2019年12月31日

何のため「切手検査」?

切手検査01-2.jpg日頃は日本の郵便について大きな顔でアレコレ知ったかぶりしているGANですが、最近入手したはがきの意味不明なハンコにお手上げです。これご存じの方、どなたか教えてくださ~~い。

ドイツのヒンデンブルグ15プフェニヒ切手を貼りデュッセルドルフ局で1934年7月23日引受の絵はがきです。大阪切手検査02.jpg市東成区生野新家町(現在の生野区林寺の一帯)宛てで、表面に二重丸型紫色「切手検査/〒/東成局」という印(左図)が押されています。

戦前の郵便物に「料金検査」とか「種別検査」「量目検査」といった印はよく見るのですが、「切手検査」は初見でした。切手の何を検査したのか。ホンモノ・ニセモノでしょうか、料金が適正かどうか、でしょうか。ドイツ切手に詳しい収友の新井紀元氏によると、この時期、外国はがきの料金15プフェニヒは適正だということです。

そもそも切手の真偽や料金適合の確認を第一にすべきなのは受け付けた郵便局であり、「問題ないことを確認した上で引き受ける」ことが大原則です。それをさらに逓送ルート上の郵便局、あるいは配達局で再確認して印までも押す――。膨大な時間と手間が掛かり不合理で、あり得ないことです。

では、ある時期の外国来郵便物に限った特別措置か、それとも配達局の東成局がなにか特別な局だったのか。これも、前者は他に例がなく、後者も大阪の平凡な一市内局に過ぎないことから、無関係です。つまり、どう好意的に拡大解釈しても、東成局がこんなハンコを押す理由が見当たらないのです。

貼付切手完全確認_01.jpg貼付切手完全確認_02のコピー.jpg大勢の収友にこれを示して尋ねたところ、「『貼付切手完全確認』というハンコがあったね」と類似例(右図)を指摘されました。しかし、それは切手が完全に貼ってある(=脱落、欠損がない)ことを確認した印です。単に「目視した」に過ぎず、規準に適合するかどうかを「調べた(結果、パスした)」とは意味が違います。

戦後、外国郵便が1946年9月に再開された直後は久しぶりの外国切手が珍しくまぶしく、つい剥ぎ取ってポケットに入れる郵便職員もいたようです。こうした行為を防ぎ「到着時には既に脱落していた」と言い訳もさせないように、東京中央局などの外国郵便交換局でこの印が使われたといわれます。いずれにせよ、東成局は交換局ではありません。

最大の問題は、だれに示すためにこの印を押したのか、でしょう。なぜ東成局だけで使われたのか、もあります。はがきは逓送の最終段階の東成局に到着し、あと手にするのは配達員と受取人だけです。配達員には局内で済ませられるので、これは受取人に対する通知か注意喚起でしょうか。しかし受取人がこの印を見ても、やはり首をひねったことでしょう。

さて、東成局の「切手検査」印はだれに対し、何の目的で押されたのか。知識ある方のご助言をいただければ幸いです。
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2019年11月25日

ハノイ憲兵隊の郵便検閲

河内-1.jpg仏領インドシナ(仏印)に進出していた総合商社の東洋綿花会社河内(ハノイ)支店から名古屋の本社に宛てた航空書状です。1943年(昭和18)3月20日にハノイ局で引き受けられ、東京とタイのバンコクを結ぶ日泰航空便に積まれています。

書状の裏面封じ目には櫛型印に似た「河内日本憲兵隊/検閲済/18.3.20」の青色大型印(下右図)が押されています。表面にも角枠「検閲済」の赤色河内-2.jpg小型印があり、中の「高橋」認印は憲兵隊の検閲担当者と思われます。ハノイで日本軍の検閲を受けたことが分かります。

この「河内憲兵隊検閲印」はずっと昔、『消印とエンタイヤ』誌の時代に報告がありました。しかし、GANには不思議でした。仏印は第2次大戦下でもフランス(ビシー政権)が主権を維持し、日本軍の占領を受けていません。邦人の通信とは言え占領地でもない仏印で、なぜ日本軍が検閲できたのか。

長年の謎だったのが、ごく最近になってようやく解けました。南部仏印と北部仏印、それと仏印同様に主権国家だったタイとの間で日本軍の検閲を認める計3件の現地業務協定があったのです。これまで公表されたことのな検閲協定.jpgかった秘密文書で、アジア歴史資料センター(JACAR)の公開資料から見つかりました(左図)

日本軍は「援蒋ルート遮断」を名目に、太平洋戦争開始前年の1940年から「北部仏印進駐」によりハノイに、そして翌41年の「南部仏印進駐」によってサイゴンにも駐屯していました。しかし、検閲は2次にわたる進駐時にではなく、開戦直後に日本軍が仏印当局に迫って締結した「日仏印共同防衛協定」に基づくものでした。

河内-3.jpg北部仏印での検閲の業務協定は42年6月19日に日本陸軍と仏印総督府の間で締結され、即日実施されました。日本軍と仏印当局はハノイとハイフォン(海防)の両局で郵便と電信の共同検閲を行う、日本人発受の通信はすべて日本側が、仏人や仏印人の通信は仏印側が検閲に当たる、など8項目が定められています。

この協定により、仏印在留邦人が差し出したり受け取る郵便物に限り日本の憲兵が合法的に検閲できることになりました。反対に、日本人以外の郵便物には、敵性あるもの(英、米、蘭側)を除いて日本憲兵も手出しできません。フランスの主権は辛うじて守られた形です。

今回の文書発見により「河内憲兵隊検閲印」は「北部仏印進駐」とは無関係であることが明確になりました。太平洋戦争開戦に関わる軍事的検閲という位置づけになると思います。
posted by GANさん at 04:23| Comment(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

内地兵営で部隊検閲開始

部隊検閲01.jpg部隊検閲04.jpg召集を受け青森市郊外の第8師団歩兵第5聯隊に入隊した兵士からのはがきです。昭和12年(1937)10月7日の青森局機械印で引受けられています。

これだけなら、ありふれた「入営挨拶状」に過ぎませんが、はがき表面の下部に押された角枠「十月七日/中隊長点検済」の紫色スタンプ(「十」「七」は手書き)が目に付きます。差出人の新兵が属する中隊の、いわゆる「部隊検閲」印です。通信文の一部が抹消されているのは、召集の種別を書いたため検閲に引っかかったのかも知れません。

このとき、第5聯隊は青森に「留守隊」を残し、第8師団主力に従って「満州国」北東部の綏陽周辺に駐屯していました。差出人も短期間の補充兵訓練を経て、遠く北満州の駐屯地に派遣されたはずです。時期的に言って日中戦争初期の激戦中なので、検閲が実施されたのはそうした「緊張感」の反映かも知れません。

初期検閲#02.jpg初期検閲#01.jpg似た例をにもう1点示します。やはり第8師団に属する青森県弘前市の部隊からで、上図より1ヵ月早い12年9月5日の弘前局引受印があります。消印に重なって押された検閲印らしい認印は「石岡」と読めます。部隊名が「口澤」か「日津」か分かりませんが、弘前駐屯の歩兵第31聯隊、騎兵第8聯隊、野砲第8聯隊のいずれかではないかと思います。

軍事郵便、あるいは服役(在営)中の兵士からの郵便が検閲を受けたことは、今日では常識のようになっています。ところが意外なことに、この部隊検閲がどのように始まったのか分かっていません。検閲の開始時期や根拠、運用などの事情を明かす軍側の資料が見つかっていないのです。

日露戦争時代には、戦地からの無料軍事郵便でも陸軍は無検閲が原則でした。軍事切手貼りの軍事郵便も検閲されていません。反面、太平洋戦争時代になると、台湾、朝鮮も含む内地(戦場の後方)の兵営にいるだけで、一兵卒から将校、さらには「閣下」と呼ばれる将官の師団長、軍司令官に至るまで例外なく検閲を受けています。

無料軍事郵便の検閲については別に考えるとして、内地部隊の兵士の郵便が検閲を受けるようになったのはいつからか、に関心を持って関連する郵便物を集めてきました。GANの知る限り、在営兵士の発信で部隊検閲を受けた郵便は、に示した2点のはがきが最古の使用例です。第8師団として隷下部隊に検閲を指示していたのかも知れません。

では、内地の部隊検閲は日中戦争の開始によって始まったのでしょうか。37、8年中の「入営挨拶状」はたくさんありますが、大部分は検閲を受けていません。この2点が例外的に早いのです。「戦時下」となっても陸軍省・参謀本部に検閲についての統一方針がなく、部隊ごとの判断に任されていた状況を示唆しています。
posted by GANさん at 18:21| Comment(0) | 郵便検閲 | 更新情報をチェックする

2019年09月30日

内地台湾航路ついに途絶

内台航路途絶.jpg太平洋戦争も最末期の昭和20(1945)年3月20日に徳島県岩倉局が引き受けた台湾宛て書留軍事郵便です。最近のネットオークションで苦戦の末、辛くも落札しました。

この12日後に郵便料金は全面値上げされますが、当時の書留料金として富士桜20銭は適正です。しかし、第1種料金はまだ7銭だったので、3銭乃木×3=9銭では2銭過剰でした。1銭切手の手持ちがなく、局の窓口でも切らしていたのでしょう。敗戦間近の混乱ぶりを示すと言えそうです。

多少の無理をしてでも欲しかったのは、このカバー上辺に小さな付箋が貼られていたからです。ガリ版刷り青色で「本郵便物ハ送達ノ方法無之ニ付キ返戻ス/下関局」とあります。台湾への逓送は不可能になったから返す--。これこそ内台航路途絶を示す証拠資料に他なりません。

この年初頭、米軍にフィリピンを奪還され、次は台湾か沖縄が攻撃されると日本全土が脅えました。大本営は米空母艦隊の来襲を陸海軍共同の航空攻撃で撃退する「天号作戦」を3月1日に立案します。泥縄的に特攻機部隊が編成され、次々と九州南部の航空基地に送り出されました。

そんな折、3月18日に所在を捕捉できない米空母の艦載機によって九州、四国地方が大空襲を受けます。23日に奄美・沖縄にも同様の空襲。4月1日にはついに米軍4個師団が沖縄本島に上陸を始めました。既に制海・制空権とも日本軍にはなく、日本本土と台湾を結ぶ内台航路はここに至って途絶してしまいます。しかし、その事実は国民には隠されていました。

内台航路は元々は大阪商船が神戸-門司-那覇-基隆間に就航し、戦時中は船舶運営会に移管されました。主力船の高千穂丸、富士丸、大和丸が次々と米潜水艦に撃沈された後も、船腹をやりくりして不定期ながら維持していたのですが、航路の海域自体が戦場となっては万事休すです。

この書状は徳島県を出た後、台湾との交換局である下関局で台湾行きの待機を始めた直後に逓送路途絶、やがて付箋を貼られて返戻となったのでしょう。四囲を敵艦に包囲されて外部との交通が完全に遮断され、敗戦必至の情勢に陥った日本の生々しい現実を伝えています。

余談にわたりますが、届かなかった宛先の「武1524部隊」とは第9師団歩兵第7聯隊を表します。第9師団は沖縄防衛のエースとしていったんは沖縄本島に配備されたのですが、台湾に転出させられ無傷で敗戦を迎えました。沖縄の防衛戦力を削いだ大本営の戦略的無能を示す皮肉な資料でもあります。
posted by GANさん at 21:05| Comment(0) | 第2次大戦混乱期 | 更新情報をチェックする

2019年08月31日

済南「野戦」削り臨時印

済南-3.jpg田沢1銭5厘貼りの兵庫県宛て絵はがきを青島守備軍の普通郵便局、いわゆる山東局の済南で大正7(1918)年11月30日に引き受けています(左図)。ごく最近の大手オークションでの入手品です。

済南局の日付印をよく見ると、D欄がブランク(図2)です。押印の加減で櫛歯が出ないのではなく、文字通りの空白となっています。元もとD欄にあった「野戦」の2文字を人為的に削り取ったと思われます。何でこんな手のかかる細工をしたのでしょうか。

この日付の10日ほど前の11月21日、青島守備軍は管内全野戦局の半数に当たる9局を普通郵便局に改定しました。改定されたのは旧ドイツ膠州湾租借地内の青島など7局と中国が交換局として認めた済南、濰県の2局です。残りの半数は野戦局のまま残りました。

済南-1.jpg済南-2.jpg済南-5.jpg済南-4.jpg
     図1        図2         図3         図4

このうち、野戦局でなくなった済南局では、それまで使っていた日付印(図1)で局種が野戦局であることを示すD欄「野戦」の2文字を鑢(やすり)か何かで取り去った(図2)のでしょう。少し乱暴ですが、D欄を通常の櫛型にした新しい印が東京から送られてくるまでの機宜の措置だったとみられます。

済南局でこうした「臨時印」が使われた事実は、収友の加藤秀夫氏が既に2006年の全日展に出展した「青島守備軍管内局の郵便印」で発表しています。野戦局から普通局への切り替えに際してこのような臨時印が使われた例は済南局以外にまだ知られていません。野戦局から軍事局への改称時なら、高密局の例が福田真三氏らによって最近発表されています。

済南局の日付印では、上部印体が局名のみでD欄のない変形印(図3)が昔から有名です。加藤氏はこのD欄空白の臨時印は大正8年6月頃になってD欄なし変形印に切り替えられ、変形印は8月ごろまで使われたと見ておられるようです。山東局データの膨大な独自の集積が基になっています。

GANの調査では済南局でD欄櫛型の正規印(図4)が初めて出現したのは大正8年1月1日の年賀印で、臨時印、変形印と併行して使われています。これらを一連の流れとして確定するためには、さらにデータの積み重ねが必要です。
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2019年07月23日

愛妻にバラした軍事機密

国崎支隊.jpg国崎支隊-3.jpg軍事郵便の通信文には日清戦争以来「軍事機密を漏らしてはならない」という一貫した大原則があります。機密とされる内容は時期によって細部の違いがありますが、通常は部隊の編成と作戦計画(今後の行動予定)が主要なものでした。

満州事変以降は制限事項が格段に増え、通信の発信日と発信地の秘匿が厳禁されました。組織的に徹底させるため、「部隊検閲」が開始されたのがこの頃です。部隊(多くは中隊)ごとに指名された人事担当准尉など下士官が発信前の通信を検閲しました。「〇〇日に無事〇〇に着きました」などという笑えない無意味な表現が増えます。

ところが、この軍事郵便最大のタブーを完全に破った、それも最高機密ダダ漏れという、とんでもないものを最近入手しました。軍事郵便の通信文は長年にわたって読んできましたが、これほどのものは初めて見ました。軍機漏洩の最高に極端な例としてご紹介します。

金山衛城-1.jpg右上図は柳川部隊国崎支隊のある少尉が故郷(地名の一部は加工済み)の妻に書き送った軍事郵便です。達者な万年筆の通信文により、昭和12年(1937)11月1日に朝鮮西海岸の木浦沖に停泊中の船内で書かれたことが分かります。木浦港との連絡船艇で木浦局に運ばれたのでしょう。

「明11月2日当港発、11月5日上海の南、杭州湾北岸の金山衛城に敵前上陸」「上海の戦況膠着なので、背面攻撃で敵を殲滅する命令」「この方面の軍司令官は柳川中将で、指揮下に第6、18、114師団と我が国崎支隊が入る」「国崎支隊は敵前上陸専門部隊なので、今度も第一番に上陸」

便箋5枚にわたって、このように具体的な作戦計画と部隊編成が詳細に綴られています(左図)。最後に「以上は前信と同様軍事機密ですから、‥‥斉藤、楢崎、吉川に回覧のうえ、保管しておいて下さい」。当の妻だけでなく、知人3人にも回覧して知らせてほしいと、完全な「確信犯自覚行為」です。

これほどの軍紀違反が堂々と罷り通ったのは、一にも二にも差出人が将校だったからです。封筒の表面には部隊検閲を通った証明として「小田」の認印がありますが、恐らくは中身を見てもいないメクラ判でしょう。読んでいたら、いくら上官でもチェックせざるを得ません。帝国陸軍の将校と兵卒とでは軍律適用もダブルスタンダードだった悪しき一例です。

なお、この少尉が属する「柳川部隊」は10月14日に新編成されたばかりの第10軍、「国崎支隊」は華北で作戦中の第5師団から引き抜かれた歩兵第9旅団(旅団長・国崎登少将)です。第10軍は少尉の「予告」通りの日に杭州湾逆上陸を果たします。腹背から攻撃を受けた上海の中国軍は潰走し、南京・漢口陥落と続く結果を招きました。戦史上に著名な事実です。
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2019年06月06日

区別符なかった兄島部隊

兄島.jpgアドレス表記が興味深いので、最近のネットオークションで入手した軍事郵便です。発信者は「横須賀局気付/膽6681部隊」の兵士。「膽(胆)」は小笠原諸島を守備した小笠原兵団主力の第109師団を、「6681」部隊は独立歩兵第275大隊を表します。

これは海軍の軍事郵便交換局である「横須賀局気付」を肩書きする海軍式と、「膽6681」という陸軍式の部隊表記が混在した、いわゆる「ハイブリッド型」のアドレスです。このタイプのアドレス表記は、海軍側が軍事郵便業務を担当する地区に配属された陸軍部隊で使われました。

硫黄列島を含む小笠原諸島の防衛は陸軍の担当で第31軍隷下部隊が配備されましたが、その補給は輸送能力のある海軍の責任でした。昭和19年(1944)6月にサイパンが陥落し、そこに司令部を置いていた第31軍が壊滅すると、小笠原では第109師団以下の各守備部隊が31軍を離れて大本営直属の「小笠原兵団」として再編されました。

父島.jpg「興味深い」というのは、通常のハイブリッド型なら必ずある海軍の所在地区別符を持たない、珍しいアドレス表記だからです。例えば、小笠原父島なら「ウ24」、硫黄島なら「ウ27」といった場所を表す「所在地区別符」を通常は通称号の前に記す(右図)のですが、このはがきにはありません。書き忘れでしょうか。

結論から先に言ってしまうと、「この部隊がいた島には区別符がなく、アドレスに書きようがなかった」のでした。独立歩兵第275大隊は昭和20年(1945)1月の編成直後から父島の北に隣接する無人島・兄島(下図=国土地理院「地図globe」から)を守備しました。しかし海軍は戦略的に無価値とみて、この島に区別符を振らなかったのです。

兄島2.jpg区別符のない地点に海軍の陸上部隊が派遣されることもありますが、ほとんどは直後に新しい区別符が振られました。間に合わず、直近の区別符で「代用」したケースもあります。海軍陸上部隊(海軍担任地区の陸軍部隊も含めて)では、移動中の陸戦隊など一部を除きアドレスには必ず所在地区別符が表記されました。

兄島には現に陸軍の守備隊が駐屯したのに、最後まで海軍から所在地区別符をもらえなかったのは事実です。かなり例外的なケースでした。海軍にとって陸軍は所詮は「他人」。陸軍の小部隊1隊だけが駐屯する小島など無視し、「海軍公報」にいちいち登載して公布するなどの面倒な手続はスルーしても、とがめる人がいたでしょうか。しかも、実務上の支障はほとんどなかったはずです。

軍事郵便が集中する交換局の横須賀局は、「膽」の1字だけを目印にすべて父島に置かれた海軍の第17軍用郵便所に送り込んでいたでしょう。17郵便所では「6681」部隊とあれば兄島にあるただ一つの部隊とすぐ分かりました。

要するに、所在地区別符がなくても、郵便物としての区分・逓送に混乱しなかったはずです。非常に特異なアドレスですが、それが生まれた背景にはこのような事情があったと思われます。
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2019年05月12日

御大喪と御大典の臨時局

武蔵横山.jpg元号が替わるの替わったのというアベ政権脚本、テレビ局主演のバカ騒ぎもようやく一段落したようです。「天皇崩御を伴わない御代みよ替わり(=改元)だから盛り上がった」。コメンテータの賢しら顔を眺めて、前々回には両方で臨時局の開設があったことを思い出しました。

前々回、つまり大正から昭和への御代替わりは、大正15年(1926)12月25日のことでした。亡くなった大正天皇の葬儀(御大喪)は昭和2年(1927)2月8日に東京で、践祚せんそした昭和天皇の即位礼(御大典)は昭和3年11月10日に京都で行われました。

大正天皇の陵墓は東京府南多摩郡横山村(現在の八王子市長房町)に新造されました。当局は造営や式典準備、参列者のため昭和2年1月23日に武蔵横山局を臨時開設し(上図)、2月15日限りで廃止しました。当時の浅川局の集配区管内で、今日の八王子横山町局とは全く無関係の局です。

武蔵横山局は2等局でしたが集配はせず、郵便物は窓口引受だけ扱いました。若干の官白が残されていますが、実逓便は聞いたこともありません。2月7、8日だけ東京、横浜との間に限定した速達取扱も行われました。もし、このエンタイアが世に出たら「超」が2、3個は付く大珍品でしょう。

京都御所内.jpg一方の御大典は大正天皇に続く昭和天皇第2皇女の服喪があって少し遅れました。昭和3年11月10日に京都市上京区の京都御所で即位礼、続いて14、15日に大嘗祭が行われています。このため御所内に11月1日から(左図)11月30日まで京都御所内局が臨時開設されました。

京都御所内局は武蔵横山局と同様に2等局で集配は扱いませんでした。開局期間中、京都市内、東京、神戸との間で速達も引き受けました。こちらは武蔵横山局のわずか2日間限りと異なり1ヵ月と比較的長いのですが、やはり速達便はまだ収集界に出現していないようです。

京都御所内局の官白はよく見る気がしますが、ほとんどは11月10日の大礼記念特印です。当時のコレクターの興味は今日と違い、大きくて華やかな特印の方にあったのかも知れません。わざわざ局を訪れても黒活印の押印を求めた人は少なかったようです。御大喪では特印は使用されませんでした。

両局の印影を比べると、時刻表示が武蔵横山局では午前0-9時のY3型なのに、京都御所内局は午前0-7時のY1型と異なっているのに気づきます。Y3型の時刻表示は午前9時から始まる3時間刻み、Y1型は午前7時からの1時間刻みです。この間に2時間刻みのY2型もあります。

これは武蔵横山局の集配を受け持つ浅川局が3等局なのに対し、京都御所内局の京都局は1等局と等級格差があるためかも知れません。つまり、その局自体は同じ2等局でも、臨時特設局の時間刻みは受け持ち集配局に倣ならうのではないかという推測です。

武蔵横山、京都御所内局ともに郵便以外に電報も扱いました。配達は局構内などごく狭い範囲だけと思われ、これらの局の日付印が押された電報送達紙の出現もまた絶望的です。為替・貯金業務は武蔵横山局では扱いましたが、京都御所内局では扱っていません。告示にはあるのですが、臨時陵墓局で為替を組んだり貯金する人など実際にいたのでしょうか。

武蔵横山 東浅川分室.jpg【追記】(2019.5.29) 収友の田中寛氏から「武蔵横山局には東浅川分室もあるよ」と教えていただき、驚きました。印影(右図)もご提供いただいたので、ご紹介します。御大喪当日2日間だけの開設だったそうです。あわてて逓信公報を見直してみましたが、この分室の開廃についての告示・通達類は見当たりませんでした。臨時特設の分室や出張所については地方逓信局報に掲載するにとどめていたようです。機会があれば当時の東京逓信局報で確認してみたいと思います。いずれにしても2日限りの臨時局分室、まことに稀少な存在です。

GANの調査では、この分室は浅川駅(現在の高尾駅)の1.1㎞東寄りに設けられた東浅川仮停車場構内に開設されたと思います。御大喪当日、大正天皇の遺骸は新宿御苑内に設けられた仮停車場から特別列車で中央線に乗り入れ、東浅川仮停車場に運ばれました。仮停車場からは甲州街道を横切る新設の広い道路を陵墓まで自動車の車列で進んだのでしょう。仮停車場自体は既に廃止されましたが、駅前広場は八王子市東浅川保健福祉センターの第2駐車場として利用されています。
posted by GANさん at 15:24| Comment(0) | 郵便印 | 更新情報をチェックする

2019年04月21日

玉砕部隊に宛てたはがき

クェゼリン-2.jpg太平洋戦争中に南海の孤島や大陸奥地で敵軍に包囲され、援軍のないまま全滅した(当時は「玉砕」と美化して発表された)部隊は数知れません。そうとは知らない家郷から全滅部隊の兵士に宛てられた軍事郵便はどう取り扱われたでしょうか。一つの回答を与えるはがきがあります。

このはがき(左上図)は2銭楠公に1銭女工を加貼りした3銭の内国料金で昭和19(1944)年9月25日に埼玉県熊谷局で引き受けられた軍事郵便です。宛名の「ウ90」は南洋マーシャル群島クェゼリン環礁のクェゼリン島、「ウ50」は海軍の第61警備隊を表します。「うらら丸」は海軍省の『徴傭船舶名簿』によると、阿波国共同汽船会社の貨客船(407t)で、41(昭和16)年11月に海軍に徴用されました。

付箋があり、横須賀局軍事郵便課で「軍当局ノ指示ニ依リ返戻」と印刷されています(左下図)。結局このはがきは戦地には渡らず、熊谷-横須賀間を往復しただけに終わったわけですが、差出人はクェゼリン-1.jpg「軍当局ノ指示」とは何か、なぜ戻されてきたのか、理由が見当も付かなかったでしょう。

日本領土の最東部に当たるクェゼリン環礁には開戦以前から太平洋を進攻してくる(はずだった)米艦隊を迎え撃つ海軍の潜水艦基地などが建設されていました。実際、開戦劈頭のハワイ真珠湾攻撃に加わった第6艦隊の潜水艦部隊はここから出撃しています。

クェゼリンには基地施設を守るため海軍第61警備隊や、後になって陸軍も海上機動第一旅団、南洋第一支隊のそれぞれ一部を配置します。中部太平洋方面最前線の中枢基地として整備されていました。

米軍は44年1月下旬からクェゼリンに空襲と艦砲射撃を加え、2月2日から上陸を始めました。6日にクェゼリンと、同環礁内で飛行場のあるルオットの日本軍は全滅してしまいます。このはがきの宛名「うらら丸」は「44年1月30日沈没」と記録されています。61警備隊に所属していて、環礁内で米軍上陸直前の空襲を受けて撃沈されたのでしょう。

大本営は2月25日になって初めてクェゼリン、ルオットの陸海軍守備隊の「玉砕」を公表しました。一般国民もクェゼリンの兵士が全滅したことを知るわけですが、軍事郵便で「ウ90」と表示されるのがその場所とまではだれも知りません。知らないまま差し出されたこのはがきの宛先は、実は半年以上前に部隊が全滅してしまっていたクェゼリンだったのです。

これが日中戦争までだったら、「名宛人戦死」という付箋付きで戦地から返戻されていました。太平洋戦争で当局は「戦死」は国民の戦意高揚に有害と考えたようで、禁句でした。このはがきは、まして全滅部隊宛てなので、戦地に送るまでもなく軍事郵便交換局の横須賀局からそのまま戻されています。

この付箋は「名宛地ノ部隊玉砕セルニ依リ」と言わず、単に「軍当局ノ指示ニ依リ」としか説明していない点が不親切です。いかにも「大本営発表」で悪名高かった軍部の独善的な秘密主義を表しているようです。名宛人がクェゼリンで戦死したと聞かされ、はがきが届かなかった真の理由を差出人が覚ったのは戦後になってのことだったと思われます。
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2019年03月31日

御殿場線鉄郵データ更新

御殿場線01.jpg御殿場線02.jpg静岡県駿東郡関係の鉄道郵便エンタイアを整理していて、更新データを持っていたことに気づきました。右図の楠公2銭はがきは「国府津沼津間 昭和17年(1942)8月17日 下り1便」の鉄郵印で引き受け、佐世保に宛てられています。

『てつゆう=梶原ノート=』(2014年、鳴美)で確認したところ、最新データは17年5月31日(下二)となっていました。わずかではありますが、2ヵ月半ほど更新することになります。もしかして、鉄郵専門家の間では既にもっと新しいデータが共有されていたのでしたら、ゴメンナサイですが。

発信者の住所「深良村震橋(ふからむら・ゆるぎはし)」は現在は裾野市の一部になっています。御殿場駅から1つ沼津寄りの佐野駅(現在の裾野駅)が最寄り駅なので、このはがきは佐野駅構内の郵便箱に投函されたのでしょう。佐野駅で下り列車の郵便車に乗務した郵便係員が取り集めて引き受け押印し、さらに沼津駅で下り神戸方面行き郵便車に積み替えられ運ばれたと考えられます。

御殿場線概念図.jpg『てつゆう=梶原ノート=』は国府津沼津間の鉄道郵便を東海道線の区間便としていますが、誤りです。この線路は熱海回りの東海道線ではなく、箱根山の裏(西)側に大回りする御殿場線だからです(左の概念図参照)。横須賀線や身延線などと同様に独立した鉄道郵便線路として扱われるべきです。

もっとも、この本の編集者の誤解にも「理解できる」点があるのです。東海道線は創業以来ずっと、国府津沼津間を御殿場回りするルートでした。が、1934年(昭和9)12月1日に箱根外輪山の南東部山裾に丹那トンネルが開通し、熱海経由の国府津沼津間が東海道本線に変更されました。哀れ、御殿場ルートはローカル「御殿場線」に転落してしまいます。

以上を踏まえてさらに『てつゆう=梶原ノート=』を見ると、不可解なデータが載っていました。国府津沼津間で最古の「昭和3年6月28日(上二)」という他に突出して早い日付があります。この時期は御殿場回りの東海道線しかなく、東海道線とすればこんな区間便は無用でした。「昭和13年」などの誤りではないでしょうか。

【追記】(2019.4.10) 「逓信公報」で調べたら、やはり昭和9年11月28日付の告知欄に「12月1日から御殿場線に国府津沼津間鉄道3等郵便線路を新設する」趣旨の記事が掲載されていました。国府津沼津間という鉄道郵便線路は東海道線のルート変更と同時に誕生したことが分かります。これで、「昭和3年」はあり得ないデータと断定できます。
posted by GANさん at 03:40| Comment(0) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする