2019年01月27日

3セット型区別符の意味

イメージ-1.jpg2018年6月20日の当ブログで、海軍軍事郵便のアドレスとして使われる区別府に「3セット型」とも言うべき新タイプのあることを報告しました。区別符はふつう、片仮名「ウ、テ、イ、セ」の1文字+漢数字2文字を1セットとした2セットで所在地と部隊名を表しています。この他に1セット多い3セットのタイプも存在することが分かったのです。

前回は「呉局気付 セ45 セ41 ウ372」をご紹介しましたが、今回、新たに第2例目を発信(右上)・着信(右下)のセットで入手しました。誤記の疑いのない使用例が増えたことで、「3セット型」の意味と性格を確定することができたと思います。以下に続報としてお伝えします。

イメージ-2.jpg今回入手したアドレス表記は「横須賀局気付 ウ83 ウ84 ウ187」というものです。3セットある区別符を相対的位置によって「第1、2、3セット」と表現すると、次を表しています。(右図=第2セットがなぜ部隊名で、所在地名ではないかの説明は長くなるので省略します。)

 ・第1セット:ヤルート島イメージ
 ・第2セット:第10海軍郵便所第6派出所(部隊名)
 ・第3セット:横須賀鎮守府第6特別陸戦隊=横鎮6特陸

特別陸戦隊は海軍の陸上戦闘専門部隊で、各鎮守府に直属して機動的に行動します。定まった駐屯地がなく移動がひんぱんなので、他の海軍陸上部隊と違って所在地は常に流動的です。特別陸戦隊のアドレス表記は例外的なものが多く、収集家泣かせの常連です。

一方、厚生省の「恩給加算調書」によると、横鎮6特陸は1942年8月24日から43年2月15日までギルバート諸島(の内のタラワ環礁ベティオ島)に派遣されていたことが分かっています。この間、ギルバート諸島には海軍の郵便機関は未開設で、タラワに所在地区別符ウ66が指定されたのも42年10月からでした。

所在地区別符がないとき、そこにいる海軍部隊のアドレスはどう定めるでしょうか。最も近い既設の郵便所気付とするのが合理的です。当時、ギルバート諸島に直近の郵便所はヤルートの第10郵便所第6派出所(部隊区別符ウ84)でした。こうして、「タラワの横鎮6特陸」は「ウ84気付 ウ187」を得たはずです。

ところが、区別符によるアドレス表示法では「気付」は省略されるので、「ウ84」はグリーニッチの所在地区別符と見なされてしまいます。誤解されないように派出所所在地のヤルート島イメージを表す区別符「ウ83」を頭(第1セット)に付けたのでしょう。この3セット表示は「所在地区別符未設定期のアドレス表記」とすれば納得できるのです。

前回の「呉局気付 セ45」のケースは他からの転入部隊が所属する(上位の)部隊名を第2セットとして加えた例でした。共通して言えるのは、移動・転属部隊や区別符未設定地の部隊が、「気付」の意味で所属上位部隊や直近の郵便所の区別符を第2セットとして加えていることです。

「3セット型区別符」は海軍の郵便物取扱例規にも規定が終始ありませんでした。必要に迫られた現場の、いわば知恵の産物だったのかも知れません。
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2018年12月24日

「郵便学者」の賀状論

内藤記事.jpg「年賀状、出しますか?」というタイミングよいタイトルで1ページ特集の記事が12月24日付『朝日新聞』に載っていました。

「年賀状を辞める『辞退宣言』が増えている」「年賀はがきの発行数は減少傾向」「お年玉くじの最初はミシンが特賞だった」など既に書き尽くされた事実をなぞっただけの陳腐な内容です。そのおざなり記事の締めくくりに「郵便学者 内藤陽介さん」のコメントを見つけ、注目しました。

2段見出し顔写真付きの大きな扱い(左図)で、記者が聞き取りした「談話」というより本人が直接寄稿した文章のように見えます。5つの段落ごとにGANなりの要約をすると、次のような構成です。

 1、通信手段が多様化しても年賀状はなくならない。
 2、義務的な年賀状が多く「水ぶくれ」状態だったのが今は解消に向かっている。
 3、年賀状は日本人の文化だが、文化は本来無駄の塊である。
 4、年賀状を出す人は尊重すべきであり、攻撃すべきではない。
 5、年賀状は気楽な文化として楽しめばよい。

どの段落の「見解」にも論拠らしいものがなく、段落間のつながりも見えません。要するに何を言いたいのか筋を追うのが困難です。強いて論旨があるとすれば、「年賀状は日本文化の一部なのだから、無駄のように見えても続けていこう」とでも言いたいのでしょうか。このどこに学問研究の成果が反映されているのか、と聞きたくなります。

郵便の学者を名乗る人がこの問題をどう解き明かしてくれるのだろう、とGANは関心を持ったのです。こういう肩書きで登場するのなら、150年近い郵便の歴史を踏まえて「郵便と現代」に切り込んでほしかった。歴史観がすっぽりと抜け落ちているのです。この程度なら、JR新橋駅前とかで勤め帰りのサラリーマンを何人かつかまえればすぐ作れそうです。

そもそも論で言うなら、「郵便学」とはどんな内容で、他の学問とどう関わり合っているのでしょうか。そういう学者がどれほどいて、過去にどんな業績が発表されているのでしょうか。ーーすべて「ナシ」。内藤氏の頭の中にしか存在しない「学問」だからです。『朝日』はそれを調べもせず、肩書きに釣られて見事に引っかかり、恥を天下に曝しました。

現在の日本に郵便切手や郵便制度について地道な専門研究で実績のある人は大勢います。しかし、生業でもない「学者」を名乗るような人は内藤氏を置いて他にありません。「郵便学者」はジョークだと内藤氏が言うのなら、無知な新聞の取材にそう明言すべきでした。以後はマスコミから声がかからず、商売に差し支えることになるかも知れませんが。
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2018年11月28日

35日間の軍事航空レート

41海軍1派.jpg1次昭和切手3種、計25銭貼りの軍事航空郵便はがきです。昭和17年(1942)5月5日に第41海軍軍用郵便所第1派出所(サイゴン)で引き受け、鳥取市に5月25日に着いています。最近のヤフオクで入手しました。

太平洋戦争開戦後、軍事郵便の公式取扱は42年1月15日から始まりました。軍事航空郵便は陸軍では当初から公用に限定して私用は扱わず、海軍は公用・私用とも取り扱いました。しかし、5月6日から航空郵便の全国的な取扱制限が始まると、海軍も私用航空を廃止(42年5月6日付海軍省通牒 官房第2749号)してしまいます。

この間に私用軍事航空料金が値上げされていました。4月1日の内国郵便料改定に合わせ、書状が30銭から50銭に、はがきは15銭から20銭になったのです。公用軍事航空は料金が無料なので、値上げとは無関係でした。

つまり、太平洋戦争中の有料軍事航空郵便は海軍の私用だけで、30銭/15銭レート時代が76日、50銭/20銭レート期はわずか35日間となります。ただし、中国・海南島などの海軍受命商社は例外で、42年5月以降も私用軍事航空の書状使用例数点が知られています。

このはがきは超短期間で終わった50銭/20銭レート期で、しかも私用航空廃止前日=最終日の使用例です。ただ、このはがきに実際に貼られている切手は25銭で、5銭余計です。これは日中戦争期以来長く続いてきた30銭/15銭レート期の類推から「はがきの航空料金は書状の半額」と思い込んでいて、誤認したためと考えられます。

差出人は特務艦「佐多」乗り組みの士官です。佐多は給油艦(タンカー)で、戦前は米サンペドロなどからの石油積み取りに当たっていました。この当時は、太平洋戦争の直接的な目的だったスマトラやボルネオ産石油の内地還送で華やかに活躍中でした。44年3月、佐多は米艦載機によりパラオで撃沈されています。
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2018年10月31日

間島出兵の短期間野戦局

第16野戦局.jpgシベリア出兵時の第16野戦局から発信された大正10年(1921)の年賀状です。読みにくい発信アドレスですが、浦潮(ウラジオ)派遣軍隷下の第13師団歩兵第58連隊第1大隊本部の兵士が「支那三岔口さんたこう」から発信しています。ごく最近のヤフオクで入手しました。

「シベリア出兵時」と書きましたが、実はこのはがきはシベリア出兵とは無関係の「間島出兵」の軍事郵便です。「間島」とは中国吉林省南東端で図們江(豆満江)を隔てて朝鮮咸鏡北道やロシア沿海州と接する国境地域を指し、現在の吉林省延辺朝鮮族自治州に相当します。

間島は日本の植民地を脱して独立を取り戻す朝鮮人ゲリラ部隊の根拠地になっていました。中朝露3国国境の接壌地帯という特殊性から、日本や中国官憲の統制が及びにくかったからです。その間島の中心地・琿春で1920年(大正9)10月2日に朝鮮人馬賊の一団が日本総領事館を襲撃して放火し、在留日本人数十人が殺傷される事件(琿春事件)が起きました。

植民地支配の動揺を恐れる日本政府と陸軍はただちに朝鮮軍に朝鮮独立ゲリラ弾圧のため間島への越境出兵を命じます。シベリア出兵中の浦潮派遣軍、満洲駐屯の関東軍も協力して部隊を派遣しました。10月初めから12月20日まで2ヵ月半ほどのこの軍事作戦が間島出兵と呼ばれます。

浦潮派遣軍は間島出兵に当たり、吉林省三岔口に11月7日から12月18日までの期間、第16野戦局を特設しました。三岔口は中東鉄道東端の綏芬河(ポグラニーチュナヤ)駅南方40キロにある山中の小集落です。さらに南方へ直線150キロの琿春への兵站・前進基地でした。

出兵の主力を担った朝鮮軍には軍事郵便が適用されず、野戦局は開設されていません。部隊からの郵便物は龍井村の間島局や豆満江を渡って朝鮮の慶源、会寧局に運ばれ、有料で扱われました。また関東軍は間島西部の奉天省東辺道地区を示威行軍しただけで、郵便とは無縁です。結局、間島出兵の野戦局は浦潮派遣軍第16局だけの短期開設に終わりました。

実はこのはがきの日付印「10年1月1日」には浦潮派遣軍の全部隊は既に間島全域から撤兵後で、三岔口には野戦局もありませんでした。第16局閉鎖の12月18日以前に差し出され、年賀状として特別取扱を受けて元旦の日付が「先付け」で押されたのです。野戦局が12月中に移動・閉鎖された場合の年賀状では、時にこのような例が起こります。
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2018年10月30日

ゴム製櫛型欧文印の試行

Yokohama 1905.jpg菊4銭を貼ってフランス・ラヴェジネに宛てた絵はがきです。横浜局1905年(明治38)11月23日の黒色欧文印で引き受けられています。ヤフオクで落札し、本日到着しました。

横浜局の櫛型欧文印は日本の欧文印の中では最もありふれた存在ですが、ここでは日付が問題です。櫛型印の使用開始は1906年1月1日からが常識なので、これは1ヵ月以上も早い使用例ということになります。どういうことでしょうか。

この当時、全国の郵便局では丸一型印(東京など一部の大都市の局では丸二型印)が使われていました。これらを改良し、局種や取扱時刻を明確にする形で新形式の日付印の採用が決まりました。円形の印影内に2個の櫛歯状の文様を含むことで「櫛型印」と呼ばれます。

通達上では05年6月20日の逓信省公達第369号で櫛型印22形式の導入が予告されています。続いて、同年11月15日に局種別・使用目的別に06年1月1日から段階的に交付する旨の通牒が出されました。「護謨ゴム欧文日附印は(06年)4月1日の見込」となっています。

Yokohama 1905-2.jpg実際、外国郵便交換局や準交換局、在外局などでのゴム製櫛型欧文印の使用例はいずれも06年4月以降に認められます。しかし05年中に使われた例外があり、横浜局で10月、東京局で12月からのゴム製欧文印の早期使用例が知られています。このはがきに押されたYOKOHAMA印もその一つで、年月日を表す数字に区切りのピリオドがないのが大きな特徴です(左図)。

公表より4、5ヵ月も早い使用は、初体験となるゴム製日付印の本格的導入に先がけての試行だったと見られます。外国郵便物の取扱量が国内最多の横浜、東京局で使って、使い勝手はどうか、どのように摩耗、破損するかなどを調べ、調達数の予測などをしたのでしょう。

実は櫛型印は05年に他でも2種類が使われています。日露戦争中に満洲で開設された軍用通信所の電信印と最初期の関釜連絡航路の船内局印です。これらはいずれも櫛型印としては小型で、硬質印でした。また、横浜、東京局は明治20年代後半に丸一型ゴム印を試用したことでも知られています。

丸一印時代まで印材の主流はずっと硬質印で、水牛角や柘植つげ材が多用されました。丸二印時代以降に研究が進み、櫛型印への形式変更を機に鋳鉄製硬質印とゴム印への全面切り替えが図られます。1910年2月前後の東京局でコルク製と言われる特異な彫刻型による欧文印を試用した例もありました。この時代は当局が日付印の印材に試行錯誤した時期と言えます。

欧文日付印は結局、鋳鉄印、ゴム印ともに一長一短があり、どちらが決定版ともなりませんでした。櫛型時代が終わり、三日月型を経て丸型印と形式が移り、インク浸透式が導入された今日でも両者の併用が続いています。
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2018年09月30日

アッツ米川部隊の通称号

北部83-表.jpg北部83-裏.jpg太平洋戦争の初期、日本軍は米領アリューシャン列島の一部を占領していました。その守備隊の「物語」は、アッツ島の「玉砕」やキスカ島からの奇跡的全員脱出という劇的展開で、今日の私たちにも涙させる強い魅力があります。

しかし、ここほど軍事郵便の収集家・研究者を泣かせる地域もまたありません。アリューシャン撤退後に関係部隊がすべて廃止や改編されたため、当時の部隊記号(通称号)を読み解く資料がまったく失われてしまいました。通称号は陸軍の軍事郵便アドレスとして必ず使われるで、解読できないと部隊名が分かりません。

そんな中で、いくつかあるアッツ部隊の通称号解明を1件だけですが増やすことができました。上図は最近GANが入手したはがきで、発信アドレスに「北海派遣 北部第八十三部隊気付」と書かれています。この通称号「北部83部隊」とは、アッツ守備隊の主力として戦い全滅した「北千島要塞歩兵隊」と分かったのです。

米川浩部隊長.jpg収友の大上養之助氏に頂いていた北方部隊関係資料の内の1冊、『はんの木-北千島戦友会誌』(1989)を最近読み返していて、たまたま気づきました。北千島要塞歩兵隊長だった米川浩中佐のご遺族が寄せた文章にアッツの米川中佐からのはがき(右図)が添えられ、そのアドレスが「北部第八十三部隊」と、上図のはがきと同じなのです。

隊長自身が記しているのですから、北部83部隊の正式名は「北千島要塞歩兵隊」以外にあり得ません。この部隊は1941年(昭和16)7月に札幌で編成され、9月に北千島の占守島別飛に派遣されて駐屯していました。42年10月にアリューシャン作戦に転用されてアッツを占領し、「米川部隊」と通称されました。

ところで、GANのはがきは米川部隊長からのものと少し異なり、「北部83部隊気付」と「気付」が付いています。これは何を意味するのでしょうか。ここでの「気付」は、歩兵隊本隊でなく、歩兵隊の「指揮下に配属された別の部隊」の意味で使われていると考えました。

通信文に「昨年の四月、北鮮の国境より帝都の防空設備の為八月迄出張、東京生活も僅かで又北の一線に飛び出した」「内地よりの便りは上陸以来六ヶ月になるのにまだ何の消息も耳に出来ません」などと書かれています。工兵関係の兵士が43年4月末か5月初めに発信したと推定できます。

公刊戦史『北東方面陸軍作戦<1>』によると、米川部隊への配属部隊はそう多くありません。これは北千島要塞歩兵隊に従ってアッツに進出した「第24要塞工兵隊ノ1小隊」でしょう。小隊長荒井善之助少尉以下、恐らく数十人の小部隊だったと思われます。部隊長の1枚のはがきをキーに、多くのことが分かりました。
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2018年09月27日

左書き櫛型印の出現時期

愛媛・中村.jpg山口.jpg新聞1面トップ記事の横見出しなど日本語を横書きする場合、「戦前=右書き、戦後=左書き」というのが現代では漠然とした常識です。郵便切手や郵便印にもこの「常識」はほぼ通用する、と考えられてきました。

郵便印(櫛型印)の場合、正確にはいつから、何を根拠として局名表記を左書きに変えたのか。必要があって郵便法令や参考書に当たり、意外な事実に気付きました。これについて従来の説明はいずれもおざなり、というよりほとんど触れられていないのです。

まず法令ですが、郵政省は1949年(昭和24)9月30日の告示第177号で、戦時・戦後期に大混乱した通信日付印の形式を櫛型印12、機械印5種類に整理し、図示しています。これにより、局名左書きで時刻入り(C欄県名や★入りを廃止)の「戦後型櫛型印」形式が10月1日から導入されました。

郵便印の専門書として最新刊の『日本郵便印ハンドブック』(2007年、日本郵趣協会)はこの告示177号を挙げて、単に「1949年から使用された」とあるだけです。『郵便消印百科事典』(2007年、鳴美)も「昭和24年から左書きの局名活字の配備が始まる」とし、早期使用例1点(中京局24.2.1)の存在を示すに止まっています。

愛媛・中村-1.jpg山口04.jpgところが、GANの知るところでは実態はもっと複雑です。右上のエンタイアで示すように、局名左書き印は告示のずっと以前から、少なくとも昭和22年(1947)1月に使われています(左図の左=愛媛・中村局)。県名の左書き印ならもっと早く、昭和21年(1946)10月の使用例があります(上図の右=山口局)。分類上では局名、県名とも左書き/右書きの組み合わせで4タイプを考える必要があるのです。

郵政省は局名を左書き表示に改めた理由を説明していません。郵趣協会や鳴美の本も同じで、根拠を求めた形跡すら見えません。GANの調査では常識的に考えられるような米軍占領下で欧米式にならって取り入れたのではありませんでした。戦前の1942年3月に文部省が主唱し、逓信省も含む主要官庁が賛同して決定された「横書統一案要綱」に淵源があります。

「国語ヲ横書ニスル場合ハ左横書ニ統一スルコト」と孔版手書きされた文部省作成の「要綱」原文が現在も国立公文書館に残されています。これが当時すぐに実行されなかった経緯は横道に逸れるので略します。左書き櫛型印の登場は、要綱の精神が敗戦を隔てて実施されていった1例と考えてよいと思います。いずれにせよこれを1949年から始まったように書いている郵趣協会や鳴美の本は事実誤認と言わざるを得ません。

日付印.jpg小包.jpg文部省の要綱案には参考資料として右横書きと左横書きが混在して紛らわしい実例8件が略図で添えられています。そのうち2件がなんと、郵便印でした。これは大変興味深く示唆的な事実です。その図版をご参考までにに掲げておきます。
posted by GANさん at 20:39| Comment(2) | 郵便印 | 更新情報をチェックする

2018年08月31日

消印「活用」で墓穴掘る

観兵式-乃木希典 毛筆葉書 肉筆.pngまた乃木将軍のニセ「ご真筆」カバーに新顔が現れました。左図は8月30日締め切りのヤフオクに「陸軍大将乃木希典肉筆葉書」として出品されたはがきで、3,950円で落札されました。「将軍もの」としては破格の安値で、胡散臭さが匂いすぎたからかも知れません。

これは菊1.5銭切手を貼って牛込に宛てられた絵はがきで、東京局明治39年(1906)4月30日「明治卅七八年戦役陸軍凱旋観兵式紀念」の紫色記念印で引き受けられています。その下に押された到着印と見られる不鮮明な丸一印は、局名は無理ですが日付が辛うじて「39年5月1日ロ便」と読めます。

青山練兵場で行われた観兵式当日、東京市内の全1、2等局では局名表示を「東京」と統一したこの記念印を備え、原則として引き受けたすべての書状・はがきに押捺しました。到着印も含め、日付印の押印が不鮮明なのは珍しくもありません。これら2つとも真正の消印で、これだけだったら何の問題もないのです。

しかし、郵便史上の事実によって、たやすく偽造(変造)品と見破ることができます。この不鮮明な丸一印が到着印だとしたら、牛込局のものであるはずがありません。牛込局を含む東京市内の全1、2等局では5年も前に丸一印の使用を止め、39年1月1日から櫛型印に切り替えているからです。

凱旋観兵式.jpgたまたまGANのコレクションに牛込局の到着印として櫛型印が押された同じ日の使用例がありました。右図にその真正品を示します。左上の偽造品と較べて到着印の形式がまったく異なることをご確認ください。

恐らくニセはがきの方は元もと鉛筆で宛名が書かれていたのでしょう。他出先で急に思い付いた際などよくあることです。偽造者はそれを消しゴムで消し去り、ニセの宛名、文面、将軍サインを筆で上書きしたのだと思います。二つの消印を生かすため宛名を窮屈に右に片寄らせて書いているのが証拠です。

そもそも乃木将軍はこの観兵式には日露戦争に参加した「主役」の軍司令官として参列し、部下将兵を率いて明治天皇の閲兵を受けていたはずです。そんな日に「承ればご安産の由」などとのんきな出産祝いを書くでしょうか。4月30日に投函したのに「(5月)1日吉辰」と日付を遅らすのも不自然です。

GANの目から見れば「希典」のサイン自体が似せてはいますが本物と違います。将軍は消息文でこんな筆太の字は書きませんし、字間・行間もこんなにセコくキチキチには詰めずに本来は伸びやかな筆遣いです。

--議論の余地もある偽筆云々の問題は一応措くとしても、郵便史上のごく初歩的な知見がこんなはがきの存在を一も二もなく否定します。押された消印を「活用」する偽造者のアイデアはよかったのですが、知識不足で墓穴を掘る例を更に増やす結果に終わりました。
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2018年08月29日

剱を見るは別山北峰に如ず

この夏は思い出に残る夏でした。没後50年の父の命日に仐寿の兄と2人で北アルプスの立山に慰霊登山をしてきたからです。父は大正時代末期の大学山岳部員で、遭難死した高名な大島亮吉とは同期だったはず。学生時代に登れなかった剱岳に終生の憧れを抱いていました。立山は全ルートで剱を見て歩けるのです。

今のGANよりもまだ若かった父の「荷物持ち」として、立山周辺には2度同行しました。「あの急な岩尾根が源次郎」「カニの横ばいがよく見えるぞ」「大きく切れてるのが三ノ窓。隣が小窓だな」。兵役時代の重い「ガンキョウ(双眼鏡)」を持っていて、飽かず眺めていた姿が思い出されます。

今回は、後期高齢者もいいとこの2人パーティーなので、健常者の2倍の時間を見込んで行程を組みました。初日は立山黒部アルペンルート出発点の扇沢手前で高級ホテル泊まりです。新宿発最終夜行列車で通路に新聞紙を敷いて寝た学生時代の山行の対極。兄が「宿泊費は全部オレが持つ」とこの年して兄貴風を吹かせるので、乗らない手はないのです。

IMG_43582.jpg最大の難関は3日目、朝6時に一ノ越山荘を立って主峰・雄山(3,003m)へ垂直高300メートルの直登です。ただでさえフレイル(老年性筋力虚弱)なのに加えて極度の労作から狭心症が続発し、特効薬のニトロも効きません。最後の30メートルは見かねた兄がザックを持ってくれ、ゾンビ状態で頂上を踏みました(写真=中央GANの遙か後方左に笠ヶ岳、右側が薬師岳の山塊)。

ガイドブックの3倍、3時間もかかりましたが、いずれにせよ想定内です。ここまで登ればあとは稜線散歩のはず。大汝山(3,015m)、富士ノ折立(2,998m)、真砂岳(2,861m)、別山(2,874m)と、山荘で渡された弁当も開けずにへたり歩きました。別山南峰との双耳峰で縦走路から少しはずれた北峰(2,880m)にたどり着いたのは午後1時のことです。

別山北峰からは眼下の剱沢雪渓を隔てて剱岳がフルオープンで真正面に迫ります。環境省にはナイショなのですが、実は剱と向き合う特徴的な形をした花崗岩の根元に父の分骨を埋納していました。前回は1988年だったので30年ぶりのお参りです。水筒の水で岩を清め、故人の好物だった銀座清月堂の金鍔と水羊羹を供えて二人で手を合わせました。

一ノ越から奇跡的にクッキリ見えた槍・穂高や笠ヶ岳の遠望、別山北峰で雲の切れ間から一瞬見えた剱岳源次郎尾根、そして雪渓を残して神秘な緑青色を湛えた室堂平のミクリガ池が印象に残ります。雷鳥にも再度お目にかかれました。この山域を今後も再訪できるとは思えません。よい山行ができたことを、つくづく感謝しています。
posted by GANさん at 22:13| Comment(2) | 雑観・雑評 | 更新情報をチェックする

2018年07月31日

差出人に還付し倍額徴収


ダルニー未納-2.jpgダルニー付箋.jpg私製絵はがきですが、「清国ダルニー」という片仮名の宛名はともかく、「勅令違反」というような付箋(左図の右側)に驚かされます。意外と珍しい使用例かも知れません。

これは、日露戦争中に福岡県三井郡御井町から大連の碇泊場司令部付き軍医に宛てた軍事郵便です。切手を貼り忘れたまま投函されたので、久留米局ではがき表面に角枠「未納 徴収額 三(筆書)銭」の朱印を押して差出人に戻しています。消印がありませんが、1905年(明治38)春ごろの発信のようです。

これだけならよくある未納郵便に過ぎませんが、このはがきは軍事郵便ならではの特別取扱を受けていました。普通の未納・不足郵便物は宛先に配達し、受取人から料金(不足料金の倍額)を徴収します。しかし、戦地宛て(=有料)軍事郵便に限っては配達せず、差出人に還付して料金の倍額を徴収する規則でした。

それが付箋に筆書されている「勅令第19号第3条」です。この勅令は日露戦争の直前に制定された軍事郵便の最も基本的な法令です。戦地では野戦局員自身が直接受取人を捜すのは極めて困難で、受取人も現金を持ち合わせているとは限りません。互いに手間がかかり過ぎるので「発送せず還付」することになったのでしょう。

明治人は律儀ですから、料金の計算間違いはあっても全くの未納、まして戦地宛ての未納はごく稀だったでしょう。還付されても付箋をはがし、改めて切手を貼って再投函した例も多かったはずです。再投函も捨てられもせずに残ったこのはがきは、勅令第3条の適用を証明する貴重な存在と思います。

宛先の「ダルニー」は現代の大連(正確には中国旅大市の一部)です。帝政ロシアは東清鉄道の支線を大連湾に面した漁村「青泥窪(チンニワ)」に引き込み、商港を築いてダルニーと名付けました。日露戦争でこの地を占領した日本軍は1905年2月11日に大連と改称、このはがきはその改称前後の発信とみられます。
posted by GANさん at 21:47| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする