2017年12月16日

奉天キャッスル局欧文印

大北門.jpg満州の奉天局大北門出張所で1908年(明治41)に引き受けられたドイツ宛てのはがきで、「MOUKDEN.C」という見慣れない欧文印が押されています。関西の大手オークションで落札し、ごく最近到着しました。

データを詳しく言うと、菊2銭2枚貼りを「奉天・大北門 41.7.6」で抹消し、さらに欧文印の「MOUKDEN.C 6.7.08」と「CHANGCHUN-S 7.7.08」が押されています。「CHANGCHUN-S」は長春駅(STATION)と理解されています。しかし「MOUKDEN(奉天) .C」がどこの局か分かりません。

MOUKDEN.C.jpg満州の欧文印については、 JOHN MOSHER『Japanese Post Office in China and Manchuria』(1978)や西野茂雄『外信印ハンドブック』(1985)が参考になります。しかし、両書ともMOUKDEN-Sは載っているのですが、MOUKDEN. Cはありません。少なくともこの段階では存在が知られていなかったようです。

「MOUKDEN. C」の候補となり得る局所は4つ考えられます。(1)奉天本局、(2)奉天局大北門出張所、(3)奉天局大西関出張所、(4)奉天局奉天駅出張所です。このうち大西関出張所は1908年8月、奉天駅出張所は1911年6月の開設なので除外できます。奉天駅出張所の欧文日付印は「MOUKDEN-S」と分かっています。奉天局は後ろに何も付かない「MOUKDEN」「MUKDEN」を使い続けたようで、これもはずれます。

消去法では大北門出張所が残ります。このはがきは大北門出張所でまず和文印で抹消されてすぐ、同じ郵便課の外国郵便係に回されて「MOUKDEN. C」印が押されたのでしょう。翌日に外国郵便交換局の長春局で区分の際、東清鉄道のロシア寛城子局との交換のため「CHANGCHUN-S」印を押しました。--このように仮定しても、不都合や矛盾はありません。

それでは「MOUKDEN. C」の「C」とは何か。CASTLE(城)、またはCITY(城郭都市の内部)の頭文字だろうとGANは考えます。大北門出張所は07年10月末までは独立の奉天城内局でした。11月1日に奉天局出張所に降格・改称されましたが、その後も奉天城内地区の集配を継続しています。この集配事務は08年8月に奉天局大西関出張所が別に開設されて引き継がれますが、大西関でも同じ欧文印を使い続けただろうと思います。

奉天(旧市内)は清朝が北京に遷都する以前の宮殿を城壁で四角形に囲んだ内城とそれを円周状に大きく取り巻く外城壁によって区画されます。大北門出張所は内城の北門内側、大西関出張所は外城の西門内側に設けられていました。満鉄本線奉天駅は内城の西方約5㎞離れた位置にあり、駅周辺の満鉄付属地一帯は「新市街」と呼ばれました。奉天局は奉天駅の東方300mの近距離でした。

やがて、奉天城内居住の在留邦人は便利な奉天駅周辺の新市街地に移り住むようになります。郵便物取扱が激減したため大西関出張所は1910年11月末限りで集配を廃止し、無集配局となりました。「MOUKDEN. C」印も同時に廃止されたのでしょう。この欧文印の使用開始期は不明ですが、奉天城内局-大北門出張所-大西関出張所と3代にわたって使われたはずです。

翌1911年6月に前出の奉天駅出張所が開設され、本局に代わって安奉線との郵便物積み替えのほか中国奉山線鉄道(山海関-奉天)との郵便交換を受け持ちます。「MOUKDEN-S」印はそのために使われたのでしょう。また、「MOUKDEN」や「MUKDEN」印は、奉天本局での外国郵便直接引受用のほか、奉天駅出張所開設までの間の郵便交換用にも使われたと見られます。

本稿での各局の郵便物集配状況や郵便交換事情については『関東都督府政務報告』各期(外務省外交史料館蔵)によりました。

追記(2018.01.27) 中国郵便史専門家の飯塚博正氏から「MOUKDEN.CはMOUKDEN CITYを意味する」とのご教示を得ました。同氏は近似例として1911年「天津城 TIENTSIN CITY」のバイリンガル印のある中国カバーを示され、GANもその通りだと思いました。この記事のタイトルは「奉天シティー局欧文印」の方が適切でした。飯塚氏に感謝します。
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2017年04月30日

奉天城日本電信取扱所

奉天城.jpgまた電報の話が続きます。これは昭和4(1929)年に滋賀県の近江八幡から満州・奉天に宛てたものです。1週間ほど前、東京で開かれたスタンプショウのブースで購入しました。

宛先は「奉天小西関」とあります。恐らく奉天旧市街を取り囲む城壁の西側に開けられた大小2つの関門のうち小さい方を入った辺りの地域に当たるのでしょう。

右下部に押された配達日付印は「奉天城/日本電信取扱所 4.7.31」で、D欄に「満」が入っていません。カーボン紙でなく仮名タイプで印字されてもいるので「大正4年」はあり得ず、「昭和4年」です。

すると、昭和になっても満鉄線奉天駅から離れて日本局が存続していたのか、という疑問が出てきます。ワシントン会議の決議に基づいて、満鉄付属地外の日本局は1922(大正11)年末限りで全廃されたはずだからです。それとも、しぶとく生き延びた「秘密局」?

日本電信取扱所は単片上でD欄「満」タイプの印影が知られています。D欄櫛型タイプは、この電報のようなエンタイアはもちろん、印影さえ未発表とされていました(日本郵趣協会『日本郵便印ハンドブック』2007年)。しかも、なぜ「日本」なのか、「日本」が付かない普通の電信取扱所とはどこが違ったのか、など運営実態についての論考は出されていませんでした。

日本電信取扱所は1909(明治42)年1月13日に結ばれた日清電信協約に基づく特殊な独立の電信専業機関です。協約は日露戦争中に日本軍が開設した電信事業を整理し、満州の日清両国の電信網を接続させる目的でした。これにより日本の電信業務は満鉄付属地内だけに縮小し、奉天局の大西関、大北門出張所を含む付属地外9局所の電信業務が廃止されました。

その代償として、清国は6個所の清国電報局で構内の一室を日本側に提供し、日本の電信系に発着する和欧文電報に限定した取扱所の開設を認めました。清国局内に設けられた日本局だから局名に「日本」が入るのです。09年3月16日の奉天城、遼陽城、鉄嶺城を始め、長春城、営口旧市街、安東縣旧市街の各所が開設されました。

この事実は、関東都督府が監督官庁である外務省に4半期ごとに報告した政務状況報告書(「通信事務」の部)に断片的に現れます。6取扱所は在外局一斉撤退とは無関係に存続し、1933(昭和8)年に満州電電会社へ業務移管されました。開設地が中国人街の中だったので日本人はそう多くなく、配達された電報も少なかったはずと思われます。
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2017年04月28日

たった20日間の欧文印

寛城子-1.jpg寛城子-2.jpg中国天津からパリ宛てカバーです。菊10銭をTIENTSIN 2局1907(明治40)年10月10日の金属印で抹消して引き受けられています。天津2局とは、天津・紫竹林の日本領事館内に開設された天津局紫竹林出張所を表します。

到着印はありませんが、満州・寛城子日本局(所在地は孟家屯)の中継印が封筒裏面に押されています。「KUANCHENGTSU(寛城子)07年10月13日」の欧文黒色ゴム印です。天津から恐らく塘沽-大連間を航送されてわずか3日で到着しています。

日露戦争で日本はロシアに東清鉄道南部支線の南半分を割譲させ、南満州鉄道(満鉄)としました。さらに07年7月、ロシアと満州鉄道接続協約を結んで満鉄線北端の孟家屯駅から軌道を延伸し、ロシア側南端の寛城子駅に接する西寛城子駅を作ります(下の概念図参照)。

これにより、戦争で切断されていた南部支線がkuanchengtsu.JPG日露両線に分かれながらも再接続されました。ただし、ロシア側(東清鉄道)が広軌なのに対して日本側(満鉄線)は日本の列車が走れるよう狭軌に改築したので、双方の列車が互いに乗り入れることはできません。

鉄道の接続に伴って郵便交換も協定され、前年の敦賀-ウラジオストク間に続いて寛城子局とロシア鉄道郵便局との間でも交換が始まりました。実際の交換開始期日はこれまで不明だった(Swenson, I.S.J.P V61-N4, 2006)ようですが、GANの調査では07年10月1日からです。

外務省外交史料館が保管する資料から寛城子の日本領事館07年10月1日発外務大臣宛て第60号電報が見つかりました。「万国郵便条約ニ拠ル東洋欧州間外国閉嚢郵便物ノ交換ハ当寛城子支局ニ於テモ取扱フコトヽナリ本日ヨリ事務ヲ開始セリ」とあります。

この資料のおかげで、「KUANCHENGTSU」という特異な綴りを持つ欧文印は日露郵便交換のために導入され、この日から使われたことが分かります。専ら欧州発着便の内の一部郵便物に押されたのでしょう。この書状のように北清(華北)や満州、朝鮮からの郵便物は寛城子局で閉嚢に締め切ることになっていました。

寛城子長春関係図.jpgところが、寛城子局は交換開始直後の10月21日にまだ計画線だった吉林長春鉄道の起点となる長春駅の付属地に移転し、「長春局」と改称されます。長春市街地の北端部に位置して寛城子駅に近く、日露郵便交換にも便利だったからでしょう。

これにより、郵便交換用の欧文印も新しく「CHANGCHUN(長春)-S」に変わりました。「S」はSTATION(駅)を表すとされます。「KUANCHENGTSU」印は10月1日から20日間使われただけで終わりました。櫛型欧文印としては最短命でしょう。

寛城子、孟家屯、長春各駅と寛城子、長春局のだいたいの位置関係をに概念図として示します。満鉄線が長春駅まで延長されると、東清鉄道はこの図のように長春駅北側に接して引込線ホームを作り、日露郵便交換もここに移りました。孟家屯-西寛城子間は廃線となりました。

これまでに見つかっている10点足らずのKUANCHENGTSU印はすべて欧州発着郵便物への中継印ばかりで引受印はありません。孟家屯は「ド」の付くような田舎集落で、国際郵便を利用するような常住者はいなかったはずです。この印で切手を抹消して引受けられた郵便物は限りなくゼロに近いでしょう。特異な使われ方をして悲運に終わった郵便印です。
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2017年02月01日

大連局でない「大連」印

大連1.jpg支那字入り菊3銭切手が貼られ、「満・大連39.10.13」の日付印で抹消されている書状です。日露戦後の満州で明治39(1906)年9月に軍政廃止、民政移行によって開設された大連局が引き受けた最初期の郵便--。

素直に見れば、だれでもそういう説明を付けたくなるところです。しかし、これは郵便史的には大きな間違いとなります。なぜか。

民政移管によって関東都督府が発足し、同時に郵便業務全般を管理する関東都督府郵便電信局が06年9月1日に大連で開設されます。従来の野戦局と電信専業の軍用通信所55局所は一律にその支局として改編され、再発足しました。

ところが、旧大連野戦局と大連通信所が統合されてできたのは都督府郵便電信局で、「大連支局」ではありませんでした。この封書が発信された10月13日の時点では「大連局」を名乗れる郵便局は存在していなかったのです(東大連支局は別の局所です)。

この間、大連市内での郵便事務を取り扱っていたのは都督府郵便電信局本局でした。正確には本局の中の通信課郵便掛の担当です。監督官庁が現業事務も兼務したことになります。そんな事情から、後に大連支局が正式に発足すると、通信課長(兼規画課長)の樋野得三が支局長も兼務しています。

これ自体は珍しいことではなく、さかのぼれば、郵便創業当初の「東京局」も駅逓寮の一部門(発着課)でした。満州と同時期で言えば、樺太でも樺太庁郵便電信局発足当時はコルサコフ(大泊)の郵便電信局本局がやはり現業も兼務しています。丸二型「樺太庁/郵便電信局」の日付印が使われたことでよく知られています。

樺太と違い満州では「大連支局」を仮想表示しましたが、やはりムリ筋です。いろいろな矛盾も露呈してきたのでしょう。3ヵ月以上も経った12月10日に、改めて独立現業局としての大連支局を正式に開設しました。郵便印も本局時代と同じものを使いました。従って、同じ「満・大連」櫛型印でも39年9月1日から12月9日までは本局(都督府郵便電信局通信課)の消印であり、大連局(大連支局)のものではない、が結論です。

本局.jpgこれに関連して、未解明の問題があります。正式な大連支局開設後に櫛型「満・大連本局」、丸二型「都督府局(朱色)」という単片上の印影の存在が知られています(左図)。前者は形式から明らかに通信日付印ですが、使用状況が分かりません。後者はどうも料金納付事務などの再確認印のようです。

『関東逓信三十年史』(満州逓信協会、1936年)には「管理事務に限り大連本局にて之を処理したるも……」という断片的な記述(pp.89-90)が見られます。郵便切手に日付印を押すような「管理事務」など果たしてあるのか。または、これらの印影はこの記事とはまったく無関係か。--判断するにはまだ資料不足です。この印影の問題については後考に俟ちたいと思います。
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2017年01月29日

満鉄駅の電信取扱所

五竜背1.jpg湯山城1.jpg高麗門1.jpg張臺子1.jpg
萬家嶺1.jpg得利寺1.jpg





五龍背、湯山城、高麗門、張臺子、萬家嶺、得利寺……。聞き慣れない局名ですが、これらは郵便印ではなく、満州の電信専業局所の一種、鉄道停車場電信取扱所の日付印です。大正5(1916)年7、8月ごろ南満州鉄道(満鉄)の支線、安奉線を利用した旅行者が各駅で記念押印したもののようです。

関東都督府通信管理局(関東逓信局の前身)は満鉄と協定を結び、明治42(1909)年8月1日から満鉄本社構内と遼陽、大連、奉天など主要12駅に電信取扱所を設置して公衆電報の取扱いを開始しました。(外務省外交史料館蔵『関東都督府政況報告並雑報』明治42年7-9月期による)

満鉄線路沿いに架設されている鉄道専用電信を一般電信線に接続して旅客の利用に供しました。専任職員は置かず、駅員の兼務です。内地で既に実施されている方式にならったものでした。その後も観光地の駅や安奉線の駅にも増設を続け、明治期末に取扱所は24駅に開設されていました。

満鉄構内.jpg大連駅.jpg鉄道停車場電信取扱所の開設当初、日付印はA欄「満」、C欄駅名という形式でした。満鉄構内と大連の印影が知られています(右図)。

この記事の最初に示したようなA欄駅名、C欄「電信取扱所」という形式には大正初年に切り替わったのでしょう。荒井国太郎氏の諸論考や穂坂尚徳氏の労作『在中国局の和文印』にもこの形式はなく、これまで未発表だったようです

これらの電信取扱所印は電報賴信紙に貼られた料金相当切手の抹消印や駅構内限りで配達される電報送達紙に配達印として押されたはずです。しかし、いずれもエンタイアとしては未発表で、使用状況の実態は分かっていません。

この時期の満鉄駅委託の通信業務というと、もう一つ関連して未解明な問題があります。前記『政況報告』の明治41年1-3月期報告書によると、同年1月16日から「鉄道停車場郵便取扱所」なるものが開設されています。本線では臭水子、南関嶺、三十里堡、得利寺など13駅、安奉線では陳相、渾河、橋頭、孟家など12駅で、いずれも付近に郵便局のない不便地です。

「沿線居留民ノ増加ニ伴ヒ、之ガ(従来の鉄道郵便係員による)取扱ヲ拡張シ」、満鉄と交渉して駅員や一般民間人の便宜のためにこれら各駅で「郵便物ノ引受及留置交付ノ取扱ヲ為サシム」と記述されています。電信取扱所の設置以前に郵便取扱所という先行事例があったことになります。

この郵便取扱所が郵便物の引受に果たして独自の日付印を使ったのか、この種取扱いがいつまで続いたのか。--詳細は不明で、新たな資料の発掘が望まれます。停車場郵便取扱所が扱った、例えば「臭水子駅留置」などと肩書きしたエンタイアもあるはずです。その出現も併せて将来に期待したいと思います。

訂正】この記事の第5段落末尾で「これまで未発表だったようです。」としたのは誤りだったので削除します。委細はこの記事のコメント欄をご参照下さい。
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2016年10月31日

安奉線の「奉安線」鉄郵印

奉安線.jpg満州の安東県と奉天とを結ぶ南満州鉄道会社(満鉄)の支線、安奉線の鉄郵印が押された絵はがきです。最近のネットオークションで入手しました。

菊紫色1.5銭切手が貼られ、明治44(1911)年1月9日の安東県-草河口間下り便の郵便車で引き受けられています。温泉で知られる五竜背駅構内の郵便箱に投函されたようです。

この日付印はA欄が「奉天安東縣線」となっているのが目を惹きます。安奉線を利用した鉄道郵便線路名は正式には「安東県奉天線」です。実際、ふつう目にする安奉線鉄郵印のほとんども「安東縣奉天線」か「安東縣奉天間」「安東奉天間」となっています。

鉄郵印のA欄は郵便線路名を表示するのが原則なので、安奉線は本来なら「安東県奉天線」であるべきです。ところが、この日付印では郵便線路の起点・安東県と終点・奉天が逆に表示されているのです。

これはエラーであり、誤りに気付いてすぐに「安奉線」印に戻した――かというと、そう単純な話でもないようです。満州郵便史の専門家、稲葉良一氏の調査によると、「奉安線」印は明治43年4月から翌44年9月までのデータが知られています。GANは別に42年12月17日の官葉も持っており、これが初期データのようです。

「奉安線」印が使われた期間中も「正常な」「安奉線」印は使われています。2年近くにもわたって「正常印」と併用され続けているとなると、もう由緒正しきエラー印と言うのは難しい。では、上り便と下り便とで使い分けたのかと調べても、共に「上」「下」便があって、これも否定されます。

要するに、今日までのところ、なぜこのような逆表示印が生まれたのか、理由は分かっていません。解明へのヒントは、「安奉線」印に比べると「奉安線」印の方が圧倒的に少ないことでしょう。将来、新資料の発掘やデータの集積で分かることがあるかも知れません。仮に単純ミスだったという結論になったとしても、「奉安線」印の希少性は揺るがないと思います。
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2014年05月16日

会屯郵便取扱所の書留便

SUISHI-EI.jpg関東州の水師営郵便取扱所で引き受けた書留郵便です。40年ぐらい前、この宛先への郵便物が蔵出し品として市中に大量に出回ったときに入手しました。

満洲逓信協会編『関東逓信30年史』によると、関東逓信局は大正13(1924)年2月1日から管内の満鉄停車場と会屯145ヵ所に郵便取扱所を開設しました。停車場取扱所は駅職員、会屯取扱所は中国人の会長に取扱を委嘱し、逓信職員は配置せずに済ませました。

会屯の「屯」は日本で言う「村」に相当する集落を指すようです。「会」は屯を複数併せたこの地方独自の行政組織で、日本の郡と村の中間ほどの規模といいます。明治初期に多かった「A村・B村連合戸長役場」といった感じではないでしょうか。

当時の関東州では旅順、大連、金州など8局が鉄道沿線に開設されていましたが、集配区域は都市部と近郊に限られ、それ以外の農村部会屯は「市外無集配区」の扱いでした。会屯でも集配を行うため、8局の管轄下に計74取扱所が一挙に開設されました。

当初、「取集」は普通郵便だけを受け付け、「配達」は取扱所に30日間留置して受取人が申し出たら交付するという非常に原始的な方法でした。この時代の郵便取扱所では引受日付印は使わず、集配局で押していたと見られます。

恐らく昭和10年代の中頃と思われますが、一部の会屯取扱所で書留や為替貯金を扱うようになり、普通郵便の引受にも取扱所独自の日付印が使われました。その開始時期がいつか、GANはまだ資料を得ていません。1945(昭和20)年の段階で19取扱所が為替貯金を扱っていたことが分かっています。

SUISHI-EI-2.pngさて、この封筒ですが、昭和17年12月25日に水師営取扱所で引き受けられています。所名の「水師営」は日露戦争時、乃木将軍とロシア旅順要塞の守将ステッセルとの会見で知られる有名な集落です。日付印はA欄に取扱所名「水師営」、D欄に所轄集配局名「旅順」が入った特異な形式です。

差出人は日本人ですが、会屯地区に住む日本人は極めて稀な存在だったといわれます。今日の郵趣市場で会屯郵便取扱所の郵便物の出現が極めて稀なのも、そのためと思われます。

追記(2014.06.17) これを書いた時点で資料が出てこなかったため、書留の引受や為替貯金の取扱を始めた時期を「昭和10年代の中頃」としましたが、その後、資料が見つかりました。営城子、水師営、南関嶺など14取扱所で昭和16(1941)年10月16日からです。独自の日付印使用開始もこの時からと見られます。『続逓信事業史資料拾遺第1集 旧外地における逓信事情』の「関東州の部」有川博基手記中にありました。
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2014年02月20日

寛城子局吉林出張扱い初便

KIRIN-1.jpg
KIRIN-2.jpg
この封書は最近入手しました。差出人のアドレスは「清国吉林領事館 林久治郎」と裏面に書かれています。しかし、表面(画像=クリックで拡大できます)の引受日付印は満洲・寛城子局明治40(1907)年4月25日です。

寛城子は満鉄線最北端の都市で、ロシアの東清鉄道と接続するターミナル駅でもあります。寛城子局は民政移行後最初の39年9月に開設され、1年余で移転改称して長春局となる短命局です。

吉林省の省都・吉林は在留邦人も多い都市ですが、日本局のある満鉄沿線からは距離があります。関東都督府郵便電信局は吉林領事館の開館を機に、邦人の便宜を図るとして郵便の出張取扱を計画しました。

寛城子局職員が定期的に領事館へ出張し、邦人の郵便物発受を扱って寛城子局に持ち戻るシステムです。まだ鉄道はなく、吉林への往復には馬車をチャーターしたと思われます。40年4月23日から開始されました。

貯金・為替から小包までも扱ったので、吉林の邦人には大好評だったようです。直後の6月1日からは出張取扱を「昇格」させ、領事館の一室を使って寛城子局出張所を常設しました。同時に、寛城子-吉林間の連絡も3日に1回と増便します。

この封書にはコンテンツが残っており、4月19日に書かれています。出張取扱に当たる第1便の職員は4月23日に寛城子を出発しました。吉林でこの封書を受け付けて寛城子局に持ち戻り、正式に引受印を押したのが4月25日だったと思われます。つまり、この封書は吉林での寛城子局出張取扱の初日カバーです。「出張取扱」という特殊な郵便機関の存在を示す資料として貴重だとGANは考えます。

差出人の林久治郎は外交官として高名で、後に奉天総領事やブラジル大使、太平洋戦争中は占領地ジャワの司政長官などを務めます。この時はまだ外交官試補で、領事館開設スタッフとして3月に赴任してきたばかりでした。館員だったからこそ初日便を利用する機会に恵まれたのでしょう。

外国(清国)領土内に勝手に日本の郵便機関を開設することは主権侵害に当たります。しかも、両国は明治36年に郵便権の相互尊重を前提とする「日清郵便仮約定」を結んだばかり。このため、吉林出張所の開設は清国側には秘密にされました。このような郵便機関は、俗に「秘密局」と呼ばれています。
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2014年02月11日

逆アリバイ秘密局・大東溝

DAITOKO.jpg少し前のネットオークションに、大東溝局の着印のあるエンタイアが数点まとまって出品されました。鴨緑江右岸・中国(満洲)側河口のこの局のエンタイアは、市場でなかなか見かけません。よい機会と考え入手しました。

日中間の郵便交換協定に背いて日本が中国本土や満洲に密かに開設した「秘密局」については、収集家の間でよく知られています。逆に、実際には存在しないのにそれを秘密にし、存在するかのように装った珍しい局があります。ある時期の大東溝局がそれで、いわば「逆アリバイ秘密局」ともいうべき役割を果たしていました。

明治43(1910)年、日清間で「郵便約定」が改定され、満洲でも交換局7局が正式に追加されました。奉天や長春など他の局はすべて国際的に開市、開港された都市ですが、大東溝だけはそのどちらでもない交通不便な田舎の海港です。なぜ、そんな小局が割り込んできたのか。

日露戦争の結果、日本は鴨緑江沿いの森林資源を開発する利権をロシアから継承しました。その木材の搬出港として発展すると考えた日本側の要求で、大東溝も交換局に加えられました。しかし、木材搬出港の地位は他に奪われたようで、入港する船もまれに寂れ果ててしまいます。ついに大正10年3月26日、大東溝局は廃局されました。

この事実を中国側に通告すると、たださえ日本局の存続は認めたくない中国です。すぐにも予想される協定改正交渉で、「満洲内交換局は6局限り」と削減を主張することが明らかです。既得権を守りたい日本は、中国に対し大東溝局をすでに廃局したことは秘密にし、「一時的な閉鎖」と言いつくろいました。

大正12(1923)年実施の「日中郵便物交換約定」交渉で、中国は満洲を含む中国領土内日本局の完全撤廃を主張し、大東溝局の問題などは吹っ飛んでしまいます。ただ、日本の抵抗で満鉄付属地内の局所だけは残されました。このいきさつから、廃局から在中国局撤廃までの1年9ヵ月間、大東溝局は「逆秘密局」的な存在だったと、GANは考えます。

この封筒(画像=クリックで拡大できます)の宛先は、まさに鴨緑江の木材伐採権を行使するために設立された日中合弁の国策会社「鴨緑江採木公司」の出先です。大東溝局明治43年4月6日の着印を持ちます。郵便史はもちろんですが、日露戦争や日韓関係の歴史を調べる上でもよい資料ではないかと思います。
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