2019年04月21日

玉砕部隊に宛てたはがき

クェゼリン-2.jpg太平洋戦争中に南海の孤島や大陸奥地で敵軍に包囲され、援軍のないまま全滅した(当時は「玉砕」と美化して発表された)部隊は数知れません。そうとは知らない家郷から全滅部隊の兵士に宛てられた軍事郵便はどう取り扱われたでしょうか。一つの回答を与えるはがきがあります。

このはがき(左上図)は2銭楠公に1銭女工を加貼りして、昭和19年(1944)9月25日に埼玉県熊谷局で引き受けられた軍事郵便です。宛名の「ウ90」は南洋マーシャル群島クェゼリン環礁のクェゼリン島、「ウ50」は海軍の第61警備隊を表します。「うらら丸」は海軍省の『徴傭船舶名簿』によると、阿波国共同汽船会社の貨客船(407t)で、41年(昭和16)11月に海軍に徴用されました。

クェゼリン-1.jpg付箋があり、横須賀局軍事郵便課で「軍当局ノ指示ニ依リ返戻」と印刷されています(左下図)。結局このはがきは戦地には渡らず、熊谷-横須賀間を往復しただけに終わったわけですが、差出人は「軍当局ノ指示」とは何か、なぜ戻されてきたのか、理由が見当も付かなかったでしょう。

日本領土の最東部に当たるクェゼリン環礁には開戦以前から太平洋を進攻してくる(はずだった)米艦隊を迎え撃つ海軍の潜水艦基地などが建設されていました。実際、開戦劈頭のハワイ真珠湾攻撃に加わった第6艦隊の潜水艦部隊はここから出撃しています。

クェゼリンには基地施設を守るため海軍第61警備隊や、後になって陸軍も海上機動第一旅団、南洋第一支隊のそれぞれ一部を配置します。中部太平洋方面最前線の中枢基地として整備されていました。

米軍は44年1月下旬からクェゼリンに空襲と艦砲射撃を加え、2月2日から上陸を始めました。6日にクェゼリンと、同環礁内で飛行場のあるルオットの日本軍は全滅してしまいます。このはがきの宛名「うらら丸」は「44年1月30日沈没」と記録されています。61警備隊に所属していて、環礁内で米軍上陸直前の空襲を受けて撃沈されたのでしょう。

大本営は2月25日になって初めてクェゼリン、ルオットの陸海軍守備隊の「玉砕」を公表しました。一般国民もクェゼリンの兵士が全滅したことを知るわけですが、軍事郵便で「ウ90」と表示されるのがその場所とまではだれも知りません。知らないまま差し出されたこのはがきの宛先は、実は半年以上前に部隊が全滅してしまっていたクェゼリンだったのです。

これが日中戦争までだったら、「名宛人戦死」という付箋付きで戦地から返戻されていました。太平洋戦争で当局は「戦死」は国民の戦意高揚に有害と考えたようで、禁句でした。このはがきは、まして全滅部隊宛てなので、戦地に送るまでもなく軍事郵便交換局の横須賀局からそのまま戻されています。

この付箋は「名宛地ノ部隊玉砕セルニ依リ」と言わず、単に「軍当局ノ指示ニ依リ」としか説明していない点が不親切です。いかにも「大本営発表」で悪名高い軍部の独善的な秘密主義を表しています。名宛人がクェゼリンで戦死したと聞かされ、はがきが届かなかった真の理由を差出人が覚ったのは戦後になってのことだったと思われます。
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2019年01月27日

3セット型区別符の意味

イメージ-1.jpg2018年6月20日の当ブログで、海軍軍事郵便のアドレスとして使われる区別府に「3セット型」とも言うべき新タイプのあることを報告しました。区別符はふつう、片仮名「ウ、テ、イ、セ」の1文字+漢数字2文字を1セットとした2セットで所在地と部隊名を表しています。この他に1セット多い3セットのタイプも存在することが分かったのです。

前回は「呉局気付 セ45 セ41 ウ372」をご紹介しましたが、今回、新たに第2例目を発信(右上)・着信(右下)のセットで入手しました。誤記の疑いのない使用例が増えたことで、「3セット型」の意味と性格を確定することができたと思います。以下に続報としてお伝えします。

イメージ-2.jpg今回入手したアドレス表記は「横須賀局気付 ウ83 ウ84 ウ187」というものです。3セットある区別符を相対的位置によって「第1、2、3セット」と表現すると、次を表しています。(右図=第2セットがなぜ部隊名で、所在地名ではないかの説明は長くなるので省略します。)

 ・第1セット:ヤルート島イメージ
 ・第2セット:第10海軍郵便所第6派出所(部隊名)
 ・第3セット:横須賀鎮守府第6特別陸戦隊=横鎮6特陸

特別陸戦隊は海軍の陸上戦闘専門部隊で、各鎮守府に直属して機動的に行動します。定まった駐屯地がなく移動がひんぱんなので、他の海軍陸上部隊と違って所在地は常に流動的です。特別陸戦隊のアドレス表記は例外的なものが多く、収集家泣かせの常連です。

一方、厚生省の「恩給加算調書」によると、横鎮6特陸は1942年8月24日から43年2月15日までギルバート諸島(の内のタラワ環礁ベティオ島)に派遣されていたことが分かっています。この間、ギルバート諸島には海軍の郵便機関は未開設で、タラワに所在地区別符ウ66が指定されたのも42年10月からでした。

所在地区別符がないとき、そこにいる海軍部隊のアドレスはどう定めるでしょうか。最も近い既設の郵便所気付とするのが合理的です。当時、ギルバート諸島に直近の郵便所はヤルートの第10郵便所第6派出所(部隊区別符ウ84)でした。こうして、「タラワの横鎮6特陸」は「ウ84気付 ウ187」を得たはずです。

ところが、区別符によるアドレス表示法では「気付」は省略されるので、「ウ84」はグリーニッチの所在地区別符と見なされてしまいます。誤解されないように派出所所在地のヤルート島イメージを表す区別符「ウ83」を頭(第1セット)に付けたのでしょう。この3セット表示は「所在地区別符未設定期のアドレス表記」とすれば納得できるのです。

前回の「呉局気付 セ45」のケースは他からの転入部隊が所属する(上位の)部隊名を第2セットとして加えた例でした。共通して言えるのは、移動・転属部隊や区別符未設定地の部隊が、「気付」の意味で所属上位部隊や直近の郵便所の区別符を第2セットとして加えていることです。

「3セット型区別符」は海軍の郵便物取扱例規にも規定が終始ありませんでした。必要に迫られた現場の、いわば知恵の産物だったのかも知れません。
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2018年11月28日

35日間の軍事航空レート

41海軍1派.jpg1次昭和切手3種、計25銭貼りの軍事航空郵便はがきです。昭和17年(1942)5月5日に第41海軍軍用郵便所第1派出所(サイゴン)で引き受け、鳥取市に5月25日に着いています。最近のヤフオクで入手しました。

太平洋戦争開戦後、軍事郵便の公式取扱は42年1月15日から始まりました。軍事航空郵便は陸軍では当初から公用に限定して私用は扱わず、海軍は公用・私用とも取り扱いました。しかし、5月6日から航空郵便の全国的な取扱制限が始まると、海軍も私用航空を廃止(42年5月6日付海軍省通牒 官房第2749号)してしまいます。

この間に私用軍事航空料金が値上げされていました。4月1日の内国郵便料改定に合わせ、書状が30銭から50銭に、はがきは15銭から20銭になったのです。公用軍事航空は料金が無料なので、値上げとは無関係でした。

つまり、太平洋戦争中の有料軍事航空郵便は海軍の私用だけで、30銭/15銭レート時代が76日、50銭/20銭レート期はわずか35日間となります。ただし、中国・海南島などの海軍受命商社は例外で、42年5月以降も私用軍事航空の書状使用例数点が知られています。

このはがきは超短期間で終わった50銭/20銭レート期で、しかも私用航空廃止前日=最終日の使用例です。ただ、このはがきに実際に貼られている切手は25銭で、5銭余計です。これは日中戦争期以来長く続いてきた30銭/15銭レート期の類推から「はがきの航空料金は書状の半額」と思い込んでいて、誤認したためと考えられます。

差出人は特務艦「佐多」乗り組みの士官です。佐多は給油艦(タンカー)で、戦前は米サンペドロなどからの石油積み取りに当たっていました。この当時は、太平洋戦争の直接的な目的だったスマトラやボルネオ産石油の内地還送で華やかに活躍中でした。44年3月、佐多は米艦載機によりパラオで撃沈されています。
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2018年06月20日

海軍区別符に新タイプ

防空隊.jpg海軍軍事郵便の区別符で、これまでに知られていない表記形式のあるはがきを最近のヤフオクで入手しました。

このはがきは「呉局気付 セ四五 セ四一 ウ三七二」というアドレスで発信されています。「呉局」はこの軍事郵便の交換局で、「セ四五」以下は海軍の郵便用区別符(暗号)です。区別符は戦域別に「ウ」「テ」「イ」「セ」の片仮名4文字のいずれかに漢数字2、3桁を組み合わせた文字列で1セットになります。

区別府は通常2セットを連続して表記し、第1セットで所在地名、第2セットで部隊名を表します。例外的に第3セットまで表記する場合もありますが、それは第2セットの部隊の出先である「支部」「出張所」「支隊」「分遣隊」など分・支の隊を表す場合に限られていました。
区別符.png
このアドレスの場合、「セ45(以下、漢数字はアラビア数字に置換)」はマカッサル、「セ41」は第23特別根拠地隊です。すると、第3セットの「ウ372」は根拠地隊の支隊でしょうか。ところが、所定のコードブックで解読すると、これは第123防空隊です。分・支の隊なら、片仮名は本隊と同じ「セ」でなければなりません。

このように、第3セット目が分・支の隊ではなく独立した別の部隊を表す例はこれまで発表されていず、「新発見」です。すると、すぐに問題が起きます。セレベス島マカッサルに所在する部隊はよいとして、なぜ部隊名が二つもあるのか。発信者は根拠地隊員か、それとも防空隊員か。

これは、パラオとかソロモンなど他地区(ウ戦域)にいた防空隊がバンダ海(セ戦域)のマカッサルに転進し、根拠地隊に編入されたケースだろうとGANは考えます。根拠地隊は陸軍で言えば独立混成旅団に相当する大きな部隊で、地上部隊の他にごく小規模ながら航空、艦船部隊までかかえていました。この防空隊もマカッサルに「流れ着き」、取り敢えず大部隊に身を寄せたのでしょう。

普通、このような場合のアドレスは「呉局気付 セ45 ウ372」として、「セ41」は表記しません。原則を破ってまで敢えて上位部隊名を入れたのは、他戦域からの小規模な転属部隊の常で郵便物が迷子になりがちだったからでしょう。本当は「セ41」に「気付」を付け加えたかったところ、地名符と混同の恐れがありこの形にしたと思われます。

分・支の隊でないにもかかわらず、発信アドレスを区別符3セットで表記するこのような使い方は、海軍の軍事郵便法規集にありません。この時期、この地域限りの極めて例外的な使用例だったはずです。
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2017年10月25日

仏印特派大使府海軍部

仏印特使府.jpg平凡な海軍用の特別軍事航空はがきに過ぎませんが、発信アドレスがなかなかユニークです。「仏印221野戦郵便所気付 仏印特派大使府海軍部」とあります。発信時期が分かりませんが、1942年(昭和17)秋から翌春にかけての頃と思います。最近のヤフオクで落札しました。

仏印特派大使府は1941年7月の南部仏印進駐後、仏印総督府との間で「政務、経済関係をも一元的に処理する」ための外交機関として10月14日ハノイに特設されました。8月8日に開設が閣議決定されてから2個月も経っており、何か混乱があったことをうかがわせます。第221郵便所もハノイに開設されていた陸軍の野戦局です。

「特派大使府」とは他に聞かない名前です。従来のハノイ総領事館を拡充し、陸海軍代表も加えて事実上独立国の大使館並みに組織されました。特命全権大使には元駐仏大使の大物外交官・芳沢謙吉が任命されています。当時のフランスはドイツ占領下にありました。傀儡のビシー政権には東洋にまで外交権を及ぼす力がなかったための便宜的措置と思われます。

大使府には他の外交公館付属の陸・海軍武官府に相当する「陸軍部」と「海軍部」が領事部や経済部などと並んで置かれました。陸軍は仏印からの援蒋ルート遮断を監視する「西原機関」をハノイに設置していましたが、大使府に吸収されずに残りました。恐らく陸軍省が既得権を手放さず、外務省による「一元化」に抵抗したのでしょう。

このはがきは大使府海軍部からの発信ですが、海軍ではなく陸軍の郵便機関が取り扱っています。陸海軍の反目関係から見て、かなり珍しい使用例と言えます。海軍は第41軍用郵便所をサイゴンのセレター軍港内に開設していましたが、ハノイ方面には郵便機関がありません。やむを得ず陸軍の好意にすがった、ということでしょうか。

逆の例、陸軍側が海軍の郵便機関を利用したケースなら、中部太平洋方面などにたくさんあります。が、こうした場合はいずれも大本営の陸・海軍部間で「通信支援協定」が結ばれていました。1928年の済南事件の際や上海事変後の1935年にも陸海軍省間協定があります。この当時の仏印ではそのような協定は見当たらず、ごく少数の現地限りでの取扱だったと見られます。
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2017年02月25日

ラバウル海軍航空隊

204空.jpg銀翼連ねて、南の前線……などと歌っているとお年が知れてしまいますが、戦前世代にとって「ラバウル航空隊」の名はなかなかノスタルジックに響きます。このはがきはまさにその航空隊から差し出されました。ネットで落札し、今日手元に届いたばかりの新入品です。

はがきの発信アドレスは「横須賀局気付 第36海軍軍用郵便所気付 ウ105 ウ159 ④」です(漢数字は洋数字に置換)。「ウ105」はラバウルを、「ウ159」は第204海軍航空隊を表します。④は航空隊内部の区分記号でしょう。

つまり、このはがきは「在ラバウル第204航空隊第4分隊」の隊員が発信したものです。通信文面から、ラバウル進出直後の42年秋ごろに書かれたと推定されます。

「ウ」の前の2つの「気付」は郵便物を発受するために経由する郵便局名を表しています。横須賀局はラバウルを含む南東方面を受け持つ、海軍関係軍事郵便の大交換局でした。第36軍用郵便所はラバウルに開設されていました。

太平洋戦争中、ラバウルは日本海軍最大の前線航空基地でした。しかし、ラバウルを原駐基地とする航空隊は開設されていません。いくつもの航空隊が次々ラバウルに進出し、作戦ごとに出撃して消耗し、解隊されたり交替して還っていったのが実態です。「ラバウル海軍航空隊」という固有名詞の部隊は存在しませんでした。

戦争中に編成された陸海軍の航空隊は数百もあるのに、なぜ海軍の「ラバウル航空隊」ばかりが有名で、歌にまでなったのか。日本映画社のニュース映画「南海決戦場」の好反響もありますが、GANとしてはとりあえず、「歌になったから有名になった」と身も蓋もない解釈を提示しておきます。

さて、くだんの第204航空隊ですが、これは1942(昭和17)年4月に木更津で編成された零戦、「ゼロ戦」と通称される艦上戦闘機による生粋の戦闘部隊でした。ガダルカナル戦が始まったばかりの8月21日に27機で陸上のラバウルに進出、隣のブーゲンビル島ブインをも基地としました。

以後、ガ島をめぐる長期間の航空消耗戦に耐え、ブーゲンビル島攻防戦、ニューギニア・ソロモン方面での航空全面反攻作戦の「い号作戦」などに活躍します。作戦終了後の43年4月、関係部隊の慰労・激励に向かう山本五十六聯合艦隊司令長官の乗る陸攻機の護衛に当たったのも204空でした。長官の機上戦死という海軍史に残る痛恨の悲劇の当事者です。

この部隊も44年初頭まで続いたラバウル航空決戦で消耗、疲弊しきって、ついに44年3月に現地で解隊されます。零戦隊として終始ラバウルにあって米機と渡り合い、守り抜いたエース部隊でした。204空こそ灰田勝彦の大ヒット歌謡でイメージされる「ラバウル航空隊」そのものと言えます。
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2016年11月09日

日露戦の海軍軍事小包

小包.jpg11月6日のフロア落札品2点目です。一見してありふれた小包送票ですが、中央部に「軍事」と大きめに墨書されています。このわずか2文字が、マテリアルの「肝」です。

小包送票には菊10銭ペアが貼られ、美濃・神戸(ごうど)局の明治38(1905)年6月6日の引受印が押されています。佐世保に宛てて送られた470匁(約1.7㎏)の小包に貼られていたものです。

小包送票は普通、貼られている包装紙ごと処分されて残らないものです。この受取人はよほど几帳面な人だったのでしょうか、丁寧にはがして保存していました。おかげで、1世紀をはるかに超えた今日に伝わったのです。

なぜ「軍事」か、送票の右側2行目下部の「配達局」欄に書かれた「佐世保」が物語っています。佐世保局は日露戦争中、海軍軍事郵便の集中局であり、直接交換局でした。小包は海軍軍人に宛てた軍事小包郵便だったのに違いありません。わずかな紙切れですが、現物が残りにくい軍事小包の実在を裏付ける好資料と思います。

しかも、小包の引受日は日本聯合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅した日本海海戦からちょうど1週間後です。戦争の帰趨をも決する劇的な勝利に大喜びした差出人が、海軍に従軍している家族か友人に宛てて祝福と激励の心を込めた品物を送ったのではないでしょうか。

軍事小包郵便は開戦直後の1904年4月6日から取扱いが始まりました。しかし、適用されたのは内地から海軍艦船・チャーター船の乗組員宛てに限られました。陸軍宛ては内地への凱旋・帰還が始まりかける頃まで認められませんでした(一部例外はあります)。自前の船舶で輸送できる海軍だからこその特権でした。

この送票に貼られている20銭は、当時の「400匁以上600匁以下」の郵便市外小包料金に相当します。つまり、岐阜県神戸局から長崎県佐世保局の間の料金です。しかし、それから先、受取人がいる海上の艦船までの料金は、いわば「不足」の形ではないでしょうか。

これは、海軍の船舶が輸送するので海上料金は無料という理由から、海軍艦船宛ての特別料金(サーチャージ=割増金)は徴収されなかったのだとGANは考えます。一方の陸軍では満州や朝鮮の兵士宛ての軍事小包郵便がようやく05年12月から開始されましたが、内地料金より割高の日清・日韓小包料金が適用されています。
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2016年03月16日

臨時局引き受け無料軍郵

20臨時-1.jpg20臨時-2.jpgいわゆる「臨時局」の「第二十臨時」印で昭和17(1942)年5月26日に引き受けられた高雄海軍航空隊からの公用無料軍事郵便です。

無料なのに臨時局印、艦船部隊でなく航空部隊からの差し出し。近年のオークションで入手したこのカバーは、一見しただけでも異常だらけです。

この「臨時局」印を逓信当局は「暗号局名入り日付印」と呼んでいました。本来は聯合艦隊所属艦船の乗員発信の有料郵便物を引き受ける際、入港地を秘匿するために導入された日付印です。局名として1~3桁の数字に「臨時」を付けて表現しています。開戦直前の1941年夏ごろから港湾所在地の局で使われ始めました。

艦船部隊と同様に戦地間や戦地と内地間を頻繁に移動する航空部隊に対しては、軍艦のような秘匿措置は考慮されませんでした。無料の扱いになるか、有料の場合でも内地基地最寄り局の通常の日付印が使われました。だから、航空部隊の臨時局印は原則としてあり得ないのです。

さて、高雄空の42年5月当時の所在ですが、開戦以来、陸上攻撃機部隊としてマライや比島の航空作戦に参加していました。42年9月にラバウル方面に転用されるまで、昭南(シンガポール)やマニラなどを基地としていたとみられます。原駐基地の高雄に帰れないまま44年に現地解隊されています。

従って、この書状は戦地から発信されたことになります。たまたまそこに海軍軍用郵便所がなかったので、帰港する海軍輸送船などに託されたのでしょう。内地に入港して引き渡した局が、この「第二十臨時」を使う局でした。他の使用例などからの推測で、筆者はこの局は台湾の高雄局だと考えます。

高雄局では、いつもなら託送軍事郵便物に引受印は押しません。しかし、この書状は公用便なので、引受印はどうしても必要です。通常の「高雄」局印を使ってよいか、どうか--。高雄局では結局、「第二十臨時」局印で引き受けました。宛名が民間人なので、引受局名を秘匿すべきだと考えたのかも知れません。

高雄局のこの判断は、まあまあ妥当だったようです。これから1ヵ月後の42年6月25日、海軍省は「艦船部隊発郵便物ノ取扱方ニ関スル件」という内牒を出しています。それにより、戦地にある艦船部隊から郵便所を経由せず帰還船に託送した軍事郵便物を引き受けた集配局での処理方法が初めて明示されました。

この種郵便物には引受印を押捺してはならず、書留郵便物の引受番号は秘匿措置(臨時局番号の使用)を行うこととされました。「艦船部隊」でなく「航空部隊」、「書留郵便物」でなく「公用郵便物」、という違いはありますが、高雄局の措置は内牒の趣旨を先取りしたものと言えそうです。

しかし、この内牒が出た以上、この後は公用や書留(公用に限定)といえども、託送軍事郵便物には臨時局印さえも押さないことになりました。だから、無料軍事郵便を臨時局印で引き受けたこのような使用例は、極めて短期間だけだったはずです。
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2015年10月31日

艦船アドレスに所在地表示

望月.jpg太平洋戦争中の海軍軍事郵便5通のロットを最近のネットオークションで入手しました。興味を持ったのは、発信アドレスが5通いずれも「横須賀局気付 駆逐艦望月 ウ105」となっていたからです。

1944(昭和19)年末に主力艦のアドレスが艦名から部隊区別符に置き換えられましたが、それ以前は艦船部隊が区別符を使うことはありませんでした。たとえば「横須賀局気付 駆逐艦望月」が普通です。艦船名に続けて更に区別符が入るのは「異常」とさえ言えます。GANの知る限り、このような例はありませんでした。

ごく例外的に艦船のアドレスに区別符が入る場合でも、それは常に艦船名の前で、所属部隊名を表していました。たとえば「大湊局気付 ウ206 第5海洋」などという具合です。この場合の「ウ206」は千島方面特別根拠地隊、「第5海洋」は根拠地隊所属の測量艦です。

今回のロットでは、区別符「ウ105」が艦名の前ではなく、すべて艦名の後に付いているところがクセモノです。これは所在地名か部隊名か。所在地区別符としてはラバウルしかありません。が、部隊区別符だったら43年3月までは第7軍用電信所、43年7月以降は南東方面艦隊軍法会議。発信時期を同定する必要もあります。

幸い通信文6点(封筒1通が失われている模様)が残り、日付が書かれていました。9月12日、9月29日、11月6日、11月11日、11月24日、12月8日で、年号はありません。封筒と便箋の用紙、筆記具、軍事郵便表示のゴム印や検閲の認印、通信文の内容などを検討したところ、これらは連続した3ヵ月間の通信と判断できました。

11月11日発信の通信文に「去る10月26日南太平洋海戦の戦果を知ったことと思います」の一節がありました。この海戦は42年のガダルカナル島奪回作戦で、「望月」も増援部隊として参加しています。また、「望月」は43年10月24日にラバウルのあるニューブリテン島周辺で米機に撃沈されました。これらから、この封書はすべて42(昭和17)年秋から初冬にかけてのものとして間違いないと思います。

「望月」の属する第30駆逐隊は42年7月、ミッドウェー敗戦後の艦隊編制臨時改正で第4艦隊(トラック)から新設の第8艦隊(ラバウル)へ2年半ぶりに転属しました。以後、「望月」はラバウル港を基地に、数次にわたるガダルカナル島奪回作戦に参加して船団護衛や輸送に大活躍していました。

他方、第7軍用電信所の所在地は不明ですが、本来陸上に開設されるべき電信所が3ヵ月にもわたって特定の駆逐艦上にあったとするのは不自然です。ここで、このロットの「ウ105」は部隊ではなく、所在地を表す区別符のラバウルと断定できます。

艦船名の後に所在地区別符を付けたアドレスは特異、あるいは異常です。発信者の誤記だとすると、3ヵ月間で6通も、しかも検閲でチェックされなかったとは考えにくい。部隊から正式に指定されたアドレス表記だったのでしょう。しかし、いずれにせよ艦船部隊のアドレスに所在地を表示するのは不合理です。

「以前にずっといたトラックに誤送される恐れがある、間違いなくラバウルに直送してほしい」と考えたからとしても「余計なお世話」なのです。交換局である横須賀局軍事郵便課が承知していれば済むことで、それが軍事郵便のシステムでした。防諜上も問題です。同様の例は他にあったとしても、ごく少ないだろうと思います。
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2014年06月18日

集団的自衛権で南ア出撃

TSUSHIMA.JPG第1次大戦中、アフリカ南端に出撃した軍艦の軍事郵便です。某国首相がいま画策する「集団的自衛権」ですが、1世紀前の日本海軍が他国防衛のため地球の裏側で戦った事実を明かす史料となっています。

このはがきには神戸局大正7(1918)年1月1日の引受印があり、年賀特別取扱を受けた、つまり年賀状です。「南阿ニテ」と書き込みがあることから、南アフリカに派遣された第1特務艦隊分遣隊の巡洋艦「対馬」乗員の発信と分かります。

差出人は恐らく17年11月末か12月初め、南ア入港中に発信したのでしょう。艦隊で年賀郵便物をまとめて郵袋に納め、帰国する日本商船か補給・連絡に来た海軍艦船に託したと考えられます。これは日本で史上最長の逓送距離をたどった軍事郵便となります。

大戦中、ドイツは無制限潜水艦戦と武装商船による通商破壊戦を行いました。英国商船隊は壊滅寸前となり、追い詰められた英国政府は日英同盟を根拠に日本の助勢を求めます。日本海軍は1917(大正6)年6月に第1、2、3の特務艦隊を編成し、それぞれインド洋、地中海、南太平洋に派遣しました。

第1特務艦隊はさらに東アフリカ沿岸から南アフリカ一帯の警備のため「対馬」「新高」を分遣隊として派遣しました。両艦は南アのサイモンスタウンやケープタウンを根拠地とし、英国の喜望峰艦隊と協力して2年間にわたり連合国側商船の護衛に当たりました。

3個の特務艦隊が防衛したのは日本の領土や商船ではありません。主として英国商船保護のための出動でした。この作戦で、地中海に派遣された第2特務艦隊では多数の戦死傷者を出しています。これらこそ「集団的自衛権」そのもの。他国のため日本の若者が血を流した先例があったのです。
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2014年06月14日

旅順の軍艦が野戦局利用

TSUKUSHI-1.jpgTSUKUSHI-2.jpg日清戦争で軍艦「筑紫」が日本軍占領地の旅順口から出した無料軍事郵便の書状です。

「筑紫」は元々はチリ海軍がイギリスに発注して建造した小型砲艦ARTURO PLAT(1,300㌧)でした。竣工直後の1883(明治16)年に日本政府が買収して日本の軍艦となり、後に砲艦に類別されました。

日清戦争で「筑紫」は常備艦隊附属艦となりました。大連湾、旅順口、威海衛の各攻略戦に参加しています。

この書状は明治28(1895)年5月14日に第2軍第4野戦局で引き受けられています。第4野戦局は1894年11月に旅順口に開設され、95年12月に廃止されるまで移動しませんでした。

海軍の艦船乗組員が陸軍の野戦局を利用したケースですが、この時代では特別な例でもありません。陸海軍はまだ昭和期のようには対立していませんでした。また、海軍が独自で郵便所を開設するのは、日露戦争以後のことです。

この時期は、日清講和条約締結とそれに続く三国干渉も一段落した、つかの間の平和期間でした。直後に、講和条約で清国から日本に割譲された台湾の住民が台湾民主国を立てて日本に反乱します。復員直前だった部隊を送り込んで平定作戦が開始され、海軍も巻き込まれていきます。

「筑紫」はその後、北清事変や日露戦争でも活躍しますが、1911(明治44)年に廃船となりました。
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2014年05月07日

海軍も「満州国」に進出

MAN NAVY-2.jpgMAN NAVY-1.jpg「満州国」の首都・新京に置かれた日本海軍唯一の出先、駐満海軍部から出された1936(昭和11)年の年賀状です。最近の入手品です。

1931(昭和6)年に満州事変が起きた当初、海軍は事態を陸軍に任せ、基本的にノータッチの方針でした。しかし、実際に「満州国」が動き出すと、そうも言っていられなくなります。33年4月、新京に天皇直隷の「駐満海軍部」なる特異な機関を開設しました。

海軍部の主要任務は「満州国沿海及び河川の警備」で、ほかに「満州国」海軍の指導なども命じられていました。河川(黒龍江)警備の実務は哈爾賓に同時に設置された指揮下の臨時海軍防備隊が行うので、海軍部は軍政連絡機関といった性格の存在でした。38年に廃止され、任務を縮小して新京海軍武官府に継承されています。

このはがきは駐満海軍部の司令部スタッフが発信しました。と言っても、海軍部自体が司令部で、司令部以外の機関は(臨時海軍防備隊を除いて)無かったと思われます。司令官は少将だったので、艦隊の一つ下、戦隊司令部並みの陣容でした。

関東軍管内ではこの直前の35(昭和10)年12月1日から軍事郵便に引受印を押すことを全廃しました。そのため、はがきには本来なら押された新京局引受印がありません。恐らく、大量の年賀状処理に苦慮してきた関東逓信局が関東軍に要請して実行したのでしょう。

さらに言うと、海軍の郵便物を陸軍(関東軍)の軍事郵便ルートに乗せるのも、当時としては極めてイレギュラーな処理でした。実際、34年10月に同じ駐満海軍部司令部員が出した封書は軍事郵便でなく有料の普通郵便として3銭切手を貼り、新京局で引き受けられています。

この間に陸海軍で何らかの協定が行われ、駐満海軍部の郵便物も無料軍事郵便の扱いを受けることになったと思われます。これに関する資料がほしいところですが、GANはまだ入手していません。
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2014年02月28日

旅順海軍にも軍郵適用か

YODO.jpg
満州事変は関東軍が謀略で始めた、陸軍だけの戦争でした。海軍は基本的に関与していません。だから、1931(昭和6)年11月に無料軍事郵便を適用するに際し、逓信当局は「海軍ニハ適用サレザル義ト…」と繰り返し表明しました。

ところが、最近入手したこのはがき(画像=クリックで拡大できます)はれっきとした軍艦からの軍事郵便です。満州事変の野戦局、奉天局第5分室で昭和8(1933)年7月8日引受の日付印があります。

この時期の海軍無料軍事郵便は、これが初出です。海軍にも適用が拡大されたのか? 確実な資料は未見で、使用状況から帰納的に推理するしかないようです。

まず、差出アドレスの「淀」は、砲艦兼測量艦です。33年4月の第2遣外艦隊の廃止で旅順要港部に転属したばかりでした。7月上旬の「淀」に格別の戦闘歴はなく、旅順在泊か華北沿岸を通常の警備中だったと見られます。

引受局の奉天局第5分室は綏中に開設されていました。山海関から錦洲を経て奉天に向かう関外鉄道(奉山線)沿線の都市で、渤海湾に面してもいます。あるいは、沖合に碇泊した「淀」から小汽艇で上陸し、陸軍の野戦局を利用できたかもしれません。

前年の上海事変以来、上海と長江(揚子江)方面の海軍には無料軍事郵便が継続して適用されていました。それとのバランスで、華北に出動した艦艇にも拡張された可能性があります。仮にそうだとすると、対象は要港部の警備艦艇すべてでしょう。他に「平戸」「神威」「常磐」と第14、15、16駆逐隊が所属していました。

――以上は、現状では単なる「推理」です。もっと多くの使用例の出現を待ち、さらに検討を加えたいと思います。
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2014年02月21日

大連汽船媒介の海軍軍郵

SHURIMARU-2.jpgSHURIMARU-1.jpg日中戦争中の1939(昭和14)年に、旅順局を肩書とする砲艦首里丸から北京海軍武官府に宛てた封書(画像=クリックで拡大できます)です。最近、この海軍将官宛ての郵便物多数がネットオークションに出品され、GANも何点か手に入れました。

海軍の軍事郵便が旅順から外国の、しかも内陸部の北京に、どういうルートで逓送されたのでしょうか。海軍の逓送路は基本的に艦船で運べる範囲だったはずです。

「旅順局気附」と発信アドレス(画像)にあり、宛先に「大連汽船会社気附」とあるので、旅順発信と考えるのが素直です。しかし、引受印「第3海軍軍用郵便所 14.10.10」の第3軍用郵便所は青島にありました。青島在泊中発信の可能性も大いにあります。

首里丸は徴用船で、支那方面艦隊第1砲艦隊の所属でした。1938(昭和13)年11月から42年まで旅順要港を根拠地として華北沿岸の警備に当たっています。この間39年11月に水雷母艦に艦種変更して第3遣支艦隊に転属しました。残念ながらその直前の所属は分かりません。ここでは、行動先の青島から発信したと推定してみます。

――この封書は青島で第3軍用郵便所が受け付けて大連汽船会社の定期船に積み、大連に運ばれた。大連汽船では表面に赤鉛筆で「天津支店」と書き入れ、やはり定期船で塘沽経由天津支店に運んだ。天津支店は天津野戦局に引き渡し、後は陸軍の軍事郵便ルートに乗って、北京の第1野戦局から海軍武官府に直接配達された――。

つまり、青島-大連-天津-北京と逓送されたのだろう、というのがGANの考えです。海軍と陸軍にまたがる逓送路を利用し、しかも中間で民間に託送するという3者連携ルートの存在が前提です。陸軍と海軍は、少なくとも上海では軍事郵便の「相互乗り入れ」を協定していた事実が分かっています。

大連汽船は大正14(1925)年に満鉄の子会社として設立され、大連-青島-上海線、大連-天津線などが主要航路でした。親会社の満鉄自体が軍部と一心同体のような国策会社です。大連汽船が軍事郵便の逓送路の一部を担ったことは大いにあり得ると思います。

「なぜ青島で陸軍の第4野戦局に引き渡さなかったのだ」という疑問には、いちおう「青島では陸海軍間の交換協定がなかったから」としておきます。しかし、振り出しに戻って「青島でなく旅順発信だった」と考えると、この疑問は防げます。ただ、その場合のルートは旅順-大連-天津-青島-北京となってしまい、もっのすご~く不合理。どなたか、我に正解をご教示あれ。
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2014年01月30日

上海事変の「能登呂」

NOTORO.jpg上海事変に出動した水上機母艦「能登呂」のカバーをごく最近、GANはヤフオクで入手しました。

1932(昭和7)年1月の中国・上海。満州事変への反感から中国民衆による日本僧殺害事件が起き、日中は一触即発の状態となりました。海軍は1月21日、救援のため2等巡洋艦「大井」に呉鎮特別陸戦隊1個大隊を乗せ、第15駆逐隊とこの「能登呂」を付けて上海に急派しました。

事件は1月28日に上海駐屯の日本海軍陸戦隊と中国第19路軍との本格的な交戦=上海事変に発展。日本は陸軍部隊3個師団半を派遣し、上海に第3艦隊を新設するなど、日中は開戦寸前にまで進んでしまいます。幸い、5月5日に停戦協定が結ばれ、この時は5年後の第2次上海事変のような全面戦争には至らずに済みました。

第一陣で駆けつけた「能登呂」は1月24日に上海着、29日に呉淞に移ってさっそく水上偵察機部隊が中国軍への爆撃を開始します。2月2日に第3艦隊が新編されると長官直率となり、9月1日に旅順要港部に編入されるまで「能登呂」は上海方面に碇泊し、偵察、攻撃の両面で陸上部隊を支援しました。

上海事変での無料軍事郵便は2月19日から適用され、3月10日に3艦隊旗艦「出雲」艦内に第1海軍軍用郵便所が開設されました。この封書は3月20日に上海で発信され、内地に帰港する輸送船などに託されたと思われます。27日に軍事郵便直接交換局の佐世保局で引き受けられています。

同じ上海にいたはずの「出雲」の郵便所に持ち込まなかった理由、上海から佐世保まで1週間も費やした理由は不明です。発信者は「能登呂」艦長、受信者も「朝日」艦長です。
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