2018年02月13日

預金者に優しい集金貯金

集金貯金-1.jpg集金郵便貯金の通帳を最近のヤフオクで入手しました。「集金貯金票」と呼ばれるシンデレラスタンプの一種、ミツバチを描いた額面入り証紙を使ったことで知られています。ただ、運用の実態はあまり分かっていませんでした。

この通帳は印刷局製の縦型帳面式8ページで、表紙に紫色で富士山が描かれています。1941年(昭和16)8月に東舞鶴局を受持局として発行され、記号番号は「集ちい」、原簿所管庁は京都貯金支局です。予定額100円に対して44年1月までの32回で計101円が預け入れられ、利子86銭が付いています。

集金貯金の歴史は比較的浅く、1938年(昭和13)6月21日から実施されました。制度的には明治以来の逓信省令「郵便貯金規則」に「集金貯金」の項目を付け加える改正をして発足させています。従来からあった積立郵便貯金とは別に、さらに「預金者ファースト」に弾力化させた制度でした。

集金貯金-2.jpg集金貯金は毎月1回、郵便局の職員が預金者の自宅や職場などを巡回して集金する点で積立貯金と似ています。が、積立貯金は預金額が毎回一定ですが、集金貯金には定額がありません。2、3、5、7、10、20、30円のどれかなら毎回ごとに自由でした。

実際、この通帳では2、3、30円と3額面の貯金票(正式には「預入金額票」)が使われています(右図)。預金者の都合で集金日以外に局の窓口で預け入れてもよく、さらに複数月分の前納も後納も可能と自在でした。

この集金貯金制度の大きな特徴が、預入額を証明するために貯金票を貼ったことでした。貯金票には7種の額面があり、うち20、30円の高額2種は1940年7月の追加発行です。貯金票の抹消には集金人印を使ったので、為替貯金用櫛型印は見られません。

制度導入後、一部の地方逓信局から「証紙より金額押印方式の方が簡単」との提案も出ましたが、本省貯金局は「制度設計の際に検討したが、労力もコストもほぼ同じ」と退けています。集金人は出先で不定額の現金をやり取りするわけですから、多種の金額印を用意して押印するよりも携帯した貯金票を貼る方が誤りがより少なかったと思えます。

御奉公.jpg官業で、既に積立貯金制度もあるのに、これほどに預金者奉仕の新制度を導入した理由は何でしょうか。前年7月に始まった日中戦争の厳しい情勢が背景にあったはずです。中国国民政府の首都・南京を占領しても相手の抗戦意思はくじけず、徐州作戦で国府軍主力を包囲しますが殲滅はできませんでした。外交的収拾にも行き詰まり、2年目を迎える戦況は泥沼化が始まっていました。

当局には戦争遂行のため、貯金を勧めて庶民の零細な資金をかき集め、膨れ上がる軍事費を支える必要がありました。同時に、生産が後回しとなる生活用品不足から起こるインフレの予防効果も期待されたでしょう。通帳の裏表紙中央には「貯金は誰も出来る御奉公」とさりげなく刷り込まれています(左図)。わずか一行ですが、この新制度の性格をすべて物語っているようにも見えます。

預金者にとっては融通の利くとても便利な制度ですが、単独事業としては集金コストがかさみ、赤字になりそうです。太平洋戦争末期には戦場や軍需工場にすべての人手を割かれ、継続困難に陥っただろうと思います。しかし、制度の一時停止や廃止の通達などは見当たりません。事実上の運用停止状態のまま戦後を迎え、制度整理の中でひっそりと廃止されたのではないでしょうか。
posted by GANさん at 00:08| Comment(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする

2017年10月31日

朝鮮駐屯の軍人無料為替

猪島.jpg日露戦争で日本軍が占領・駐屯した朝鮮には前進する野戦局の業務を引き継ぐため、併合以前から日本の普通局が次々に開設されていきました。ただ、野戦局の軍事郵便為替は普通局では取り扱えない規則だったため、「軍人無料為替」という便宜的な措置が講じられました。1904年(明治37)5月逓信省令第37号で定められています。

指定された普通局で軍人・軍属が振り出す通常為替の為替料(振出手数料)を無料とし、一般では上限のある振出額を無制限とするものです。為替証書は振出局で調製して受取人に直送しました。この点が為替貯金管理所が調製して送る軍事郵便為替と大きく異なります。野戦局から管理所に振出を依頼する手間と時間が省け、早く届きました。

開戦3ヵ月後の04年5月15日にまず京城、仁川両局で取扱が始まりました。以後、軍隊の駐屯地を中心に、朝鮮統監府告示によって取扱局が増えています。同じような事情の満州でも同様の取扱例が見られます。

上図は韓国・猪島局で明治38年(1905)6月9日に振り出された軍人無料為替の受領証です。為替金を受け取った証拠として振出請求者(送金依頼者)に渡されます。為替金を表示する枠内に「軍」の朱印が押されている点で一般の受領証と区別できます。その下の「證書送達」の角印は、猪島局から受取人に為替証書を直送するという意味でしょう。

猪島は釜山の西方にあり、陸軍の鎮海湾要塞司令部が設けられた小島です。全島が軍事施設なので、猪島局の利用者は日本軍人ばかりだったはずです。この受領証の左欄外に「大阪毎日新聞社へ送金」の墨書メモがあります。送金額「96銭」は、要塞勤務の士官あたりが「大毎」紙を取り寄せる月額購読料プラス第3種郵送料だったのかも知れません。
posted by GANさん at 23:29| Comment(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする

2015年08月31日

ラバウルの沖部隊郵便所

Rabaul.jpg最近のネットオークションで入手したばかりの軍事郵便貯金通帳です。野戦局印はわずか3個しかないささやかなものですが、太平洋戦争中の軍事郵便の貴重な資料とGANは考えています。

通帳所有者(兵士)の「住所」欄には「熊本西部16」というゴム印があり、これは歩兵第13連隊(熊本)補充隊を表します。預入れが始まった1942(昭和17)年当時、13連隊が属していた熊本第6師団は中国戦線にありました。補充要員だったこの通帳所有者は上海を経て前線の13連隊に到着し編入されたとみられます。4回目、昭和17年12月19日の預入れ印の第四二野戦局は上海にありました。

FPO.241.jpgFPO.280.jpg5回目の預入れは昭和18年2月29日に「第二百四十一野戦」で、6回目は4月14日に「第二百八十野戦」でされています。後者の第280野戦郵便所は終始ニューブリテン島のラバウルにあったことが分かっています。

すると、この兵士は中国戦線から転じ、第241郵便所があった「どこか」を経由してラバウルに着いたのでしょうか。軍事郵便貯金通帳で異なる野戦局印が押されている場合は通常、そう理解されています。

しかし、別の資料から、GANは241所も280所も共にラバウルの郵便所だと以前から考えていました。この通帳の場合、兵士が2月に預入れした後、4月に再び同じ郵便所に行ったら所名が変わっていたのです。241所が280所と改定されていました。この通帳は、「ラバウル280所は241所の後身」説を傍証する資料になると思います。

貯金通帳から話はそれますが、1942年5月に東部ニューギニア担当として第17軍(沖部隊)が遅れて編成された際、主な所属部隊は南海支隊と青葉支隊だけでした。「軍」と称しても実質は師団規模の寄せ集め部隊で、正式な野戦郵便隊は編成されませんでした。わずか2、3局分の野戦局資材と要員が随伴したに過ぎなかったとGANは考えています。

この「沖部隊郵便班」とでもいうべき小部隊(第240-242所)の内、241所が当初ニューカレドニア攻略予定の南海支隊付きとなって42年8月にラバウルに進出して開局しました。直後にガダルカナル戦が突発したため、陸軍はラバウル、ソロモン群島に大部隊を逐次投入します。ようやく正規の第14野戦郵便隊(第280-285所)が編成されて43年4月にラバウルに到着し、先発の「沖部隊郵便班」を吸収したのだと思います。

一方、別に当初ポートモレスビー攻略予定だった青葉支隊付きとして第240所が比島のダバオで開局し、軍司令部と共に部隊がパラオから転進して来るのを待機していました。しかし、支隊は二転三転の大混乱の末にガダルカナル奪回部隊に転用されます。置き去りにされた240所はダバオでそのまま閉鎖された、と考えられます。

なお、貯金通帳の持ち主が所属した13連隊はラバウル到着後、第6師団に従ってブーゲンビル島に渡り、終戦まで島の防衛に当たりました。米豪軍の攻撃で島はすぐにラバウルから切り離されて孤立し、郵便連絡は完全に途絶してしまいます。ブーゲンビルの郵便所(エレベンタ第283所)も事実上の閉鎖状態に陥ったとみられます。

この240番台と280番台の野戦郵便所については資料がほとんどありません。これらの郵便印を持つエンタイアも極端に少ないか、ほとんど出現していません。ナゾが多く興味をそそられる対象です。貯金通帳といえども解明に向け、わずかな手がかりになります。
posted by GANさん at 23:41| Comment(2) | TrackBack(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする

2014年06月09日

敗戦後預入れた軍事貯金

SAVENOTE-2.jpgSAVENOTE-1.jpg中国戦線で使われた軍事郵便貯金通帳です。野戦局でわずか一度の預入があるだけですが、敗戦財政・金融史を物語る、なかなか興味深い使われ方をしています。ネットで落札し、本日到着しました。

預け人(利用者)の所属する「隼魁8354部隊」とは陸軍の航空部隊で、上海南方の杭州に基地を置く独立飛行第54中隊です。敗戦から1ヵ月後の昭和20(1945)年9月14日に第47野戦局(杭州)で4,950円という大金を預け入れています。

敗戦後、復員や引揚によって戦地や植民地から一時に大量の現金の流入が予想されました。大蔵省・日銀の通貨当局が打った手が現金流入の阻止です。内地のインフレは当時数100%台に達しているとみられ、黙過すれば国家財政の破綻は必至だったからです。

政府方針により、復員兵士の現金携行は厳禁されました。兵士らは現地で貯金預入し、通帳で持ち帰るほか方法がありません。大陸の野戦局は敗戦後、事実上の閉鎖状態でしたが、軍事郵便貯金の取扱のためだけに一部を除き45年10月末日まで窓口を開きました。

「旧中国派遣第6方面軍管下野戦郵便の概況」(『続逓信事業史資料拾遺第2集』所載)によると、華中の第6方面軍(漢口)、第13軍(上海)管内では、さらに軍事郵便貯金の預入上限額を次のように定めました。将校5千円以下、下士官3千円以下、兵9百円以下

この通帳の預入額4,950円とは、このような事情を受けての将校の最大限預入可能額だったことが分かります。私物を現地業者に売ったりして得たお金でしょう。しかし、日本軍が華中占領地区で流通させた儲備券は大暴落しており、現地の5千円もそれほどの価値はなかったはずです。

この貯金はさらに、帰郷した三重県の桑名税務署で1946年4月4日に申告して「預金封鎖」手続きを受け、在良局で同日、1千円だけの「軍事制限払」をしてもらうという踏んだり蹴ったりの措置を受けています。敗戦日本はこのような政府による強引な「国民収奪」によって、財政破綻-国家の倒産をからくも回避したのでした。
posted by GANさん at 21:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする

2014年05月24日

アッツ島兵士の貯金通帳

ATTU-2.jpg北部軍に召集され、北海守備隊に配属されてアリューシャン列島の米領アッツ島に派遣された兵士の貯金通帳です。

預金者の住所は「北部第16部隊」で、弘前の歩兵52聯隊です。しかし、部隊は前年から北部満洲の愛琿に駐屯しており、アリューシャンとは終始無縁でした。

この預金者は52聯隊の補充部隊にいったん編入された後、何らかの事情で本隊とは別の部隊に再編されたのでしょう。そのため、運命が分かれてアリューシャンに向かったと思われます。52聯隊は後に九州の防衛に転じたため、無傷で復員しています。

恐らく兵舎所在地と思われる弘前・富田局で昭和17(1942)年8月8日に通帳の交付を受け、最初の預入れをしています。通帳は軍事郵便貯金用ではなく、仙台貯金支局が管理する一般の普通貯金通帳が使われています。

次は函館局柏原分室で17年12月24日に預入れています。この分室の実際の所在地は千島列島北端の幌莚(ほろむしろ、パラムシル)島柏原湾でした。カムチャツカ半島は占守(しむしゅ)島を隔てて目と鼻の先で、アリューシャン列島へ向かう最後の港湾として利用されました。

3番目の局が第381野戦局で、18年3月27日と5月2日に預入れています。以後の利用はありません。381局はアッツ島に設けられ、キスカ島の380局と共に18年2月1日に開局しています。弘前で召集された兵士がアリューシャンに派遣され、北千島を経由して着任したことが預入れ記録から跡付けられます。

第380、381局は前年11月にキスカ、アッツ両島に配置された北海守備隊のための野戦局でした。それ以前のアリューシャンに野戦局はなく、陸軍部隊は海軍の軍用郵便所を利用していました。両局とも軍事郵便のほか為替、貯金の取り扱いもしました。アッツ381局の為替貯金記号は「戦るれ」が使われています。

最後の預入れがあった日から10日後の5月12日に米軍がアッツに上陸を開始しました。アッツ守備隊は5月30日に隊長以下、非戦闘員の野戦局員まで全滅してしまいます。軍部は「玉砕」と呼んでこれを美化しました。

この米軍上陸直前の5月4日、伊号第7潜水艦が米軍の重囲をかいくぐって奇跡的にアッツに入港してきました。郵便物を積み込んで5月8日に柏原に帰港しています。もちろん、これがアッツからの最終便となりました。

可能性として、持ち主の兵士が大事な通帳を最終便に乗せて家族の元に送ったとも考えられます。孤立無援のアッツに4月末から米軍の艦砲射撃が激しくなり、米軍が近く来襲することは予期されていました。「兵士死して通帳残る」だったのでしょうか。
posted by GANさん at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする

2014年04月29日

支那駐屯軍軍用郵便所

CGA-1.jpg日中戦争直前に開設された支那駐屯軍軍用郵便所が引き受けた軍事郵便為替の為替金受領書です。今日到着したヤフオクの落札品です。

軍事郵便為替は、普通の郵便為替とは異なり、依頼人には為替証書を渡しません。その代わりにこのような受領書を渡します。野戦局からの通知を受けて内地の貯金局(貯金支局)が為替証書を発行し、為替受取人に書留郵便で送るシステムです。

この郵便所は1937(昭和12)年4月1日に中国・天津の日本租界はずれにあった支那駐屯軍海光寺兵営内で開設されました。業務は野戦局とほぼ同じですが、野戦局ではありません。

日中間に戦争や事変はまだ起きていないので野戦局を設けられません。中国側に対して秘密裏に軍事専用の「日本天津局」を再度開設したのです。「軍用郵便所」はそのためにひねり出された、この1局のためだけの名称で、他に例がありません。

開設からわずか3ヵ月で日中戦争が起こると、郵便所は兵営を出て日本租界中心部・旭街の旧中国局舎を占拠し、一般邦人の郵便も扱いました。この段階で、1922年末の撤退まで存続した日本天津局と全く同じ性格となりました。この為替の日付10月18日は旭街に移転後なので、兵士でなく民間人が依頼した可能性もあります。

CGA-2.jpgCGA-3.jpg戦争が長期化し、支那駐屯軍が第1軍に改編される中で、この軍用郵便所も正規の「天津野戦局」に改編されました。地名の野戦局は日中戦争-太平洋戦争期を通じて唯一です。改編(改称)時期は翌38年10月と見られます。

両者の為替貯金記号は同じ「戦はろ」が使われ、同一局所の継承関係であることが分かります。
posted by GANさん at 23:24| Comment(6) | TrackBack(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする

2014年02月22日

日露戦争の軍事郵便貯金

SAVING-1.jpgSAVING-2.jpg日露戦争に従軍した兵士が利用した軍事郵便貯金の通帳です。兵士は第8師団患者輸送部の所属でしたが、復員後も居住地の山形県に住居変更をして継続使用しています。最近のネットオークションで入手しました。

通帳は特別に調製されたものではなく、明治37(1904)年6月印刷局製の通常の「郵便貯金通帳」がそのまま流用されています。記番号は「軍れ00697」で、「軍」を冠記することにより、一般口座と区別したようです。口座所管庁(受持管理所)は下関郵便為替貯金管理支所となっています。

この兵士は38年7月17日に第2軍第9野戦局(営盤)で通帳を交付され、その日も含め戦地で3回、合計35円の預け入れをしています。3回目は第2軍第14野戦局(宗家黄地)でした。3回とも野戦局の郵便用日付印が押されています。復員後は記番号が「軍」のない「み00027」に切り換えられ、地元の山形県松嶺局で利用されています。

軍事郵便貯金は軍事郵便為替と共に日清戦争で導入されました。日露戦争では37年2月6日に逓信省令第7号で「軍事郵便為替貯金規則」が定められ、実施されています。取扱局所が野戦局や艦船郵便所という特殊性はありますが、制度としては一般の郵便貯金と格別の相違はありませんでした。

兵士が戦地で支給された俸給を預けたり、留守宅への送金が主な目的でした。戦地で現金を持たされても使途はほとんどなく、保管・所持には問題も生じたでしょう。軍当局としては、内地との間の現金送受を相殺減少させる効果もありました。

三井高陽・増井幸雄氏『世界軍事郵便概要』によると、日露戦争の軍事郵便貯金は5万3千人が利用し、預入額は190万円に達したといいます。これだけ利用があったのに、使われた通帳の現物はこれまで知られていませんでした。今回の通帳は、軍事郵便貯金が確かに実施されていたことを示す好資料だとGANは思っています。
posted by GANさん at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする

2014年02月09日

関東都督府郵便電信局

TOTOKUHU.jpg日露戦後、満洲の野戦郵便・電信機関は「民政化」しますが、その最初期の通常為替金受領証書(画像=クリックで拡大できます)です。最近入手しました。

明治39(1906)年9月1日以降、軍政時代の野戦郵便局と軍用電信所は新設の関東都督府郵便電信局に移管されます。名称は「関東都督府郵便電信局(所在地名)支局」と変わりました。

この証書は民政に移った最初期のものですが、発行者の名前が「関東都督府郵便電信局長」とありながら、その横に「大連」の印が押されていて、何かあいまいな匂いがします。なぜ「大連支局」としないのでしょう。

実は、この時期に「大連支局」は存在しませんでした。開局したのはこの年の12月11日のことで、それまでの70日余りは関東都督府郵便電信局本局の通信課が現業事務を扱っていました。だから、証書右上の振出日付印「大連 39.9.24 ★★★」は大連支局ではなく、通信課のものです。この印は通信課が独立してできた大連支局でもそのまま使い続けられました。

満洲の野戦局は軍政時代から全局(非公開6局を除く)で野戦郵便為替・貯金を取り扱い、為替貯金記号が与えられていました。大連にあった旧関東第1野戦局は「満は」で、この証書にも流用して表示されています。満洲ではなぜか民政化後も為替貯金専用の日付印は長いこと使われませんでした。C欄為替貯金記号印が導入されたのは、穂坂尚徳氏『在中国局の和文印』によると、大正4年6月1日のことです。

郵政事業の本庁や管理局が現業事務を行うのは異例に見えますが、事業草創期にはありがちのようでした。明治初期の駅逓寮発着課(東京局)や満洲より少し遅れて発足した樺太庁郵便電信局(コルサコフ<大泊>局→豊原局)などもそうでした。後者の場合は前身の局名「久春古丹(野戦局)」「コルサコフ(軍用通信所)」として日付印の上に表れています。

posted by GANさん at 14:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 為替・貯金 | 更新情報をチェックする