2018年05月27日

北海道開拓使の青色電報

開拓使電報2.jpg最近東京であった大手フロアオークションで明治初期の北海道開拓使電報を落札しました。

明治12年(1879)7月25日に函館から発信された電信の送達紙で、福山電信分局が即日受信、配達しています。和紙の縦型用紙に福山分局の角型局印と二重丸型「検査済」割印がいずれも朱色で押されています。本州以南で使われた黒色でなく濃青色で印刷されている点が特異です。

当時、全国の電信事業は工部省の所管でした。しかし、北海道だけは北海道開拓使の専管地で、内務省や工部省などと同格の中央官庁である開拓使が行政を一手に握っていました。

東海道筋での郵便開始と同じ明治4年(1871)に工部省は早くも東京-青森間に電信線を設定する計画を立てました。工部電信線は3年後の明治7年10月に青森まで延伸されますが、これに合わせて開拓使も道内の電信線計画を進めました。

太政官達.jpg左図は壬申=明治5年6月28日に太政官(維新政府)が発した布令第133号です。箱館から東海岸回りの千歳経由で札幌までの電信線を開設し、将来は東京-青森線に接続させる構想を公表しています。

開拓使電信線は後に箱館-札幌線に加えて札幌-室蘭線も計画されました。両線は明治8年(1875)に開通し、3月20日に箱館、札幌、室蘭など7電信局を開設して「開拓使電信」が創業されました。福山もその時の1局です。

青森-函館間はこの頃デンマーク資本の大北電信会社が海底線を沈設して接続されました。東京から北海道までが電信で結ばれたことになります。

実は、北海道で開拓使電信が創業した3月20日は、先行した東京-長崎線の支線として小倉-熊本線が完工し、熊本電信局が開業したのと同じ日でした。東京を挟んで北海道から九州まで日本の電信の骨格線が1本に貫通した日本電信史のエポックを画す日だったのです。

この送達紙は刷色が青色であること以外は当時の工部電信(黒色)と全く同じ形式です。開拓使は電信運営技術を始め用紙の調達に至るまで工部省の基準に従ったのでしょう。今後の研究で、工部電信との実務面での運用の違いや独自印影などが分かれば面白いと思います。

福山は渡島半島西南端にあり、明治維新まで蝦夷地唯一の和人支配地だった松前藩の城下町でした。現在は松前町字福山で、町役場が置かれています。電文に「カスある。要るか。返(事せよ)」とあり、漁業関係の問屋同士の商談のようです。2回表れる「カス」とは、松前漬にも使われるカズノコのことでしょうか。

開拓使は「時限官庁」で廃止時期が定められていたため、開拓使の電信施設は工部省に全面移管されることになります。これにより明治15年(1882)3月20日付で函館、札幌、室蘭など全9局が工部省所管の電信分局に改定され、開拓使電信は7年間限りで幕を閉じました。

(本稿中の歴史的事実は、主として逓信省電務局編『帝国大日本電信沿革史』(1892年)に拠りました。)
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2017年12月29日

返信料を前払いした電報

前納電報-1.jpg前納電報-2.jpg「返信料前納電報」というものがあったことを、ごく最近にヤフオクで現物を入手して初めて知りました。すぐに返事をもらいたい電報の発信者が、受信者からの返信電報代を先に立て替え払いしておく制度のようです。

これは明治39年(1906)11月6日に岩手県西閉伊郡遠野局管内の某氏から同県稗貫郡花巻局管内の「ヤマキテン」に宛て発信された電報に対する返信電報の料金として20銭が前納されていることを示す花巻局作成の證書(上図左)です。證書の裏面(上図右)はその返信電報用の賴信紙(未使用)になっています。往復はがきの返信部と似た性格と言えそうです。

この證書には発行した花巻局の黒色局印と朱角印が押され、さらに電信事務用の下部空欄丸一印も上下に押されています。下部ミシン線の下は局に残される発行控えと思われます。裏面は「返信料前納電報返信用紙」とタイトルがあり、賴信紙として使えるようになっています。未使用に終わったため印影類は何もありません。表裏とも青色で印刷されています。

證書の面には「受領者の心得」として使用方法が詳しく記されています。30日以内ならどこの局所からでも元の発信者(遠野)宛てに無料で電報を発信できること、実際の電報料が20銭をオーバーした場合は差額分を郵便切手貼付で支払うこと、證書を使わない場合は60日以内に元の発信局(遠野局)に請求すれば料金が還付されること、などです。

元の発信者とは無関係な第三者宛ての電報に流用できるのかどうか明記はされていませんが、「いつ、どこからの電報に対する返信」と記入されているので、事実上禁止されていたのでしょう。前納された20銭は、同一市町村以外に宛てる「市外電報基本料金」(15字以内)に相当します。

花巻局では元の電報の送達紙を配達する電信事務封筒にこの證書を同封して受信人に渡したと考えられます。しかし、受信人はこの證書を利用せず、しかも前納料金の還付請求もしませんでした。ただでさえ返信料前納電報の利用が少なかったのに加え、還付請求もしなかったために證書が市中に残りました。極めて希少な例ではないかと思います。

電報を打った遠野の某氏は大至急返事をもらいたかったので、この制度を利用したに違いありません。相手のその焦慮する心を知ってか知らいでか、花巻の「ヤマキテン」は返事をネグレクトしてしまいました--。この「続編」はどうなったのか、ちょっぴり知りたい気もします。
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2017年06月24日

山縣通局欧文印で電報配達

山縣通.jpg上海発大連宛ての欧文電報です。関東州の大連山縣通局がDAIREN/YAMAGATADORI欧文印で1931(昭和6)年10月15日に配達しています。関西のメールオークションで落札し、今日届きました。

この電報は全文5行のテレックス印字のような英数字からなり、第3、4行目が本文です。4桁のアラビア数字1組で漢字1文字を表す、一種の暗号です。従って、この電文は12文字の漢字(中国語)です。今日のパソコンならIMEソフトが自動で漢字変換してくれますが、当時は膨大な厚さの換字表を繰って「解読」していました。

話には聞いていましたが、実際に漢字を送った電報というのをGANは今回初めて見ました。第1行目は発信に関する情報と思います。日本の上海電信局で受け付けたと推定しますが、発信時刻などは全く読み取れません。第2行目は宛先のはずですが、大連のどこなのでしょう。「1000」だけで住所・氏名を特定できるのでしょうか。

最後の行の「10.30M」は午前10時半に受信したことを表すと考えると、その後の「0.」も不明です。電報上部の鉛筆書き「陳松生」は受取人、「201」のナンバリング印字は配達番号なのでしょうか。柳条湖事件の約1ヵ月後で満州事変が始まったばかりの時期だけに、電文内容も戦乱に関連する取引関係かも知れません。いずれにしても分からないことだらけの電報です。

YAMAGATA.jpg分からないと言えば、配達した大連山縣通局も分からない存在です。この特異な欧文印で早くから注目されていた局ですが、無集配局の分際でなぜ「分不相応な」印を使えたのでしょう。国際郵便物を窓口で受け付けたとしても、集配する大連局で「DAIREN」印を押せば済むことです。無集配局の欧文印は、当時として類例がなかったのではないでしょうか。

ただ、無集配局でも電報を配達した「根拠」なら分かります。この局の前身、大連局大桟橋出張所は1907(明治40)年6月の開設当初から、電報配達業務を指定された特別な局でした(『関東逓信三十年史』)。大連港利用の旅客や入港中船舶などへの便宜のためでしょう。1923(大正12)年7月に山縣通に面した大連取引所構内に移転・改称した以後もこの業務を維持しました。

それにしても、大連市内中心部に宛てた電報を大連局ではなく大連山縣通局がなぜ受信、配達しているのか--。この辺の仕組みの解明が、この局の特殊性を理解する一つのカギとなりそうな気がします。
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2017年04月29日

電報配達は軍事郵便で

石家荘-1.jpg日中戦争の初期、日本軍が占領していた河北省の要衝・石家荘に駐屯した主計(経理)士官に配達された電報です。

送達紙の右下部に応急調製されたらしい丸二型日付印「石家荘/電報局 13.6.11」(左書き)が押されています。昭和13(1938)年6月11日に受信・配達されたことを表します。

東京の中野野方町局で午前11時55分に受付けられ、石家荘で午后11時52分に受信されています。わずか半日で海を渡って大陸の戦地にまで届いた、とても早い電報と言えます。内容は弟か息子の進学・受験問題のようです。

届け先名がとても長いのも、この電報の特徴です。片仮名で64字もあり、本文27字の2倍をはるかに上回ります。漢字に直すと、「石家荘駐屯 北支派遣軍 下本部隊気付 海老名部隊 沢木部隊 主計少尉 笠原チヅル」です。「石家荘駐屯」以外は普通の軍事郵便アドレスと同じ表記法です。

送達紙は満州電電会社のもので、日付印に昭和年号が使われていることから、中国局ではなく日本軍が管理する電報局です。職員が撤退した中国電報局を接収し、満州電電に業務の再建・運営を委託したのでしょう。日本の軍人と在留民の邦文電報に限ったサービスだったと思われます。

石家荘-2.jpg石家荘-3.jpg日中間を結ぶ電信は、日中戦争の以前から芝罘-大連間、青島-佐世保間、上海-長崎間の海底電線3線が敷設されていました。この電信は内地から佐世保経由で青島に送られ、青島で軍用電信線に接続されて北京経由石家荘に送信されたようです。

配達に使われた封筒(左図)も残っていて、興味深いことに「市内軍事郵便」扱いになっています。部隊宛ては電報局で直接配達せず、軍事郵便に託す決まりだったのかも知れません。この電報局は軍事郵便を差し出す権限のある軍衙(軍事官庁)扱いだったことが分かります。

封筒の宛先は漢字で書かれています。片仮名で受信したのに漢字になっているのは、電報局に極秘扱いの部隊配置表が渡されていたからに違いありません。こうなると、表面に押されている検閲者の赤色認印「宮本」は、電報局の課長や主任ではなく、派遣されていた監督将校の可能性もあります。

結果として、この時期の石家荘電報局は限りなく「野戦電信局」に近い性格と言えそうです。38年8月以降、この局は日中合弁の華北電電会社に移管されて中国の石家荘電報電話局となります。満州電電が扱った華北電報は38年前半の短期間だけと考えられます。
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2016年12月08日

戦地の病院船へ電報

神戸丸送達紙.jpg日露戦争中の病院船「神戸丸」に収容されていた戦傷者に宛てた電報送達紙と、それを郵送した電報送達の専用封筒です。ごく最近のネットオークションで入手し、到着したばかりです。

神戸丸は日本郵船の貨客船(2,901トン)で、1940年代の日華連絡船とは同名異船です。日露開戦直前の1904(明治37)年1月に海軍省にチャーターされました。開戦と同時にジュネーブ条約に基づく病院船として、僚船西京丸と共にロシア側に通告されています。

聯合艦隊に付属船として編入され、特務艦隊に属しました。詳細な行動記録は見当りませんが、単独で佐世保軍港と戦地との往復を繰り返していたようです。05年夏には陸軍の樺太攻略部隊輸送と支援のため編成された北遣艦隊に随伴しています。

神戸丸封.jpgこの電報ですが、明治37年11月9日に北見紋別局から発信されています。宛先アドレスは「在戦地 病院船神戸丸 第1病室」とあります。電文は「名誉ノ怪我、今ノ様子イカガ」です。発・受信者が同姓なので、親が我が子の戦傷を心配して一刻も早く症状を知ろうと打電したのかも知れません。

同日中に門司局に着信しましたが、神戸丸が門司港に入港しているわけではありません。ただちに専用封筒に「従門司郵便/電信局郵便(門司郵便電信局より郵便)」の印を押し、電信事務として「戦地」に郵送されました。

ところが、名宛人の負傷兵がこの電報を実際に手にしたのは12月11日でした。電報に本人による朱筆の書き込みがあることで分かります。この電報は神戸丸の行方を追跡して1ヵ月もかかってしまったようです。これでは電報としての用をなさず、郵便にしても結果は同じだった可能性があります。

封筒表面下部に12月10日の到着印が押されていますが、残念ながら不鮮明で局名が読めません。ただ、丸一印が使われているので、神戸丸はこの12月当時、「戦地」を後に朝鮮か内地の港湾に入港中だったと推定できます。大連や旅順など戦地の野戦局は丸二型印を使ったからです。

この電報で興味が持たれるのは、「戦地」宛て賴信を、紋別局はなぜ門司局に宛て送信したか、です。海軍関係で戦地との間の郵便なら、佐世保が交換局でした。電信の交換(中継)局は門司局と決まっていたのでしょうか。陸軍宛て電報だったら門司局は野戦局に郵送したのか。調べる余地はまだまだありそうです。
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2016年06月22日

南洋で電報を検閲した?

SAIPAN.jpgサイパンで着信、配達された電報の送達紙です。南洋庁製を示す銘が最下部に印刷されています。ネットオークションで落札し、今日到着しました。

誕生したばかりの男児に右翼の巨頭が命名してくれたことを伝える「ウナ電」(至急報)で、電報としてはありふれたものです。ただ、上部中央に大きく押された赤色角枠「検」印が、いやでも目につきます。いったいこれは、ナンジャラホイ。

サイパン局が電報を配達した昭和18(1943)年12月2日という時期にGANは注目します。このころは臨時郵便取締令によって南洋庁管内でも郵便検閲が行われていました。42年10月から44年3月までは間に合わせで各郵便局職員の認印を使い、その後は検閲専用の丸二印を導入して検閲をしたことが知られています。

この電報も配達の前に郵便と同様に検閲を受け、「検閲済み」を表すために「検」印が押されたと考えることが出来ます。--と書くと、いかにももっともらしく聞こえるのですが、このような印が押された電報の例は内地も含めて他になく、とても結論を出せるような話ではありません。

「検閲印」説に対しては、致命的な反論があり得ます。臨時郵便取締令はあくまでも郵便の検閲が目的で、電報は対象外でした。電報は書状やはがきと違って現物が受取人に届くことがない上、電文が多くの通信職員の目に触れるので、「防諜」を気遣う必要はないと考えられたのでしょう。

ただし、太平洋戦争中、実際に電報の検閲はなかったと断言することもできません。43年8月1日に逓信省が検閲業務の主管担当を初めて「大臣官房通信検閲課」として独立させたさい、逓信省分課規定が改正され、この課では「左ノ事務ヲ掌理ス」と定められました(第4条ノ2)。

 1、郵便及電気通信ノ検閲並ビニ電波ノ監視(以下通信検閲ト称ス)業務ノ規定ニ関スル事項
 (2、以下略)

郵便と並列させて電気通信、つまり電報の検閲も行うことを明記しているのです。郵便検閲については、曲がりなりにも臨時郵便取締令という根拠法令がありました。しかし、電報の検閲を可能とする法令が定められた事実はありません。国民の目に触れない内部規定だけで「憲法違反」の業務を定める形になっていました。

これはさらに多くの資料を集めてから考察すべき問題です。いったい、電報は検閲したのか、しなかったのか。1通の電報が私たちに新たな興味深い問題を投げかけています。

追記(2016.07.01) 本文で「電報の検閲を可能とする法令が定められた事実はありません。」としましたが、実際には1944年5月5日に運輸通信省令第67号「臨時電信電話取締規則」が制定(5月20日施行)されていたことに気付きました。規則第2条に「電報及電話通話ハ検閲ニ付ス」と定められています。

同時に制定された公達「電信電話検閲事務規程」では「検閲ニ当リテハ国防上ノ利益ヲ害(中略)スル通信ヲ検出シ之ヲ停止スベシ」と検閲の目的が明示されていました。郵便については緊急勅令で定めたのに、電信電話は大臣限りの決裁で出せるレベルの低い省令で規定しました。国会や枢密院の審議を経ず、国民にまったく知られない秘密立法と言えます。

本文で示したサイパンの角枠「検」印電報はこの規則より5ヵ月前なので、適用されないのは明らかです。しかし、1941年7月から電信電話に何らかの「取扱制限」が実施され、逐次強化されていた形跡があるので、さらに調べてみます。
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2014年06月21日

上海で配達の和文電報

SHAN-TELEG.jpg昭和初期に日本の上海電信局が配達した電報送達紙です。

在中国日本局は1922(大正11)年末限りで全廃されます。しかし、上海、芝罘、青島局は、郵便局を「電信局」に改定して残留を続けました。

とくに上海には日本側が保持する長崎-上海間海底電線ケーブルが陸揚げされていました。この管理、運営のためにも局所の存続が必要でした。

残留した3電信局で取り扱う電信は、日本本土とやりとりする和文電報(官報は欧文も可能)に限られていたようです。実質的に在留邦人の利用に限定することで、中国の通信権をなるべく損なわずに日本のインフラを維持する妥協策だったと思われます。

この電報は上海電信局で昭和5(1930)年10月9日午後3時35分に受信しています。勤務先から「母親が危篤なので、予定していた香港には行かずに上海から日本へ引き返してもよい」との趣旨の急報のようです。

東京・京橋局を午前8時23分の発信なので、7時間あまりで上海に届いています。もし中国局経由だと、欧文に直して発信するか、あるいは数字による換字法で全文漢字に置き換えなければならず、大変な手間だったでしょう。やはり日本電信局は便利な存在だったと言えます。

上海電信局(旧上海日本局)は、蘇州河が黄浦江にそそぐ河口北側の呉淞路交差点にありました。日本人街の中心部です。電報の宛て先「ワンル路」は地図上で不明でしたが、電信局と同じ共同租界の配達範囲内にあったのでしょう。

廃止前の在中国局では、電信用にA欄局名、C欄「支那」という形式の日付印を使っていました。この送達紙の右下部に押されている日付印はC欄「電信局」で、内地の電信専業局の日付印と同形式です。郵便局から電信局への改定に伴って日付印も変更されたと見られます。
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2014年06月01日

売れ残り記念切手活用術

JUBILEE.JPG日本最初の記念切手として知られる明治天皇銀婚2銭切手の25枚ブロックのオンピース(紙付き)です。

紙の上辺にわずかに文字の一部が残り、「郵便切手貼付用紙」と判読できます。東京局明治33(1900)年2月26日の丸一電話印で抹消してあります。

電話業務関連の料金が窓口で現金で支払われ、局側で相当する切手を貼って料金収納用の抹消をしたのでしょう。下部の切断ぐあいから、元々はこのブロックの倍の切手が貼られていた可能性があり、その場合は2銭×50枚=1円料金となります。電話加入料の年額なのかも知れません。

納付料金が50銭でも1円でも、この時期には既に発行されていた菊切手で1枚だけ貼れば簡単に済んだはずです。高額切手とはいえ、東京局で切らしていたはずがありません。なのになぜ、こんな面倒な使い方をしたのでしょう。GANは「デッドストックの使いつぶし」だと思っています。

明治銀婚は1894(明治27)年発行なので、既に6年も経っています。1,480万枚と印刷し過ぎて大量に売れ残り、さりとて記念切手をいつまでも売り続けるわけにもいきません。ディスカウントなど畏れ多いことはもってのほか。金庫に寝かすしかなかった切手ですが、料金収納用に局内で使ってしまえば大量消費できます。

こうして、わずか2銭の低額切手を何十枚も貼って納付料金の収納に当てるという事態が起きたのでしょう。これを明治人の「節約の智恵」と言うべきか、窓口に余計な労働を強いる「官僚の責任逃れ」だったのか。なかなか人間くさく、面白いケースだと思います。
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2014年04月05日

上海の軍艦に電報を郵送?

TENNRYU-1.jpgTENNRYU-2.jpg軍艦「天竜」に宛てた年賀電報です。「満州国」の満鉄吉林駅電信取扱所で引き受けられ、呉局昭和13(1938)年1月3日の配達印があります。最近の入手品です。

呉軍港に碇泊中の「天竜」に艀を使って配達された、と考えればそれまでですが、封筒が問題です。通常の電報配達用のパラフィン窓付きではなく、郵便用の通信事務封筒が使われています。これは呉局から郵便で差し立てられ、別の局によって配達されたことを意味します。

呉局では「天竜」が港内にいると考えて配達に出たものの、いないことが分かって持ち戻り、改めて所在を調べ直した上で郵送・再配達の手続きを取ったのではないでしょうか。封筒下部に「再2271」と書かれているのは、それを表しているようです。

転送先がどこかは封筒に書かれていません。しかし、軍港を受け持つ呉局ではすべての軍艦の最新の配達局が分かっていたはずです。例えば横須賀局宛て、佐世保局宛てといった郵袋を閉嚢で仕立てていたのではないでしょうか。この電報をコンテンツとする郵便も、そういった閉嚢で転送された可能性が考えられます。

巡洋艦「天竜」は当時、支那方面艦隊司令長官が直率する第3艦隊(上海)の主力・第10戦隊の旗艦でした。電報の名宛人・藤森清一郎少将はひと月前に着任したばかりの戦隊司令官です。

この時「天竜」は実際にどこにいたのか。「海軍公報(部内限)」で調べると、呉など内地港湾にはいません。少なくとも37年12月31日-38年1月6日の間は、支那方面艦隊兼第3艦隊旗艦「出雲」などと共に「作業地」にいました。

日中戦争の真っ最中で「出雲」が常に上海に碇泊していたことから、この場合の「作業地」とは上海と思われます。すると、この電報を納めた転送郵便は、門司局なり長崎局経由中国・上海局宛てに送られたのでしょうか。電報なのに、そんな長距離を郵送することがあるのでしょうか。それとも、中国局を介在させない特殊な逓送方法があったのでしょうか。

推測に推測を重ねたので、どこかに誤りがあるかも知れません。しかし、上海(でないまでも中国港湾のどこか)にいた軍艦宛ての電報を呉局で受信してしまったことまでは確実です。さあ、この電報はどうなったか。いずれにせよ、宛先が軍艦だったから起きた、なかなか面白いケースだと思います。
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2014年02月23日

ハイブリッド通信「電話便」

DENWABIN.jpg
大正期に東京と大阪だけで試行された、電話と郵便を併せたような「電話便」の送達紙です。桃色の厚手用紙にカーボン紙を使って手書きされ、やや不鮮明ですが「本郷 8.11.5 ★★★」の配達印が押されています(画像=クリックで拡大できます)。最近のネットオークションで入手しました。

やや場違いの感はありますが、「中国郵便史研究」第138、139号に筆名「松竹梅」氏の調査結果が「電話便とは?」「電話便の利用数」の2本の記事で次のように紹介されています。

――大正5(1916)年3月1日から東京市と大阪市で試験的に施行され、同一電話加入区域内相互間だけで利用できた。発信者は自己の加入電話か電話所から受信者最寄りの2等郵便局に電話をかける。局員が用件を聞き取って送達紙に記入し、直ちに受信者に配達する。料金は加入電話から7銭、電話所からだと10銭。利用者少なく収支相償わないため12年3月に廃止された――。

この電話便送達紙は、色や大きさは異なるものの、形式・内容が電報送達紙とほとんど同じです。配達に使われた「通信事務」の封筒も残っています。これも電報を郵便で配達する場合の送達紙を納める封筒と同様で、宛先が片仮名で書かれています。

「請求者電話番号」欄には番号でなく「小石川」と記入されています。発信者は小石川郵便局の電話所から電話したようです。受けた先が本郷郵便局ということは、両局の受持区域は「同一電話加入区」に属していたのでしょう。今日の東京都文京区は、旧小石川区と旧本郷区とからなっています。両局は隣接関係でした。

この時代、東京では郵便と電話の官署は既に分離していました。電話便は、電話局所管の施設・機器を利用して発信し、郵便局が受信・配達するというハイブリッド方式です。これがもし、「同一電話加入区」を超えて、例えば市外にまで発信できたら、別の発展をしたかも知れません。アイデア商品なだけに、ちょっと惜しい結末でした。
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