2017年04月20日

4銭貼りは何のため?

莫干山.jpg第1次大戦中に旧ドイツ租借地を占領した日本軍野戦局から発信された絵はがきです。ヤフオクで昨年入手しました。

在外局用の菊4銭切手が貼られ、青島野戦局で大正6(1917)年8月11日に引き受けています。隣り合って中国印も押され、8月14日に天津府局が中継したことが分かります。この間は日本軍が占領していた山東鉄道(膠済鉄道)で運ばれたのでしょう。日中間に安定的な郵便交換が成立していたことを表しています。

菊や田沢の4銭貼りで欧文の宛先が書かれたはがきはよく見る例なので見過ごしがちですが、この宛先MOKANSHANがクセモノです。漢字で「莫干山」は中国浙江省杭州の西北方にある別荘地で外国局など全くない場所、つまりこれは中国国内発着の郵便なのです。

このはがきには問題点がいくつかありますが、最大の問題は中国内国郵便になぜ4銭というUPU料金が適用されているのか。日本の在外局から中国内地宛てなのに、日清郵便約定に基づく中国切手による料金分の「貼り替え」をしていないのも問題です。

当時の日本発中国宛てはがき料金は1.5銭でした。中国郵政の内国料金も1.5分で同額です。本来ならこのはがきも1.5銭で済みそうに思えますが、発信者は何のために余計な料金を支払ったのか--。(ここはGANの勝手な都合で、誤って過払いしたのではない前提で話を進めます。)

実は、このはがきが発信される前の17年3月に、日本軍が占領した青島など旧ドイツ膠州湾租借地と山東鉄道地域について、日中間で郵便と電信の連絡交換協定が結ばれていました。正式なタイトルはとても長いのですが、俗に「日支山東通信連絡協定」と呼ばれます。

協定は全文わずか4条の簡単なもので、郵便事務は1905年のドイツ中国間郵便協定を当分は適用する、と定めています。これを現地でさらに具体化した協定として、17年10月に全5章、延べ36条の詳細な細則と付帯文書が締結され、翌11月1日から実施されました。

細則では旧租借地から中国内地宛ての郵便料金は「日本切手により日支間現行料金で」支払うことになりました(第1章第3条第1項)。これによれば、このはがきは1.5銭が正解ですが、発信されたのは細則の実施より2ヵ月以上前、まだドイツ料金が準用されていた微妙な時期です。

それではドイツ領時代の青島発中国内地宛て料金はいくらだったのか。日本と同じように、ドイツ内国料金並みの1.5プフェニヒ特別料金か、それともUPU料金の4(または5)プフェニヒだったのか。独中郵便協定には具体的な料金率が明示されていず、分かりません。

この問題は、今後ドイツの郵政資料を調査することにより、あるいは同時期の似たような使用例が出現することによって解決されるでしょう。それまでGANは、「ドイツ料金が暫定適用された短期間だけの希少な使用例」として大威張りすることにしています。もちろん、料金過納の可能性などは間違っても言いません。

ところで、第2の問題点、貼り替えがない理由は簡単です。独中協定で膠州湾租借地ドイツ局発中国内地宛て郵便物はドイツ切手のみで有効とされていたからです(第4条)。日中協定にも引き継がれたので、他の在中国日本局とは異なって山東の日本局だけは貼り替え不要となりました。

(この記事については、飯塚博正氏から多大なご教示を得ました。)
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2017年03月21日

秘密局廃止後の郵便交換

会寧.jpg満州の朝鮮国境に近い間島地区の中心都市・龍井村(龍井市)から日本・東京宛ての中国ジャンクはがきです。

料額印面の1.5分にジャンク半分切手を加貼りした2分は当時の内国料金と同額です。中国・龍井村局が民国15(大正15=1926)年7月4日に引き受けています。名前から、発信者は間島で大多数を占める朝鮮人移住者のようです。

このはがきは中間地の和龍を経て翌5日に豆満江(図們江)を朝鮮側に渡りました。沿岸の朝鮮・会寧局に引き渡され、中継印の欧文「KAINEI」印が押されています。龍井村-会寧の日中間を1日というのは、非常に効率の良い郵便交換を示します。その先は清津港などから日本海を新潟に送られたのでしょう。

会寧局が龍井村局との交換局となったのは1923(大正12)年1月1日のことでした。この日から新しい「日支郵便約定」が実施され、郵便交換が始まったからです。同様に、朝鮮・慶源局も中国・琿春局との交換局に指定されています。会寧、慶源両局の欧文印はこの日中郵便交換のために導入されたものです。

実は、龍井村-会寧間、琿春-慶源間の郵便ルートは日支郵便約定以前からありました。しかし、その時代は、朝鮮総督府逓信局が龍井村に間島局、琿春に慶源局分室を開設し、朝鮮逓信局の職員が国境を越えて郵便物を運んでいました。中国側の許可もなく中国領内に設けた秘密の郵便機関、逓送路でした。

中国には清朝末期から帝国主義列強の郵便局が多数開設されており、中国(中華民国)政府が強く抗議していました。中国の主張は第1次大戦後の新国際秩序を形成する1922年のワシントン会議で認められ、すべての在中国外国局の22年末までの撤廃が「決議第5号」として採択されました。

これにより、日本も秘密局を含む在中国局を廃止せざるを得ませんでした。ただし、日本は関東州と満鉄付属地の郵便局所は決議にある例外規定に該当すると主張して撤廃せずに残します。例外と認めない中国との間で対立し、解決しないまま1945年の敗戦まで引きずり続けました。

余談にわたりますが、「郵便学者」を自称する内藤陽介氏は『満州切手』(角川学芸出版、2006年)などで、中国内の外国郵便局撤退は九ヵ国条約で取り決められたと繰り返し述べています。しかし、条約にそのような文言は全くありません。しかも日本の批准は1925年なので時期も合わず、ダブルエラーです。同書(p.98)から典型的な一例を示します。
この条約は、日本が第一次大戦中に獲得した山東省の権益を放棄させられたことで有名だが、郵便に関しても重要な取り決めが行われている。すなわち、中国国内におかれた外国郵便局の撤退である。
内藤氏が一定の力のある郵趣家のため、この誤記の影響が多方面に及んでいます。たとえばこの本の翌2007年に出版された山崎好是『郵便消印百科事典』(鳴美)も内藤氏を全面的に信じたばかりの「被害者」の一書です。「中国の郵便印」(筆者注:正確には「在中国局の郵便印」)の解説の中で、次のように記しています(p.528)。
中国に設置された郵便局は、ワシントン会議で結ばれた9ケ国条約により、大正11年(1922)12月31日限りで全局が閉鎖された。
九ヵ国条約は以後の中国の主権尊重・機会均等をうたった一般的な精神規定であって、現況の具体的な実務の改善や問題解消を取り決めたものではありません。この「学者」さんは、わずか9条の条約本文にすら目も通さずに「学芸書」を書き上げる手の人だとGANはニラんでいます。

在中国局撤廃という新事態で実施されたのが日支郵便約定であり、それを受けた図們江を挟む2地点での中朝郵便交換でした。ただし、この交換の実態は資料不足でよく分かっていません。毎日欠かさず交換したのか、交換地点は川のどちら側か、あるいは、どちらかの局に相手側が出向いて持ち戻ったのか、などです。

会寧、慶源両局が中国側からの交換郵便物のすべてにこのような欧文印を押したのではないことも、残存エンタイアから明らかです。どういう郵便物に押し、それはいかなる割合となるか。これらも今後知りたい問題点です。
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2017年02月23日

中国宛て料金の最末期例

天竜川丸.jpg大阪から中国(清国)上海に宛てた小判はがきです。U小判1銭切手が加貼りされ、大阪局で1898(明治31)年9月9日に引き受けて14日に上海に届いています。最近のヤフオクで入手しました。

1銭はがきは3ヵ月後の12月1日に菊(紐枠)はがきに切り替わりました。従ってこれは、小判はがきシリーズの外国宛て最終期使用例となります。

官製はがきに1銭切手が加貼りされていることに何となく異和感が感じられます。「中国宛ては内国と同額料金」という常識に反するように見えるからでしょう。

実はこのはがきは「同額常識」が成立する直前、まだ中国宛てに国際料金が設定されていた時代の最末期使用例になるのです。当時の中国(日本局所在地)宛て料金は書状5銭、はがき2銭でした。

逓信当局は外国郵便の規定全般を見直しており、1899(明治32)年1月1日から実施しました。その中で、中国宛て料金をこれまでの国際料金からはずし、内国料金と同額とします。このはがきがもし3ヵ月後に出されていたら1銭切手の加貼りは不要で、印面料額の1銭だけで上海に届いたはずでした。

この改定は、日清間通信の便宜を図り、朝鮮宛て料金がずっと内国並みだったのに合わせた、と説明されました。これは外国である中・朝両国を日本の郵便網の中に取り込む、通信主権の侵害でした。しかし、半植民地状態でU.P.U.(万国郵便連合)にも未加盟だった当時の清国からこの点での抗議はなかったようです。

中国側も後の1903(明治36)年に結んだ日清郵便仮約定で対日料金を日本と同額として日本の料金設定を追認しました。正確には、条文上で「清国から日本宛て料金は、日本の清国宛て料金以下にできない」という表現になっています(仮約定第2条第4号)。先にあげた「同額常識」はこうして完成しました。

ところで、はがきの宛て先をさらに詳しく読むと、「清国上海・日本郵船会社内/大阪商船会社天龍川丸」となっています。通信文面から、受取人はこの船の高級船員のようです。これも日中間郵便史上のエポックを記す点で、見逃せないアドレスです。

逓信省は日本の郵便網を中国沿岸部にとどまらず長江の奥深くまで拡張する意図がありました。そのため、大阪商船会社にこの年、98年1月から上海-漢口間に郵便船の運航を始めさせたばかりだったのです。そこに投入されたのがまさにこの天龍川丸と僚船の大井川丸の2隻でした。大阪商船には補助金年額9万円、保証金1万円という巨額の国費が交付されました。

初航の天龍川丸は98年1月4日に上海を出港し、延べ140人の乗客と貨物121個を運んで7日に漢口に着いています。復航は漢口8日発、上海に16日帰着でした(明治31年2月15日逓信省発海軍省宛「揚子江航路開始以降ノ状況報告」=アジア歴史資料センター公開資料=による)

この航路は4月からさらに上流の宜昌にまで延長され、強力なインフラとして長江沿岸に多数の日本局を開設する基礎を作りました。約7年後の明治37(1904)年12月15日付「逓信公報」告知によると、同日現在で上海のほか鎮江、蘇州、杭州、南京、漢口、太冶、武昌、長沙、沙市の各局所が開設(ほかに宜昌に秘密出張取扱)されています。
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2016年11月30日

保定出張取扱いの郵便

保定.jpg北京局明治42(1909)年8月2日の和文櫛型印で引き受けられたはがきです。この当時の在中国局は郵便物の引受けに「I.J.P.O.」の欧文印を使っていたので、和文印は異常な使用例と言えます。また、C欄が★3個で、さらに異常です。局内事務用印の誤使用でしょうか。

結論から先に言ってしまうと、これは誤用やエラー印ではありません。北京局員が保定で出張取扱いをしたさい、北京本局と区別するために使った専用の引受印だとGANは考えています。

発信者のアドレス「保定府」がキモなのです。在中国局では主に満州方面での「秘密局」の存在が知られていますが、この出張取扱いも一種の秘密局と言ってよいでしょう。

これを保定出張取扱いの郵便印とする根拠は、北京局のこの和文櫛型印で引受けられている郵便物が、ことごとく保定発信だからです。データとしては、このほかに(明治)39.8.7、39.9.12、39.10.24があります。つい最近も39.7.25の封書が東京で大手のフロアオークションに出品され、たいへん良いお値段で落札されました(GANも参戦してみごと敗れました)。

北清事変の収束後、日本逓信当局は保定に北京局職員を派遣して郵便、為替、貯金の出張取扱いを始めます。開始は明治35(1902)年10月21日で、当初は毎月1回の「随時」出張でした。これは11月28日公達第710号として逓信公報に掲載されましたが、中国側とは了解も通告もない「無断措置」でした。出張回数は後に月2回に倍増されています。

保定は北京から京漢線沿いに南方130㎞にある河北省では省都級の大都市です。当時、日本人が進出した事情については興味があるところですが、GANはまだ調べていず、よく分かりません。それにしても北京に比べればかなり少ないはずで、恐らく100人にも達しなかったのではないかと思います。

この点についてはヒントとなる資料があります。開設2年後の1904年12月に日露戦役記念の第1回絵葉書が発売されると、北京本局で350組を売ったのに対し、保定では50組を売っています(旧逓博所蔵「戦役記念絵葉書発売の件」)。単純計算で北京の7分の1の数の日本人が保定にいた可能性があります。

ところが1910(明治43)年2月に日清郵便約定(郵便交換協定)が締結されると、約定の上で規定できない保定での郵便取扱いは違法となってしまいました。そこで当局は4月から清国郵政が扱わない価格表記、代金引換、現金取立郵便だけに業務を大幅縮小します。当時毎月10回にまで増えていた出張回数も2回に戻しました。為替、貯金業務は継続しましたが、事実上の撤退と言えます。

さらに1912(明治45)年になって、「在留邦人減少のため」として5月以降は保定出張取扱いを正式に廃止します。これらはすべて、逓信公報には登載せず、各逓信管理局から郵便局長限りに配布する「内牒」で通知されました。結局、保定出張取扱いでの書状、はがきの引受けは02年10月-10年3月の7年半だけだったことになります。

これまで「秘密局」というと、領事館内の1部を郵便事務専用に使うような固定常駐施設ばかりが注目されてきました。保定のような実例が新たに分かってくると、他にもあった出張取扱いでも本局と区別できる表示がされていないか、気になります。

この保定にしても、櫛型印導入以前の4年間ほどの出張取扱いではどうしていたのか、使用状況がよく分かっていない丸一「北京」印の郵便使用はこれと関係はないか--。気がりは増すばかりです。
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2016年06月09日

占領下青島の中国局再開

TSINGTAU.jpg第1次大戦後、オーストラリアから日本軍占領下にあった中国・青島に宛てられたはがきです。当時の日中間の特殊な郵便交換状況を表す興味深い資料と思います。

このはがきはシドニー局で1920(大正9)年12月9日に引受けられ、中国上海局に21年1月10日に着きました。恐らく膠済鉄道(日本の言う山東鉄道)が使われて、青島に着いたのが1月13日。中国青島局はその日のうちに日本青島局に引き渡し、青島市内の名宛人に配達されたことが各郵便印から分かります。

ここで問題となるのは、このはがきがなぜ中国青島局から日本青島局に引き渡されたのか、ということです。中国局でそのまま配達すればよいのに、わざわざ日本局に引き渡した理由は何だったのか。名宛人が日本企業(三井物産の中国法人)の日本人だからでしょうか。

青島は戦前までドイツ領膠州湾租借地の「首都」でした。日本は青島攻略後も租借権の受け継ぎをもくろんで青島守備軍を置き、租借地と膠済鉄道全線の軍事占領を続けました。中国はこれに抗議して国際世論に主権回復を訴えますが、戦後世界秩序再編を目指すワシントン会議まで持ち越されます。

日本軍占領地区と中国との間の不安定な郵便・電信連絡問題を打開するため、両国の外交交渉が行われます。その結果、1917(大正6)年3月に北京で暫定的に「山東日支通信連絡弁法」が、さらに翌18年10月に青島で青島守備軍と中国交通部との間に弁法の細則が、それぞれ協定されました。

上の「」内の弁法の名は通称で、正確には、和文(中文もあり)で次のようにとても長いタイトルになっています。細則の正確なタイトルはこれに輪をかけて長いので省略します。
「帝国ノ管理ニ属スル膠州湾租借地及山東鉄道ニ於ケル日支両国郵便電信事務処理ニ関スル弁法」

この弁法によって日本は占領中の青島での中国局開設を承認し(第1條)、代わりに中国は済南と濰縣に日本局を開設することを公認しました(第2條)。また、細則で中国局は青島宛て郵便物はすべて日本局に引き渡すことが定められました(第1章第1条第5号、第3條第4号)。

こうして、18年11月1日に再開された中国青島局は外国郵便交換局なのに無集配局、という極めて特異な存在となりました。ただし、明文で否定されてはいないので、この時期にも中国青島局が引受けて青島以外の中国各地に宛てた郵便物が存在する可能性はあります。

前置きばかりが長くなりましたが、このはがきに日中双方の青島局日付印が押されているのはこれらの協定があったからです。いったんは中国郵便系に乗った郵便物も、青島ではすべて日本郵便系に託すほかありませんでした。この協定での「青島」の範囲は、文脈からみて膠州湾租借地全体を意味すると思われます。
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2014年06月17日

満州国料金の日中貼替便

撫順.JPG富士鹿4銭切手を貼り、1932(昭和7)年に満洲の日本撫順局から上海に宛てたカバーです。一見してありふれた日中混貼りですが、当時は「満州国」の建国直後。まだ「満州国」内で活動を続けていた中華郵政の局と交換しており、一筋縄ではいかない背景を抱えています。

「満州国」郵政当局は建国宣言から1ヵ月後の32年4月1日に国内の中華郵政の接収を宣言しました。しかし、実際には施設も職員も郵便切手も郵便印もそのままで中華郵政が運営を続けました。「満州国」側に郵便経営の用意も実力もなく、書類上だけの接収に終わったためです。

たまたま中華郵政はその直後に2度にわたって料金を改定しました。書状料金では、5月1日に従来の4分を一挙に6分に上げ、高すぎるとされて5月20日に5分に下げたのです。しかし、「満州国」郵政はいずれにも追随せず、4分レートを維持しました。

このため同じ中華郵政なのに、中国本土から東北3省(「満州国」)宛て料金は5分で、逆方向の「満州国」から中国本土宛ては4分という料金相違が起きました。中華郵政当局はこれを東北3省だけのローカル・ルールとして「黙認」したようです。

ところで、「満州国」は中国が外国と締結した条約・協定類の順守を表明していました。そのため、1923(大正12)年の日中郵便協定も「満州国」内の満鉄沿線日本局に適用されます。中国本土宛て郵便には貼り替えが必要となる事情も変わりません。

これらの結果、在満日本局発中国宛て郵便物には中華郵政料金ではなく、「満州国」料金による貼り替えが行われました。これは中華郵政が「満州国」郵政を否認して東北3省から撤退する32年7月24日までの3ヵ月足らず続きました。以後は4分では「料金不足」扱いとされ、不足分の倍額が宛先で徴収されています。

このカバーの富士鹿4銭切手は「満州国」だけの中国宛て料金である4分に対応した額です。5月11日に撫順日本局で引き受け、協定による交換局である奉天日本局に送りました。奉天局で中国帆船切手4分に貼り替え、翌日、中華郵政の瀋陽局に渡しています。

瀋陽局は民国21(1932=昭和7)年5月12日の中華郵政印で引き受け、京奉鉄道(北京-山海関-奉天)により逓送しました。上海では無事に配達されたようで、不足料金が請求された形跡は見えません。
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2014年05月19日

仮約定後の日清郵便交換

KAIPING.jpg日露戦争後の日本から清国(満洲)の遼東半島内陸部の岫巌に宛てたはがきです。中継局として日清両国の蓋平局、到着局として清国岫巌局印があり、両国間の郵便交換状況が分かります。

菊紫1.5銭が貼られた私製はがきが下関西局で明治41(1908)年10月19日に引き受けられ、満鉄沿線の日本蓋平局に10月25日に到着しています。即日、清国蓋州(蓋平)局に引き渡されたと見られます。

蓋州局日付印では「9月21日」ですが、当時は太陰暦ですから、太陽暦に直すと10月25日になるのでしょう。翌9月22日に清国岫巌局に着いて、同局で宛先の日本人に配達しています。

岫巌は満鉄線から遠く離れた奥深い小都市で、もちろん日本局はありませんでした。蓋平は岫巌への逓送路の基点に当たります。

日清両国間には初めての郵便交換条約である「日清郵便仮約定」が1903年に結ばれていました。清国は万国郵便連合(U.P.U.)に未加盟だったので、2国間条約で交換条件や料金率などを決める必要があったのです。このはがきには仮約定の結果が反映されています。

仮約定では「相手国の内国料金による郵便切手で自国内を無料で配達する」ことを相互に認め合いました。仮約定以前、日本から中国宛ての料金は内国料金より高く設定されていました。上海や天津、牛荘などの開港地日本局に着いてもその後が複雑で、内陸部への配達には付加料金が発生するのが普通でした。

もし、このはがきが1903年以前だったら日本牛荘局に回され、そこから岫巌までの遠距離は民間配達業者(民局)に託されたはずです。受取人は相当な額の料金を民局から請求されたことでしょう。

仮約定はその後、1910年に改正されて「仮」が取れ、「日清郵便約定」となります。改正交渉で清国側は外国局(客郵)の否認ないし縮小を原則としたため、日清間の郵便交換局が制限され、満洲では安東県、奉天、長春など7局だけとなりました。料金を清国切手で払うための「貼り替え」手続きが導入されたのもこの新約定からです。

このはがきが1910年以後だったら、蓋平では交換できません。指定交換局の奉天か遼陽局に回されて交換されたでしょう。1903-1910年の7年間だけ行われた、指定交換局以外の局での郵便交換を実証する貴重な資料と思います。
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