2015年11月09日

ロシアの山海関野戦局

山海関-1.jpg山海関-2.jpg北清事変を機に清国領土の満洲を占領したロシア軍が開設した山海関局のカバーです。つい最近の東欧のオークションで入手しました。

自家製の封筒裏面に紋章14kペアと2kを貼りSHANKHAIGUAN山海関野戦電信取扱所1903年3月20日(太陽暦4月2日)の日付印で引き受けられています。フランスのシャラントCharente宛てで、到着印は一部読めませんが、4月26日のようです。

山海関自体は万里の長城に面した中国本土の都市ですが、この日付印にはPRIAMUR OKRUG(沿黒竜江地区)と表示されています。完全な清国領土内であることを無視し、まるでロシア領と言わんばかりの扱いです。

封筒表面に「ポルト・アルトゥール(日本占領後は旅順)、モスクワ経由」と経路指定が書かれています。全通直後の東清鉄道南部支線-東清鉄道本線-シベリア鉄道ルートで運ばれたことが分かります。当時の外郵封書料金は10kなので、計30k貼りは3倍重量(45g)便です。

山海関-3.jpg例によってチリンギリアンTCHILINGHIRIAN『外国で使われたロシア帝国の切手』に教えを乞うと、北清事変に際し、ロシア軍は天津-新民屯間の鉄道と共に山海関-愛琿間の電信線を占領しました。この取扱所も1900年に清国電信局を占領して開設され、民間郵便も扱う事実上の普通局でした。

北清事変終結後もロシアは「野戦局所ではなく民間局だ」と主張し、1902年10月の第1次撤兵まで居座りを続けました。戦争のドサクサに紛れて在外局を増設する企みもあったのでしょう。

ロシアはその後、第2回目以降の撤兵の約束を実行せず国際的な非難を浴びます。満洲進出の野心を持つ日本には大きな障害と脅威で、開戦の名目にも使われました。このカバーは日露戦争の「前史」を物語るよい資料だと思います。
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2015年07月25日

セミョーノフ加刷のカバー

SEMYONOV.jpgロシア内戦期にセミョーノフ軍支配下の東部シベリア・チタで使われたカバーです。ロシア紋章5K切手を台に5R、70K切手に10Rを加刷した、いわゆる「セミョーノフ加刷」切手2種が貼られています。米切手商のネットショップでGANとしては「清水の舞台」級のお値段を支払い、今日到着しました。

グリゴリー・M・セミョーノフはザバイカル地方のコサックを反革命軍に組織して活躍し、「アタマン」(頭領)の称号で呼ばれました。日本陸軍は干渉出兵で東部シベリアを勢力下に収めた場合、セミョーノフを指導者に擁立する腹づもりでした。「悪逆非道」と悪評高い彼に資金や武器援助を続けましたが、最終的には見捨てて撤退します。

ザバイカル地方は反革命勢力として最も有力だったオムスクのコルチャーク政権の領域内です。しかし、セミョーノフは事実上の軍事政権を中心地のチタに樹立してオムスク政権に反抗、自立状態でした。その支配地域内で1919(大正8)年後半から極東共和国軍によってチタを追われる1920年10月まで使われたのが、セミョーノフ加刷切手です。

CHITA.JPGこのカバーは計15ルーブルの切手が貼られ、不鮮明部分もありますが、「チタ局1920年7月14日」の消印で引き受けられています。スウェーデン赤十字チタ支部からドイツ赤十字チタ支部宛て(だろうと思います)の市内便です。

裏面封じ目には露・独バイリンガルで「スウェーデン赤十字」と表した紫色丸型印が押されています。GANが身の程もわきまえず入手を決意する最後のひと押しとなりました。この手の込んだハンコまで偽造はないだろうと考えたからです。

セミョーノフ切手についての文献は少なく、実逓カバーの報告はあまり聞きません。内戦期ロシア切手真偽判定の権威・セレサ博士Dr.R.Ceresaの『1917-1923年のロシア切手』(V.3,Parts 19-21 Addenda)にも、1919年11月と12月の2点のオンピース(共にGazimuruski Zavod局消し)が図示されているだけです。

内戦期シベリア郵便史の専門家イヴォ・ステイン博士Dr.Ivo Steijnの調査によると、セミョーノフ地域での郵便レートは1920年7月以降、封書25ルーブル、はがき10ルーブルとされます。このカバーの料金15ルーブルだと当てはまりません。でも、市内封書(TOWN POST LETTERS)料金と考えれば、内国料金としての25ルーブルより安くとも辻褄が合いそうです。

念のためイヴォ・ステイン博士に問い合わせたところ、「local letter rate(市内料金)として15ルーブルは妥当と思う」との返事をもらいました。彼によると、「セミョーノフ切手のカバーは、私自身は幸運にも25年前に1通入手できたが、真正カバーは半ダースほどしか知られていない」ということです。収友に当分自慢できそうなネタが出来ました。
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2014年06月15日

再開直後の日露間郵便

TSURUGA.JPG日露戦争が終結して日露間の郵便が制限付きながら再開された初期のロシアはがきです。邦人旅行者がウラジオストクに安着したことを知らせています。

日露間の郵便は、戦争が始まった1904(明治37)年2月にシベリア経由欧州宛て郵便と共に断絶します。ポーツマス講和条約が05年9月締結、10月に発効しますが、郵便はただちには再開されませんでした。

06(明治39)年3月に敦賀・小樽とウラジオストクを結ぶ大家商船の日本海航路が再開されました。これに伴って7月3日からウラジオストク周辺とオホーツク海沿岸に限り郵便が通じるようになります。6月末に再開されたロシア東亜汽船便にも搭載されました。

ロシア全土宛ては翌07年5月から、シベリア鉄道経由欧州宛ては07年9月から、そしてシベリア鉄道経由南米宛てが08年4月に開通し、ようやく戦前と同様に復旧しました。遅れたのは戦争をきっかけに起きたロシアの革命運動による混乱が原因と見られます。

このはがきは帝政ロシアの内国用はがきに1コペーク紋章切手を加貼りしてU.P.U.料金4コペークとし、ウラジオストク局でロシア暦06年8月18日(日本の明治39年8月31日)に引き受けています。再開から2ヵ月足らずの初期使用例です。

敦賀まで運んだのは大家商船の鳳山丸か東亜汽船のモンゴリア号だったか、これだけでは判定できません。9月2日に敦賀局で中継印として欧文TSURUGA印を押し、翌3日に愛知県内海局で配達されました。発信から到着まで非常に効率的な逓送です。

外国郵便というのに、はがきの宛名が日本語だけで書かれています。下部中央に「日本行き」を表すロシア語の紫色印が押されているだけです。ウラジオストク局に直接投函されず、再開されたばかりの日本居留民会で受け付け、仕分けたことを示唆しています。
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2014年05月03日

ウラジオ居留民会扱い便

VLADIVO-1.jpgVLADIVO-2.jpg日露戦争後の明治43(1910)年にウラジオストク居留の日本人時計商から大阪に宛てた通信です。ステーショナリーは帝政ロシアの外信用4Kはがきが使われています。

ロシア語で「日本宛て」と書かれているほか、ロシア側の郵便印や表示類はいっさい見られません。1910年8月23日にウラジオストク(浦潮斯徳、浦潮)で発信し、2日後の8月25日に敦賀局で引き受けられています。

はがき表面にはいずれも横型角枠付きの紫色「浦潮居留民會扱」と黒紫色「PAQUEBOT」印が押されています。居留民会で日本向け郵便物をまとめ、ウラジオストク局を経ず敦賀行き定期船に直接持ち込んだのでしょう。

「PAQUEBOT(パクボー)」は郵便船の意味です。船舶に搭載されて郵便局に持ち込まれた郵便物であることを示します。このはがきのPAQUEBOT印はウラジオストク出航後に入港した敦賀局で押されています。

原暉之『ウラジオストク物語』によると、日露戦終了1年後の1906(明治39)年には商工業者を中心に日本人約千人が在住し、早くも戦前の3分の1規模に戻っています。全員加盟が義務づけられた居留民会がこの年に復活し、領事館の公務の一部まで担いました。その業務の中には郵便事務や乗船手続代行もありました。

在留邦人は日本向け郵便物はすべて居留民会に持ち込んだのでしょう。民会では船便の出航表を勘案してウラジオストク局に差し出す郵便物と日本行き船舶に載せる郵便物とを仕分けしたと見られます。

IMIGRE.jpg日本行き航路には大阪商船会社の敦賀便と小樽便、それにロシア義勇艦隊の敦賀便がありました。それらの仕分けの責任を負うために「浦潮居留民會扱」印が押されたと見られます。GANのコレクションでは、横型角枠印は明治43年8月までに限られ、43年9月以降は紫色日付入り丸二型印(画像左)に替わっています。

日本からの到着便も同様に民会経由だったのでしょう。堀江満智『ウラジオストクの日本人街』によると、民会事務所の廊下は邦人各戸の「私設私書箱」になっていたそうです。この場合、ウラジオストク局を経由しないでよいものか、それとも経由しているのか、少し気になります。

大阪商船は1907(明治40)年4月3日から敦賀浦潮間の直航線を開始し、新造の鳳山丸を投入して毎週1回運航しました。一方の義勇艦隊は歴史が長く、シベリア鉄道・東清鉄道との連絡に優れています。両者の間で激しい貨客の争奪戦が行われ、ロシア革命後に義勇艦隊が撤退するまで続きました。
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2014年04月21日

干渉戦争前夜の北満邦人

BLAGO-2.jpgBLAGO-1.jpg
レーニンらによるロシア社会主義革命後の内戦初期、中国・北満州最奥地の在留邦人が日本に宛てたロシア郵政のはがきです。1918(大正7)年夏の革命干渉戦争(シベリア出兵)前夜、日・中・露の3ヵ国をまたいでいます。近年のeBayで入手しました。

北満最北の都市・黒河に居留する日本人が黒龍江(アムール川)対岸のロシアの都市・ブラゴヴェシチェンスク(日本人間の略称:武市)で出した大正7年の年賀状です。帝政ロシアの外信用4Kはがきに紋章切手で4Kを加貼して8K料金としています。ケレンスキー政権時代の前年9月1日の料金改訂で、外信はがきも従来の4Kが2倍に値上げされたためです(RT氏のコメントを受け、この部分は修正しました=15年1月)。

宛先は日本語で墨書し、さらに露語で「日本 仙台宛て」のペン書きも加えられています。引受印は武市1917年12月21日(西暦1918年1月3日)。ウラジオストクで軍事検閲(裏面紫色角型印)を受け、敦賀1月21日を経て仙台で1月23日の配達です。この厳冬期に20日間で届いたのは、まずまずの速度でしょう。

武市からウラジオストクまでは鉄道を利用できました。発信者が黒河の中国局でなく、対岸のロシア局を利用したのはそのためです。黒龍江は大河ですが、冬期結氷すると徒歩で簡単に「渡河」できました。逆に、黒河から斉斉哈爾局なり哈爾賓局への内陸部を逓送したら、冬期は大変な日数を要したはずです。

この頃の武市や黒河には商人など数百人の居留邦人がいたようです。2ヵ月後、反革命コサックと日本人「自衛団」が結託して武市の革命政権の武力転覆を謀った「ブラゴヴェシチェンスク事件」が起きます。「自衛団」は敗れ、多数の死傷者を出して黒河に逃れました。はがきの発信者もこの血なまぐさい事件に関わったかも知れません。
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2014年03月11日

開設直後のロシア旅順局

PORT ARTUR.jpgロシア紋章4Kはがきに紋章1K無加刷切手を加貼した外信料金で旅順(ポート・アーサー)ロシア局が1898(明治31)年5月15日に引き受けた国際郵便です(画像=クリックで拡大できます)。

上海のロシア局が6月6日に中継し、ドイツ・キール局に7月11日に到着しています。上海から欧州までの経路が不明ですが、薄い印影から英船でスエズを回ったようにも見えます。

TCHILINGHIRIANの「外国で使われた帝政ロシア切手」によると、ロシアは旅順占領直後の1898年3月28日にポート・アーサー局を開設しました。最初期データは98年10月5日です。このはがきはそれを5ヵ月近く更新する最古使用例となります。確かに、ハンコは開局からわずか1ヵ月半らしく、極めて鮮明に見えます。

ロシアは日清戦争後の「三国干渉」で清国に恩を売り、旅順を含む遼東半島を租借しました。旅順に軍港と要塞を整備し、鉄道をシベリアから引き込んで、極東進出への巨大軍事拠点を建設します。のど元に匕首を突きつけられた形の日本は大いに焦り、ロシアとの妥協を図りますが、結局失敗します。

ところで、極東と欧州を最短距離で結ぶ鉄道ターミナルの旅順なのに、なぜこのはがきは真逆の海上を運ばれたのか。もちろん、シベリア鉄道に接続する東清鉄道がまだ工事中だったからです。哈爾賓-旅順間の東清鉄道南部支線の営業開通は1903年1月になりました。その1年後、日本はついにロシアとの戦争に踏み切ります。

このはがきは、当の旅順から、脅威におののく日本を横目にしつつヨーロッパに運ばれていったことになります。
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2014年02月02日

検閲封緘ラベルの謎

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今日は日曜というのに郵便配達が来ました。だいぶ前で忘れていたeBayで落としたカバー(画像=クリックで拡大できます)でした。ギリシャの業者は悠揚迫らぬものです。

旧蔵の仏人コレクターの書き込みにより「セミョーノフ軍の検閲カバー」との触れ込みですが、もちろんセミョーノフと無関係なことは承知でした。

反革命コルチャーク政権(オムスク政権)がまだ勢いがあったロシア内戦期、トムスクからパリに宛てたカバーです。革命政権の首都・モスクワやペテログラードから直行とはいかず、はるばる日本→北米経由の大迂回をして届いています。

旧露紋章切手計60コペックを貼り、トムスク19年2月10日引受、横浜19年3月1日中継、パリ到着19年4月14日は、まあ理解の範囲内。GANにはまったく解釈不能なのが英文の検閲封緘ラベルです。

「米や英を経由しただろうから当然」と考えがちですが、どっこい、このラベル、ウラジオストク局の検閲印(裏面紫色4行印=右画像)がタイしているのです。つまり、ウラジオストクかそれ以前に米英当局の検閲を受けたとせざるを得ない。

当時のウラジオストクには、日本のほか米英の干渉軍が出兵していました。その野戦局・軍事局が検閲した可能性がわずかに残ります。しかし、そんな面倒なこと、野戦の現場で実際にやるかなあ。GANはこれまで他に例を見たことが無く、大いに頭をひねっています。面白い研究材料を入手できました。

追記(2014.02.06) 英国の友人Ken Clark氏に問い合わせたところ、WW1検閲印の専門家Graham Mark氏の意見を聞いていただき、「英当局がウラジオストクで行った検閲」の封緘ラベルと分かりました。同氏の論文の該当個所コピーも送っていただいたので、目下鋭意解読中です。
posted by GANさん at 14:12| Comment(0) | TrackBack(0) | ロシア極東 | 更新情報をチェックする