2018年08月31日

消印「活用」で墓穴掘る

観兵式-乃木希典 毛筆葉書 肉筆.pngまた乃木将軍のニセ「ご真筆」カバーに新顔が現れました。左図は8月30日締め切りのヤフオクに「陸軍大将乃木希典肉筆葉書」として出品されたはがきで、3,950円で落札されました。「将軍もの」としては破格の安値で、胡散臭さが匂いすぎたからかも知れません。

これは菊1.5銭切手を貼って牛込に宛てられた絵はがきで、東京局明治39年(1906)4月30日「明治卅七八年戦役陸軍凱旋観兵式紀念」の紫色記念印で引き受けられています。その下に押された到着印と見られる不鮮明な丸一印は、局名は無理ですが日付が辛うじて「39年5月1日ロ便」と読めます。

青山練兵場で行われた観兵式当日、東京市内の全1、2等局では局名表示を「東京」と統一したこの記念印を備え、原則として引き受けたすべての書状・はがきに押捺しました。到着印も含め、日付印の押印が不鮮明なのは珍しくもありません。これら2つとも真正の消印で、これだけだったら何の問題もないのです。

しかし、郵便史上の事実によって、たやすく偽造(変造)品と見破ることができます。この不鮮明な丸一印が到着印だとしたら、牛込局のものであるはずがありません。牛込局を含む東京市内の全1、2等局では5年も前に丸一印の使用を止め、39年1月1日から櫛型印に切り替えているからです。

凱旋観兵式.jpgたまたまGANのコレクションに牛込局の到着印として櫛型印が押された同じ日の使用例がありました。右図にその真正品を示します。左上の偽造品と較べて到着印の形式がまったく異なることをご確認ください。

恐らくニセはがきの方は元もと鉛筆で宛名が書かれていたのでしょう。他出先で急に思い付いた際などよくあることです。偽造者はそれを消しゴムで消し去り、ニセの宛名、文面、将軍サインを筆で上書きしたのだと思います。二つの消印を生かすため宛名を窮屈に右に片寄らせて書いているのが証拠です。

そもそも乃木将軍はこの観兵式には日露戦争に参加した「主役」の軍司令官として参列し、部下将兵を率いて明治天皇の閲兵を受けていたはずです。そんな日に「承ればご安産の由」などとのんきな出産祝いを書くでしょうか。4月30日に投函したのに「(5月)1日吉辰」と日付を遅らすのも不自然です。

GANの目から見れば「希典」のサイン自体が似せてはいますが本物と違います。将軍は消息文でこんな筆太の字は書きませんし、字間・行間もこんなにセコくキチキチには詰めずに本来は伸びやかな筆遣いです。

--議論の余地もある偽筆云々の問題は一応措くとしても、郵便史上のごく初歩的な知見がこんなはがきの存在を一も二もなく否定します。押された消印を「活用」する偽造者のアイデアはよかったのですが、知識不足で墓穴を掘る例を更に増やす結果に終わりました。
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2017年01月30日

懲りないニセ乃木書翰

fg1.png明治から昭和までの3代を通じて、乃木将軍は恐らく日本人が最も好きな軍人なのでしょう。「これでもか」とばかりにニセの乃木書翰が出現し、出回っています。ヤフオクでは出品が途切れる間がないと言っても過言ではありません。偽造封筒を添えたばかりに足が付いた最近の2例をご紹介します。

右図は北海道の古書店が入手したという「乃木書翰」です。共同通信が「乃木希典の直筆手紙発見」とさも大ニュースのような記事にして配信し、1月14日付日本経済新聞などに掲載されました。子息の戦死や後継者に関する、素人受けぴったりの「極めて興味深い」内容だそうですが、そちらは置いておきます。

封筒は菊10銭切手を貼って書留扱いとなっています。小さな荒れた写真しかないので引受印の局名などは不明です。将軍が自宅から出した真正の書翰はすべて赤坂局引受になっています。それなのにこの封筒の書留ラベルが「小石川」なのはおかしい。引受印の局名がもし「赤坂」ならニセは決定的です。

fg1a.pngここでは裏面の付箋をはがした跡にわざわざタイするように押されている消印に注目しました。無理した拡大図をに示します。一見してB欄日付部の桁線とD、E欄櫛型の痕跡すらないのが、まず異様です。

局名は「赤坂」とも「広島」とも読めそうな不鮮明さですが、日付活字の「43.7.8」だけはどうにか分かります。ところが、これが箸にも棒にもかからないフォントを使ったゴム製の不出来な偽造印なのです。

赤坂局にせよ広島局にせよ、櫛型印の時刻活字は数字の直前にピリオドを配置する「前点式」のはずですが、「8」の日活字の直前にピリオドはなく、月活字「7」との中間というあいまいな位置にあります。「7」の前のピリオドも同様です。数字活字に付属して一体となっているのではなく、異様に大きな「ピリオド活字」として独立していることが明らかです。

かくして、消印がニセモノ。→もし書翰がホンモノだったらニセ消印をわざわざ作ってニセ封筒まで添える必要はない。→故に、書翰もニセモノ、という三段論法でアウトになります。余計な封筒を偽造しなかったらこの書状はあいまいなまま通っていたかも知れません。「雉も鳴かずば撃たれまいに」の類いの話です。

fg2.png一方、左図は1月31日締め切りのヤフオクに「軍神乃木希典書簡封書軸装」として出品されているものです。両方の封筒の将軍自筆のサインにご注目下さい。同一人の手蹟なのに、これほど違うのはなぜか。両方とも同じ理屈で真っ赤なニセモノだからです。

こちらの封筒では表面の菊3銭切手が赤坂局の日付印で引き受けられています。着印がないところが不自然です。ところで、この極めて明瞭な引受印がまったくいけません。

に示すように、外郭リングが異常に太かったり、「赤坂」の局名活字に「太教科書体」という実在しない異様なフォントが使われているのが、まずダメです。C欄時間帯の「后0-8」はあり得ない刻みで、これは偽造印の証拠として致命的です。

fg2a.pngこの当時、赤坂局を含む東京市内局の時間帯刻みは1時間ごとでした。しかも、櫛型印にはX、Y、Z型の全形式を通じて「后0-8」などという荒っぽい刻みはありません。せいぜい「后0-3」(Y3型)、「后0-4」(Z型)があるぐらいです。

従ってこちらも、消印がニセモノ→封筒が偽造→故に書翰本体もニセモノ、という理屈を累積する結果となりました。もっとも、出品者は商品説明の中で「当方では肉筆の保証できますが、真筆の保証は致しかねます。」とわざわざ断っています。

これを「多少の良心はある」と解すべきなのか、あるいは偽造を承知の巧妙な逃げ口上か。いずれにせよ、2通の書翰は「乃木人気」が世紀を超えてなお盛んな証拠、とは言えそうです。
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2016年05月30日

乃木将軍、別の凹版習作

乃木希典.jpg郵便切手のエッセイ(この場合は試作というより習作に近い)として凹版印刷された乃木将軍の肖像です。「内閣印刷局創立70年記念試作品集」全17葉中の1枚で、最近のネットオークションで入手しました。

『内閣印刷局七十年史』によると、1941(昭和16)年11月10日に内閣印刷局創立70年記念式が東京の印刷局滝野川分室で開かれました。式典に出席した来賓と印刷局職員の計300人余りに記念品としてこの試作品集が配られました。製作数は500部以下かと思われます。

将軍の肖像は印刷局技師(後に彫刻課長)の加藤倉吉が鋼板にビュラン彫刻した原版から直刷したものです。B5判、厚手乃木希典-2.jpgクリーム色のいわゆる「局紙」に黒色で、3.5㎝×4㎝ほどの大きさに印刷されています。下部には篆書で「乃木希典」の名前も入っています。

試作品集には他にも、記念絵葉書になった「帝国議会議事堂」など加藤の作品3点が含まれています。4年前の1937年には彼の彫刻を原画とした別の乃木将軍像が昭和切手第1号の、いわゆる「乃木2銭」として発行されていました。式典当時の加藤は47歳前後で、凹版彫刻者として脂の乗りきっていた時期と言えるでしょう。

乃木将軍肖像切手のエッセイとしては、東京印刷同業組合編『日本印刷大観』(1938年)中にベートーベン像と並んで刷り込まれたものがよく知られています。発行部数はこの試作品集より1桁(あるいは2桁)多いと思いますが、こちらも加藤の原版彫刻ではなかったでしょうか。

3種の乃木将軍像の中で、この試作品集のものが最も「乃木希典らしさ」を表していて、筆者は好きです。右にわずかに首を傾けたポーズが、陸軍大将にして詩人の側面をも併せ持つ将軍の柔らかな人格を表現していると思います。おだやかな眼と意思的な口元も印象的です。

実際に郵便切手にする場合には、面積でこの4分の1以下への縮刻を迫られます。さらに、「乃木2銭」のように凸版印刷に変えたら、これらの印象も損なわれるかも知れません。しかし、この作品では見応え十分です。将軍の左目周辺の描線を拡大してみました。素人目にも加藤の彫刻刀の精密な切れ味がうかがえます。
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2014年06月16日

桜島大根を賞味した将軍

乃木礼状表.bmp乃木礼状裏.bmp最近のヤフオクに出品されていた乃木将軍の書状の真正品です。将軍夫人の書状と合わせて軸装され、別に封筒が添えられていました。

封筒には菊1銭切手3枚が貼られています。引受印の局名、日付ともに不鮮明ですが、恐らく「赤阪局明治41(1908)年3月22日」と思われます。

発信アドレスは単に「東京 乃木希典」とあるだけです。神戸局着印は鮮明で、3月23日です。

「巨大ナル桜島大根御贈り下され早速賞味仕り候。一個ハ高輪御殿内献仕り候処至極御嘉賞……」とあります。神戸の大河平氏から桜島大根数個を贈られ、それに対する礼状なのでしょう。

乃木礼状.bmpこの大根はギネス記録にもなるほどの巨大さで有名だそうです。鹿児島県桜島の特産品ではありますが、あるいは神戸近郊などでも栽培されていたのかも知れません。

乃木将軍の手紙は、特段の推敲もせずさらさらとメモ書き風に、力まず書いている点で風情があります。書道的な意味での達筆でなくとも、よくこなれた大人の字です。対してニセモノは、いかにも練達の者が武張って書いたという印象のものが多いです。

ところで、文中にある、大根を御嘉賞(よしとして褒める)なさった「高輪御殿」の主とはだれだったのでしょうか。「御嘉賞」は天皇以下皇族級の貴人に使われる言葉なので、皇太子(後の大正天皇)か、皇孫(後の昭和天皇)である可能性もあります。

しかし、GANの調査不足で、お二人が当時高輪御殿に住んでいたかどうかまでは分かりませんでした。最晩年に学習院長を務めた将軍が皇孫殿下の教育を任された事実はよく知られていますが、さて、どんなものでしょうか。
posted by GANさん at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 乃木将軍 | 更新情報をチェックする

2014年05月02日

日清戦争の乃木将軍

NOGI-G1.jpgNOGI-G2.jpg日清戦争に従軍中の乃木将軍が清国の戦地から東京の留守宅に送った軍事郵便の封書で、コンテンツ(通信文)もあります。数年前、軸装されたものを入手しました。

乃木将軍は1894(明治27)年に日清戦争が起こると、歩兵第1旅団長(少将)として第2軍に従軍しました。金州、旅順、蓋平、営口、田庄台の戦闘などで戦果を挙げ、翌95年4月に中将に昇進して第2師団長に任ぜられ、さらに8月には男爵に叙爵されます。

封書は第2軍第1野戦局(金州)で明治28年4月16日に引き受けられ、東京局に4月24日に到着しています。裏面に発信アドレスはなく、差出人名が「乃木陸軍中将」と大書されています。「乃木希典」としなかったのは、中将昇進をさり気なく知らせたのかも知れません。

宛名の「乃木勝典」は長男です。10年後の日露戦争に従軍して次男の保典と共に戦死し、乃木家は跡継ぎを一挙に失ってしまう悲劇がよく知られています。書状内末尾の宛名は家族連名で、夫人・静子の名が最初に書かれています。要するに、家族全員に宛てた通信なのでしょう。

達筆とはとても言えませんが、よく書き慣れた筆遣いで、くだけたメモ風に書かれています。「師団長に昇進したのは部下将校や下士卒の働きのお陰で、自分に功績があったわけではない」。謙虚な人柄が文面からも読み取れます。

この書状の1ヵ月ほど前から下関では講和会議が始まっていました。戦闘は一段落して休戦となり、将軍もようやく家族に通信する余裕を得たのでしょう。ただし、6月には日本に割譲された台湾で抗日武装闘争が起こり、将軍は第2師団を率いて台湾に転戦することになります。
posted by GANさん at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 乃木将軍 | 更新情報をチェックする