2018年04月25日

仏印在留邦人の戦後第1信

在留邦人.jpg在留邦人-2.jpg日本敗戦後の仏印(インドシナ)で、英軍に抑留されていた日本の民間人が発信した第1信の俘虜郵便です。発信アドレスの「南部仏印派遣 印支軍気付/在留邦人」が特異です。最近のヤフオクで入手しました。

仏印駐屯日本軍の全部隊は南北2地区に分かれ、北緯16度以北はハノイで中国軍に、以南はサイゴンで仏軍に降伏しました。戦後の仏印日本軍のアドレスにわざわざ「南部」「北部」が区別して入れられるのはこのためです。ただし、仏軍は実際には進駐できず、代わって南部仏印は英軍が管理しました。

他の資料から、発信者は戦時中にビルマのラングーンに進出していた商社の幹部級社員だったことが分かっています。東南アジアで働いていた若い日本人男性は開戦後、現地召集されて日本軍の部隊に組み込まれる例が多かったのです。年輩者はそれを免れる代わりに軍に協力させられ、資源獲得などに働いていたと思われます。

ラングーンは英軍の攻撃で1945年(昭和20)5月初めに陥落しますが、その直前にビルマ方面軍司令部以下の各部隊は脱出しました。この商社マンもビルマから逃げ、バンコクを経てサイゴンあたりで敗戦を迎えたのでしょう。軍と一体で活動していたので、撤退でも部隊に同行し、さまざまな便宜を受けていたはずです。

このはがきは軍郵ステーショナリーを利用し軍事郵便としての部隊検閲も受けていますが、実際には英軍管理下の俘虜郵便です。民間人は本来、ジュネーブ条約による戦争捕虜の待遇は受けられません。郵便物を無料で発受できるのは捕虜の特権ですが、身分上は捕虜でないこの商社マンも、それまでのいきさつから俘虜郵便を利用できたのでしょう。

はがきの発信時期は分かりませんが、文面から1946年晩冬-春頃のようです。葉書表面左下にある紫色の米軍検閲印、いわゆる「金魚鉢」に日付の記入がないことからも、日本到着は46年前半までです。引揚援護庁編『引揚援護の記録』(1950年)によると、南部仏印からの引揚は46年4月16日に開始され、8月5日に完了しています。

敗戦後、南方占領地の軍人からの通信は俘虜郵便としてある程度存在しますが、民間人の通信となると、GANは未見でした。日本への民間郵便は船舶などの輸送手段が途絶し、郵便連絡は事実上不可能となったからです。このはがきは、軍とのコネが「活用」された特殊で希有な例と言えます。
posted by GANさん at 01:46| Comment(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする

2016年02月29日

シベリア抑留者へ航空便

ソ連俘虜.jpg戦後10年間もシベリアに抑留され続けていた日本人俘虜に宛てたソ連製の俘虜専用往復はがきの返信部です。1955(昭和30)年12月1日に広島駅前局で引き受けられ、ソ連・ハバロフスク市に宛てられています。最近のネットオークションで入手しました。

俘虜が発受する郵便物はUPU条約によって日露戦争以来無料でした。このはがきに貼られている陽明門45円と前島1円、計46円の切手は航空料金です。条約には航空扱い料金の規定がないため、臨時的に設定された料金の使用例となりました。幸い、戦後日本は戦争放棄したので、シベリアのケース以外に航空俘虜郵便は存在しません。

当時の国際航空郵便料金は1953(昭和28)年7月1日に改正され、ソ連を含むヨーロッパと中南米など第4地帯宛てのはがき料金は60円でした。しかし、このはがきには46円しか貼られていず、料金表にも「46円」は存在しません。なぜ14円の差額があるのでしょうか。

実は、第4地帯の60円という料金は、はがき基本料金と航空増料金(付加料金)を一本化した「併合料金」でした。基本料いくら、増料金いくらといった内訳は示されていません。しかし、利用者にとっては両者を調べて足し算をする必要がなくて便利です。

ところが、俘虜郵便の基本料金を無料にしようとすると、「では基本料金はいくらか」という問題を解決しなければなりません。1951年12月に併合料金制が導入されたさいには、恐らく、「航空扱いの俘虜郵便はがき」などという厄介な料金設定が必要になるとは、まさに「想定外」だったことでしょう。

そこで郵政当局がとった便法は、船便料金を便宜的に基本料金とみなし、航空料金から船便料金を差し引いた額を航空増料金と想定することでした。当時の国際郵便のはがき料金は一律14円でした。これにより、60円-14円=46円が第4地帯宛て「航空俘虜郵便はがき料金」として算出されたのです。

これらの事実は、『続逓信事業史』第3巻「郵便」編の「ソ連抑留日本人との郵便」という節に記述されていました。GANは未調査ですが、郵政省は1952(昭和27)年9月4日に「郵国第1340号」という通達で全国の郵便局にこの「特別料金」による取扱いを指示しているようです。

この設定がされた1952年当時の航空郵便料金では、第4地帯宛てはがきは125円でした。125円-14円=111円という、「111円レート」の航空俘虜はがきも存在したはずです。10ヵ月という短期間のためか、こちらは未発表です。また、ソ連は往復はがき以外には俘虜郵便を認めなかったので、書状の航空俘虜郵便は存在しません。
posted by GANさん at 19:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする

2014年06月20日

太平洋戦最初期俘虜郵便

POW-2.jpgPOW-1.JPG太平洋戦争開戦直後の俘虜郵便です。俘虜情報局が発信したものですが、俘虜の発受する郵便と同様、無料扱いの俘虜郵便となりました。

太平洋戦争による俘虜情報局は1899年のハーグ条約に基づいて1941(昭和16)年12月29日に陸軍省内に開設されました。俘虜情報局などの関係官庁が俘虜事務に関して発信する郵便物は俘虜郵便規則により無料とされていました。

この封書は俘虜情報局から日本赤十字社に宛てに発信されています。引受日付印はありませんが、速達だったため、配達した芝局の、発信日と同じ昭和17(1942)年1月29日の着印があります。俘虜情報局の開設から1ヵ月後、「俘虜郵便」印がまだ出来ていなかったようで、手書きされています。

コンテンツ(通信文)が残っていて、「『日赤ニ俘虜救恤委員部設置ス』ノ放送案ニ関スル件回答」と題された公文書です。日赤が日本放送協会(N.H.K.)に依頼して放送してもらうニュース原稿を俘虜情報局に送り、実質的な検閲を求めたのに対する回答なのでしょう。

俘虜情報局編『俘虜取扱の記録』によると、俘虜が発受する無料俘虜郵便物の取扱はこれよりかなり遅く、42年5月15日に善通寺、上海、香港の3収容所の俘虜に対して開始したのが最初です。また、日赤俘虜救恤委員部が扱った「赤十字通信」は42年10月12日からです。結果的に、この封書は太平洋戦争で最初期の俘虜郵便となります。

この記録によると、陸軍省は42年3月に「俘虜管理部」を開設し、単なる俘虜情報だけでなく、本格的な俘虜管理に乗り出しています。開戦初期の作戦で予想外に大量の俘虜を捕獲してしまったためです。俘虜管理部員が条約所定の俘虜情報部員を兼務しました。俘虜管理部の俘虜郵便も存在するのではないでしょうか。
posted by GANさん at 23:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする

2014年05月26日

交換船帝亜丸の俘虜郵便

TEIAMARU-1.jpgTEIAMARU-2.jpg太平洋戦争中の日米交換船「帝亜丸」によって運ばれた俘虜郵便です。「俘虜郵便」War Prisoner's Mailというより、「抑留者郵便」Civil Internee's Mailと呼ぶほうが正確な通信です。

太平洋戦争中、日本と連合国との間でスイスを介して交渉が行われ、外交官や抑留者、郵便物の正式な交換船が2回運航されました。1942(昭和17)年6月の浅間丸とコンテ・ヴェルデ号、そして43年9月の帝亜丸です。

帝亜丸はサイゴンに係留中だったフランス海軍の仮装巡洋艦「アラミス」を日本政府が仏印政府と交渉して徴用した船です。政府の委託を受けて日本郵船が運行していました。

交換船帝亜丸は43年9月13日に横浜を出港し、上海、香港、フィリピン・サンフェルナンド、サイゴンを経て10月15日にインド西海岸にある中立国ポルトガル領のゴアに入港しました。米国交換船のスウェーデン籍「グリップスホルム」と抑留者などを交換し、10月21日にゴアを出て11月14日、無事横浜に帰っています。

外務省の在敵国居留民関係事務室が43年8月14日に発した通牒「俘虜郵便等ノ交換船ニ依ル逓送ニ関スル件」(居普通合第605号)が残されています。第2次交換船は英国からの提議を受けて実施され、主要な目的は日本権内にある英米系国民の俘虜郵便と赤十字通信を連合国側に引き渡すことでした。

このため、中国の青島、芝罘、上海、南京に日本側が設けた集団生活所(比較的緩やかな民間人抑留所)の英米系市民の通信をできるだけ多く集め、上海総領事館で取りまとめて帝亜丸に搭載されました。もちろん、見返りに両国で俘虜となっている日本人の通信を受け取る期待があってのことです。

この封書は上海の閘北集団生活所にいたカナダ女性が解放されて帝亜丸でゴアに着き、集団生活所に残った夫と思われる英国人に宛てたものです。日本郵船のマークのある洋封筒が使われ、「ゴア、帝亜丸船上で」と発信アドレスが記されています。

帰航する帝亜丸に積まれて横浜に着き、11月15日に横浜局で引き受けられて検閲を受けています。裏面の封緘紙に押された「逓信省/第二」の検閲印は横浜を示します。表裏にある「PAQUEBOT/船内郵便」「俘虜郵便」「帝亜丸」の各印は、色が日付印と同じ暗黒紫色なので、横浜局で押されたと見られます。

検閲通過後の封書は翌44年に上海に送られ、2月18日と3月4日の2度にわたって閘北集団生活所当局の検閲を受けました。その後にようやく名宛人に届いたと思われ、発信から4ヵ月半もかかっています。

とは言え、第2次大戦中の日本と連合国間の通信は実質的に断絶していました。交換船による郵便物は極めて希少な存在です。
posted by GANさん at 23:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする

2014年04月16日

ユダヤ人の赤十字通信

JUDICA 改.jpg第2次大戦末期に中国・天津からパレスチナのエルサレムに宛てた赤十字通信です。イスラエル国はまだ生まれていず、当時はイギリス委任統治領パレスチナでした。近年のeBay落札品です。

赤十字通信は第2次大戦中に赤十字国際委員会(スイス・ジュネーブ)が実施した簡易な無料通信制度です。表面が往信、裏面に返信を書き込む1枚紙が使われ、封筒には入れません。

「人道物資」として交戦国・中立国を問わず無関税で発着、通過できる赤十字の特権により国際輸送されました。俘虜郵便と似ていますが、郵政機関とは無関係に赤十字が実施するので、郵便ではありません。

この赤十字通信は1945(昭和20)年4月12日に日本軍占領下の天津で発信されました。日本軍天津防衛司令部が検閲(上部左側の赤色角印と中央部右側の認印)して在天津スイス領事館(中央部右側の黒紫色丸印)に引き渡され、国際赤十字の上海代表部(上部右側の紫色楕円印)に送られています。

ここから先の輸送路は不明ですが、おそらく陸路をソ連、トルコ経由でスイスの国際赤十字委員会本部に運ばれたのでしょう。中央部左側の不鮮明な赤色丸印と日付印は国際赤十字のパレスチナ代表部に45年9月26日に到着したことを示すようです。

国際赤十字本部の到着印が見当たりませんが、受取人には届いているようです。しかし、裏面返信部は空欄のままで使われていません。いずれにせよ、日本軍占領下の中国からパレスチナへは、当時これ以外の連絡方法はなかったでしょう。

発信者の国籍は「リトアニア人」とタイプ打ちされています。天津や上海にはナチスの迫害を逃れたヨーロッパのユダヤ人難民居住区があったようです。発信者も受取人もユダヤ系の名前であること、受取人である息子の国籍「パレスチナ人」などを考え合わせ、発信者はそういったユダヤ人の一人と考えて間違いないでしょう。

だとすると、リトアニアの在カウナス日本領事館で領事代理だった杉原千畝が発給した有名な「命のビザ」の恩恵を受けた人物だった可能性が非常に高くなります。この珍しい国籍の外国人が戦前から中国にいたとはとても思えないためです。

GANの調査が不十分のため、推測が多くなりました。しかし、「杉原千畝によって救われたユダヤ人の通信であろう」と考えると、日本人として少し誇らしい感じもしてきます。
posted by GANさん at 23:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする

2014年04月06日

露軍俘虜になった英人船長

SADOMARU-1.jpgSADOMARU-2.jpg日露戦争でロシア軍に捕らえられた日本側俘虜がロシア・メドヴィエジの収容所から発信した俘虜郵便です。イギリスの収友K・クラーク氏に数年前に譲ってもらったものです。

ロシア軍の俘虜というと日本人かと思うでしょうが、差出人はGeorge Anderson。イギリス人です。陸軍がチャーターした日本郵船の貨物船「佐渡丸」船長でした。

佐渡丸は1904(明治37)年6月15日、僚船「常陸丸」と共に約1,200人ずつの陸軍部隊や武器・資材を積み、宇品から船団を組んで満洲に向かいました。ところが途中、対馬海峡でロシア海軍のウラジオ艦隊に捕捉されてしまいます。

ロシア艦隊は小銃で激しく抵抗した常陸丸を撃沈し、ほとんど全員が戦死します。佐渡丸も装甲巡洋艦リューリックの雷撃を受けましたが、沖ノ島に漂着して辛くも沈没を免れました。佐渡丸の攻撃前、ロシア艦隊は船員ら非戦闘員に退去を勧告し、応じた者を装甲巡洋艦グロモボイに連行しました。その1人がこのAnderson船長で、俘虜としてメドヴィエジに収容されたのです。

日本の鼻先で起きたこの常陸丸・佐渡丸遭難事件は国民を震駭させ、憤激させ、大きな社会問題にまでなります。近海防衛の任を帯びていた第2艦隊はウラジオ艦隊を追うも成果なく、「露探(ロシアのスパイ)艦隊」とまで呼ばれて非難・攻撃を受けました。

陸軍省発行の「明治三十七八年戦役俘虜取扱顛末」によると、この戦争でロシア軍に捕獲された日本側俘虜は合計2,088人でした。うち欧米人が4人だけいて、いずれも「陸軍所属運送船員」の「将校相当者」となっています。全員が佐渡丸の船長以下高級船員でしょう。その後、欧州で解放されています。

このはがきは無料俘虜郵便として1905年2月13日にメドヴィエジのAnderson船長から故郷スコットランド・エジンバラの息子に宛て発信されています。ロシア赤十字の検閲・承認(右上紫印と赤色丸型印)を受けた後、ペテルスブルグ局で2月23日(露暦では2月10日)に引き受けられました。フランス語による「俘虜郵便」印も紫色で押されています。

クラーク氏によると、このような英人の俘虜郵便は6通だけ知られているそうです。日露戦争に英人俘虜がいたとは。思いがけない、異色の存在です。
posted by GANさん at 21:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする

2014年03月02日

シベリア俘虜の郵便

KRASNAJA-1.jpgKRASNAJA-2.JPG大阪もの第2点目は、日本軍がシベリアで管理したオーストリア軍俘虜発信の俘虜郵便はがき(画像=クリックで拡大できます)です。英・独・仏とチェコ語で印刷された俘虜専用ステーショナリーが使われています。

1919(大正8)年11月27日にハバロフスク郊外のクラスナヤレチカ収容所からウイーンに宛て出されました。収容所の紫色丸型検閲印とMOJI局19年12月14日の引受印があります。

クラスナヤレチカ収容所から門司までは、日本軍の第4野戦局(ハバロフスク)、第1野戦局(ウラジオストク)と敦賀局が逓送に加わっているはずですが、消印はありません。第1野戦局からは門司局宛て閉嚢便で送られたと思います。開嚢した門司局で初めて郵便物として正式に受け付けられました。

この当時、日本はロシア革命への連合干渉に加わって、シベリアに出兵していました。旧帝政ロシア軍は欧州戦線でドイツ・オーストリア軍俘虜を捕獲していましたが、革命の混乱で管理できなくなりました。その俘虜管理は結局、日本軍に押しつけられました。

ロシア軍はシベリアに多数の俘虜収容所を開設していましたが、どの収容所が日本軍に移管されたか、よく分かっていません。しかし、エンタイアなどから、ピェルワヤレチカ、ニコリスク・ウッスリスキー、そしてこのクラスナヤレチカの3ヵ所の収容所を日本軍が管理したことは確実です。

浦潮派遣軍野戦交通部の記録によると、日本軍は大正8年10月から約1年間だけシベリアのオーストリア・ハンガリー兵俘虜の郵便を扱いました。その総数は5万3千通です。内地の各収容所でのドイツ軍の俘虜郵便に比べると、桁違いに少なかったことが分かります。
posted by GANさん at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 俘虜郵便 | 更新情報をチェックする