2019年11月25日

ハノイ憲兵隊の郵便検閲

河内-1.jpg仏領インドシナ(仏印)に進出していた総合商社の東洋綿花会社河内(ハノイ)支店から名古屋の本社に宛てた航空書状です。1943年(昭和18)3月20日にハノイ局で引き受けられ、東京とタイのバンコクを結ぶ日泰航空便に積まれています。

書状の裏面封じ目には櫛型印に似た「河内日本憲兵隊/検閲済/18.3.20」の青色大型印(下右図)が押されています。表面にも角枠「検閲済」の赤色河内-2.jpg小型印があり、中の「高橋」認印は憲兵隊の検閲担当者と思われます。ハノイで日本軍の検閲を受けたことが分かります。

この「河内憲兵隊検閲印」はずっと昔、『消印とエンタイヤ』の時代から報告がありました。しかし、GANには不思議でした。仏印は第2次大戦下でもフランス(ビシー政権)が主権を維持し、日本軍の占領を受けていません。邦人の通信とは言え占領地でもない仏印で、なぜ日本軍が検閲できたのか。
検閲協定.jpg
長年の謎だったのが、ごく最近になってようやく解けました。南部仏印と北部仏印、それと仏印同様に主権国家だったタイとの間で日本軍の検閲を認める計3件の現地業務協定があったのです。これまで公表されたことのなかった秘密文書で、アジア歴史資料センター(JACAR)の公開資料から見つかりました。

日本軍は「援蒋ルート遮断」を名目に太平洋戦争開始前年の1940年から「北部仏印進駐」によりハノイに、そして翌41年の「南部仏印進駐」によってサイゴンにも駐屯していました。検閲は2次の進駐時にではなく、開戦直後に日本軍が仏印当局に迫って締結した「日仏印共同防衛協定」に基づくものでした。
河内-3.jpg
北部仏印での検閲の業務協定は42年6月19日に締結され、即日実施されました。日本軍と仏印当局はハノイとハイフォン(海防)の両局で郵便と電信の共同検閲を行う、日本人発受の通信はすべて日本側が、仏人や仏印人の通信は仏印側が検閲に当たる、など8項目が定められています(上図)。

この協定により、仏印在留邦人が差し出したり受け取る郵便物に限り日本の憲兵が合法的に検閲できることになりました。反対に、日本人以外の郵便物には、敵性あるもの(英、米、蘭側)を除いて日本憲兵も手出しできません。フランスの主権は辛うじて守られた形です。

今回の文書発見により「河内憲兵隊検閲印」は「北部仏印進駐」とは無関係であることが明確になりました。太平洋戦争開戦に関わる軍事的検閲という位置づけになると思います。

posted by GANさん at 04:23| Comment(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2018年02月22日

ニセ泰緬郵便に310万円

s615839.jpg大手オークションハウス、ゲルトナーC.GAERTNER(ドイツ)の第39回「アジア」部門競売が2月19日にあり、いわゆる「泰緬鉄道郵便」印のあるはがき1枚が16,500ユーロで落札されました。手数料と消費税も加えて日本円に換算すると、ざっくり310万円。大変な高値です。

s615839-1.jpgこの出品物は太平洋戦争中に日本軍が建設した泰緬鉄道沿線に開設された「軍事郵便所」で使われたと称するマライ占領正刷4セントはがきです(右上図。下はその裏面)。カタログは「"死の鉄道"軍事郵便所4局の郵便印押し」「展覧会用に目を見張る逸品」と全文ゴチック活字で説明する煽りぶり。参考値も8,000ユーロと大変強気につけられていました。

落札者には大変お気の毒ですが、これは郵便史に無知なコレクター向けに作られたニセモノFAKEです。2点の致命的な問題があります。第1点はカタログが惹句にしている「4個もの軍事郵便所日付印」自体が郵便取扱の実務上はもちろん、郵便史的にもあり得ないものです。第2点は最高の軍事機密だった泰緬鉄道の路線と列車そのものの写真が絵葉書として使われていることです。

カタログの説明によると、はがきはプランカシー郵便所で1945年1月16日に引き受け、日本軍占領下マライのペナンに宛てられています。コンコイター、カンチャナブリ、ニーケの3郵便所でそれぞれ1月27日、2月6日、2月15日の中継印が押されている、とされています。しかし、これは地理的に大変おかしな「迷走経路」なのです。

泰緬鉄道路線図.jpg左の地図をご覧下さい。これは後述する土屋理義氏の本から引用したものです。プランカシーからマライに向かうには鉄道を地図の下方に南下しなければなりません。しかし、中継印のコンコイターは逆に北上してビルマ方面に向かう沿線にあります。何らかの理由で誤積載してしまったのかも知れず、次は「正しく」南下してカンチャナブリ印が押されました。しかし、その次に何と、再度「誤積載」し、今度は国境のニーケまで行ったというのです。

既存の南方占領切手収集家すべてが見過ごしていることですが、鉄道駅と郵便局とは連携はしていても全く別の存在です。鉄道に載せた郵便物に沿線局の中継印を押すには、列車から郵便物を降ろして郵便局に運び込み、郵袋を開けて検査、区分、押印をした上で再び郵袋に収め、駅まで運んで再び列車に載せなければなりません。

鉄道や郵便職員には大変大きな負担なので、郵便物は事前に区分して郵袋に分け収め、目的地の至近駅まで直送するのが大原則です。国境を越えたり規格(ゲージ=軌間)の異なる鉄道をまたぐ場合は例外で、積み替え、郵袋の開閉、押印が行われることもあります。このはがきの中継印と称する3印は存在自体が矛盾であって、説明がつきません。「紛来印」かも知れない? ナンセンスです。

裏面の写真はカタログが「高架橋上の線路を走る実際の列車」と説明しています。確かに、木材を組み上げて応急速成された泰緬鉄道の橋のように見えます。しかし、当時としては異常に鮮明すぎる写真に客車が写り込んでいます。泰緬鉄道には旅客を運ぶ目的など初めからなく、次期インパール作戦のための武器弾薬や食糧の輸送さえ意のままになりませんでした。実際に運行したのは貨車だけで、客車が走るのは戦後になってからのことです。このはがきは戦後撮影された写真に戦前の日付印が押されているのです。

泰緬鉄道とは、日本軍が独立国のタイ政府と苦心して協定を結んでまで相手国領土内に建設した極秘の作戦鉄道でした。それが戦争の最中に絵葉書写真となって、いくつもの郵便局の間をすり抜けることなど出来るものでしょうか? はがき表面にはプランカシー郵便所の大型角枠検閲印が押されています。サインを入れて盲判を押す検閲官がいたのでしょうか? 日本軍とか「ケンペー(憲兵)」など屁とも思わない、ずいぶん大胆不敵な行為ですね。

実は、このはがきは土屋理義氏著『泰緬鉄道の「軍事郵便所」郵便』(日本郵趣協会、2005年)の中で同氏が実際に調査したエンタイアとして「P-9」のナンバーで紹介し(p.77)、他の泰緬鉄道エンタイアと共にいわばお墨付きを与えていました。土屋氏は南方占領切手の権威として自他共に許し、「泰緬鉄道軍事郵便所のエンタイアはすべて真正品」と主張する人物です。

土屋氏はこの本を国際的に流通させることに配慮したのでしょう。国内の郵趣出版物としては珍しく、英文併記もしていました。効果は確かで実際に外国で広く引用されており、今回のゲルトナーの競売にも多大の影響を与えたはずです。少なくとも超々高額で取引されたこの出品物への疑義に対し、土屋氏には誠実に答える義務があるのではないでしょうか。
posted by GANさん at 03:24| Comment(6) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2017年11月10日

バリックパパンの櫛型印

BALIKPAPAN.jpg浅草のJAPEX'17で開かれた大手オークションで落としたばかり、ホヤホヤの南西方面艦隊民政府管内(いわゆる「海軍地区」)の書留カバーです。南ボルネオのバリックパパン局で昭和18年(1943)6月25日に引き受け、セレベスのトンダノ局に7月2日に到着しています。

切手は蘭印新女王30centに赤色左書き「大日本に錨」加刷があります。書状10+書留20centの合計額相当のようです。BALIKPAPAN-裏.jpg加刷タイプはカタログで言う「バンジェルマシン型」となるのでしょう。

南方カバーにお門違いのGANが手を出したのは、海軍地区で櫛型(類似)日付印の使用が珍しいと映ったからです。

この地区の郵便引受印は、旧オランダ製日付印の改造を除けば日付のない丸二型「大日本/局名/帝国政府」の形式が一般的だとこれまで思っていました。日本櫛型印の占領地型バラエティーを検討する格好の材料、とも考えました。

昔むかし大門会でお世話になった故・青木好三氏に頂いた『私録じゃがたら郵便 占領中の旧蘭印での郵便』(1986年)を読み返してみました。日付なし丸二型印が使われたのは海軍地区でもセレベス、セラムの両民政部管内だけでした。残るボルネオ民政部(バンジェルマシン所在)管内、つまり南ボルネオ地区の局では日本式櫛型に似た日付印が使われたことが強く示唆されています。

KAMPON.jpgさらに蘭印専門家の収友・増山三郎氏のご教示では、この櫛型タイプ日付印はVosseの『日本占領期蘭印とインドネシア共和国で使用された消印』(2013年)でも南ボルネオでの類似例が報告されていました。青木氏著書にはバリックパパン局カンポンバル分局印のスケッチ(右上図)があります。この印は局名は右書き、日付だけ手書きで、年号を皇紀(神武紀元2600年+)で「04(昭和19年)」と表しています。

BALIK-2.jpgこのカバーの印は局名左書きで、日付は櫛型印と同じ鮮紫色の数字印を押しています。数字6桁スタンプ「186・25」は「昭和18年6月25日」を表していると考えられます(右下図)。裏面のトンダノ局丸二型印の下部に黒紫色鉛筆「18.7.2」(18年7月2日)の書き込みがあるからです。書留なので証明のため到着印を押して日付を記入したのでしょう。バリックパパン本局でこのタイプの印のカバーはどうやら初出のようです。

バリックパパン局印をさらに詳しく見ると、A欄片仮名局名のうち「ツ」が促音の小字ではなく他と同大なのが特徴です。B欄は日付を書き込めるよう縦2本線で3分割されています。D、E欄は10本の櫛型。C欄はやや不揃いなクロスロード(十字路型)3個です。これだけはオランダ印特有の要素で、日蘭ハイブリッド性の表れと言えます。本来の日本印なら★3個となるところです。

このカバーは、同じ南西方面艦隊民政府管内でも「3個の民政部ごとに郵便印など郵便実務の細部が異なっていた」というGANの勝手な仮説に1つの傍証を加えるものと思います。資料が将来増えて、ボルネオ民政部管内の3支部-ポンチャナック、タラカン、バリックパパン-の各管内ごとに郵便印表示形式の違いも出て来たら、もう言うことはないのですが。
posted by GANさん at 02:12| Comment(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2017年09月15日

タイ回収領土の軍務知事

Chiengtung-1改.jpgChiengtung-2改.jpgeBayに出品された全文タイ語のカバーに柄にもなく手を出して落札、今日届きました。1文字も知らない外国語なので、次の第2-4段目は出品者による説明を丸写ししたものです。

ビルマ領シャン地方南東部を第2次大戦中に隣国タイ軍が占領して設けた「統合旧領土(Saharat Thai Doem)軍政府」の軍務知事に宛てたタイ軍の公用機密軍事郵便です。

封筒表面中央上部の楕円印は「機密」、角枠印は「至急」を表します。最上部左端のアラビア数字などは文書番号と発信日付ですが、タイ官庁の通常の形式と異なるため、解読できません。裏面はタイ国防省の「陸軍機密」専用シールで封緘されています。

このカバーには一切の郵便印がありません。陸軍のクーリエ(伝書使)によって配達されたと見られるので、厳密には「郵便」とは言えません。明記されていませんが、発信者は同じシャン地方に進出していた陸軍官庁の出先機関か部隊でしょう。国防省のある遠いバンコクから発信された書状なら必ず郵便が利用されたはずだからです。

第2次大戦中のタイは日本軍制圧下で巧妙な二股外交を繰り広げていました。日本と軍事同盟を結んで連合国(英米側)に宣戦する一方、有力な王族や軍人・政治家グループがその連合国と密かに連絡を取って日本軍情報を流し、連合軍スパイの潜入を助けました。離反常ならぬタイの歓心を買うのに懸命な日本は、過去にタイがイギリスなどに蚕食された失地回復の支援を図ります。

そのため、日本は占領下のタイ旧領、マライ北部4州とビルマ領シャン2州をタイに譲りました。2州とはケントン州とモンパン州で、サルウィン河(怒江)左岸のタイ領側にあります。タイ国軍の東北軍は1942年5月に日本軍のビルマ侵攻に合わせて2州を含むシャン地方南東部を占領していました。1943年8月20日にバンコクで日泰間の条約が調印され、2州のタイ編入が承認されます。

Phin_Choonhavan.jpgタイは回収した旧領2州に軍政を敷き、中心の町・ケントンKengtungに統合旧領土軍政府を置いて統治しました。軍政府トップの軍務知事には東北軍第3師団長だったピン・チューンハワンPhin Choonhavan将軍(右写真=英文Wikipediaより引用)が任命されました。このカバーの名宛人で、後に元帥に昇進するタイ陸軍の実力者です。戦後、この統合旧領土はビルマに返還させられました。

当時のケントン州やモンパン州は少数民族が居住する未開の山岳地帯でした。戦前でもビルマ郵政が有効に機能していたかどうか明らかではありません。まして戦時下での主権移動という大混乱期なので、郵便は事実上ないも同然だったでしょう。このカバーはそんな歴史的状況を後世に伝える得がたい史料となっています。
posted by GANさん at 22:41| Comment(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2016年11月17日

怪しいクラ線「鉄道郵便」

今年3月11日に「『泰緬鉄道郵便』の真実」と題する記事を載せたところ、意外に反響があることに驚きました。とても一般的とは言えないテーマなのに、本ブログでは珍しくほとんど毎日この記事が閲覧されています。意を強うして続編を記すことにしました。

泰緬鉄道郵便なるものが実在すると主張する南方専門家の人たちは、「クラ地峡横断鉄道(クラ線)でも泰緬鉄道と同じ性格の郵便が行われていた」と言っています。しかし、GANはこのクラ線の郵便も、泰緬鉄道郵便と同工異曲のニセモノと考えています。今回はそれについて考察します。

クラ線とは、マレー半島最狭部である南部タイのクラ地峡を東西に横断してタイ湾とアンダマン海とを直結する鉄道を言います。太平洋戦争中、日本軍がビルマへの軍需物資補給ルートとして泰緬鉄道と共に計画しました。1943年12月にタイ鉄道南部線のチュンポンを起点にカオファーチまで94キロを開通させています。

このクラ線で使われた郵便印として3種が発表されています。まず「クラ線/鉄道郵便」と表示された円形印と楕円形印で、共に西暦による欧米風の日付表示が異色です。それと「チュンポン/クラ線」と表示されて日本紀元(皇紀)の年号に月と日を手書きする、これも特異な二重丸印とがあります。

Kla.jpgクラ線の郵便について日本語の文献としては、南方占領地切手の権威・土屋理義氏が『泰緬鉄道の「軍事郵便所」郵便』(日本郵趣協会)で言及しているだけのようです。土屋氏はクラ線のエンタイア11通を実際に検証したとして、「クラ線/鉄道郵便」印(上図=同書から引用)について次のように解説しています。
「鉄道郵便」という表示から、チュンポン郵便所が扱う郵便は、為替送金や郵便貯金ではなく、鉄道郵便が主体であったと思われる。
短いにもかかわらずとても難解な文章です。その原因は著者(土屋氏)の鉄道郵便についての根本的な認識不足、はっきり言うなら無知のせいだと思われます。強いて著者の意図を忖度すればここは、「チュンポン郵便所は鉄道郵便局的な性格が強く、為替・貯金業務は扱わなかった。消印にある『鉄道郵便』の表示がそれを示している」とでも言いたかったのでしょう。

「鉄道郵便」印とは、基本的に郵便車(室)に乗務する専業の鉄道郵便係員が車中で扱った郵便物であることを示すために使う日付印を指します。そして、車中取扱いとは、具体的には沿線局との郵便物の授受、郵袋の整理や郵便物の区分、鉄道駅構内や列車乗客から直接差し出された郵便物の引受処理などを指します。郵便逓送の速達と積み卸し局での負担軽減が主目的です。

日本郵便史上で鉄道郵便係員が為替・貯金を扱った事実はありません。鉄道郵便は本来為替・貯金業務とは関係なく、技術的常識からも導入が検討された事実は形跡さえありません。恐らく外国でも同じでしょう。「鉄道郵便」印を題材にして為替・貯金取扱いの有無を論ずること自体が無意味で、土屋氏の解説は鉄道郵便への無理解ぶりをさらけ出すものです。

Kla-2.jpg右図は楕円形「クラ線/鉄道郵便」印(上図中央のPC2)の一部が料額印面左下部に押されたはがき(土屋理義氏提供によるM氏展示品コピー)です。土屋氏は「現存1点の使用例」としています。

根本的な問題は、土屋氏がこの消印はチュンポン郵便所で使われたと明記している点です。列車(クラ線)で運ばれた郵便物だから、チュンポン郵便所で「鉄道郵便」表示の日付印を押して引き受けた、と土屋氏が認識していることです。

これは鉄道郵便というものを知らない「トンデモ見解」というほかありません。鉄道郵便印の印顆は鉄道郵便係員しか携行せず、チュンポン郵便所のような定置局にはありません。チュンポン郵便所がこのような日付印を郵便物に押すことも当然ないのです。

前述したように、鉄道郵便印が使用されるには、(1)まず郵便車が運行され、(2)その車中で係員が郵便物を取り扱うこと、が前提です。かりに一般の貨車に積まれた郵袋がチュンポン郵便所に持ち込まれて個々の郵便物に日付印が押される場合があっても、それはチュンポン郵便所印であり、鉄道郵便印ではありません。

ところがクラ線では郵便車を運行した事実自体がありません。日本軍は仏印-タイ-マライを直通する長距離列車も運用し郵便逓送にも利用していました。しかし、それらの本線を含む一切の日本軍支配下の鉄道で車中取扱いはしませんでした。戦時下で車両も要員も制限され、サービスするリソースの余裕がなかったからでしょう。

クラ線は郵便需要の低い行き止まりの「盲腸線」で、わずかな本数の軍用貨物列車しか走りませんでした。日本軍の全占領地中、唯一この路線だけに郵便車を持ち込んで車中取扱いをする理由などありません。クラ線の鉄道郵便取扱などなかったので、「クラ線鉄道郵便」と称する印やそのカバー類はすべて空中楼閣的な意味でのニセモノです。

蛇足になりますが、上図の円形印や楕円形印にある「NOV.」(英語November=11月=の略)や「DEC.」(December=12月=の略)のように日付を欧文で表示することは日本郵便史上の知見に反します。ニセ印であることを示す傍証の一つと言えるでしょう。

マライ・スマトラ占領地の軍政に当たった第25軍は、1942年11月5日に、すべての通信日付印から「敵性言語」であるラテン文字や欧文表示を追放するよう通牒を出しました(『富集団戦時月報』昭和17年11月号)。1年後に新調された日付印がこの通牒に従わず欧米式を踏襲する理由がありません。通牒を知らない者が作った架空印です。

欧米人が紹介した珍奇なアイテムというだけで無批判に受け入れて、こういう郵便史上の誤り、というより「無知」を曝す結果になりました。「南方専門家」を自称する日本人収集家の方々は欧米文献に依存しない独自の郵便史的情報をどれだけ積み上げ、郵趣界に提供して来られたでしょうか。すでに戦後70年も経過しているのに、それが見えないのが残念です。
posted by GANさん at 01:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2016年03月11日

「泰緬鉄道郵便」の真実

2月25日のブログ「珍『検閲印』4種が出現」でニセ検閲印に関連して、いわゆる「泰緬鉄道郵便」なるものがすべてニセモノだと書きました。内外の郵趣市場にかなりの量が出回っているので証拠はきりもなく、大小数十点も挙げられます。今回はそのうち「存在しない部隊」を発信アドレスとした典型的な一例をお示しします。

「泰緬鉄道郵便」なるものは、日本では土屋理義氏が日本郵趣協会の出版物で繰り返し主張している一連のカバー類です。土屋氏によると、太平洋戦争中に日本軍が泰緬鉄道を建設したさいに使役したマライやジャワなどの労務者や鉄道従業員が、鉄道沿線に開設された専用の日本軍「軍事郵便所」から有料や無料で多種類の郵便物を発受していたといいます。

鉄7連隊.jpg図示しているのは、香港のオークションハウスDynastyが2013年5月に「第2次大戦の泰緬鉄道」の題で売り立てたロットのうちの1点です。「リンテンの第2143部隊からクアラルンプル宛て、1944年6月10日キンサイヨーク軍事郵便所印押し」と土屋氏の文献に依拠した説明があります。

画像のはがき右側発信人欄の下3行に「Muri Butai 2143/Rinting/Thailand」とアドレスが書かれています。「泰国リンテン、森第2143部隊」と表現したいようです。リンテンは泰緬鉄道でキンサイヨークのビルマ寄り一つ隣の停車場です。また、「森」とは緬甸(ビルマ)方面軍を意味する符号、「第2143部隊」は鉄道第7連隊を表す部隊番号です。この部隊が問題です。

厚生省援護局編『鉄道部隊略歴』(1961年刊)によると、この鉄7連隊は昭和19(1944)年2月10日にラングーンで編成されました。「編成以後ビルマで従軍」と記されています。ビルマ戦線が崩壊した45年2月にビルマからタイに撤退していますが、泰緬鉄道関連の記述はまったくありません。

別の文献『燦たり鉄道兵の記録』(1965年、全鉄会刊行)は更に詳しく鉄7連隊の行動を記述しています。それによると、44年3月に発起されたインパール作戦で後方が手薄になるため、ビルマ鉄道防衛用に新編された部隊でした。44年5-8月はミートキーナ(ミッチナ)戦線にあって、英軍の猛攻に耐えつつミートキーナ鉄道の補修・管理に当たっていました。ミートキーナは結局、8月2日に陥落してしまいます。

要するに、真実の鉄7連隊は泰緬鉄道に関わったことは一度もありません。まして、活動したのはビルマ中北部だけなので、マライ労務者を部隊の管理下に入れた事実など全くないのです。このニセはがきの作成者は鉄道部隊を表す部隊番号というだけで安易に飛びつき、その戦歴まで検討する「細心さ」とは無関係な人だったのでしょう。

筆者はこれら「存在しない部隊」を発信アドレスとする「泰緬鉄道カバー」について、10年以上前から第5801部隊(第2鉄道監部=泰緬鉄道の建設司令部)を初め、何度も土屋氏に指摘してきました。彼は繰り返し「ホンモノ」と主張するのですが、こうした決定的な矛盾に答えたことがありません。今年2月に出した最新本でも同断です。
posted by GANさん at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2015年11月25日

振り仮名なく南方に届かず

BANDOENG-1.jpgBANDOENG-2.jpg終戦直前の1945(昭和20)年に日本軍占領下のジャワ・バンドンに宛てた普通郵便です。内国と同額の10銭料金は適正なのですが、差出人に戻されてしまっています。アドレスの漢字に「振り仮名がない」というのが返戻の理由。結局この封書が名宛人に届くことはありませんでした。

南方地図10銭を貼って東京・滝野川から昭和20(1945)年4月12日に発信されています。宛先のバンドン工業大学(工科大学)は現在も国立大学として存続しているようですが、「インドネシア独立の父」とされるスカルノ初代大統領も学んだ名門です。受取人はそこに派遣された教員だったのかも知れません。

ところが、差出人は内国郵便と同じ宛名の書き方に安心したためか、うっかり「爪哇(ジャワ)」「工業大学」や受取人名に読み仮名を付けるのを忘れていました。確かに、2年半前から実施された南方占領地との間の郵便では、アドレス表記は「仮名、漢字(振仮名附)若クハ『ローマ字』トス」と定められていました。

この規定は、現地人の郵便職員でも処理できるようにしたためと思われます。収支が償わない内国並みの低料金も、「大東亜共栄圏」という戦争のスローガンを利用者に実感させるため、いわば「身銭を切って」採用したのでしょう。元々は陸軍省が現地の南方総軍の要望を取り次いで起案し、逓信省にそのまま受け入れられました。

封筒に貼られた付箋には東京中郵外国郵便課の名で「名宛人居所氏名ニ片仮名ヲツケ符箋ヲハガシテ御出シ下サイ」とあり、引受から半月も経った4月28日のTOKYO局欧文印が押されています。貼付切手は抹消されていても有効で、振り仮名を付けて再度投函すれば受け付けられる手はずです。

既に切手に消印が押され、検閲も済んでいます。事情が分かる付箋があるならばともかく、それをはがしたら、もう一度新たに切手を貼り直さねばならないのが普通です。「振り仮名の付け忘れ」は返戻理由として薄弱で、他に例がありません。「特例」とも言えるこの扱いはそんな事情もあってのことかも知れません。

しかし、差出人はこの「再差し出し」の権利を行使せず、手紙を出すこと自体をあきらめてしまったようです。付箋がはがされないままで残っていることから分かります。敗戦まで3ヵ月半、既に南方行きの郵便ルートは事実上閉ざされてしまっていることを知っての断念だったのでしょうか。
posted by GANさん at 22:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2014年05月21日

楠公はがきを比島で使用

BAGUIO.jpg日本軍占領下のフィリピン(当時は「比島」)から日本に宛てたはがきです。楠公2銭はがきがいわゆる「占領加刷」などなく、そのまま使われています。

比島を占領した第14軍司令部の「軍政実施概況報告」第23号(昭和17=1942年8月31日)によると、比島の普通局が扱う島外との郵便が42年10月1日から書状とはがきに限定して開始されました。

宛先は「大東亜共栄圏」内の各地、用語は日本語か日本字またはローマ字に限られ、結局は日本人しか利用できない制度でした。これにより、従来の野戦郵便所による在留邦人の郵便の臨時取扱は終わります。

この「報告」には料金率が示されていません。しかし、当時の逓信当局と軍部の政策では「占領地内外の郵便は共に可能な限り日本の内国料金・制度と一致させる」認識が共通していました。書状5銭、はがき2銭のレートは日本と同様に44年3月まで続いたはずです。

TUISOU.jpgこの楠公はがきはマウンテン州バギオ局で1943年5月24日に引き受けられています。不鮮明ですが、「比島憲兵隊/検閲済」の角印はマニラで押されたのでしょう。

この時期には2センタボ「正刷はがき」が既に出回っていました。持ち込み使用でしょうか。差出人は戦前から在住していた民間人のようで、そうは見えません。

土屋理義氏『南方占領地切手のすべて』や、同氏が担当したと思われる2012年版日専カタログには「比島には日本の切手やはがきは配給されなかった」旨の記述があります。しかし、これらに根拠は示されていず、大きな?が付きます。過去には下画像(下部コメント欄第7項参照)のような例も発表されています。

DAVAO.jpg防衛省戦史室に「南方地域所要葉書切手追送ニ関スル件」(42年8月4日付陸亜密受7308号)という書類が残されています。

これによると、香港、比島、ビルマ、マライ、ボルネオの5地域に2銭葉書や5銭切手などを送るよう、陸軍省副官が陸軍需品本廠に対し数量を示して指示しています(上画像=クリックで拡大できます)。

指示が出されても結果的に切手類が現地に着かなかった可能性もあります。しかし、少なくとも当時の陸軍が南方占領地で日本切手やはがきを使わせる意図があったことは明らかです。

実際に着いたのか、着かなかったのか。検証しないで結論は出せません。GANは今のところ、これらのはがきは比島の郵便局で正式に発売されたものと考えています。
posted by GANさん at 23:38| Comment(9) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2014年04月17日

スマトラ宛ての返戻便

SUMATRA.jpg日本軍占領下のスマトラ島メダンに宛てた楠公5銭はがきです。日本が降伏する直前の昭和20(1945)年8月2日に山形・宮内局で引き受けられています。

このはがきは、現在の野村證券の東インド(旧蘭印)子会社に宛てた民間人同士の普通郵便です。いったん交換局の門司局まで送られた後、同局で「送達ノ見込ナキニ付一応返戻ス」という謄写版印刷の付箋を付け差出人に返戻されています。返戻時期が分かりませんが、文言から8月15日以前ではないかと思われます。

料金の5銭は内地料金と同額です。42年秋に南方宛て民間郵便を開始したさい、「料金は当分内地並みとする」ことが定められました。結局、政治判断やコスト問題(軍用船を利用するので逓信省側の負担がない)もあって、最後まで「内地並み料金」は維持されています。

このはがきは宛名が全文片仮名で書かれていてユニークです。南方宛て郵便物は漢字の場合、振り仮名を振るよう規定されていました。片仮名なら現地人の郵便職員にも理解できたでしょう。地名が「千代田通北1丁目」と日本式に引き写して改称されている点も併せ、占領政策を物語って興味が持たれます。

当時、日本本土周辺の制海・制空権は米軍に握られ、大陸への航路はおろか、内地を結ぶ青函連絡船さえ運航停止していた時代です。南方への一般郵便物を輸送する貨物船など、船腹不足はもちろん、運航計画さえ立てられなくなっていたと思われます。

しかし、南方宛て郵便物が窓口で引き受け拒絶に遭わず、このように交換局まで送られていることは、送達停止の事態が一般の郵便局にも通知されていなかったことを意味します。戦局の不利を国民に悟らせないため、公表しないままでいたのでしょう。

南方占領地への郵便がいつから途絶したのか、明確な資料は未見です。45年に入って、なし崩し的に送れなくなっていったのではないでしょうか。付箋は「当分ノ間」「一応」としていますが、結局、日本郵政による南方への逓送は再開できませんでした。45年11月16日に始まる「復員郵便」は、米軍の軍用船によるものです。
posted by GANさん at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2014年03月08日

野戦局が扱った民間郵便

MANILA.jpg三菱商事大阪支社から日本軍占領下フィリピン・マニラの支店に宛てた封書です。大阪中央局で昭和17(1942)年9月23日に引き受けられました(画像=クリックで拡大できます)。

太平洋戦争で南方攻略作戦が一段落すると、南方総軍は軍政下での民政(民間行政)回復に取りかかります。現地郵政機関の再建には時間がかかるとみられました。臨時措置として大都市の在留邦人や商社と日本との間の郵便に限り、42年3月27日から開始しました。

取扱地域はフィリピン、マライです。遅れて5月1日からスマトラ、ジャワ、北ボルネオ、6月1日からビルマも追加されました。封書とはがきに限られ、内国料金が適用されました。仏印と泰も日本軍征圧下にありましたが、同盟国として外国郵便の扱いのままでした。

この臨時取扱はあくまでも普通郵便なのですが、軍事郵便と同じに扱われました。日本からの郵便物は軍事郵便交換局に集められ、陸軍の輸送船で占領地の野戦郵便所に運ばれています。このため、宛て先のアドレスには必ずその地にある野戦郵便所名を肩書きすることとされました。

この封書は「マニラ野戦郵便所気付」と肩書きがあり、臨時取扱を受けたことを示しています。臨時取扱としては最末期の使用例です。貼られている東照宮10銭切手は当時の封書基本料金の2倍です。切手の右上に「40g」と鉛筆書きがあり、基本重量20グラムの2倍料金を支払ったことが分かります。

現地の郵政復興に伴い、この臨時取扱は半年後の42年9月末限りで廃止されます。以後の南方への郵便は軍事郵便と別の民政郵便ルートで扱われました。野戦郵便所の肩書きは廃止されましたが、料金は政治的な配慮により内国料金のまま据え置かれました。
ラベル:野戦郵便所
posted by GANさん at 23:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

マカッサルの櫛型為替印

MAKASSAR.jpg
海軍の軍政担任地区だったセレベス島マカッサル局で引き受けられた電信為替振出請求書の断片です。局内で保管していた請求書を廃棄する際、切手貼付欄部分だけ業者に払い下げたのでしょう。為替料は現金でなく切手で納付されていました。

内地と南方占領地との間の郵便為替は昭和18(1943)年3月1日から取扱が始まりました。内地・南方間の書留取扱開始と同時です。為替は、当初は通常為替と小為替だけでしたが、19年5月1日からは電信為替の取扱も加わりました。

この紙片(画像=クリックで拡大できます)には海軍正刷切手で1ギルダー50セントと、農耕2.5セントのマカッサル加刷に「電信為替」と赤色で再加刷した電信為替料専用切手が貼られています。

電信為替切手には「f. 7.00」と再加刷されていますが、意味が分かりません。仮にこれが「7ギルダー」の意味と考えると、合計で8ギルダー50セント=8円50銭となり、100円超300円までの為替取組料金に相当します。

切手は「マカッサル/19.10.5/遠い」の櫛型印で抹消されています。「遠」は南西方面海軍民政府逓信局管内の局に割り振られた為替記号の頭字です。マカッサルの「い」に始まって、シンガラジャの「と」まで7局に適用されています。この櫛型印は郵便用には見られず、海軍地区の為替専用印として内地で調製されたと思われます。それにしても、なぜ「遠」なのか、GANには分かりません。「内地から遠いから」だとしたら、余りにも単純に過ぎると思うのですが。

当時の通信当局には「大東亜共栄圏」に重なる「東亜郵便連合(大東亜通信圏)」の構想がありました。「満州国」、中国から南方占領地までを日本を盟主とする郵便圏に統合して同一制度・均一料金を実施しようという考えです。ちっぽけな紙片ですが、挫折した壮大な計画の片鱗をうかがうことが出来ます。
posted by GANさん at 23:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする