を実施するさいに局名「山海関」は「南綏中」と改称されています。綏中は山海関近くの満州国内に実在する地名で、「綏中の南」を意味するバーチャル地名が考案されたのです。他に、大型丸二印時代の似たケースとして「熱河省」の南灤平(古北口=河北省)、「興安省」の多倫(察哈爾省)局があります。
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2017年02月28日

鄭家屯事件の出動部隊

四平街2.jpgこの分銅はがきは1916(大正5)年夏に満州で起きた「鄭家屯事件」によって派遣された歩兵第41連隊第10中隊の兵士が発信しました。大正6年の年賀状として「四平街2」局で年賀特別取扱によって引き受けられています。

鄭家屯は満鉄本線の四平街駅から西北方へ約80キロも離れた東部内蒙古と呼ばれる地方の小都市です。16年8月13日に在留日本民間人が中国警官に暴行されるという小さなトラブルが事件の発端でした。

日本領事館警察の警官と日本軍守備隊の兵士が抗議して騒ぎになります。中国軍第27師と28師の大部隊によって守備隊の兵営が包囲され、戦闘の中で日本兵11人が戦死する大事件に発展してしまいました。

関東都督府(関東軍の前身)はただちに増援隊として公主嶺守備の歩兵41連隊から第3大隊を派遣しました。大隊は8月18日に鄭家屯に到着しますが、幸い事態は既に沈静化し、新たな衝突は起きませんでした。この事件では中国側(張作霖軍)が全面的に非を認めて解決したため、大隊は翌17年4月18日に公主嶺に帰還しました。

鄭家屯事件自体は偶発ですが、背景には蒙古の独立運動家パプチャップ(巴布扎布)が日本の「大陸浪人」川島浪速らと結託して挙兵した「満蒙独立運動」がありました。パプチャップ軍は当時、四平街北方の満鉄線郭家店駅付近まで進出、占領していました。鄭家屯の中国軍は、抗議に来た日本守備隊の兵士らをパプチャップ軍の襲撃と誤認して攻撃したようです。

日本は第1次大戦中、中国(袁世凱政権)に迫って悪名高い「21箇条要求」を承認させ、関連して1913年(大正2)10月、日本の借款で建設する「満蒙五鉄道協約」を結びます。その一つの「四平街-鄭家屯-洮南鉄道」計画線で、鄭家屯は重要な通過地点でした。

関東都督府は1914年10月以来、鄭家屯に中隊規模の守備隊を配置しています。満鉄沿線から遠く離れたこんな地点に、なぜ日本軍が進出できたのかは不明です。あるいは、この四洮鉄道計画との関連で、中国側実力者の張作霖と密約でも交わして認めさせていたのかも知れません。

話が後回しになってしまいましたが、このはがきの引受局「四平街2」とは、四平街局鄭家屯分室のことです。中国側には秘密のいわゆる「秘密局」で、鄭家屯事件から2ヵ月後の1916年10月20日に日本領事館内に開設されました。前後の事情から考え、この事件を機に軍隊の利用を主目的に開設されたことは間違いありません。

鄭家屯分室は増援部隊の撤退後も活動を続けますが、1922(大正11)年末の在中国局全面閉鎖のさいに撤廃されます。その間、毎月15回(隔日)という頻度で四平街本局との間で逓送が行われていました。ただ、取り扱う郵便物は軍隊や領事館宛てに限り、それ以外は中国局経由とされました。「四平街2」印が押された郵便物のほとんどが軍隊関係者なのはこのためと思われます。
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2017年01月28日

関特演に動員の2師団

基.jpg奥.jpg「関特演」とは「関東軍特種演習」の略称です。独ソ戦が1941(昭和16)年7月に突発したのに便乗し、関東軍はかねてからのソ連侵攻計画を実行に移します。

兵力を倍増する大動員を行い、秘匿のため「演習」と呼びました。しかし、この作戦は独ソ戦が膠着状態に陥って、結局中止されます(2016年5月31日記事参照)。

関特演で内地から2個師団が動員され、満州に派遣されました。この2枚のはがきは動員された第51師団(宇都宮)と第57師団(弘前)の兵士が故郷に宛てて発信したものです。最近のネットオークションで入手しました。共に「満洲国」の官葉が台はがきとして使われていますが、偶然です。

左のはがきの発信アドレスは「満州基第2805部隊」とあります。「基」は「通称符」と呼ばれる一種の暗号で51師団を、また「第2805部隊」は捜索第51連隊を表します。51師団は41年8月22日に満洲国西南部の綏中に着いた後、太平洋戦争開戦準備のため9月23日に華南に向け転進しています。満州に駐屯したこのわずか1ヵ月間に発信されたことが分かります。

右のはがきのアドレス「満州奥第7221部隊」の「奥」は57師団の、「第7221部隊」は野砲兵第57連隊の意味です。この師団は黒竜江を隔てたソ連北正面第一線の黒河周辺に配備されました。野砲57連隊の駐屯地は山神府でした。軍事郵便には珍しく「(昭和)16.9.30」と発信日付が明記されています。

アドレスの「基第2805部隊」や「奥第7221部隊」といった表記は陸軍用語で「通称号」と呼ばれ、正式な部隊名や部隊行動を秘匿するため太平洋戦争期に全面的に使われました。その軍事郵便での使用開始がこの関特演だとGANは考えています。つまり、これらのはがきは通称号使用例の第1号なのです。

関東軍は基本的には通称符を採用せず、「満州第○○部隊」と数字2、3桁の部隊番号だけで通しました。しかし、関特演で動員した部隊に限っては、いわば例外的に通称符を使いました。部隊名秘匿の度合いを強化したつもりだったと思われます。結果的に、関東軍の実際の軍事郵便で通称符が使われている例はわずかです。

動員された両師団はその後、大きく明暗を分けます。51師団はソ連侵攻計画中止によって華南に転用され、1年後に更にラバウルに再転用されます。ニューギニア戦線に向かった直後の43年3月に「ダンピールの悲劇」と呼ばれる輸送船団壊滅(ビスマルク海海戦)で大部分が海没し、生存者も悲惨な飢餓の中で敗走を重ねて全滅状態で敗戦を迎えました。

一方の57師団各部隊は山神府、泰安など黒竜江南岸に展開して平穏な駐屯を3年半続けた後、「本土決戦部隊」として45年4月に内地に転用されました。福岡県北岸で防衛陣地構築中、無傷のまま敗戦となります。満州駐屯を続けていたら、8月のソ連軍侵攻による第一撃で全滅を免れなかったでしょう。そのわずか4ヵ月前の離脱が命拾いになりました。
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2016年05月31日

「関特演」の無料軍事郵便

寺洞-1.jpg寺洞-2.jpg朝鮮・平壌郊外の寺洞局で1941(昭和16)年12月に引き受けられた無料軍事郵便です。最近のネットオークションで入手しました。太平洋戦争の軍事郵便でしょうか。いや、太平洋戦争中、朝鮮に無料軍事郵便が適用された事実はありません。では……? 

これこそがいわゆる「関特演」、関東軍特種演習の軍事郵便です。引受印は「平南(平安南道)・寺洞 16.12.29」。寺洞は平壌の南東(内陸側)郊外の地名で、平壌からは平壌炭坑線二つ目の寺洞駅が利用できます。発信アドレス「岩部隊」の「岩」は部隊長の姓なのでしょうが、実際の部隊名は不明です。あるいは、平壌駐屯の第20師団歩兵第77連隊かも知れません。

「関特演」は、1941(昭和16)年7月、独ソ戦初期のドイツ軍優勢の状勢に便乗してソ連に侵攻(開戦)する目的で満州の関東軍を増強した動員のことを言います。侵攻企図をソ連に知られると、逆にソ連から攻撃を受けるリスクが避けられません。絶対極秘とするため、「演習参加のための動員」に偽装されました。

動員開始後、戦況は次第にドイツ軍不利に転じたため、41年8月9日に年内の対ソ開戦は断念されます。しかし、陸軍は太平洋戦争の動員と併行してさらに関特演を42年初めごろまで続け、100万人を誇る「精鋭関東軍」に仕上げます。

関特演は戦争ではないので、軍事郵便開始の告示はありません。従って「関特演の軍事郵便」は存在しないと、これまで考えられてきました。しかし、関東軍に対しては満州事変以来、軍事郵便が適用され続けていました。満州事変や日中戦争での動員部隊が朝鮮や関東州に上陸すると軍事郵便が適用されていた事実もあります。

関特演では朝鮮の第19(羅南)、20(京城)師団も41年7月7日に動員されました。両師団とも東部正面の攻撃部隊に加わってソ連・沿海州の南部ウスリー地区に侵攻する計画でした。実は、19師団には1918(大正7)年のシベリア出兵で、この作戦を実行した経験があります。

それが開戦延期-待機と事態は推移し、「出動できない動員部隊」と臨時編成されたその留守部隊とが兵営内で同居する珍事が起きてしまいます。最終的には両師団の動員が解除され、平時の駐屯態勢に戻りました。

このはがきはそうした待機期間中、「動員部隊無料」としての軍事郵便と考えられます。文面に「実は長い間通信止めの為、心ならずも今日迠延引致して居りました」とあります。20師団の正確な動員解除時期は不明(恐らくは41年末)ですが、それを見越して7月以来続けられた通信封鎖が解除されたのでしょう。

同一人の通信が10数点残されており、1942(昭和17)年1月12日以降はすべて楠公はがきが使われて有料です。関特演で動員されたほとんどの部隊は満州に到着して駐屯していますが、朝鮮の19、20師団だけは動員解除されて平時態勢に復帰しました。復帰後は軍事郵便も適用廃止となったと考えられます。このはがきは通信再開許可後、動員解除となるまでごく短期間だけの希少な使用例と思います。
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2016年03月22日

「張郭戦争」へ干渉部隊

「張郭戦争」は、1925(大正14)年11月に満洲の奉天軍閥内部で起きた争乱です。軍閥の頭目・張作霖に対し、部下の郭松齢が反乱を起こしたのですが、関東軍が軍事干渉して反乱をつぶしてしまいました。郭が孫文らの国民政府に同調し、その統治が満洲に及ぶのを恐れたためです。

郭松齢は奉天軍第10軍の軍長でしたが、11月23日に山海関東方の灤州で「東北国民軍」を名乗って張作霖打倒を宣言します。この名称は中華民国国民政府(広州、南京)中央軍の「国民軍」との連携を表します。5万の郭軍は12月5日に連山で奉天軍を破り奉天に向け進撃しますが、営口に入市する直前、関東軍に阻止されます。

奉天軍はその間に満洲各地から15万の兵力を集めて態勢を立て直し、12月22日に遼河河畔の会戦で郭軍を敗走させます。争乱はわずか1ヵ月、しかも満洲南西部の局地だけで収まりました。一時は下野、敗死まで覚悟した張作霖は、捕らえた郭と妻を直ちに銃殺してしまいます。関東軍(と日本政府)が望む軍閥との二重支配は安泰でした。

その関東軍はわずか2年半後、満洲支配をさらに強めるため、いったんは救った張作霖を謀略に掛けて暗殺してしまいます(「満洲某重大事件」)。郭の反乱は失敗し、事件が短期間に終わったので世間に余り知られていませんが、1931(昭和6)年に起こる満州事変の伏線の一つと言えます。

日本政府はこの事件で、朝鮮と日本内地から関東軍への増援部隊を派兵しました。朝鮮軍の第20師団(竜山)で満洲臨時派遣歩兵大隊が、内地の第12師団(久留米)で満洲派遣混成第1旅団が編成されます。それぞれ25年12月17日、19日に奉天に到着し、奉天から長春の間の満鉄沿線主要地で警備につきました。

長春-2.jpg長春-1.jpgこの分銅無銘はがきは大正14(1925)年12月21日の長春局引受印があります。長春に配備された直後の混成第1旅団第2大隊の兵士の発信です。有料で、発信アドレスに「満洲派遣隊」と表記されているのが特徴です。筆者は朝鮮からの派遣部隊のエンタイアは未見ですが、「満洲臨時派遣」の肩書きがあるかも知れません。

一方、関東軍本来の駐屯部隊(当時は第10師団)はアドレスを「南満洲奉天駐箚」とか「満洲長春守備」などと表記しています。「満洲派遣」という表記はこの当時ほかでは使われず、張郭戦争の増援部隊であることがはっきりと区別できます。使用例はわずか1ヵ月足らずです。6年後の満州事変初期には多用されますが、そちらは無料です。

張郭戦争の終結からしばらくして、内地と朝鮮からの増援部隊は翌1926年1月中旬に満鉄沿線の警備地からすべて撤退しました。混成第1旅団は1月19日に下関に上陸・帰還しています。
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2014年05月28日

最初の朝鮮駐屯日本軍

KEIJO-1.JPGKEIJO-2.jpg日清・日露戦間期に朝鮮(韓国)に駐屯した日本軍兵士が漢城(日本人のいう「京城」、現在のソウル)から発信した封書です。

日本は日清戦争が終わった1895(明治28)年以後も、本来は撤兵すべき軍隊の一部を朝鮮に残留させました。

戦争中に架設した軍用電信線と居留日本人の保護が名目です。将来、朝鮮を日本の保護国とする遠大な狙いが秘められていました。

朝鮮駐劄軍司令部編『朝鮮駐劄軍歴史』によると、部隊は歩兵1個大隊を主力に、電信隊、憲兵隊、病院がありました。歩兵大隊本部と2個中隊、病院を漢城に置き、釜山、元山に各歩兵1個中隊が派遣されました。

翌96年5月に朝鮮支配を強めていたロシアとの間で交わした「小村・ウェーバー覚書」で、これら日本軍部隊の朝鮮駐屯が追認されました。当の朝鮮政府は知らない、帝国主義国間の頭越しの「談合」です。

1903(明治36)年12月、漢城に韓国駐劄隊司令部が設置され、各部隊を統一指揮することになります。間近に迫った日露開戦をにらんでの布石でした。事実、駐劄隊は開戦直後に日本からの臨時派遣隊と合流して漢城を占領し、日本軍展開の基礎を固めます。以後、韓国駐劄軍、朝鮮駐劄軍、朝鮮軍と改称され、1945年の日本敗戦まで存続しました。

この封書は菊3銭を貼った有料の普通便として、韓国・京城局で明治34(1901)年8月13日に引き受けられています。差出人は京城駐劄隊(第1中隊)の兵士です。当時の韓国は独立帝国ですから、この京城局は日本の在外局の性格です。

韓国駐劄隊はその前身の歩兵大隊から通算して8年間続き、平時の外国に継続して駐屯した最初の日本軍部隊となりました。日本が朝鮮を植民地支配する前史として、この封筒は重要な意義を持つ史料と考えています。
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2014年02月18日

山海関I.J.P.A.とはどこ?

SHANHAIKWAN.jpg「SHANHAIKWAN(山海関)I.J.P.A.」の日付印が押された紫分銅はがき(画像=クリックで拡大できます)です。日付の「21.4.12」は1912(明治45)年4月21日を意味します。差出人は京奉鉄道(北京-奉天間)山海関方面を警備していた歩兵33連隊第Ⅲ大隊の兵士です。前年末からの孫文らの辛亥革命による混乱から日本の鉄道利権を守るため内地から増派されていました。

山海関局(正確には天津局山海関出張所)の日付印はSHANHAIKWAN「I.J.P.O.」でした。では、この「I.J.P.A.」はどこに開設された局所でしょうか。第Ⅲ大隊は山海関、秦皇島、湯河、昌黎、灤州に分散配置されていました。候補地は山海関以外の4ヵ所のいずれかと思われます。

これまではSHANHAIKWAN I.J.P.A.というと、山海関局灤州出張所だ、というのが通説となっていました。西野茂雄氏が『外信印ハンドブック』(1985、日本郵趣出版)でそう発表したからです。しかし、これは明らかな間違いです。

山海関自体が出張所なので、その出先も同格の出張所ということはあり得ません。そもそも「灤州出張所」などという局所は記録上で存在しません。あるのは「山海関出張所灤州出張扱」という、中国側に対して秘密に行われた定期的な郵便事務の出張取扱だけでした。

当時の逓信省の内牒を調べると、次の記録があります。
 1、明治45年3月 灤州、昌黎、湯河に山海関出張所員が定期出張し郵便取扱開始
 2、明治45年3月 山海関出張所秦皇島分室を開設
 3、明治45年7月 秦皇島分室を閉鎖し、出張取扱に切り替え
 4、明治45年7月 北戴河に出張取扱開始
 5、大正3年11月 昌黎、北戴河、湯河の出張取扱を廃止
 6、大正11年12月 山海関出張所廃止、秦皇島、灤州の出張取扱を廃止

 この記録からだと、「SHANHAIKWAN I.J.P.A.」の第1候補は秦皇島分室と言えそうです。しかし、ことはそう簡単ではなく、分室閉鎖後の一時期にも「SHANHAIKWAN I.J.P.A.」の日付印が使われた事実があります。第2候補として、灤州、昌黎、湯河の3出張取扱で同一のI.J.P.A.印を使った可能性もないわ けではありません。しかし、他局の出張取扱ではI.J.P.A.印の使用例は知られていず、使われた形跡もありません。

これまでにGANが調べて分かったことは、おおむね以上です。まあ、何から何まで全部いっぺんに知ってしまうのも面白くありません。ナゾ解きは宿題とし、今後のお楽しみに残しておくの、また良いのではないでしょうか。
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2014年02月05日

青島局の海軍有料使用例

TSINGTAU.jpg第1次大戦終了後、中国山東省・青島に入港中の第1艦隊巡洋戦艦「金剛」の乗組員が発信した分銅はがきです。日本の青島局機械印「青島 11.6.26」で引き受けられています。最近入手しました。

大戦後の世界秩序を調整するワシントン会議に参加した日本は、アメリカと巧みに組んだ中国に大きな譲歩を強いられます。山東省からの撤兵と施政権返還、在中国外国郵便局の撤廃もその一つ。隣国の日本は他国に比べ断トツに多い42もの郵便機関を置いていました。世界情勢の流れを解読できなかった日本外交の完敗です。

日本はドイツ領膠州湾租借地を攻略した余勢でドイツ資本の膠済鉄道(山東鉄道)まで占領します。沿線に駐屯する青島守備軍の兵士には無料軍事郵便が適用されていました。1921(大正10)年4月、撤兵のための兵力縮小を機に無料軍事郵便は廃止されます。残存した少数の部隊は月に2枚の軍事切手制度に切り替えられました。

これ以前、青島に入港する海軍の艦船は青島野戦局や後身の青島局を通じて無料軍事郵便を利用できていました。しかし、以降は青島局で切手やはがきを買って普通郵便として差し出さなければなりません。

もともと艦船の入港は少ないのに、有料となったうえ、さらに22年12月には青島局自体が廃止されます。故に、機械印は別に、このような有料になってからの海軍の青島局使用例は極めて少ないであろう、ウォッホーン。GANだけの密かな逸品です。
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