2017年08月31日

興亜院にも軍事郵便扱い

中国・青島の興亜院出張所から北京駐在の日本海軍武官に宛て、第3海軍軍用郵便所(青島)で昭和14年(1939)年5月1日に引き受けられた公用航空書状です。青島-北京間の軍用定期航空でひと飛びしたのでしょう。近年のヤフオクで入手しました。

興亜院表.jpg興亜院裏.jpg
発信者の「興亜院」は聞き慣れない名前ですが、れっきとした日本政府の機関です。中国の日本陸海軍占領地での軍政を一本化して政経、文化工作に当たり、日本官民による開発事業を統制するなどの目的で1938年12月に設立されました。総裁は首相、副総裁は陸、海、外、蔵の4大臣の兼任とされました。中国侵略を本格的に企画するための露骨な中央組織です。

興亜院は実務に当たる出先機関として、華北(北京)、蒙彊(張家口)、華中(上海)、厦門に連絡部を置き、さらに青島に華北連絡部の出張所を設けました。連絡部の主要職員はほとんどが陸海軍将校で、長官は中・少将クラスでした。陸軍と海軍の利権漁りの場ともなり、華北、蒙彊は陸軍が、華中、厦門と青島は海軍がポストを独占し、「縄張り」にしていました。

この書状については根本的な問題があります。職員の多くが軍人とは言え、トップに文民の首相を頂く一般官庁なのに、なぜ無料軍事郵便扱いだったのでしょうか。職員のほとんどがエリート将校だった陸・海軍省でさえ軍事郵便は適用されていません。この書状も中国郵政に託し、中国切手で料金を支払うべきものではなかったのでしょうか。

逓信当局は日中戦争から太平洋戦争の期間にかけて、いくつかの組織に限定して例外的に無料軍事郵便の適用を認めていました。この興亜院がその一つで、ほかに占領地の大公使館・領事館などの在外公館や船舶運営会なども適用を受けました。ただし無料軍事郵便は公用の場合に限られ、それぞれの組織の所属職員でも私用で差し出す郵便はやはり有料でした。

資料集.jpg興亜院に対していつからどのような条件で無料軍事郵便が適用されたか、明確な資料は見つかっていません。ただ、郵政省が戦後、『続逓信事業史』編纂の際に集めた資料の題目をまとめた『資料目録』の第1集に「興亜院及在支帝国大使館間発着公用郵便物ノ軍事郵便取扱ノ件」(昭和15年5月23日郵業第414号)という内牒のタイトル名だけが残されています(上図)。

この内牒の内容は伝わっていないので想像するほかありません。興亜院と在中国外交公館の公用郵便を軍事郵便として扱うことに関連した事項を逓信部内に通知したのでしょう。興亜院の発足から1年半が経っているので、この内牒によって軍事郵便適用が開始されたのではなく、すでに適用されている取り扱い方法の変更に関する通達ではないかと考えられます。

やがて太平洋戦争が始まると、植民地と占領地を担当する大東亜省が新たに誕生し、興亜院はこれに吸収併合されて消滅します。短期間とは言え興亜院の公用郵便が特別に軍事郵便扱いを受けていたことは、この官庁の軍事的、侵略的な性格を鮮やかに物語っています。
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2016年12月26日

占領下アモイの電報局

KULANGSU.jpg欧文電報の受取証兼電報料金受領証です。KULANGSU局1939年10月5日の日付印で上海宛て電報を発信したことが証明されています。つい最近の東京の大手オークションで入手しました。

KULANGSUとはどこか。台湾型の欧文印が押されていますが、もちろん台湾ではありません。その対岸に当たる中国福建省厦門(アモイ)の鼓浪嶼。受領証は鼓浪嶼電報局で発給したものです。

厦門は1841年のアヘン戦争で勝ったイギリスが上海などと共に開港させ、中国侵略の第一歩とした地として知られます。厦門自体が島ですが、鼓浪嶼は本島の南西部と狭い水道で隔てられた小島です。鼓浪嶼には日本を含む列強の共同租界や領事館が設置され、植民地的な隆盛を誇りました。

現地の福建南部語で鼓浪嶼を「コーロンスー」に近く発音することから、郵便地名としてはKULANGSU(クーランスー)の表記が定着しているようです。日本人は戦前から「コロンス」と呼んでいました。

ちなみに、1922(大正11)年末の在外局廃止時まで存続した厦門日本局はコロンスにあり、本島側には水仙宮分室が置かれました。日付印「AMOY」を使ったのはコロンス本局で、分室は「AMOY 2」を使って区別しました。分室の方は条約に基づかないで開設された、いわゆる秘密局です。

この受領証は上海宛て欧文電報を賴信したことを証明しており、料金は日本通貨で「1円25銭」と表示されています。発・受信人は共に「oversea」とあります。この語を含む企業など固有名詞の略称なのか、単に「海外」を表すのか、よく分かりません。上海は海外ではないので、あるいは前者が正しいのかも知れません。

日中戦争で日本海軍は厦門を東シナ海制圧拠点の一つとして重視しました。1938(昭和13)年5月10日に陸戦隊が占領し、特別根拠地隊を開設しています。陸軍は厦門占領には基本的に関与しませんでした。陸上「援蒋ルート」の封鎖は陸軍、沿岸部は海軍の役割だからです。

海軍は厦門地区の郵便・電信業務も接収し、厦門と関係の深い台湾総督府交通局逓信部に復旧を要請しました。台湾当局は要員を派遣して7月1日に厦門での郵便を再開させます。7月25日に厦門郵局を中国郵政に移管するまでの間は台湾局の出張事務という形式で取扱いました。郵便は基隆局、為替貯金には台北局の名義を使っています。

電信電話業務は郵便より早く、厦門電話局5月30日、厦門電報局6月11日、鼓浪嶼電報局は7月1日に再開しています。この電報受領証には左欄外に小さく「昭和十三年四月新民報社納」と印刷されています。台湾の新聞社で印刷させた最新の式紙を持ち込んで使ったと見られます。

郵便とは違って、厦門、鼓浪嶼の電信電話業務は終戦時まで海軍が管理を続けました。日本海軍が華南で台湾逓信当局と組んで復旧・再開させた電信電話事業は、ほかに広東と海口(海南島)でも同様に行っています。

上記の事実関係は、主として国立公文書館所蔵の旧郵政省文書のうち「南支皇軍占拠地ニ於ケル電政施設ノ概要」、「厦門通信施設ニ関スル件」によりました。いずれもアジア歴史資料センターを通じてネットで検索、ダウンロードできます。
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2016年12月14日

華北郵政に貯金を委託

北ほ01.jpg北ほ02.jpg日本軍占領下の中国・青島郵局が在留日本人のためだけに特別に取り扱った貯金通帳です。最近の関西大手オークションで入手しました。

通帳は褐色大型で表紙に巨樹を描いた日本内地と同じ内閣印刷局製で、下関貯金支局が発行しています。貯金記号「北ほ」は華北郵政総局管内の青島郵局に口座があることを表します。預入人の住所は「青島欧陽路2号」と書かれています。

北ほ03.png受払を証する日付印も日本と同じ為替貯金用櫛型印で、A欄「青島」、C欄「北ほ」です。しかし、印色が極めて特殊で、通常の黒色ではなく朱色です。櫛型印時代では他に類例がありません。昭和18(1943)年4月1日から19年3月9日までほとんど毎月1回、1円ずつ預け入れられています。

中国局で中国人職員が扱っているのに、日付印の年号に民国年号(昭和18年=民国32年)を使わないのはなぜか。この通帳は日本逓信省が占領地の傀儡政権・中華民国臨時政府(北京)に事務委託をして1939(昭和14)年11月16日から始めた日本の郵便貯金だからです。

37年7月に日中戦争が始まると、日本軍は北京・天津地区を始め河北、山東省全域と山西、河南省の一部をたちまち占領しました。占領地に進出した日本人多数の「日本の郵便貯金に加入したい」という要望が理由とされます。中国郵政も儲匯(貯金・為替)業務を扱っていたので、二重制度になります。

ただ、上海にあった国民政府(蒋介石政権)郵政総局に対して、華北政権の華北郵政総局は半面独立・半面従属という態度でした。華北占領地で中国郵政に貯金すると、日本系貯金原資も国民政府の運営に委ねることになります。それを避ける思惑から、日本側は華北政権にこの我が侭な要求を受け入れさせた、という事情があったと思います。

39年10月19日に締結された逓信省と華北郵政総局との間の委託貯金基本協定書案が国立公文書館に残っています(「北支委託貯金 基本協定、細目打合、通知事項」)。

 1、北支記号通帳の預入・払戻事務を委託。貯金原簿は下関貯金支局で所管する。
 2、手続きは日本貯金法令に準拠。通帳・式紙類、法規文書は日本側が提供する。
 3、受払には華北流通の通貨を使い、通帳には日本通貨で金額表示する。
 4、華北通貨と日本通貨の交換レートは両者が協議して決定する。
 5、受払1口につき10銭の取扱手数料を華北側に支払う。
 6、日付印類は印影を日本側が提供し、華北側が調製。通帳には朱肉で押印する。
 7、利用者への責任は日本逓信省が負う。

この「北支委託貯金」の取扱局は当初は、北京(北い)、天津(北ろ)、済南(北は)、太原(北に)、青島(北ほ)、石家荘(北と)の6局だけでした。次第に増加し、5年後の43年11月1日現在では河北、山東、山西、河南、江蘇の各省で合計24局になっています(『大東亜為替貯金取扱局便覧』)。

協定書や前後の往復文書には「日付印は日本年号を使う」という取り決めはありません。しかし、利用者が原則として日本人に限られたことに加え、日付印の版下を日本側が用意したことからそうなったのでしょう。中国局で「昭和」年号の日付印を使用--。通帳1通が日本の占領郵政を象徴していると思います。

関連して、華北占領地で日本郵政が中国側に委託した業務としては、他に口座間送金業務の郵便振替(1941年10月1日開始)があります。為替関係では事務委託はなく、通常・電信・小為替とも中国業務として日本業務との間で取り組まれました。


さらに蛇足を付け加えます。使用済みの行政書類は国立公文書館移管が法律で義務づけられています。が、実際には郵政省関係では貯金局が所管した為替貯金資料があるだけです。それだけでも大変ありがたいことですが、残存は何かの偶然で、意図した結果とはとても思えません。その証拠に、郵便行政の本流である郵務局作成の資料が公文書館にはゼロなのです。

旧逓信省は関東大震災で全焼し、すべての書類を失いました。それでも努力して収集・復元に努めた結果、震災前も含めてかなりの量の資料が現在の郵政博物館に保管されています。これに対し、戦中・戦後の80年間だけでも膨大な分量にのぼったはずの行政書類はすべて廃棄されてしまいました。戦後から現在に至る郵政官僚たちの無能(歴史認識の欠如)と国民に対する無責任を象徴しています。
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2015年12月30日

ヒマラヤ越えの郵便ルート

成都-2.jpg成都-1.jpg日本軍の侵攻により奥地の四川や雲南省に追い詰められながら、重慶に首都を移して徹底抗戦していた時代の中国からの国際航空郵便です。アメリカに宛て、成都局で1943(昭和18)年5月4日に引き受けられています。

カバー表面に航空路線とそのキャリア(航空会社名)が指示されています。「B.O.A.C.によりカルカッタ、カイロを経てナイジェリアのラゴスへ、そこからはP.A.A.により宛先まで」とあります。

ここには書かれていませんが、成都-重慶、重慶-カルカッタ(コルカタ)の両区間は中国国内航空路線でした。世界最高のヒマラヤ山脈を越える重慶-カルカッタ線については後述します。

P.A.A.(パンナム)はラゴスから大西洋に出、ブラジル、トリニダードを経由して米マイアミに着く路線でした。カバーの左端にマイアミで受けたとみられる検閲封緘紙があります。マイアミからは名宛地のボストンやニューヨーク線空路に積み替えられたのでしょう。

中米間の航空路は、香港からクリッパー機でサンフランシスコに直行する便利なルートがありましたが、太平洋戦争で閉鎖されます。代わって、ビルマ北部のラシオに飛び、陸路でインドに運び出す路線が設定されました。しかし、これも日本軍のビルマ攻略により半年足らずで廃止されます。

わずかに残されたのが、米空軍が援蒋ルートとして開発した俗称「ハンプ越え」の軍用航空路でした。カルカッタから北上し、高度9,000メートルに上昇してヒマラヤ山脈を越え、ビルマ最北端部をかすめて重慶に達します。強風、酷寒。最悪な気象条件に加えて機体の耐寒性能の問題もあり、きわめてデンジャラスな飛行だったと思われます。

連合軍は北ビルマのミートキーナ(ミッチーナー)を奪還すると、45年1月に北部インドのレドから中国の昆明までの山岳・密林地帯1,700キロをトラックのコンボイで結ぶ「レド公路」を開通させます。それでも、輸送力はハンプ越えの方がはるかに勝ったといいます。中国にとって、このヒマラヤ空路は文字通りの命綱でした。

カバーは裏面に4枚で計10円2角の切手が貼られています。北米宛て平面路国際料金1円5角+北米宛て航空料金8円7角の合計です。この航空郵便ルートは戦後すぐの45年10月に廃止されますが、中国の猛烈なインフレのため、最後の航空料金は120円にまで値上がりしていました。

(この記事は中国切手研究会『中国の郵便料金(抄)1867-1950』(2004年)を基礎にして書きました。大変な労作を利用させていただいたことを感謝します。)
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2014年05月06日

軍用航空で民間便も運ぶ

SHANGHAI-AIR.jpg日本軍占領下の上海から大阪宛ての航空郵便です。香港版長城航空90分切手1枚貼りで、上海局1938(昭和13)年9月9日引き受け、大阪・大正局に3日後の12日に到着しています。

日中戦争以前、日本と華中との間の定期航空路は未開設でした。日本航空輸送会社(後に大日本航空会社に改組)が福岡-上海-南京間に定期航空路を初めて開設したのは38年10月5日のことで、10月11日から航空郵便の取扱も開始されました。

つまり、数回の試験飛行を除けば、38年10月以前には九州から東シナ海を越えて上海に達する定期航空路はありませんでした。山口修氏「航空郵便沿革史」(『郵政事業史論集』第1集)にも、成田弘氏『日本の航空郵便』にも、そう書かれています。

すると、それより1ヵ月早いこの封書はどのキャリア(航空会社)が、何を根拠にして逓送したのでしょうか。結論から先に言ってしまうと、これは福岡-上海間の陸軍軍用定期航空に搭載されたと考えられます。GANの調査で分かってきたことです。

『日本航空史 昭和前期編』によると、陸軍は日本航空輸送会社に命じ、同社の機材(ダグラスDC-2型)を使って1937年10月2日から福岡-上海間の軍用定期航空を開始させました。日中戦争下で民間航空会社は機体を操縦士ごと軍に徴用されていったようです。空路は翌年さらに南京、杭州へ延伸されます。

この軍用定期を利用して、38年2月1日からは私用でも軍事航空郵便が利用できるようになりました。公用の軍事航空郵便は定期航空と同時に開始されたと考えられます。記録は未見ですが、さらに38年3月5日から軍事郵便に限らず、一般民間人の航空郵便もこの軍用定期航空に搭載され始めました。

村田守保氏「昭和初期における航空郵便初飛行便リスト」(切手研究会『戦前の航空郵便』所収)が根拠です。これに、「昭和13年3月5日 上海-東京間定期航空開始(上海3.5→東京3.8 実逓便)」と1行だけの記述があります。村田氏はこの初飛行カバーを実際に作成し、そのデータを記録したと考えられます。こちらも3日で到着しています。

この当時、上海への空路は民間では存在しません。軍用定期しか飛んでいませんでした。「貨物室ニ余裕アル場合ニ限リ」として、こういった民間郵便も積んだのでしょう。また、村田氏が初飛行カバーを作成できたことは、当局から一般に対し何らかの告知があったことを示唆します。

この封筒は上海からの到着便ですが、日本内地への航空郵便路の開設は在留邦人に知らされていたのでしょう。この間の航空料金の設定、日本の傀儡政権・中華民国維新政府(南京)との交渉はどうしたのか。多くの課題が未解決のまま残されています。
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2014年04月23日

スローガン印で侵略に抵抗

明24日から検査入院するため、このブログの更新を4日間休ませていただきます。次の更新は4月28日になります。ご了解ください。

TZEKI-1.jpgTZEKI-2.jpg中国浙江省慈城から上海の製薬会社宛て商業通信のようです。慈城の別称と思われる慈谿局で民国27(1938年)年1月10日引受け、2日後に上海到着です。切手貼付面にあるやや大きな角型黒印が目を引きます。

角型印は中文で「禦侮救国/誓復失地」とあります。「侮りを防いで国を救え/失地回復を固く誓おう」という意味でしょう。当時の抗日スローガンの一種です。回復すべき「失地」とは、日本軍が満州事変を起こして奪い取った東北部、つまり当時の「満州国」を指します。

台湾の何輝慶氏「九・一八事変と抗日宣伝印」(『郵趣』1993年6月号所載)によると、このスローガン印(抗日宣伝印)は、中国郵政当局が32年9月18日の満州事変1周年を期して全国の郵局に指示し押させたものです。この封筒に押した引受局の慈谿局では5年以上にもわたって使い続けていたことになります。

スローガン印はこれ以外にも多種多様なものが知られています。「領土を奪われた恥を忘れるな!」「日本の侵略に抵抗しよう!」。郵政当局者の主体的な意志で、郵便逓送とは無関係に、郵便物の流通を利用して国民に呼び掛ける目的で押したものです。当時の中国人の痛烈な抗日意識を物語る歴史資料といえるでしょう。

慈谿は上海攻略戦で知られる杭州湾の南岸で、寧波の北西の小さな町のようです。日本軍は1941年春に中国沿岸封鎖作戦を開始し、主要港湾都市を占領して国民政府側の機関や設備を破壊しました。寧波と周辺は41年4月20日ごろ封鎖作戦の一部の「浙東作戦」により占領されています。慈谿局のスローガン印がさらに続いていたとしても、もはや使えなくなったでしょう。
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2014年04月22日

名宛人は通州事件の被害者

TUNGCHOW-2.jpgTUNGCHOW-1.jpg日本から中国河北省通州に宛てた私製はがきです。名宛人不明で返戻されています。時期からみて、名宛人は日中開戦直後に起きた「通州事件」の被害者だとGANは見ています。近年の入手品です。

1937(昭和12)年7月29日、通州に政庁を置く日本の傀儡政権・冀東防共自治政府の保安隊が中国側に「寝返って」反乱を起こし、日本軍守備隊と居留民数百人を虐殺しました。前日の日本軍機による保安隊兵舎誤爆が直接のきっかけとされます。日本世論は激昂し、日中戦争が泥沼に陥る最初の一つのきっかけとなりました。

このはがきは神奈川県国府津局で昭和12年7月28日に引き受けられた暑中見舞状です。通県(通州の別称)局の付箋に1937年9月1日の日付印が押されて差出人に戻されています。付箋には「査此人不在/無法投逓退」の黒印があります。「名宛人尋ネ当ラズ/配達不能ニ依リ返戻」といった意味でしょう。

ここでは画像を示していませんが、裏面に北平(北京)局の民国26(1937)年9月9日の朱色日付印が薄く押されています。表面左側の下半部に同色で薄く「UNKNOWN」「REBUT」印があります。北京の郵政管理局で再確認した後、改めて日本に返送されたのでしょう。

はがきが発信された7月28日は通州事件が起きる前日に当たります。通県局に達した8月上旬、通州市中は多くの日本軍警が入り込んで捜索・追及で大騒ぎの真っ只中だったはずです。ようやく一段落した月末に配達人が行ってみると、宛先の家は焼け落ちて跡形もなく、居住者全員が殺されていたといった状況だったのでしょう。

--ここはGANの推測に過ぎませんが、まず当たっているでしょう。反乱の保安隊は「友軍」だった日本軍守備隊を急襲して全滅させた後、日本人居留民の全戸を襲撃して放火、略奪、殺戮の限りを尽くしたとされますから。単なる付箋に過ぎませんが、受け取られなかった被害者の悔しさを語りかけているようにも見えます。
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2014年03月10日

蒙彊からの最初期郵便

KALGAN.jpg日本軍占領下の中国・内蒙古(=蒙彊)張家口から山形県に宛てた孫文2.5分はがきです(画像=クリックで拡大できます)。引受印は中英バイリンガル表示の局名で萬全(張家口)、WANCHUAN(KALGAN)、日付は民国27(1938=昭和13)年2月15日です。

この時期の蒙彊は激動の渦中にありました。日中戦争開戦直後に関東軍が察哈爾作戦を発動し、察哈爾、河北、山西省に及ぶ長城線沿い北側をすべて占領してしまいます。「満州国」防衛のため、蒙彊と華北の北部地域を勢力下に置くのが狙いでした。

関東軍の蒙彊占領地には察南、晋北、蒙古聯盟という傀儡の自治政府が次々と組織され、3政府は合同で蒙彊聯合委員会を構成していました。37年10月20日には域内の郵政統合に向け張家口に郵政管理処が開設され、同年末には満州国への郵政委託も廃止されます。日本軍の下で独自郵政を実施する基礎が整いました。

日本による中国占領地郵政がいつから開始されたかは議論があるでしょう。蒙彊で満州国郵政が(表面上は)撤退した38年1月初頭からとすべきだというのが、GANの考えです。中国占領地専門家の間では華北6区加刷(「5省加刷」と蒙彊加刷)切手発行の41年7月から、が通説のようですが、それは一つのイベントに過ぎません。

蒙彊以外の華北と、華中、華南で占領地郵政が開始されるのは更に後のことになります。それぞれの始期については、別の機会に詳しく考察したいと思います。

このステーショナリーは、表面上は料金も日付印も、恐らくは逓送路も旧中国郵政のままです。しかし、国際郵便なのに宛名に「日本」を書かず、いきなり「山形県」としているのは、実は異常です。扱う職員が既に旧中国郵政から日系に切り替わっていることを示唆しています。これこそ占領郵政の表徴です。

このように見てくると、このはがきは蒙彊郵政の最初期使用例であり、中国占領地郵政として最初期の郵便と言って差し支えないと思います。
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2014年02月24日

青島残留の日本電信局

TSINGTAU.jpg日本海軍占領下の青島市内に配達された和文電報です。「青島 13.9.27 ★」の鮮紫色櫛型配達印があります(画像=クリックで拡大できます)。「13」は民国年号とは見えず、昭和13(1938)年の青島に日本系の電信取扱局所など、果たして存在したのか、という疑問が出ます。

なお、電報の発信者は大阪商船社長の村田省蔵。村田は後に貴族院議員となり、太平洋戦争中は日本軍占領下に独立したフィリピン共和国駐在大使を務めた大物です。

結論から先に言ってしまうと、これはレッキとした日本の青島電信局が取り扱った電報です。第1次大戦中の青島野戦局が1922(大正11)年末に撤退する際、中国側との協定により電信専業に切り換わって残留した局です。櫛型印も昭和年号も当然、となります。

荒井国太郎氏『思い出の消印集』(日本郵便史学会刊)によると、青島電信局は佐世保-青島間の海底電線を経由して対日電信を扱っていました。1940年現在で「直接受信・配達業務ハ扱ハズ」との記述もあるため、「では、この電報を取り扱ったのはどういうことか」と疑問がさらにふくらみます。

GANの考えでは、青島電信局は大正期から和文電報に限って受発業務を扱ってきたと思います。ところが、1938年8月に日中合弁の華北電信電話会社が北京に設立されました。そこで、青島電信局は同社に業務を委譲し、現業から手を引いたのではないでしょうか。委譲までの間、青島では日本の青島電信局と華北電電の青島電電総局とが併存していた可能性があります。

実はこの時期の青島にはもう一つ、日本海軍が管理した青島電報局なるものもありました。荒井氏の本にはその日付印が掲載されています。話はとても面白いのですが、この3者の関係は余りにも複雑になり過ぎます。検討は別の機会に譲りたいと思います。
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