2019年08月31日

済南「野戦」削り臨時印

済南-3.jpg田沢1銭5厘貼りの兵庫県宛て絵はがきを青島守備軍の普通郵便局、いわゆる山東局の済南で大正7(1918)年11月30日に引き受けています(左図)。ごく最近の大手オークションでの入手品です。

済南局の日付印をよく見ると、D欄がブランク(図2)です。押印の加減で櫛歯が出ないのではなく、文字通りの空白となっています。元もとD欄にあった「野戦」の2文字を人為的に削り取ったと思われます。何でこんな手のかかる細工をしたのでしょうか。

この日付の10日ほど前の11月21日、青島守備軍は管内全野戦局の半数に当たる9局を普通郵便局に改定しました。改定されたのは旧ドイツ膠州湾租借地内の青島など7局と中国が交換局として認めた済南、濰県の2局です。残りの半数は野戦局のまま残りました。

済南-1.jpg済南-2.jpg済南-5.jpg済南-4.jpg
     図1        図2         図3         図4

このうち、野戦局でなくなった済南局では、それまで使っていた日付印(図1)で局種が野戦局であることを示すD欄「野戦」の2文字を鑢(やすり)か何かで取り去った(図2)のでしょう。少し乱暴ですが、D欄を通常の櫛型にした新しい印が東京から送られてくるまでの機宜の措置だったとみられます。

済南局でこうした「臨時印」が使われた事実は、収友の加藤秀夫氏が既に2006年の全日展に出展した「青島守備軍管内局の郵便印」で発表しています。野戦局から普通局への切り替えに際してこのような臨時印が使われた例は済南局以外にまだ知られていません。野戦局から軍事局への改称時なら、高密局の例が福田真三氏らによって最近発表されています。

済南局の日付印では、上部印体が局名のみでD欄のない変形印(図3)が昔から有名です。加藤氏はこのD欄空白の臨時印は大正8年6月頃になってD欄なし変形印に切り替えられ、変形印は8月ごろまで使われたと見ておられるようです。山東局データの膨大な独自の集積が基になっています。

GANの調査では済南局でD欄櫛型の正規印(図4)が初めて出現したのは大正8年1月1日の年賀印で、臨時印、変形印と併行して使われています。これらを一連の流れとして確定するためには、さらにデータの積み重ねが必要です。
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2019年05月12日

御大喪と御大典の臨時局

武蔵横山.jpg元号が替わるの替わったのというアベ政権脚本、テレビ局主演のバカ騒ぎもようやく一段落したようです。「天皇崩御を伴わない御代みよ替わり(=改元)だから盛り上がった」。コメンテータの賢しら顔を眺めて、前々回には両方で臨時局の開設があったことを思い出しました。

前々回、つまり大正から昭和への御代替わりは、大正15年(1926)12月25日のことでした。亡くなった大正天皇の葬儀(御大喪)は昭和2年(1927)2月8日に東京で、践祚せんそした昭和天皇の即位礼(御大典)は昭和3年11月10日に京都で行われました。

大正天皇の陵墓は東京府南多摩郡横山村(現在の八王子市長房町)に新造されました。当局は造営や式典準備、参列者のため昭和2年1月23日に武蔵横山局を臨時開設し(上図)、2月15日限りで廃止しました。当時の浅川局の集配区管内で、今日の八王子横山町局とは全く無関係の局です。

武蔵横山局は2等局でしたが集配はせず、郵便物は窓口引受だけ扱いました。若干の官白が残されていますが、実逓便は聞いたこともありません。2月7、8日だけ東京、横浜との間に限定した速達取扱も行われました。もし、このエンタイアが世に出たら「超」が2、3個は付く大珍品でしょう。

京都御所内.jpg一方の御大典は大正天皇に続く昭和天皇第2皇女の服喪があって少し遅れました。昭和3年11月10日に京都市上京区の京都御所で即位礼、続いて14、15日に大嘗祭が行われています。このため御所内に11月1日から(左図)11月30日まで京都御所内局が臨時開設されました。

京都御所内局は武蔵横山局と同様に2等局で集配は扱いませんでした。開局期間中、京都市内、東京、神戸との間で速達も引き受けました。こちらは武蔵横山局のわずか2日間限りと異なり1ヵ月と比較的長いのですが、やはり速達便はまだ収集界に出現していないようです。

京都御所内局の官白はよく見る気がしますが、ほとんどは11月10日の大礼記念特印です。当時のコレクターの興味は今日と違い、大きくて華やかな特印の方にあったのかも知れません。わざわざ局を訪れても黒活印の押印を求めた人は少なかったようです。御大喪では特印は使用されませんでした。

両局の印影を比べると、時刻表示が武蔵横山局では午前0-9時のY3型なのに、京都御所内局は午前0-7時のY1型と異なっているのに気づきます。Y3型の時刻表示は午前9時から始まる3時間刻み、Y1型は午前7時からの1時間刻みです。この間に2時間刻みのY2型もあります。

これは武蔵横山局の集配を受け持つ浅川局が3等局なのに対し、京都御所内局の京都局は1等局と等級格差があるためかも知れません。つまり、その局自体は同じ2等局でも、臨時特設局の時間刻みは受け持ち集配局に倣ならうのではないかという推測です。

武蔵横山、京都御所内局ともに郵便以外に電報も扱いました。配達は局構内などごく狭い範囲だけと思われ、これらの局の日付印が押された電報送達紙の出現もまた絶望的です。為替・貯金業務は武蔵横山局では扱いましたが、京都御所内局では扱っていません。告示にはあるのですが、臨時陵墓局で為替を組んだり貯金する人など実際にいたのでしょうか。

武蔵横山 東浅川分室.jpg【追記】(2019.5.29) 収友の田中寛氏から「武蔵横山局には東浅川分室もあるよ」と教えていただき、驚きました。印影(右図)もご提供いただいたので、ご紹介します。御大喪当日2日間だけの開設だったそうです。あわてて逓信公報を見直してみましたが、この分室の開廃についての告示・通達類は見当たりませんでした。臨時特設の分室や出張所については地方逓信局報に掲載するにとどめていたようです。機会があれば当時の東京逓信局報で確認してみたいと思います。いずれにしても2日限りの臨時局分室、まことに稀少な存在です。

GANの調査では、この分室は浅川駅(現在の高尾駅)の1.1㎞東寄りに設けられた東浅川仮停車場構内に開設されたと思います。御大喪当日、大正天皇の遺骸は新宿御苑内に設けられた仮停車場から特別列車で中央線に乗り入れ、東浅川仮停車場に運ばれました。仮停車場からは甲州街道を横切る新設の広い道路を陵墓まで自動車の車列で進んだのでしょう。仮停車場自体は既に廃止されましたが、駅前広場は八王子市東浅川保健福祉センターの第2駐車場として利用されています。
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2018年10月30日

ゴム製櫛型欧文印の試行

Yokohama 1905.jpg菊4銭を貼ってフランス・ラヴェジネに宛てた絵はがきです。横浜局1905年(明治38)11月23日の黒色欧文印で引き受けられています。ヤフオクで落札し、本日到着しました。

横浜局の櫛型欧文印は日本の欧文印の中では最もありふれた存在ですが、ここでは日付が問題です。櫛型印の使用開始は1906年1月1日からが常識なので、これは1ヵ月以上も早い使用例ということになります。どういうことでしょうか。

この当時、全国の郵便局では丸一型印(東京など一部の大都市の局では丸二型印)が使われていました。これらを改良し、局種や取扱時刻を明確にする形で新形式の日付印の採用が決まりました。円形の印影内に2個の櫛歯状の文様を含むことで「櫛型印」と呼ばれます。

通達上では05年6月20日の逓信省公達第369号で櫛型印22形式の導入が予告されています。続いて、同年11月15日に局種別・使用目的別に06年1月1日から段階的に交付する旨の通牒が出されました。「護謨ゴム欧文日附印は(06年)4月1日の見込」となっています。

Yokohama 1905-2.jpg実際、外国郵便交換局や準交換局、在外局などでのゴム製櫛型欧文印の使用例はいずれも06年4月以降に認められます。しかし05年中に使われた例外があり、横浜局で10月、東京局で12月からのゴム製欧文印の早期使用例が知られています。このはがきに押されたYOKOHAMA印もその一つで、年月日を表す数字に区切りのピリオドがないのが大きな特徴です(左図)。

公表より4、5ヵ月も早い使用は、初体験となるゴム製日付印の本格的導入に先がけての試行だったと見られます。外国郵便物の取扱量が国内最多の横浜、東京局で使って、使い勝手はどうか、どのように摩耗、破損するかなどを調べ、調達数の予測などをしたのでしょう。

実は櫛型印は05年に他でも2種類が使われています。日露戦争中に満洲で開設された軍用通信所の電信印と最初期の関釜連絡航路の船内局印です。これらはいずれも櫛型印としては小型で、硬質印でした。また、横浜、東京局は明治20年代後半に丸一型ゴム印を試用したことでも知られています。

丸一印時代まで印材の主流はずっと硬質印で、水牛角や柘植つげ材が多用されました。丸二印時代以降に研究が進み、櫛型印への形式変更を機に鋳鉄製硬質印とゴム印への全面切り替えが図られます。1910年2月前後の東京局でコルク製と言われる特異な彫刻型による欧文印を試用した例もありました。この時代は当局が日付印の印材に試行錯誤した時期と言えます。

欧文日付印は結局、鋳鉄印、ゴム印ともに一長一短があり、どちらが決定版ともなりませんでした。櫛型時代が終わり、三日月型を経て丸型印と形式が移り、インク浸透式が導入された今日でも両者の併用が続いています。
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2018年09月27日

左書き櫛型印の出現時期

愛媛・中村.jpg山口.jpg新聞1面トップ記事の横見出しなど日本語を横書きする場合、「戦前=右書き、戦後=左書き」というのが現代では漠然とした常識です。郵便切手や郵便印にもこの「常識」はほぼ通用する、と考えられてきました。

郵便印(櫛型印)の場合、正確にはいつから、何を根拠として局名表記を左書きに変えたのか。必要があって郵便法令や参考書に当たり、意外な事実に気付きました。これについて従来の説明はいずれもおざなり、というよりほとんど触れられていないのです。

まず法令ですが、郵政省は1949年(昭和24)9月30日の告示第177号で、戦時・戦後期に大混乱した通信日付印の形式を櫛型印12、機械印5種類に整理し、図示しています。これにより、局名左書きで時刻入り(C欄県名や★入りを廃止)の「戦後型櫛型印」形式が10月1日から導入されました。

郵便印の専門書として最新刊の『日本郵便印ハンドブック』(2007年、日本郵趣協会)はこの告示177号を挙げて、単に「1949年から使用された」とあるだけです。『郵便消印百科事典』(2007年、鳴美)も「昭和24年から左書きの局名活字の配備が始まる」とし、早期使用例1点(中京局24.2.1)の存在を示すに止まっています。

愛媛・中村-1.jpg山口04.jpgところが、GANの知るところでは実態はもっと複雑です。右上のエンタイアで示すように、局名左書き印は告示のずっと以前から、少なくとも昭和22年(1947)1月に使われています(左図の左=愛媛・中村局)。県名の左書き印ならもっと早く、昭和21年(1946)10月の使用例があります(上図の右=山口局)。分類上では局名、県名とも左書き/右書きの組み合わせで4タイプを考える必要があるのです。

郵政省は局名を左書き表示に改めた理由を説明していません。郵趣協会や鳴美の本も同じで、根拠を求めた形跡すら見えません。GANの調査では常識的に考えられるような米軍占領下で欧米式にならって取り入れたのではありませんでした。戦前の1942年3月に文部省が主唱し、逓信省も含む主要官庁が賛同して決定された「横書統一案要綱」に淵源があります。

「国語ヲ横書ニスル場合ハ左横書ニ統一スルコト」と孔版手書きされた文部省作成の「要綱」原文が現在も国立公文書館に残されています。これが当時すぐに実行されなかった経緯は横道に逸れるので略します。左書き櫛型印の登場は、要綱の精神が敗戦を隔てて実施されていった1例と考えてよいと思います。いずれにせよこれを1949年から始まったように書いている郵趣協会や鳴美の本は事実誤認と言わざるを得ません。

日付印.jpg小包.jpg文部省の要綱案には参考資料として右横書きと左横書きが混在して紛らわしい実例8件が略図で添えられています。そのうち2件がなんと、郵便印でした。これは大変興味深く示唆的な事実です。その図版をご参考までにに掲げておきます。
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2018年01月20日

臺中丸船内軍用電信取扱所

台中丸電報.pngアジア歴史資料センター(JACAR)の日露戦争関係資料を調べていて、丸一型「臺中丸」という日付印が押された数通の電報群を見つけました。これまで報告されていないタイプの電信印のようです。

この印はすべて聯合艦隊隷下の第2艦隊司令長官宛て電報送達紙(左図)に受信印として押されています。丸一型上部は単に「臺中丸」だけで国名なし、日付下部に「電信」と入っています(下図)。下部「電信」は電信専業局所を示し、局種は電信取扱所と思われます。時期はすべて明治38年(1905)6月中です。

38年5月27日の日本海海戦で聯合艦隊はロシアのバルチック艦隊を壊滅させましたが、一部のロシア艦艇が中国の上海、厦門などに逃れました。追跡のため第2艦隊が臨時編成した「南遣枝隊」からの報告電です。ほとんどが澎湖局発信の官報で、朝鮮・鎮海湾の松真取扱所か台中丸が受信しています。

丸一型台中丸.png海軍軍令部編『極秘 明治三十七八年海戦史』によると、海軍は日露戦争中、対馬や朝鮮南西岸を中心に29個所の軍用電信取扱所を特設しました。このうち臺中丸取扱所だけが「船舶局」で、臺中丸が聯合艦隊の根拠地となった鎮海湾に進出した38年3月10日に開設されています。臺中丸取扱所の他はすべて「陸上局」なので、この取扱所の特異さが際立ちます。

臺中丸はもと大阪商船の優秀な貨客船(3,300t)です。海軍がチャーターし、俊足を生かして仮装巡洋艦としました。旅順陥落後は聯合艦隊直属の事実上の通信船として改装・運用されたようで、第1艦船郵便所も開設されています。電信取扱所の閉鎖時期は明記されていませんが、臺中丸の解傭が近づいて鎮海湾を去った38年7月29日と見られます。

丸一印は上欄を「国名/局名」と2段で表示するのが大原則ですが、国名がなく局名だけ表示したタイプ(国名省略型)もわずかながら知られています。郵便印としては京都と小笠原島が昔から有名でした。丸一印専集の成田真之氏は電信印で京都、神戸、兵庫、岡山と劔崎、大本営の単片上印影を発表しています(ウェブサイト「趣味の消印」)。

これらの局所が国名表示を欠く理由は色々と考えられますが、いずれも陸上の定置局です。しかし、臺中丸取扱所は船舶内の移動局なので国名がありません。丸一印時代の移動局は国名に代えて「船内郵便」「鉄道郵便」や、野戦局印では軍名を表示しました。これらのどれとも異なる臺中丸取扱所は「表示のしようがない」唯一例だったと思います。

臺中丸を含む海軍の29軍用電信取扱所の開廃について、『逓信公報』には全く記事が掲載されていません。同様に、遠藤英男、成田真之両氏の力作『電信・電話専業局所リスト』(2004年)にもありません。軍用機関として終始し、公衆通信に開放されることがなかったため、共に採録しなかったと考えられます。

これまで日本の無線電信局所の開設は海岸局の銚子無線電信局と船舶局の天洋丸無線電信局の明治41年5月16日が最初とされてきました。しかし、実際にはそれより3年も前の丸一印時代に船舶内無線電信取扱所が開設されていたのです。新たな知見が得られました。
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2017年09月30日

高雄局年賀機械印の誤刻

高雄.jpg台湾の高雄局が年賀特別取扱で引き受けた1936年(昭和11)の年賀はがきです。この年から発行されるようになった年賀切手を貼り、台湾だけで使われた年賀用特別図案の入った大型機械印が押されています。

この機械印の図案は、上部に交差した日章旗の中に「謹賀新年」の文字、その下部に椰子の樹と華風楼閣を配し、波間に飛ぶ海鳥がそれらを結んでいます。台湾の新年を象徴する分かりやすいデザインです。内地など台湾以外で使われた「松喰鶴」図案の小型機械印が地味に感じられてしまいます。

台北年賀2.jpgよく見ると、機械印下部の局名や日付などを表す円形のデータサイクル内で、左右の唐草模様が「・」(中点、黒点)で結ばれています。台湾では「台」字を図案化した台湾逓信の徽章を入れるのが本来で、現に同じ機械印が使われた他の1、2等局10局ではすべて正常な逓信徽章入りを使っています(左図)。この高雄局印は従って、エラーです。

戦前に活躍した高名な収集家の藤堂太刀雄氏は当時、植民地も含めた日本の全郵便局(!!)に郵賴して年賀印を集めました。成果の一つとして、この台湾の年賀機械印は全11局で図案の細部がすべて異なっていることを報告しています(『切手趣味』V.13 N.4=昭和11年4月号)。鋳型で大量生産したのではなく、「手彫り」らしいことを示唆しているのです。

高雄データサイクル2.JPG藤堂氏は高雄局年賀機械印の異常な「黒点」は発表しましたが、原因にまでは踏み込んでいません。GANの解釈では、図案部だけでなくデータサイクル部も手彫りした結果と考えます。年賀特別扱の専用印で日付更埴が不要だからです。「高雄」の字体にも「手彫り感」があります。逓信徽章を彫る際に位置の見当として「仮彫り」し、そのまま「忘刻」となったのではないでしょうか(右図)。

ところでこの年賀状、受取人の「戸田龍雄」は「藤堂太刀雄」(筆名)の本名です。裏面は普通の人からで、藤堂氏が郵賴して返ってきたものではありません。切手、消印、練達の筆書き、それらにプラスして消印のエラー。数十年前に入手しましたが、大事にしている一品です。

追記(2017.11.16)近着の台北発行『環球華郵研究』第4期所載の簡宗鈞「台湾日治時期変異郵戳蒐奇」によると、簡氏はこの「変異」の原因を逓信博物館の練習機を持ち込んで臨時使用したため、としています。逓博は逓信講習所ではないかとも思いますが、GANは基本的にこの見解に賛成です。簡氏は特に根拠を示してはいませんが、確認できれば上記した「手彫りによる忘刻」説は撤回します。
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2017年08月27日

樺太異型為替印をリユース

大谷櫛葉書.jpg樺太・大谷局で昭和18年(1943)10月6日に引き受けられた楠公はがきです。特異な発信アドレスに加えて検閲印もあり、一見して軍事郵便のようですが、有料の完全な内国第2種普通郵便です。

この大谷局日付印は特別珍しくもありませんが、形式が特異です。局名「樺太大谷」は明瞭なのに、その下(D欄)が空白で、本来入るべき櫛型がありません(下図-)。GANはこれまで活字挿入の不具合か、押印のさいの微妙な力加減かでこのようになったかと考えていました。最近になってこの疑問はとっくに「解明」されていたことに気付きました。

浜松の消印研究家で故人となられた池田進氏著『日本消印事典(3)』(1972年、萬趣会)の「樺太の消印」の項で、「C欄星3つ」型のバラエティとして、この異型印の印影が発表されていました(p.74)。池田氏は「大正7年ごろまで使われたと考えられる丸二型為替印の局名活字の再使用によるものである」と注記しています。

樺太では大正時代初期に独特の丸二型印が導入されました。郵便電信印では上部「樺太」で下部局名、為替貯金印では上部局名で下部為替貯金記号というタイプです。通常、これらの活字の配列は水平ですが、一部の局では局名が外円に沿って弧状のバラエティが使われました。郵便電信印で野田寒、為替貯金印では大谷の例(下図-中央)を池田氏は挙げています。

大谷無.jpg池田.jpg大谷櫛.jpg
つまり、大谷局では1940年前後に大正時代に使っていた為替貯金印を引っ張り出し、その下部印体だけを「C欄★3個」に差し替えて郵便用にリユース(再利用)した。上部は普通の櫛型印のA欄のように見えるが、本来が丸二型印なのでD欄などない--というわけです。大谷局では正常な櫛型印(上図-)も併行して使っています。リユースの理由は、時局(戦争)による資材節約を理由とする時刻表示廃止、「★3個」型導入と関連がありそうです。

恒例の「蛇足」です。このはがきの「大谷郵便函11号ノ2」という発信アドレスは、1940年(昭和15)1月から使用が始まった特別な表記法です。前年5月に配置された樺太混成旅団の存在をソ連に対して秘匿するため、部隊名の代わりとして導入されました。上敷香、豊原、内路、気屯など数局の使用例が知られますが、部隊名を始め使用状況はまだ「解読」されていません。

もう一つ蛇足。池田氏は櫛型印について解説した『日本消印事典』第3巻をまず出版しましたが、他は未刊に終わりました。後に『櫛型日付印詳説』上・下巻(1975・76年、萬趣会)を出しましたが、この樺太丸二型印の異型バラエティについては言及していません。
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2017年05月27日

湯崗子分室エラー印

湯崗子分室.jpg本日届いたばかりのヤフオク落札品です。満洲屈指の温泉地として戦前日本人に愛された湯崗子温泉の絵葉書に「満洲国」の4次通常荷馬車2分切手が貼られ、鞍山郵政局湯崗子分室で康徳7(1940)年7月3日に引き受けられています。

湯崗子は夏季限定のいわゆる季節局(定期開設局)です。日本時代は出張所でしたが、康徳4(1937)年に満洲国に移譲のさいに分室に改定されました。委譲後の印影をGANは初めて見ました。

荒井国太郎氏や田中清氏らの各種報文などでもこの印影は紹介されていなかったと思います。穂坂尚徳氏の力作「『満洲国』の消印と使用状況」(『日本郵趣百科』1985年版所載)には詳細な分室一覧表がありますが、なぜか湯崗子分室は洩れています。しかし、移譲は間違いなく、康徳4年12月1日の交通部佈告第329号に掲載されています。

湯崗子出張所印.jpg湯崗子.jpg日本時代の日付印(左図の左)はA欄出張所名、D欄本局名だったのですが、満州国(左図の右)ではA欄本局名、D欄省名(奉天)で、分室名はE欄に表示されています。このE欄に分室名が入る「分室型」印はこれまでに数局が知られています。

湯崗子拡大.jpg湯崗子分室の印影で面白いことは、肝心の分室名が左書きのエラーになっていることです。D欄の上部三分の一ほどが出ていませんが、3文字中の左は「湯」、右は「子」です(右図)。どう見ても、その逆ではありません。C欄時刻が左書きなので、それに釣られてうっかり誤刻してしまったのかも知れません。
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2016年08月29日

哈爾賓BRANCHって何?

HARBIN-3.jpg数十年前に入手した「私白」(収集用として官製はがき印面部に日付印を押印した「官白」に対し、私製はがきに押印したものを便宜的に呼びます)です。「HARBIN」はいいとしても、下部C欄の「BRANCH」とは、いったい何でしょう。

素直に読めば、1932(昭和)年2月15日の「哈爾賓局支局」ですが、日本郵便史上そのような局所が存在した事実はありません。この時期には日本哈爾賓局など開設されていず、当然、その「支局」もあり得ません。

秘密局として有名な長春局哈爾賓出張所やシベリア出兵時の臨時哈爾賓局も確かにあります。臨時哈爾賓局には新市街出張所も開設されました。しかし、そこで欧文印を使ったとしたら、C欄は「I.J.P.A.」でなければなりません。いずれにせよ、これらは明治・大正期の話です。

実はこの「私白」は、鉄道郵便など郵便印の研究で高名な植野良一氏(故人)のコレクションでした。古く、『消印とエンタイヤ』第61号(1952年)に印影が発表されています。以来60年以上が経ちますが関連続報はなく、正体が解明されないままの、いわば「ナゾの印影」だったのです。

そもそもこれはエンタイアではなく、1例しか知られていない「私白」に過ぎません。日本郵便機関で使われた真正の日付印である保証はないのです。例の「泰緬鉄道郵便」の日付印同様、空中楼閣的なニセモノ印である可能性を十分考える必要があります。いったいこれはホンモノか、偽造印なのか--。

長年の疑問を解決しそうなヒントが、ごく最近現れました。これとまったく同じ、第2例となる印を旧楠公はがきに押した官白が、8月半ばのネットオークションに出品されたのです(GANも参戦し、こてんぱんに敗れました)。はがきを包んだパラフィン紙に「ハルピン軍事郵便取扱所」と説明がありました。達者な万年筆書きです。特徴が強かった、あの植野氏の筆跡ではありません。

「哈爾賓軍事郵便取扱所」だったら、GANには心当たりがあります。満州事変の最初期から開設されていた俗称「哈爾賓野戦局」のことです。「満洲国」が建国される以前なので「軍事郵便取扱所」という正式名は表に出さず、秘匿名の「長春局第2分室」を使って軍事郵便のほか哈爾賓在留日本人の郵便も有料で取り扱いました。

新京第2-2.jpg開設されたのは1932年2月9日ですが、その後10ヵ月間は独自の日付印を持ちませんでした。郵便引受けには、哈爾賓からずっと離れた本局・長春局印を流用しました。

独自印の導入は、長春が「新京」と改称された後の32年12月になってからのことです。櫛型上部のA欄に「新京」、D欄(櫛型部)に第2分室を意味する「2」が表示されました。右図は民間人がこの「哈爾賓野戦局」から普通便として発信したはがきで、新京局第2分室印が押されています。

もし、「哈爾賓所在の長春局分室」が開設直後に欧文印を調製したとしたら、局名表記をどうするか。「CHANGCHUN/BRANCH」も検討されたでしょうが、これだと第1(吉林)、第3(所在地不明)、第4(敦化)などほかの分室と区別できません。

結局、この「HARBIN/BRANCH」が適当、とされたのではないでしょうか。本局である長春局の表示は棄て、単に「哈爾賓分室」と表現した、というわけです。BRANCHは支局、分局、出張所などと同様、分室を表すにも使われるようです。

それでも、かなり本質的な問題が残ります。いったい「哈爾賓野戦局」などが国際郵便を取り扱ったものでしょうか。しかも専用の欧文印が必要なほど大量に、とは。これら分室が引き受けた国際郵便は、まだ存在が知られていません。この点については、さらに新資料を発掘しなければなりません。当面は「HARBIN/BRANCH=長春局第2分室」説を提案します。
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