2019年03月31日

御殿場線鉄郵データ更新

御殿場線01.jpg御殿場線02.jpg静岡県駿東郡関係の鉄道郵便エンタイアを整理していて、更新データを持っていたことに気づきました。右図の楠公2銭はがきは「国府津沼津間 昭和17年(1942)8月17日 下り1便」の鉄郵印で引き受け、佐世保に宛てられています。

『てつゆう=梶原ノート=』(2014年、鳴美)で確認したところ、最新データは17年5月31日(下二)となっていました。わずかではありますが、2ヵ月半ほど更新することになります。もしかして、鉄郵専門家の間では既にもっと新しいデータが共有されていたのでしたら、ゴメンナサイですが。

発信者の住所「深良村震橋(ふからむら・ゆるぎはし)」は現在は裾野市の一部になっています。御殿場駅から1つ沼津寄りの佐野駅(現在の裾野駅)が最寄り駅なので、このはがきは佐野駅構内の郵便箱に投函されたのでしょう。佐野駅で下り列車の郵便車に乗務した郵便係員が取り集めて引き受け押印し、さらに沼津駅で下り神戸方面行き郵便車に積み替えられ運ばれたと考えられます。

御殿場線概念図.jpg『てつゆう=梶原ノート=』は国府津沼津間の鉄道郵便を東海道線の区間便としていますが、誤りです。この線路は熱海回りの東海道線ではなく、箱根山の裏(西)側に大回りする御殿場線だからです(左の概念図参照)。横須賀線や身延線などと同様に独立した鉄道郵便線路として扱われるべきです。

もっとも、この本の編集者の誤解にも「理解できる」点があるのです。東海道線は創業以来ずっと、国府津沼津間を御殿場回りするルートでした。が、1934年(昭和9)12月1日に箱根外輪山の南東部山裾に丹那トンネルが開通し、熱海経由の国府津沼津間が東海道本線に変更されました。哀れ、御殿場ルートはローカル「御殿場線」に転落してしまいます。

以上を踏まえてさらに『てつゆう=梶原ノート=』を見ると、不可解なデータが載っていました。国府津沼津間で最古の「昭和3年6月28日(上二)」という他に突出して早い日付があります。この時期は御殿場回りの東海道線しかなく、東海道線とすればこんな区間便は無用でした。「昭和13年」などの誤りではないでしょうか。

【追記】(2019.4.10) 「逓信公報」で調べたら、やはり昭和9年11月28日付の告知欄に「12月1日から御殿場線に国府津沼津間鉄道3等郵便線路を新設する」趣旨の記事が掲載されていました。国府津沼津間という鉄道郵便線路は東海道線のルート変更と同時に誕生したことが分かります。これで、「昭和3年」はあり得ないデータと断定できます。
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2018年03月12日

丸一「阿多野新田」出現

阿多野新田.jpg駿河国駿東郡内の丸一印時代17局所のうち印影が未発見だった2局の一つ、「阿多野新田(あだのしんでん)」を関西の大手オークションで最近入手しました。

菊10銭に「駿河/阿多野新田 (明治)40年7月13日」とフルストライクされています。局種が無集配3等局なので、下部便号欄は空欄です。恐らく1枚貼り書留書状(3+7=10銭)からはがされたのでしょう。1905年(明治38)4月1日以降は無集配局でも書留など特殊取扱郵便物に限り、それまでの集配局に代わって消印を押すようになっていました。

阿多野線路図-3.jpg阿多野新田は1903年(明治36)12月10日に全国で数百もの郵便受取所が一斉に開設されたさいの一つとして北郷村阿多野新田に設置されました。小山局の集配管内です(左郵便線路図参照=後出『駿河国の丸一印』より、一部を筆者改変)。1885年に開設わずか1年で廃止された同村の古沢局を穴埋めする意味もありそうです。1941年に北郷局と改称、村も戦後に小山町に編入されました。北郷局の現在地は小山町用沢で、受取所当時から移転したのかは未調査です。

阿多野と言えば、大きな貯水池で知られます。GANが子供の頃は東山湖、乙女峠、金時山、神山種畜場などと並ぶ遠足の定番目的地でした。今に思うと、この貯水池は鮎沢川(酒匂川)の支流・須川の河岸段丘上にあって新田開発のほか水力発電用ダムとして利用されていたようです。関東大震災まで小山地方の産業を一手に支えた富士紡績など大工場群の電力を賄ったのでしょう。

駿東郡の丸一印17局所とは、沼津、原、佐野、御殿場、小山など9郵便局と沼津上土、御殿場中町、三島駅などの8郵便受取所です。浜松の消印研究家・池田進氏(故人)は労作『駿河国の丸一印』(1985年)で、桃郷、片浜(共に現在の沼津市)、阿多野新田の3受取所を除く14局所の印影を発表していました。

その後、やはり浜松の藤田容弘氏が『駿東郡の郵便印』(2005年)に「桃郷」を発表しました。今回の「阿多野新田」の出現で、あとは「片浜」が残るだけとなりました。駿東郡の丸一印印影の完全解明はいよいよ「秒読み」段階に入ったと言えそうです。
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2017年08月25日

5倍遠回りしても鉄道便

駿河小山.jpg菊赤紫3銭貼りの書状を静岡県の小山局で明治37年(1904)10月20日ハ便で引き受け、山梨県の吉田局に翌21日ロ便で到着しています。最近のヤフオクで、駿東郡のカバーということで入手しました。平凡な郵便のはずでしたが、封の下部に東京行き上り鉄道郵便印が押されています。これは大問題です。

小山から逓送する場合、通常は隣の御殿場に送り出した後、須走を経て甲駿国境の籠坂峠を越え、谷村、大月方面に至る逓送路が利用出来ます。小山-御殿場-吉田間は50㎞足らずで、翌日配達か、便の連絡が非常によければ即日配達だって可能な距離です。(下図参照)

小山吉田間逓送路.png

これに対し、上り鉄道便に乗ったらこの書状は東京まで行ってしまいます。東京からは現在の中央線に積み替えて大月から運ぶほかありません。駿河小山-東京間、東京-大月間は共に100㎞以上あり、大月-吉田間を加えると合計250㎞の距離を逓送することになります。通常の御殿場経由ルートの5倍もの遠距離です。

ここで蛇足ながら、吉田、御殿場、須走(現在は小山町の一部)はいずれも富士登山道の登り口です。受取人は富士山信仰「冨士講」の御師(おし=神職兼登山ガイド兼宿泊所経営者)でした。

そもそも200㎞も余計な大回りをした挙げ句、翌日に平然と吉田に着くことなど出来るものでしょうか。それとも、この鉄郵印「東京静岡間/37年10月20日上り便」は一種の紛来印で、誤って郵便車に乗せられたのでしょうか。鉄郵係員が気付いて国府津駅あたりで降ろし、御殿場に逆送して通常ルートに乗った、という可能性もあります。

結論から言うと、東京回りは時間的に可能でした。収友の鉄道郵便専門家・児玉敏夫氏に貴重な当時の時刻表でご協力いただき、併せて「逓信公報」告知欄を日を追い調べたところ、行程時間は次のようになります。「東京静岡間」が1日上下1便ずつしかないので時間を確定できました。

10月20日 小山局-駿河小山駅-(官設東海道線)東京・静岡間上り便18:05-21:35新橋駅-東京局(泊)
10月21日 東京局-飯田町駅-(甲武鉄道)東京・八王子間下り1号便04:50-06:35八王子駅-(官設中央線)八王子・韮崎間下り1号便06:45-08:40大月駅-大月局-吉田局

アリバイ成立! この書状が東海道線と中央線を経由する東京大迂回ルートで逓送されたことが確実となりました。すると次の問題は、なぜ通常の御殿場-須走ルートでなく、「逆方向」で面倒な積み替えが何度も必要となる東京ルートが選択されたかです。「急がば廻れ」「距離は長くも時間は短い」の類いだったのでしょうか。

当時は須走局から御殿場局へ1日2回の持ち戻り便があり、御殿場局発が04:29と14:10でした。小山局の引受印「ハ便」は恐らく夕方の時間帯だったでしょうから、須走行き2号便には間に合わないかも知れません。機転を利かせた小山局員が「逆転の発想」で、これから到着する静岡発新橋行き郵便車に積み込んだ、というシナリオはあり得ます。

しかし、実を言うとこの判断もやや危うい。書状が仮に御殿場局まで送られて1泊するにしても、翌日の1号便で差し立てれば吉田には即日到着出来るはずだからです。

ただし、御殿場局への最終便も出た後だったら話は別です。やむなく小山局で1泊すると、翌日未明の非常に早い御殿場局1号便にも間に合わないかも知れない。御殿場局で2号便まで漫然と待たされると須走に夕方の15:42着となって、またもや1泊ともなりかねません。吉田へ着くのに3日掛かり、という最悪の場合も考えられるのです。

小山局のとった処置の当否は結局、「ハ便」の時間帯が実際に何時だったのかに依ります。今後の資料の発掘に期待しましょう。GANとしては、便数の少ない当時の田舎の局としてユーザーのため最善の配慮をした結果だったろうと理解しています。

蛇足ですが、この鉄道郵便印、丸一型東京静岡間の「37年10月20日上り便」は上・下便を通じて最古データを更新するもののようです。最新刊の『てつゆう=梶原ノート=』(2014年、鳴美)によると、最古は「38.7.17上り便」となっています。
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2017年07月31日

富士山局の開設はいつ?

富士山頂.jpg今から28年前の平成元年(1989)8月1日に富士山頂局は「開局80周年」と称する左図のような小型記念日付印を使いました。これによると、富士山頂局は80年前、つまり明治42年(1909)に開局したことになります。

ところが、これはトンデモな誤りで、実際の開局はこれより3年前の明治39年(1906)でした。丸一印や季節局・特設局・山岳局印などのコレクターにとってはごく常識的な話で、「明治42年」説など何の根拠もありません。

当時GANは東京にいて、この小型印が使われたことは知りませんでした。しかし、10年後の1999年には静岡県沼津市に移住していて、地元紙の「富士山頂局が開局90周年を祝ってイベントを催す」という記事を読んで仰天しました。富士山39年.png富士山頂局の管理は当時既に御殿場局から富士宮局に移っていたので、その担当者に電話しました。

GAN「今年は開局93年が正しい。90年とする根拠は何か」
富士宮局「郵便局の沿革録に明治42年開局と書いてある」
G「だったらそれが誤り。逓信公報に明治39年開局の告示(右図)がある」
局「調べる必要はない。郵政省が認めており、80年には小型印も使った」
G「自分自身の歴史を間違って、恥ずかしくないのか」
局「間違っていない。明治42年開局が郵政の公式見解だ」

郵政民営化の前だったとは言え、何とも傲慢で官僚体質丸出しの職員の言い分でした。GAN以外にも内外から疑問・抗議の声が出たはずですが、当局はすべてほっかぶりです。日本郵政となった2009年には、「開局100周年」イベントまでやったそうです。現代日本官僚の宿痾である歴史無視・軽視体質がそのまま表れています。

確認しておきますが、「富士山」局が開設されたのは明治39年7月30日のことです。富士山吉田口と須走口の登山道が合流する8合目の石積みの山室が局舎でした。登山口の山梨県吉田局が管理し、丸一型「甲斐/富士山」日付印が使われています。シーズン中だけ営業する、いわゆる「季節局」で、9月10日に閉鎖されました。

富士山局.jpg富士山局局長には吉田局長が兼任で発令されました。8月14日にこの局舎で開局記念祝賀会を開き、袋入り3枚組みの記念絵葉書(右図)まで発行しています。しかも祝賀会記念として、この富士山局印を朱色で押印しました。数少ない丸一色変わり印として人気の高い珍印となっています。ヒゲの豊かな顔写真を絵葉書に大きくあしらっているこの局長氏、なかなかの張り切り屋さんだったようです。

翌40年には富士山局は御殿場口頂上に移転して7月16日に開設され、8月31日に閉鎖されました。元の吉田・須走口8合目には同じ7月16日に別に「富士山北」局が新設されています。この年から日付印形式が櫛型に移行したので、富士山局の丸一型印は前年、39年の1回限りとなりました。

以後毎年シーズンになると、頂上に富士山局、8合目に富士山北局の2局が開設されました。太平洋戦争期の休止をはさんで戦後再開された富士山局は「富士山頂」局と改称されて今日まで続いています。富士山北局は1962年を最後に廃止されました。その代わり、1991年になって山梨県の有料道路「富士スバルライン」終点に「富士山五合目」簡易局が新設されています。

ところで、当局が祝う「明治42年」とは何だったのか。この年に富士山、富士山北両局の開設時期を毎年一定の7月20日-8月31日と定める告示が出ています。以後はいちいち開設・廃止を告示しなくなりました。逓信公報の読み方も知らない戦後官僚たちがこれを「富士山局の開設を確定した告示」と誤解した可能性が考えられます。
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2017年06月03日

駿河にあった?三島駅

三島駅04.jpg菊1/2銭の田型ブロック上に丸一印。薄くて不鮮明ですが、辛うじて「駿河/三島驛 四十二年八月十一日(下部空)」と読めます。元もとの使用形態は不明ですが、切手貯金台紙からはがされたものかも知れません。関西の大手オークションでの落札品が今日届きました。

金沢駅や富山駅など北陸地方で見かける鉄道電信取扱所印のようにも見えますが、実はこれは「三島駅」という名称の郵便受取所の日付印です。明治35(1902)年2月1日に全国113個所で一斉開設された受取所の一つでした。1928(昭和3)年に「三島駅前局」と改称されていることから、駅構内ではなく駅前に設置されていたのでしょう。

三島駅02.jpgところで、三島と言えば伊豆国の「首府」だったはず。それがどうしてこの印影では「駿河」と表示されているのでしょうか? 当時の三島駅は現在新幹線が停車する三島市(旧伊豆国君澤郡三島町)ではなく、駿河国駿東郡長泉村(現在は長泉町)下土狩(しもとがり)にありました。三島じゃないのにビッグネームを僭称したわけです。

下土狩の三島駅と「伊豆の三島」、つまり旧東海道三島宿だった三島市街地との間は伊豆鉄道(後に駿豆鉄道)の路面電車が結んでいました。距離感からすると、この電車で30分近くかかったのではないでしょうか。現在は新旧の両三島駅間は廃線となり軌道は撤去されましたが、新三島駅の先は伊豆箱根鉄道となって修善寺まで運行されています。三島駅受取所の集配局の三島局はもちろん、三島市街の大中島にありました。

時刻表.jpgこの消印が押された1909(明治42)年8月現在の鉄道時刻表(博文館『鉄道汽船旅行案内』)の一部を左図に示します。鉄道郵便の専門家・児玉敏夫氏からご提供頂いたものです。東海道線が御殿場、山北回りで、三島駅は御殿場駅と沼津駅の間にあったことが分かります(現在の三島駅は次節のとおり熱海駅と沼津駅の間です)。

1934(昭和9)年に箱根山の下をくぐる丹那トンネルが貫通すると、東海道線は沼津から先が、「伊豆の三島」、熱海、小田原を経由する路線に替わります。新三島駅が三島町内で開業したため、旧三島駅は御殿場線下土狩駅と変わりました。同じ名称の「三島駅」でも、丹那開通の前と後とではまったくの別ものなのです。

かつての三島駅受取所は、現在も下土狩駅前広場の南東50mほどの場所で無集配の下土狩局として続いています。それなら所名も初めから「長泉受取所」とか「下土狩受取所」にしていれば良さそうなものを。しかし、逓信当局としてはあくまでも東海道線三島駅と結びついた郵便機関と考え、地元民のために開設する考えは薄かったのでしょう。

結局、「駿河/三島駅」という矛盾に満ちた丸一印は、「静岡・三島駅」と表示(たぶん)された櫛型印に切り替わる1910年まで8年近く続きました。この田型ブロックの印影は廃止4ヵ月前の使用例だったことになります。
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2015年12月16日

「駿河・小山」という櫛型印

駿河小山.jpg静岡県の最北東端にあり、神奈川県や山梨県と境を接する駿東郡の小山局で引き受けられた1914(大正3)年、紫分銅はがきの年賀状です。局名表示はやや不鮮ですが「駿河・小山」となっています。ごく最近、ネットオークションで入手しました。

櫛型印は1906(明治39)年から1、2等局に、4年後の1910年からは3等局にも導入されました。そのさい、3等局では原則として局名の前に県名を置き、間に・(中黒=ピリオドに似るが、文字位置が中央部で底部のピリオドより高い)を入れる形式が採用されたこともよく知られています。

この小山局の櫛型印も3等局の形式を踏んでいるのですが、県名が本来あるべき「静岡」ではなく、旧国名の「駿河」となっている点でユ駿河小山-2.jpgニークです。「小山」は、栃木県にある同名の局(読み方も共に「おやま」)の方が有名です。鉄道では、静岡県側のJR駅は「駿河小山」として区別しています。局名表示もこれにならったのでしょうか。

しかし、この解釈はただちに否定されます。櫛型印で旧国名を表示した3等局は、全国でも「駿河・御殿場」と、この「駿河・小山」の2局だけしかありません(北海道の特例を除く)。小山と同じ駿東郡に属した佐野局(現在は裾野局)も栃木や大阪などに同名があるのに「静岡・佐野」であって、「駿河・佐野」の櫛型印は存在しないのです。

こうなるともう、これは「違則」というより「エラー」印としか言いようがありません。ただし、エラーとしてもなかなかのもので、櫛型印導入後、4、5年間は堂々と使い続けたようなのです。GANの収品では「駿河・御殿場」なら明治43年8月14日から大正2年5月10日まで6点のエンタイアがあります。

GANの「駿河・小山」はこの1点だけですが、これまでのデータは『消印とエンタイヤ』185号(1972年12月)に和田芳博氏が発表した「大正2年12月31日」があるだけでした。43年ぶりの第2例で、偶然にも和田氏の翌日のデータです。写真が出るのは今回が初めてです。

両局と隣接する須走局では同期間中も「静岡・須走」しか使っていない一方で、御殿場局では「静岡・御殿場」印も並行して使われた形跡があります。県名「駿河」は本当にエラーだったのか、エラーだとしたら、なぜ数年間も使い続けたのか、「駿河・御殿場」と「静岡・御殿場」は使い分けがあったのか。同じ横浜監督局管内の秦野や山北局で県名表示「相模」はないか――。ナゾの残る興味深い印影です。

追記】(2019.4.26) この記事を書いているさい、櫛型「相模・秦野」の使用例も見たような記憶もあったので資料をひっくり返したのですが見つかりませんでした。最近、日付印関係の別ファイルが出てきたので調べたところ、関口文雄氏が『日本フィラテリー』誌1988年4月号で報告していたことが分かりました。関口氏は「相模・秦野」の大正2年2月の郵便印と1月の為替貯金印を図示し、「(横浜局監督区で受注した)印判師がつい丸一印時代のクセで」誤刻したのではないかと推測しています。従って、本文の第4段落で旧国名表示の櫛型印は「駿河・御殿場」と「駿河・小山」の2局だけ、としたのはGANの誤りです。正しくは、「相模・秦野」を加えた3局が報告されていました。
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2014年05月30日

L波印の沼津局最初期例

沼津L波.jpg沼津局でユニバーサル社製郵便物押印機によって押印された私製はがきです。ユニバーサル機は大正時代中期にアメリカから輸入されたピッカピカの「最新鋭高級機」でした。

印影は6本の波形平行線と丸型の局名・日付部からなります。大正14(1925)年8月1日に引き受けられています。

関利貞氏『右書時代の機械印 Ⅱ』によると、沼津局のユニバーサル機による印影はこれまで大正15年年賀状以後しかデータが知られていないようです。このはがきは沼津局最初期使用例の4ヵ月更新となるでしょう。

沼津局には前年まで押印機はありませんでした。大正13年の年末に初めて林式押印機が導入され、14年の年賀状処理に使われまし沼津L波2.jpgた。その後に林式機はこのユニバーサル機と交換されたので、結果的に沼津局の林式印は1年だけに終わった--これは以前に書きました。

関氏の調査によると、林式機が入ると短期間でユニバーサル機に交代するという全国的な原則があるようで、その逆の例は見られません。国産の林式機はユニバーサル機の「練習台」に使われていた感じです。同時に林式機を使ったお隣の三島局でもまったく同じ経緯をたどっています。

ところで、この押印機による印影の呼び名ですが、根が単純なGANは単に「長型波形印」と分類・整理しています。しかし、ここは関氏(及びその先達としての丸島一廣氏)に敬意を表して「L波印」としておきましょう。「L」はLONGの略のようです。

一方、日本郵趣協会編『日本郵便印ハンドブック』は「唐草機械日付印(右書)/大型波形(縦型6本波)」と名付けています。こんなばかばかしい名前、いったいだれが使うでしょうか。正確にしたつもりかも知れませんが、分かりにくく紛らわしい。センスというものの全くないネーミング、というほかありません。
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2014年03月12日

「リ一七」御殿場局記番印

RI-17.jpg今日届いたネットオークションの落札品で、御殿場から東京に宛てた、記番印の押された小判はがきです(画像=クリックで拡大できます)。御殿場はKG10月24日、中継の沼津もKG印で10月25日ですが、幸い東京のN2B2印から明治11(1878)年と分かります。

東京印は「十二年」の可能性もあったので、田中寛氏のご教示を受けました。それによると、東京は12年9月30日までN2B2で、翌日からN3B2に切り替わっているそうです。

従って、12年10月26日のN2B2はあり得ず、このはがきの東京着印は「十一年」で確定できました。一発回答です。嗚呼、持つべきものは友人哉。それと、友がすぐ引っ張り出してくれた先人のデータです。両方に感謝!!

駿河国駿東郡の記番印、なかでも東海道筋からはずれた富士山麓のリ一六(佐野)、リ一七(御殿場)、リ一八(竹ノ下)、リ一九(須走)は、なかなかお目にかかれません。GANもこのはがきがやっと入手できた第1号です。

郵便として興味深いのは、御殿場から東京に向かうのに沼津を経由している点です。今でこそ御殿場-東京間は東名高速を厚木経由でひとっ走りですが、それを「逆送」して沼津で東海道に出ています。一見後戻りとも見えるこの逓送路がなぜ採用されたのか、課題です。

御殿場を出て沼津を経由しない逓送路としては、竹ノ下から足柄峠を越えて相模国関本-小田原のルート、竹ノ下から鮎沢川沿いに下って相模国松田惣領-小田原のルートが考えられます。しかし、これら「小田原ルート」を証するエンタイアを、残念ながらGANはまだ見ていません。極端な例として、小田原宛てを沼津で中継した手紙もあります。

東海道線が沼津-御殿場-松田-国府津を結んで開通するのは1889(明治22)年のことでした。以後の逓送は鉄道に搭載するので極めて分かりやすい。では、その以前は--。

沼津ルートが主流だが、小田原ルートも何らかの条件しだいで使われた、というのがGANの仮説です。その条件とは何だったのか、いま考えています。

追記(2014.03.20) その後、田中寛氏にお調べいただいた結果によると、明治10年線路図には竹ノ下から先、相模国への逓送路はなく、どん詰まりになっているそうです。御殿場から小田原方面へは直行せず、すべて大回りして沼津経由だった、が結論でした。道遠し、幻の「小田原ルート」解明、です。
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2014年02月25日

富士山頂の御殿場局分室

FUJI.jpg御殿場局臨時富士山頂分室で開設初日の昭和23(1948)年7月10日に引き受けられた封筒(右画像=クリックで拡大できます)です。荒井国太郎氏が分室にオーダーキャンセル(下画像)を依頼し、その返信用として同封されたものと思われます。荒井氏が亡くなってしばらく経ってから、地方のオークションに出品されました。

たかが古封筒1通の由来をつべこべと述べる理由は、臨時分室のエンタイアはこの1通しか知られていないからです。実逓便が出現しないので、電信専業の分室だと思われていました。これが現れて、初めて郵便を扱っていたことが分かったのです。

富士山局は1906(明治39)年に開設された季節(定期開設)局ですが、戦前はいつまで開設されていたのか、資料がありません。富士山局収集の権威・長田伊玖雄氏のご教示によると、富士登山は戦争のため1942(昭和17)年夏限りで禁止されました。戦前の開設はこの年が最後と考えられるそうです。

FUJI 2.jpgこの分室は従って、富士山で6年ぶりに再開された郵便施設ということになります。この年は臨時分室でしたが、翌1949年夏からは富士山頂局として毎年開設されています。

この年は山開きに合わせて7月15日に富士箱根国立公園切手(第2次)が発行されました。富士山頂局で引き受けられた初日カバーもよく見られます。

富士山局は開設翌年からずっと山頂の浅間大社奥宮の隣に開設されています。富士山8合目以上は浅間大社の境内地で、法的には静岡・山梨両県いずれにも帰属しません。しかし、慣例的に浅間大社奥宮の場所は静岡県富士郡と駿東郡の最北・最西端として扱われてきました。だから、富士山局は「駿東郡」収集の範囲内だ、とGANは(強引に)考えています。

追記(2016.09.06) その後、逓信公報を調べていて、富士山局閉鎖の告示が出ていることに気が付きました。次の通りです。
昭和18年6月28日告示第757号(6月29日付逓信公報第4896号登載)
 左記郵便局ハ当分ノ間閉鎖ス 富士山北郵便局、富士山郵便局
結果として昭和17(1942)年夏の開設が最後となりました。長田氏ご教示の通りです。

ちなみに、この告示では富士山局の位置が御殿場ではなく、「富士郡富士根村大字粟倉」となっています。GANの主義主張と異なる「不都合な事実」なので、ここだけ無視することとします。
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2014年02月14日

雪中に栽培する水菜

MIZUNA.JPG

筆者の現住地は、はるか秩父山系から連なる多摩丘陵の最末端部に当たります。今日は早朝から都心部に勝る大雪が降り積もりました。お散歩に連れ出した犬は雪だまりにジャンプし、かけずり回って大はしゃぎです。たまたま国から漬物が届いたこともあり、雪をかぶって青々と立つ水菜の姿が目に浮かびました。

水菜は富士山南麓、御殿場・小山地区特産の菜っ葉です。菜の花畑は小学唱歌のとおり春の風物詩ですが、かの地では積雪も見る厳冬期に豊富な富士山の湧水を水田に流して水菜を水耕栽培します。菜っ葉はふつう、薹(とう)が立つと筋が硬くなって食べられませんが、水菜は薹が立ち始めたころが歯応えよく食べ頃です。「薹菜(とうな)」とも呼ばれるのは、そのためです。

お浸しもよいですが、普通は漬物(画像=クリックで拡大できます)で食べます。ほのかに青臭い野生の香りとアブラナ科特有のわずかにピリ辛い苦みが身上。スーパーで我が物顔する無味無臭のハウス野菜や添加物満載の解凍漬物などとはまったく異質です。

細かく刻んでちょっとおかかを混ぜ、お醤油少々を垂らすと、かっこうの酒の肴になります。熱あつのご飯にまぶせば、何杯でもいけちゃいます。GANの幼い日、父は漬けた水菜の葉を箸で器用に広げ、ご飯をひと口分にくるんで食べさせてくれたものでした。

1月末から2月のちょうど今ぐらいが収穫期です。「水かけ菜」の商品名で出荷されていますが、期間限定・少量生産のため、消費地にはとても出回りません。地産地消の典型的な地場産品に終わっています。GANは両隣さんにもお裾分けして「珍しい」と喜ばれました。いつかこの水菜で起業してガッポリ大儲け、と密かに妄想を逞しくしているのですが……。
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2014年02月06日

沼津局1回だけの林式印

沼津林.JPG近着の入荷品です。これも平凡な銘付き分銅はがきの大正14(1925)年年賀状に過ぎませんが、「沼津 14.1.1」櫛型印が手押し印でなく林式機械印なのが、取り上げる理由です。

関利貞氏の『林式郵便葉書押印機による印影について(前編)』によると、駿河国の沼津局はお隣の三島局と共に、大正14年の年賀状処理用に初めて林機を導入しました。

しかし、翌年からはもっと優秀なL型波線の付いた米ユニバーサル社系機に切り替えられてしまいます。つまり、沼津、三島両局で林式印はわずか1回、年賀特別取扱の2週間程度しか使われなかったことになります。

nu3.jpg両局に押印機が導入されたのは、共に大正11(1922)年に郵便局のランクが3等局から2等局に昇格したことと関係があるのでしょう。

同じような押印機使用状況をたどった東京の寺島、亀戸局などと比べ、やはり地方の小局です。「沼津」「三島」林式印は、長らく密かに待っていたGANの眼前にはなかなか出現してくれなかったものです。

まったくの蛇足ですが、GANが高校生時代を送った静岡県東部の中心都市・沼津には1879年の郡区町村編制法以来、駿東郡役所が置かれていました。

大正12(1923)年7月に合併により沼津町は沼津市となり、駿東郡から離脱します。すると、大正14年は駿東郡ではないじゃないかって? まあまあ、固イコトナシヨ。この地域はGANが愛着する収集範囲です。
posted by GANさん at 14:24| Comment(2) | TrackBack(0) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする