2017年12月16日

奉天キャッスル局欧文印

大北門.jpg満州の奉天局大北門出張所で1908年(明治41)に引き受けられたドイツ宛てのはがきで、「MOUKDEN.C」という見慣れない欧文印が押されています。関西の大手オークションで落札し、ごく最近到着しました。

データを詳しく言うと、菊2銭2枚貼りを「奉天・大北門 41.7.6」で抹消し、さらに欧文印の「MOUKDEN.C 6.7.08」と「CHANGCHUN-S 7.7.08」が押されています。「CHANGCHUN-S」は長春駅(STATION)と理解されています。しかし「MOUKDEN(奉天) .C」がどこの局か分かりません。

MOUKDEN.C.jpg満州の欧文印については、 JOHN MOSHER『Japanese Post Office in China and Manchuria』(1978)や西野茂雄『外信印ハンドブック』(1985)が参考になります。しかし、両書ともMOUKDEN-Sは載っているのですが、MOUKDEN. Cはありません。少なくともこの段階では存在が知られていなかったようです。

「MOUKDEN. C」の候補となり得る局所は4つ考えられます。(1)奉天本局、(2)奉天局大北門出張所、(3)奉天局大西関出張所、(4)奉天局奉天駅出張所です。このうち大西関出張所は1908年8月、奉天駅出張所は1911年6月の開設なので除外できます。奉天駅出張所の欧文日付印は「MOUKDEN-S」と分かっています。奉天局は後ろに何も付かない「MOUKDEN」「MUKDEN」を使い続けたようで、これもはずれます。

消去法では大北門出張所が残ります。このはがきは大北門出張所でまず和文印で抹消されてすぐ、同じ郵便課の外国郵便係に回されて「MOUKDEN. C」印が押されたのでしょう。翌日に外国郵便交換局の長春局で区分の際、東清鉄道のロシア寛城子局との交換のため「CHANGCHUN-S」印を押しました。--このように仮定しても、不都合や矛盾はありません。

それでは「MOUKDEN. C」の「C」とは何か。CASTLE(城)、またはCITY(城郭都市の内部)の頭文字だろうとGANは考えます。大北門出張所は07年10月末までは独立の奉天城内局でした。11月1日に奉天局出張所に降格・改称されましたが、その後も奉天城内地区の集配を継続しています。この集配事務は08年8月に奉天局大西関出張所が別に開設されて引き継がれますが、大西関でも同じ欧文印を使い続けただろうと思います。

奉天(旧市内)は清朝が北京に遷都する以前の宮殿を城壁で四角形に囲んだ内城とそれを円周状に大きく取り巻く外城壁によって区画されます。大北門出張所は内城の北門内側、大西関出張所は外城の西門内側に設けられていました。満鉄本線奉天駅は内城の西方約5㎞離れた位置にあり、駅周辺の満鉄付属地一帯は「新市街」と呼ばれました。奉天局は奉天駅の東方300mの近距離でした。

やがて、奉天城内居住の在留邦人は便利な奉天駅周辺の新市街地に移り住むようになります。郵便物取扱が激減したため大西関出張所は1910年11月末限りで集配を廃止し、無集配局となりました。「MOUKDEN. C」印も同時に廃止されたのでしょう。この欧文印の使用開始期は不明ですが、奉天城内局-大北門出張所-大西関出張所と3代にわたって使われたはずです。

翌1911年6月に前出の奉天駅出張所が開設され、本局に代わって安奉線との郵便物積み替えのほか中国奉山線鉄道(山海関-奉天)との郵便交換を受け持ちます。「MOUKDEN-S」印はそのために使われたのでしょう。また、「MOUKDEN」や「MUKDEN」印は、奉天本局での外国郵便直接引受用のほか、奉天駅出張所開設までの間の郵便交換用にも使われたと見られます。

本稿での各局の郵便物集配状況や郵便交換事情については『関東都督府政務報告』各期(外務省外交史料館蔵)によりました。

追記(2018.01.27) 中国郵便史専門家の飯塚博正氏から「MOUKDEN.CはMOUKDEN CITYを意味する」とのご教示を得ました。同氏は近似例として1911年「天津城 TIENTSIN CITY」のバイリンガル印のある中国カバーを示され、GANもその通りだと思いました。この記事のタイトルは「奉天シティー局欧文印」の方が適切でした。飯塚氏に感謝します。
posted by GANさん at 02:38
"奉天キャッスル局欧文印"へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。