2018年06月06日

南洋から「国内軍艦郵便」

沖島-12.jpgつい最近のヤフオクで奇妙な絵はがきを入手しました。南洋から発信されたことが明らかなのに内地局の消印が押されているのです。

左図がそれで、書き込みによると、軍艦「沖島」の参謀が2月4日にパラオから発信し、13日に神奈川局の機械印で引き受けられています。年号部分が不鮮明ですが、裏面(下図)ヤップ局風景印の日付から昭和12年(1937)と分かります。風景印の図案が絵はがきと同じ現地民族の集会所「アバイ」だったので記念押ししたようです。

沖島は5千トンと大型な新鋭敷設艦ですが、巡洋艦並みの性能がありました。36年12月に聯合艦隊直属で第12戦隊が新編制され、旗艦となります。戦隊には水上機母艦「神威」と駆逐艦「朝凪」「夕凪」が編入されました。

沖島-2.jpg12戦隊の任務は「南洋委任統治区域の警備」です。しかし実際は、来たるべき対米戦争に備え、軍備が禁止されてきた南洋群島を海軍基地化することが真の任務でした。

差し当たっては水陸飛行場や艦隊泊地用の適地を探る視察と兵要調査です。米国に知られるのを恐れ、戦隊の全行動は軍機とされました。

12戦隊の沖島以下4艦は37年1月28日、南洋群島、フィリピン、蘭印、ニューギニアに及ぶ初航海へ横須賀を出港します。日本でも稀な総合南方調査だったため、外務省、海軍軍令部、南洋駐在海軍武官らが身分を隠して同行しました。途上で日中戦争が勃発したため、秋までの予定を切り上げて急遽横須賀に7月13日に帰投しています。

海軍は通常、行動する艦船への連絡予定地を例えば「2月10日までに到着する郵便物宛先はサイパン」などと『海軍公報』に掲載しています。しかし、今回の12戦隊の出港後アドレス予定は異例にも「神奈川局気付」とだけされました(37年1月20日付『部内限 海軍公報』雑款)。行き先や目的は内部にさえ一切秘密にしたのです。

南洋定期航路のターミナルは常に横浜港です。南洋との郵便物集中局(=交換局)も当然、当初から横浜局でした。このため、艦船の郵便物アドレスが「横浜局気付」だと南洋で行動することが分かってしまいます。海軍省の要請で1935年(昭和10)7月、南洋への集中局は横浜港直近の神奈川局に変更されますが、この事実は外部には秘密でした。

詳しく調べたところ、アドレスを「神奈川局気付」とした艦船部隊の行動は5回だけありました。36年8月の第3航空戦隊、37年1月の第12戦隊(今回)、38年4月の測量艦「膠州」、40年1月と5月の第4艦隊で、すべて南洋での基地調査と設定のための秘密行動です。36-38年の郵便は有料ですが、40年の2回は無料軍事郵便として扱われています。

さて、前置きが長くなりすぎましたが、この絵はがきの逓送路を推定します。12戦隊ではこのはがきを含む乗員からの有料郵便物を一括して郵袋に納めて閉嚢とし、パラオ局に持ち込んだのでしょう。パラオ局は閉嚢のまま横浜行き最速の便船に搭載したはずです。横浜入港後、閉嚢はただちに神奈川局に運ばれて初めて開けられ、引受押印をしたと思われます。

この方法は、実は軍艦郵便(軍艦閉嚢)とまったく同じ取扱です。ただ、軍艦郵便の適用はUPU加盟の外国港に停泊中の日本艦船に限られます。12戦隊の郵便物は日本領土の南洋群島から発送した点で異なりますが、いわば「国内版の軍艦郵便」でした。軍機保持の必要から生まれたのですが、この時期の南洋でしか考えられない極めて稀なケースでしょう。

以上の逓送路と方法はすべてGANの推定に過ぎません。しかし、当時の軍事情勢と、現実に神奈川局の消印が押された郵便物が存在する事実とを考え合わせると、それほど大きな誤りがあるとは思えません。
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2017年03月27日

熱田丸が扱った軍艦郵便

金剛-2.jpg金剛-1.jpg日露戦争後の日本海軍最高のエースとなる超弩級巡洋戦艦「金剛」を引き取るため、1913(大正2)年に発注先の英国へ赴いた回航員の軍艦郵便です。ヤフオクでつい最近入手したばかりです。

これは日本郵船の欧州航路客船「熱田丸」の絵はがきで、菊紫色1.5銭切手に欧文「TSURUGA 10.5.13(敦賀局 大正2年5月10日)」のゴム印が押され引き受けられています。発信アドレスは「横浜局気付 軍艦金剛」です。紫色の角枠「軍艦郵便」印も敦賀局で押されたと見られます。

大正2年2月4日付の「海軍公報」には海軍省内の金剛回航員事務所を閉鎖し、以後の事務を日本郵船会社の熱田丸船内で扱うことと熱田丸の航路予定記事が載っています。同時に熱田丸船上の回航員との間で軍艦郵便を「横浜局気付 軍艦金剛」のアドレスで開始することが告知されました。

「金剛」は当時、英ビッカース社が西海岸のバローにある造船所で建造中で、進水の寸前でした。副長の正木義太中佐(到着後、正式引き渡し直前に事故で交代)が全乗員の半数に当たる約600人の回航員を引率し、13年2月12日に横浜出港の熱田丸で英国に向かいました。

熱田丸はシンガポール、スエズ経由で4月9日、ロンドンに着きます。4月17日にバローに入港し、「金剛」に船体を横付けして回航員を移乗させました。試運転などの手続き完了後、「金剛」は8月16日にビッカース社から引き渡され、日本海軍の軍艦旗が掲げられました。

防衛省保存・アジア歴史資料センター公開の「金剛」回航関係資料により、このはがきの発信者は機関中尉で、文面からバロー到着直後の発信のようです。他の回航員の郵便物と共に閉嚢に収められてロンドン経由ヨーロッパからシベリア鉄道でウラジオストクまで運ばれ、日本海を敦賀に渡ったのでしょう。

「金剛」という軍艦は8月16日の正式引き渡し以前には存在しません。船体のあるバローには英国側との折衝や技術習得などに当たるため艦長の中野直枝大佐以下少数の要員が先発していました。しかし、こちらには軍艦郵便は適用されず、英国の郵便しか利用出来ませんでした。

軍艦郵便を適用された回航員は熱田丸が乗艦だったので、この軍艦郵便は軍艦ならぬ商船熱田丸が取扱いを指定されたと考えることもできます。商船が軍艦郵便を単に輸送しただけなら無数の例がありますが、「商船扱い軍艦郵便」が堂々と実施された例はあまり聞きません。

明治海軍は英国を初めヨーロッパ各国に何隻も軍艦を発注したり買収したりしています。これらの回航員は少数だったり海軍自身の軍艦で運ばれました。客船での大量派遣は「金剛」が初めてだったでしょう。35.6センチ連装砲4基、排水量27,500トンという大艦巨砲主義そのものの巨艦だったからこそのことでした。

「金剛」以降の主力艦はすべて国産化され、回航員を大量派遣すること自体がなくなっていきます。結果として、商船熱田丸が扱ったこの軍艦郵便は極めて希少な使用例となりました。
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2016年09月30日

総領事館扱い"軍艦郵便"

常磐003.jpg常磐004.jpg1928(昭和3)年に起きた済南事件(第2次山東出兵)で青島に臨時派遣された敷設艦「常磐」からのパクボー(船内投函郵便)扱いのカバーです。最近のネットオークションで入手しました。

当時南京にあった中国国民政府は28年4月に「北伐」を再開します。北京の張作霖ら北方軍閥を打倒して最終的な国家統一を目指す目的で、再び南・北軍の内戦となりました。

ここで日本陸軍は統一の妨害を裏の目的とする干渉作戦を実施します。お決まりの「在留邦人保護」を名目にまず第6師団を山東に派遣し、海軍も華北沿海担当の第2遣外艦隊の全艦を出動させました。

この中で5月3日に南軍による日本人虐殺の済南事件が起き、第6師団との間で日中戦闘が始まってしまいます。陸軍はさらに第3師団を増派、海軍も予備艦となっていた元一等巡洋艦の常磐を5月6日に第2遣外艦隊に臨時編入し、ただちに青島に派遣しました。

常磐は5月9日に青島に入港し、ここを「母港」に動乱が収まる9月24日まで芝罘や秦皇島、旅順など渤海湾内を巡航・警備しました。中国の内戦が海上にまで波及し、日本の権益が侵害されるのを防止する名目が掲げられました。

このカバーは1928(昭和3)年5月14日に青島で発信されて下関に陸揚げされ、19日に下関局でSHIMONOSEKI欧文印と赤色枠付き「PAQUEBOT」印が押され引受けられています。一番に目を惹くのが裏面の発信アドレスで、「青島日本総領事館気付/第2遣外艦隊常磐」という特異なものです。

在外局廃止後に中国に派遣される軍艦は軍艦郵便の扱いを受けるのが普通で、アドレスは「長崎局気付」や「門司局気付」など内地の外国郵便交換局を肩書きすることになります。このカバーのように在外公館が気付となった例はこれ以前に(以後も)見当たりません。

青島-内地間の輸送は海軍チャーターの交通船や輸送艦が担当したのでしょう。大連-青島間の定期商船便も利用されたかも知れません。いずれにせよ日本総領事館あてに出せば在泊中の軍艦に届くのですから、総領事館が事実上の交換局の役目を果たしていることになります。

当時の『海軍公報』で調べると、常磐には青島入港の5月9日にこの普通郵便扱いのアドレスが指定されています。しかし、5月17日には正式な軍艦郵便扱いとなり、アドレスも「門司局気付」に変更されました。「総領事館気付」アドレスはわずか8日間しか使われなかったことになります。なぜ最初から軍艦郵便とされなかったのかは不明です。

済南事件ではもう1艦だけ、同様に臨時派遣された水上機母艦「能登呂」にも5月11日から同じ「青島日本総領事館気付」のアドレスが指定されています。こちらは6月21日に「芝罘在泊」に変更後、7月9日に第2艦隊に転出して内地帰航するまで軍艦郵便扱いに移らないままに終わりました。

常磐や能登呂にとって、「総領事館気付」のパクボー扱いは、軍艦郵便とどう違ったのでしょうか。料金は同額の3銭で、逓送方法も含めて実質的には軍艦郵便と同じに見えます。しかし、軍艦郵便は青島中国局を介在させるのが原則となります。このため、戦闘行動中は機密保持上から軍艦郵便は不適切と考えられたのかも知れません。この点はさらに詰める余地がありそうです。
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2015年12月21日

タンカーからの軍艦郵便

早鞆.jpg給油艦「早鞆」の乗員が米・ロサンゼルスから発信した軍艦郵便です。12月20日に東京で開かれた大手オークションで入手した、ホヤホヤ品です。

日本海軍は軍艦を動かす重油のほとんど全部を外国に依存していました。石油会社が輸入したものを国内で購入するのではなく、自前のタンカーを産油地のアメリカ・サンペドロやボルネオのタラカンなどに運航して直接積み取ってくるのです。そのため大正10年代に多数のタンカーが建造されました。「早鞆」もその1艦です。

このはがきは羅府(ロサンゼルス)港に入泊中の「早鞆」から1938(昭和13)年4月20日前後に差し出されたようです。積み取り港のサンペドロはロスの隣で米海軍の軍港でしたが、現在はロス市に編入されています。はがきはひと足先に帰国する日本商船が横浜に運んだと考えられ、5月11日に横浜局で引き受けられています。

給油艦の重油積み取りは日本海軍の一種の「宿命」として大正末期から延々と続きました。とくに日中戦争が始まってから、給油艦はフル稼働状態となりました。石油供給元である当のアメリカ相手に一戦を交える可能性が増し、それまでに少しでも備蓄を増やさねば。間もなく「石油の一滴は血の一滴」という悲壮なスローガンが叫ばれる時代でした。

しかし、その割には給油艦の軍艦郵便は余り残されていません。軍艦郵便というと、市場に現れる9割方は練習航海のものです。実は、日米開戦直前、最後の石油積み取りの軍艦郵便を密かに探しています。太平洋戦争の郵便史を語る上でぜひほしいところなのですが、GANは未だに見たことさえありません。

給油艦の軍艦郵便が少ない理由は想像がつきます。タンカーには基本的に戦闘要員がいず、乗員の絶対数が少い。目的地に直航し、満タンになるとそのまま帰る、往復2ヵ月程度という短い航海の特性もあります。行程後半以降は郵便物より自身の帰国の方が早くなりそうで、発信はあまりしないでしょう。

さて、この「早鞆」の航海ですが、「海軍公報(部内限)」によると、軍艦郵便の取扱開始は38年3月9日に告知されています。4月18日にロスに入港し、積み取り完了後の4月23日に出港、5月8日にホノルルを出て佐世保に向かっています。この2ヵ月間ほどが軍艦郵便の実際の適用期間となると思います。
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2014年06月07日

皇太子訪欧御召艦「香取」

KATORI-f3fc7.jpg1921(大正10)年に皇太子(後の昭和天皇)が欧州訪問したさいの乗艦・戦艦「香取」からの軍艦郵便です。英国ポーツマス軍港に寄港中ですが、万国郵便連合(UPU)の条約で認められた軍艦の特権で、分銅はがきの内国料金で日本に届いています。

皇太子は21年3月から半年にわたって英、仏、伊、ベルギー、オランダの5カ国を歴訪しました。昨日のブログで南洋の艦船郵便所が発売した立太子礼記念切手を扱いました。偶然ですが今回の主人公も同じ人物、裕仁親王です。

皇太子外遊は元老山県有朋の熱心な勧奨による帝王学の一環とされます。大正天皇が長期の闘病中だったことや皇太子妃候補の家系の色盲が発端の「宮中某重大事件」などで外遊自体が政治問題化した中での決行でした。

御召艦の「香取」がビッカース社、僚艦で供奉艦となった戦艦「鹿島」はアームストロング社と、共に英国製だったことも、主目的の訪英に当たり配慮されたかも知れません。両艦に対し、横浜出港、インド洋・スエズ往復帰港の間の21年3月3日から9月3日まで軍艦郵便が適用されました。

このはがきは交換局の「横浜局気付」を肩書きして福井県に宛て、英ポーツマス軍港を21(大正10)年5月9日に発信しています。横浜局には23日後の6月1日に到着しており、非常に効率よい日数と言えます。この時期、ロシア革命後の内戦でシベリア・ルートは途絶していました。恐らく便数の多い北米・太平洋経由で日本に届いたと思われます。

表面左側には「香取」で押したと見られる「軍艦郵便」「検閲済」の朱印があります。軍艦郵便の検閲は極めて異例です。事実、同時期に発信された「鹿島」からの軍艦郵便には検閲印がありません。皇太子の乗艦としての特別措置だったのかも知れません。

通信文面には「横浜出港以来炎地長途の航海も別に御変りなく殊の外両殿下(皇太子と随従の閑院宮)も御機嫌慶くあられ、本日午前ロンドンに向かはせられ候」とあります。長旅前半の山場を越え、ホッとして故郷に報告する御召艦乗員の誇らしげな心境が見えます。
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2014年05月08日

ハワイ侵略を目撃した軍艦

HAWAII-2.jpgHAWAII-1.jpg布哇(ハワイ)国ホノルル港碇泊軍艦金剛--。おおっ、小判時代の軍艦郵便! と喜ぶのは早トチリ。万国郵便連合(U.P.U.)が規定した軍艦郵便(軍艦閉嚢)制度が発効する前年の使用例で、「軍艦郵便前史」とでもいうべき存在です。

日清戦争前年の明治26(1893)年2月17日に軍艦「金剛」(初代)乗員がホノルルで発信し、東京芝口局で3月4日に引き受けられています。差出人はホノルルから日本に向かう日本商船の乗組員に託し、入港地・芝浦で投函してもらったのでしょう。

日本の逓信当局が軍艦郵便制度を実施したのは日露戦争後の1906(明治39)年からです。それ以前に海外に派遣された軍艦乗員が母国に宛てて通信するには入港国の郵便によるか、たまたま出会った日本行き船舶に託す方法しかありませんでした。

「金剛」はこのとき、独立王国ハワイと、ハワイを支配しようとする米国との関係が緊張し、日本居留民保護のため僚艦「浪速」と共に警備中でした。「金剛」は海兵19期の士官候補生の練習航海の帰途、サンフランシスコで新任務を与えられたのです。

コンテンツ(通信文)が残っており、ハワイ最後の女王リリウォカラニと親米派総理大臣との確執、1月17日に米海兵隊制圧下で起きた米国領併合の陰謀劇などが生々しく書かれています。

現代と似たような光景が120年前にもあったのですね。ウクライナの事態でロシアを非難する当の米国の侵略行為ですから、「歴史認識」は、やっぱり重要です。
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2014年04月15日

遭難「新高」宛て軍艦郵便

NIITAKA-1.jpgNIITAKA-2.jpg軍艦護衛の下に北洋漁業を強行した1922(大正11)年の「自由出漁」警備のため出動した巡洋艦「新高」に宛てた軍艦郵便です。「新高」は台風で遭難したため、付箋を付けて差し戻されています。最近の入手品です。

日本の漁業者は例年ロシア側と漁場や漁獲量を協定し、鮭鱒漁のため夏期に沿海州やカムチャツカに出漁していました。1917(大正6)年にロシア革命が起こると、それに続く内戦でロシア(ソ連)側当局者が不安定、または不在となります。1921、22年は交渉も協定もないまま、漁期を迎えて出漁しました。

海軍はこの「自由出漁」の日本漁船団に軍艦を付き添わせ、ソ連側の「妨害」から保護しました。「新高」も2年目の自由出漁保護のため派遣されましたが、22年8月26日にカムチャツカ半島西岸で台風のため坐礁して破壊、乗員と共に沈没してしまいます。

一方、函館の栗林汽船会社は22年4月に函館・小樽とカムチャツカのペトロパブロフスク間に毎月1回の定期航路を開設しました。逓信省はこの航路を利用して5月からカムチャツカ派遣艦船の軍艦郵便を開始します。この取扱は翌23年までの2年間(2シーズン)限りで廃止されました。理由は不明です。

このはがきは出動中の「新高」乗員に宛て、新潟県浦佐局で大正11年8月4日に引き受けられています。「軍艦郵便」と紫色インクで記入があります。これは先にこの乗員から通信があり、はがきの発信者に軍艦郵便を利用するように知らせていたからでしょう。

このはがきは小樽で定期船の出航を待つうちに「新高」が遭難してしまったのでしょう。あるいは遭難前にペトロパブロフスク局に着き、「新高」の入港を待っていたのかも知れません。小樽(または函館)局は軍艦郵便の閉嚢を「新高」が所属する舞鶴鎮守府に送り返しました。

舞鶴鎮守府ではわずかな生存者名などと照合・確認の後、郵便物をさらに受持局の新舞鶴局に返しました。同局で返戻理由を印刷したこの付箋を用意し、9月16日に日付印を押して差出人に返送したと見られます。

これまで、栗林汽船の定期船を利用した軍艦郵便が実施されたことは海軍の記録上で知られていました。実際に「軍艦郵便」の記入のある郵便物が出現したのは、このはがきが初めてです。
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2014年04月09日

漢口陸戦隊の軍艦郵便

HANKOW.jpg軍艦郵便は外国派遣軍艦からの発信が要件です。しかし、このはがきは軍艦でなく、海軍の陸上戦闘部隊である陸戦隊からの異色の軍艦郵便です。

漢口陸戦隊から1928(昭和3)年10月3日に発信されました。長江を下航し上海を経由した上で、10月9日に長崎局で引き受けられています。漢口-上海、上海-長崎間はいずれも日本の貨物船に搭載されたとみられます。

1926(大正15)年に中国の国民政府軍(国民革命軍、南軍)は蒋介石総司令に率いられて中国統一戦争の「北伐」を開始します。

そういった軍事情勢の流れで中国民衆の帝国主義反対運動が高揚し、翌27年3月に上海情勢が極度に緊迫しました。南京事件や漢口事件がその中で起きてしまいます。

いずれも国民革命軍や中国民衆と、日本を含む列強の中国派遣軍や居留民との間で放火・略奪や死傷事件に発展したものでした。

漢口事件は長江警備の駆逐艦から上陸中の日本水兵が多数の中国民衆に暴行された事件がきっかけでした。海軍は27年4月3日、水兵300人を陸戦隊に編成して漢口に上陸させ、中国人暴徒を鎮圧して日本居留民を救出しました。漢口陸戦隊は「居留民保護」を名目に、29年5月末まで駐屯を続けました。

このとき上海にも陸戦隊が上陸・駐屯しました。漢口とは異なり、「排日運動」を警戒して撤退しなかったため中国軍民に敵視され、1932(昭和7)年の上海事変の当事者となってしまいます。上海、漢口とも陸上に常駐を決めてからは艦艇からの抽出でなく、内地鎮守府で編成された特別陸戦隊が派遣されていました。

このはがきは陸上常駐の漢口陸戦隊から差し出されたものです。軍艦とは無関係に駐屯する特別陸戦隊員は軍艦の乗員でなく、軍艦郵便の適用は無理のように見えます。「本来は軍艦の乗員であった」ことから拡大解釈が出来たのでしょうか。

この後の上海事変で上海には第1海軍軍用郵便所が開設されます。中国派遣のすべての海軍部隊に無料軍事郵便が適用されることになり、軍艦郵便を利用する必要はなくなりました。従って陸戦隊の軍艦郵便は、漢口では1927年から29年までの2年間、上海では27年から32年までの5年間だけということになります。
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2014年03月04日

外信料金適用の軍艦郵便

HASHIDATE.jpg巡洋艦「橋立」乗組みの少尉候補生宛て軍艦郵便です。外信用4銭の薄墨連合はがきで江田島局1906(明治39)年5月13日に引き受けられています(画像=クリックで拡大できます)。左下の薄い欧文印は長崎局5月14日のようです。

「橋立」は「松島」「厳島」と共に「三景艦」と呼ばれて親しまれ、日清戦争で大活躍しました。その後は第一線を退き、少尉候補生の練習航海などに使われました。このはがきも、練習艦隊に加わって航海中の「橋立」に宛てたものです。艦隊は海軍兵学校第33期生を乗せて豪州方面に向かっていました。

軍艦郵便とは、外国にある海軍艦船と本国の間に発着する郵便物を閉嚢に納めたままで逓送して受け渡す万国郵便連合(U.P.U.)の制度です。例えば1906年のローマ条約では第15、26条に「軍艦ト交換スル閉嚢」として規定されています。日本ではこの海兵33期の練習艦隊が出航する1906年2月に、1897年ワシントン条約に基づいて初めて実施されました。

この制度で、軍艦から差し出す郵便には内国料金(封書3銭、はがき1.5銭)が適用され、日本から軍艦宛ての郵便には外信料金(封書10銭、はがき4銭)が適用されました。軍人は優遇するが民間人にはその必要がない、という考えでしょう。翌1907年の海兵34期の南太平洋方面練習航海でも同様でした。

1908(明治41)年になって、軍艦宛ても内国料金に改められ、発信も受信も内国料金で統一されました。国際郵便物なのに内国料金という珍しい制度です。したがって、このはがきのように軍艦宛てに外信料金が要求されたのは1906、7年の2回だけだったことになります。

軍艦郵便に内国料金が適用される根拠について、佐々木義郎氏は「軍艦は治外法権を有するので、外国の領海に於いても自国の統治に服する」からだとしています(カナイ・スタンプレーダー79年9月号所載「船と郵便(6)」)。しかし、これは事実誤認です。軍艦といえど他国領海では(軍艦閉嚢にしない限り)その国の料金率・切手で郵便料金を払わなければなりません。

軍艦郵便の根拠は、前述したようにU.P.U.条約の特別規定です。U.P.U.非加盟国には適用されないし、加盟国軍艦であっても非加盟国に入港中だと適用されません。非加盟国(とその軍艦)には閉嚢を輸送すべき国際逓送路が利用できないからです。

佐々木氏はまた、この論考の中で「軍艦郵便は常に平時での扱いであり、これが戦時であれば軍事郵便になる」とも述べていますが、これも誤りです。戦時中に軍艦が同盟国や中立国に入港して軍事郵便を引き渡そうとしても、入港先の国は受け取らないでしょう。その国の切手で料金を払っていない無料(軍事)郵便物など引き受ける義務はないからです。

そもそも、軍事郵便の逓送を外国に委ねること自体が基本的にあり得ません。軍事郵便物が外国の手で密かに開封・解読されたら、軍事秘密が漏れ大打撃を受け兼ねません。軍事郵便は自国の逓送路が存在する範囲内でしか実施できないのです。

逆に、戦時といえども、同盟国・中立国に入港中の軍艦から閉嚢(軍艦郵便)の引き取り要求があれば、その国は引き受けて逓送する義務があります。このような軍艦郵便の特異性は、軍事郵便の本質を理解する上でも極めて重要だとGANは考えます。
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