2018年06月18日

局名ペン書きの弁事所印

永安屯-2.jpg永安屯-1.jpg1940年代初めの「満州国」で局名ペン書きの櫛型印が押されたカバーを見つけました。

右図の封筒は奉天北陵4分切手を貼って東安省密山県の永安屯開拓団月山村から山形県に宛て、康徳7年(1940=昭和15)3月21日に引き受けられた、ごくありふれた「開拓団郵便」です。しかし、印影が特異です。AD欄に当たる上部印体がなく、青黒インクのペンで「永安屯」と左書き(左下図)されています。

局名はなぜ手書きされたのか。局名活字が到着しなかったから、とは簡単に推測できます。しかし問題は「開設中の局なのに日付印が間に合わない」、その辺の事情でしょう。臨時開設か、あるいは局名改称直後だったのでしょうか。
永安屯-手書き.jpg
これについてはとても有益な論考が既に発表されていました。穂坂尚徳「満洲開拓移民と郵政機関」(『郵便史学』第5号所載、1975年)です。穂坂氏は満州国の郵便史と郵便切手の専門家&日中交流の達人として知られます。いつも笑顔で愛される昔からの仲間でしたが、残念ながら最近は郵趣から距離を置いておられるようです。

穂坂氏によると、1940年1月に開かれた満州国の開拓庁長会議で交通部郵政総局から開拓地郵政機関の積極整備方針が報告されました。内容は膨大なものですが、その中に「39年度中に開拓地32ヵ所、40年度中に61ヵ所に郵政弁事所の新設」が含まれていました。39年度の一つが「永安屯」だったのです。郵政弁事所は今日の日本の簡易局と同じ委託局でした。

この先はGANの推測です。拓務省第5次移住計画で1936年6月に入植した永安屯開拓団にも郵政弁事所が39年度末ギリギリの40年3月にようやく開設された、しかし弁事所の新設が短期・大量に集中しすぎて局名活字(上部印体)の調製が間に合わなかった、ついに郵便物1通ごとに局名を手書きするのやむなきに至った--、のではないでしょうか。
永安屯-3.jpg
半年ほど後に同じ永安屯開拓団から発信されたはがきをごく最近のヤフオクで入手しました。こちらには既に正規の日付印が押されています(右図)。上述した推測を裏付ける傍証の一つになるかも知れません。

この正規印について識者の教えを乞いたい2点があります。1つはD欄が省名「東安」でなく「赤○」のように見えますが、2字目が読めません。2つ目は永安屯は弁事所のはずなのに、なぜE欄「辨」字ではないのか。普通郵政局用日付印を使っています。これらにつきコメントなどでご教示いただければ幸いです。

黒臺.jpg信濃村.jpg[追記](2018.08.18)細沼茂様に下記コメント(記事の下、最終行の「Comment」をクリックしてご参照下さい)を頂きました。図版を扱う関係で、コメントへのお返事でなく「追記」として対応させていただきます。

細沼様ありがとうございました。ご教示頂いた通り、永安屯印のD欄は「黒臺」で間違いないと思います。念のため手持ちの日付印を確認したところ、「黒臺信濃村」弁事所はD欄に「黒台」と略字を使っていました。「黒臺」局は正字(旧体字)を使っており、まさに永安屯印のD欄と同じです。「黒」は漢数字の「四」の下に「赤」を置いたような独特の字体が使われていました。

この時期、永安屯は東安省密山県に属していました。この例などから、郵政局の日付印は一般的にD欄省名ですが、弁事所はD欄に管轄集配局名を表示していたようです。弁事所で使う日附印の下部印体(E、C欄)が何らかの事情で調製できない場合に郵政局用で代用し、それでもD欄が省名でなく管轄局名であることから弁事所と判別できるのでよしとしたのかも知れません(まったくの推測です)。

ちなみに、弁事所日付印の時刻刻みは「前0-12」と「后0-12」の2種類だけなので、1日4種類以上の時刻刻みのある郵政局日付印と区別出来るはずです。
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2018年01月31日

満州国省名入り印の悲運

間島1-1.jpg「満州国」の地方行政組織の変更と満華通郵協定の効果が郵便物上の日付印の変化として表れた典型例をごく最近そろえることができました。

右図の書状と左下図のはがきは共に間島省の省都・延吉から差し出されていて、いわゆる「日本製丸二型印」が押されています。年号は共に康徳で、右は「間島省/元年(1934=昭和9)12月24日/延吉」、下は「間島/2年(1935=昭和10)1月19日/延吉」です。つまり、上図の日付印が1ヵ月足らずで下図のように変化したことになります。
間島2-1.jpg
当初は「東北3省」と呼ばれた奉天、吉林、黒竜江省で発足した満州国は、1934年12月1日に地方行政組織の全面改編を実施しました。以後、崩壊までの13年間に複雑な離合集散を何回も繰り返して混乱を極める、その第1回目です。新たな黒河、龍江、濱江、三江、吉林、間島、奉天、安東、錦州、熱河省と興安省が生まれ、11省体制となりました(興安4省問題は省略)。

初めからの吉林、奉天省と中途で成立した熱河、興安省とを除く黒河以下の新設7省にも「○○省」と上部に表示した従来型の「省名入り日付印」が12月1日から導入されました。7省管内の全局が一斉に使用開始できたかはよく分かっていません。しかも、この日付印はすぐ廃止され、わずか40日間の短命に終わっています。

地方組織改編直前の34年11月23日、「満州国」と中国(中華民国)との間で「満華通郵協定」がようやく妥結し、35年1月10日からの両国間の郵便交換再開が正式に決まりました。協定中には「現行の(満州国が定めた)省名のある日付印は使用しない」という趣旨の1項があり、満州国は通郵実施を前に、急遽「省」字のない日付印への切り替えを決めました。

間島2-2.jpg間島1-2.jpg突然のことだったので、恐らく多くの局所では新「省字無し日付印」の配給が間に合わなかっただろうと思われます。その場合、一部の局では旧印の上部印体(活字)の「省」字を鑿や鈩のようなもので削り取って使いました。間島(省)朝陽川、竜江(省)富祐、興安(省)海拉爾局などの例が報告されています。

はがきに押された「省」削り延吉局印(上図右)もこうして生まれたものです。仮に1月末までに新たに調製した正規の「省字無し日付印」が支給されたとすると、「省」削り印はわずか20日間程度の超短命な臨時印だったことになります。書状の「省入り」印(上図左)と並べると、「削り印」の削りっぷりがよく分かります。削り漏れたごく一部が残っているのが見えます。

この丸二型「省字無し日付印」も「大きすぎて使いにくい」という現場の声で、翌36年(昭和11)から日本と同じ櫛型印に切り替えられてしまいます。日本製丸二型印最後の1年強のドサクサぶりは、新国家誕生のそれを見事に反映した結果となりました。

本稿の執筆にあたり、共に満州国切手と郵便史の専門家である織田三郎氏の「満州国の省名入り丸二型日付印について」(『関西郵趣』、1978年)と穂坂尚徳氏の「『満州国』の消印と使用状況」(『日本郵趣百科年鑑85』、1985年)を参考にさせていただきました。
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2017年05月08日

郵政移譲示す日満混貼り

奉天隅田町.jpg奉天から吉林に宛てた「満洲国」郵政の書留書状です。日本と全く同じ形式の櫛型印で奉天隅田町局が康徳4(1937=昭和12)年12月13日に引き受けています。

貼られているのは満洲国切手4枚で11.5分と、左から2番目だけ日本切手の5厘(1/2銭)です。これは書状料金4分と書留料金8分の合計額12分に相当します。分は銭と等価でした。料金の支払いに日満両国の切手を混ぜて貼った「混(こん)貼りカバー」ということになります。

満州で日本と中国あるいは満洲国の切手とが1枚のカバーに貼られる混貼り例としては「貼り替え」が知られていますが、それとは本質的に違います。貼り替えは日本切手と相手先切手とで料金を二重払いするものですが、このカバーは両国切手で合算した料金1回払いだけで済んでいます。

2週間足らず前の12月1日、日本は管理してきた満鉄付属地の行政権を満洲国に全面移譲したばかりでした。行政権には、もちろん郵政権も含まれます。日本側の全局は局舎も資器財も日本人職員も、局名まで含めた一切が満洲国郵政の「郵政局」として移管されました。奉天隅田町局もそうした1局です。

郵政移譲に当たり、郵政当局は民間で手持ちされている日本切手・官製はがきの有効期間を3ヵ月と定めました。日本切手は満洲国郵政になっても38年2月末までは有効で、3月から使えなくなるという移行措置でした。日本の切手やはがきなのに康徳年号の消印が押されたものを時に見るのは、このためです。

当然、両国の切手を混貼りした郵便物も期間内なら合法的でした。このカバーも恐らくは収集家か、そうでないにしても移行措置を意識した人が記念のために作ったのでしょう。「普通の民間人が趣味的意図でなく」混貼りしたコマーシャルカバーの例は経験的にまず見ません。郵政移譲を直接示す現物として、これもまあ貴重かと思います。
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2014年06月03日

日満貼り替え航空カバー

MIX-FRAN-1.jpgMIX-FRAN-2.jpg「満州国」建国後、満鉄付属地日本局から「満州国」内に宛てた航空書状です。日本切手と同額の「満州国」切手が貼られています。

在中国日本局から中国国内に差し立てる郵便物は中国切手で料金納付しなければなりませんでした。日中間で1910(明治43)年に結ばれた日清郵便約定による規定です。そのため、日本局は引き受けた郵便物に、用意した同額の中国切手をいちいち貼っていました。「貼り替え」と呼ばれます。

20年以上が過ぎ、「満州国」に変わってからも、日満間ではこの約定を適用して切手の貼り替えを続けました。「満州国」は中国に対する条約・協定を引き継ぐ、という政策からです。

この書状は、書状3銭+航空15銭の料金を芦ノ湖航空18銭切手で1枚貼りし、奉天日本局が昭和9(1934)年5月23日に引き受けています。奉天から新京に満鉄線で運ばれた後、新京日本局が「満州国」白塔切手3枚計18銭に貼り替え、中継印を押して「満州国」の新京頭道溝局との間で交換しました。

頭道溝局では「満州国」切手を康徳元年=1934年の丸二型印で抹消し、満洲航空に引き渡しました。発信された5月23日中にここまですべてが行われています。この書状は翌24日の満洲航空機に搭載されて新京から哈爾賓に飛び、哈爾賓局がその日の内に配達しました。

日本と傀儡国家との関係で、こんなに煩瑣な貼り替え手続きなど本来は無用です。しかし、「満州国」はアイデンティティーを示したかったのです。中国と無関係の新たな第3国ではなく、あくまでも中国の一部の分離国家なのだと。そのための「痩せ我慢」の措置でした。

やがて既成事実が積み重ねられ、そんな建て前さえ必要なくなります。満州帝国郵政総局編『満州国郵政事業概要』によると、1935(昭和10)年11月26日に締結された日満郵便条約により、この貼り替えは廃止されました。

ただし、荒井国太郎氏は別の主張をしています。それより先、「満州国」皇帝溥儀の訪日を記念して35年4月2日に廃止された、しかし公表されなかった、といいます(例えば「南満州郵政史抄」=『郵趣手帖』第5号所載)。

GANはこれを、35年4月に実務上で廃止され、約8ヵ月後の郵便条約でそれが正式に追認されたと理解しています。従って、35年4月-11月の間の日満貼り替え郵便物は、恐らく存在しないでしょう。
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2014年05月20日

第1次郵政接収の使用例

REQUISIT-2.jpgREQUISIT-1.jpg「満州国」が建国された年、大同元(1932=昭和7)年春に日本に宛てたはがきです。中華郵政の帆船1分「限吉黒貼用」加刷切手ペア貼りを中華郵政のバイリンガル印で抹消しています。

「満州国」は中華民国から分離・独立した新国家として、建国1ヵ月後の32年4月1日に領土(東北3省)内の中華郵政を接収しました。

とはいっても、新国家には郵政を引き継ぐ実力はまったくありません。実際にはヨーロッパ人の郵政管理局長に接収書を手渡しただけ。職員も取扱規定も、郵便切手や日付印まで中華郵政のものをそのまま流用して済ませました。

ただ、日付印に中華民国年号(21年)は使わせず、西暦(32年)を使うよう指示したようですが、これも守られていません。この時期の実際のエンタイアは、むしろ「廿一」の方が多く見られます。

このはがきは、天津の支那駐屯軍の下士官が現地除隊して「満州国」の警察官に再就職した、その挨拶状のようです。長春局で1932年7月16日に引き受けられました。年活字には西暦の「32」が使われています。バイリンガル印なので接収とは関係なく「32」年活字を使っていたのでしょう。

このはがきからわずか10日後、「満州国」の郵政事業は大転回を遂げます。8月1日発行予定の新切手の使用をめぐって満・華両郵政当局は7月下旬に決定的に破局し、「満州国」は本格的な郵政接収(第2次接収)を行いました。これに対し4月の接収は「第1次接収」と呼ばれます。

中華郵政は7月24日限りで全職員を本土に引き揚げ、東北3省内の郵務を完全停止させます。「満州国」はただちに全局に日系職員を配置し、26日から業務を再開させました。執政溥儀や遼陽の白塔を描いた第1次普通切手はこの日に発売されました。

第1次接収から第2次接収まで4ヵ月足らずの期間は過渡期の郵政です。新国家「満洲国」が元の中華民国郵政の管理下にあり続けたことから、さまざまな使用例が生まれています。
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2014年05月13日

「真正」蘇炳文カバー

SU-1a.jpg「満州国」初期のいわゆる蘇炳文切手を貼った封筒です。「満州国」第1次普通4分切手に赤色で「中華郵政」と加刷してあります。2012年版「日専」カタログは「真正のカバーは確認されていない」とわざわざ注記しています。

それなら、GANは「真正品第1号はこれだ」と宣言しましょう。赤加刷の上に黒色の消印が乗っているのがSU-2.jpg明らかだからです。

引受印は不鮮明ですが、「黒龍江/丗二年十一(あるいは十)月廿三日/哈爾賓」と読めます。「丗二年」は1932(昭和7)年を表します。裏面に到着印らしいものが押されていますが、まったく判読できません。

表面には全文ロシア語で「満州里駅/第1保線区事務所/技師/ニコライ・ウラジミロヴィチ/チャン・ツィユン」と書かれています。ロシア籍の中国人(あるいはその逆)か。あるいはウラジミロヴィチ、チャンの両氏連名に宛てたものでしょうか。差出人名はありません。

蘇炳文は奉天軍閥・張学良配下の軍人でしたが、「満州国」から黒龍江省政府の市政警備処長に任命されました。32年9月末に満ソ国境の満州里で「反満抗日」の旗を掲げて挙兵、一時は中東鉄道の哈爾賓以西を制圧します。すぐに日本関東軍の反攻を受けて敗れ、12月初旬にソ連に亡命しました。

「蘇炳文切手」は32年10、11月ごろ、蘇炳文支配下の満州里、海拉爾、博克図などの「満州国」郵局で発売したとされます。加刷は各郵局ごとに木版手押しでなされたといわれます。当時から本物・偽物が入り乱れ、信用できる完全なリストはまだ無いようです。

赤木英道氏「満洲国郵便切手変種チェックリスト」(『切手趣味』第12巻第5号)は、加刷の字体にA、Bの2タイプを図示しています。田中清氏『満洲切手』は赤木氏と同じものを「満州里型」「海拉爾型」と名付けているようです。

このカバーの字体はそのいずれとも似ず、とくに「中」の字体に極めて大きな特徴が見られます。さては、新たな「Cタイプ」「哈爾賓型」の登場か、あるいは真っ赤なニセモノか。--関心ある方のご批判を仰ぎます。画像は、クリックを重ねれば16倍程度まで鮮明に拡大できます。
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2014年03月03日

古北口での満華通郵

NANLANPING-2.jpgNANLANPING-1.jpg大阪もの第3点目(最後)は「満州国」から中国に宛てた、いわゆる満華通郵の郵便物です。この封書は山海関ではなく、もう一つの交換地・古北口で交換されています。

満州国切手通郵12分に白塔1分を加貼した13分の書留便です(画像=クリックで拡大できます)。熱河省承徳局で康徳4(1937)年5月15日の引き受け、北平(北京)に宛てています。

この時期は日中戦争開戦の2ヵ月足らず前です。華北の北平・天津地区は混成旅団規模にまで増強された日本の支那駐屯軍の軍事征圧下にありました。

承徳を発してわずか1日後、5月16日にこの封書は古北口に着いています。裏面櫛型欧文印のNANLANPING(南灤平)とは古北口のことです。満州国は長城の南側、中国河北省の古北口に開設した税関と郵局にこの地名を創作して付けました。実際にある満州国側の町・灤平の南方、の意味です。両地はだいぶ離れてはいますが、まあ、根も葉もないウソでもありません。

この封書は古北口を出た翌17日、もう北平に着き、さらにその翌18日に宛先に配達されました。北平の2個の日付印から分かります。考え得る最高の速度で逓送されたと言えるでしょう。通郵が非常に順調に行われていたことを図らずも示しています。

ここに一つ、大きな問題があります。表面の紫色角印は中国語で「この郵便物の切手は無効なので、郵便料は当局が賠償払いした」という意味の中国・山海関転逓局(交換局)の注意表示です。すると、この封書は山海関を経由しているのか?

GANの考えでは、この封書は山海関を通っていません。4種類の日付印の跡をたどると、山海関に回る時間が存在する余地がないのです。山海関転逓局の印は中国側の古北口局で押されたものでしょう。

そもそも古北口と山海関を直結する郵便路などありませんでした。どうしても両地を結ぼうとしたら、満州国側では奉天を、中国側では北平・天津を回らなければなりません。少なくともこの封書に関する限り、あり得ないルートです。

これまで、山海関転逓局の印がある郵便物は必ず山海関で交換されたと考えられてきました。しかし、時間と経路をはっきりたどれるこのようなエンタイアが出現しました。今後、とくに熱河省発着を中心に、古北口か山海関か、交換局を再検討する必要が出てきた、とは言えそうです。
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2014年02月04日

察哈爾省の満系郵局

CHANGPEI-1.JPGCHANGPEI-2.JPG今日届いたヤフオク落札品です。一見すると満州国康徳4年(1937年)の白塔はがきの駄ものですが、引受印の「張北」は満州国ではありません。内蒙古、あるいは蒙彊と呼ばれた中国・察哈爾省の町です。当時の関東軍の「華北(北支)分離工作」を示す好史料とGANは考えています。

内蒙古に満州国系郵政機関が開設されていた事実は、戦前にまず荒井国太郎氏が「蒙彊郵政概要」で言及しました。戦後になって松岡登氏が「内蒙古察南地方の満州国系郵便局」で詳しく書きます。1936年1、2月に張北、徳化など6局(その以前に多倫局も)が開設されたことをエンタイアの写真付きで明らかにしました。共に『切手趣味』誌に掲載されています。

Feb06#04.jpgこれを「満洲国による蒙古郵政の委託経営」と解説する中国占領地切手収集の「専門家」たちがいますが、事実誤認です。張北など6局が開局した36年初頭には、まだ委託する主体となる政権など影も形もありませんでした。

満洲国郵政総局の『満洲帝国郵政事業概要』に「察哈爾盟の郵政は本邦郵政の委託経営となり……」と書かれているのを「専門家」たちは鵜呑みにしているのでしょう。しかし、満洲国側にはこういう記述にして事実を偽装せざるを得ない事情があったのです。

蒙古王族の徳王が内蒙古で初の非国民政府系の「蒙古軍政府」を徳化で発足させたのが36年5月でした。軍政府が満州国交通部と初めて郵政業務暫行委託協定を結んだのは37年に入ってからです。軍政府の勢力範囲は察哈爾省の中南部にあたる察哈爾盟を中心としたごく狭い地域です。この協定でも「蒙古郵政の委託」などとは、とても言えたものではありません。

それでは、協定以前の満系郵局にはどういう根拠があるのか。根拠は全くありません。強いて言えば侵略です。関東軍が「察東事件」を引き起こして察哈爾省東部を占領し、これに付随して満洲国の日系郵政職員が既存の中国郵政機関を実力で接収したのが実態です。『郵政事業概要』の表現は、こういった事実を隠蔽するため時系列を前後させた美辞に過ぎません。

日本は内蒙古を含む華北全体を中華民国から分離・支配することを策していました。関東軍がその一環として実行し、35年12月に蒙古族の李守信将軍を操って察東6県に侵攻させたのが、この察東事件です。後に察哈爾・綏遠両省を国民政府から「独立」させ、「蒙古聯合自治政府」にまとめ上げる第一着となりました。

このはがきはそんな謀略の真っ只中に、蒙古軍に加わったと見られる日系将校が差し出したものです。アドレスは「承徳特務機関気付・張北特務機関気付・鉾田公館」で、逓送路が張北-多倫-承徳-奉天を経て日本と結ぶルートだったことを示唆しています。「鉾田公館」は蒙古軍政府に対する日本の外交代表だったのかも知れません。
posted by GANさん at 18:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 「満洲国」 | 更新情報をチェックする