2018年02月28日

支那駐屯軍の秘密軍郵

支那駐屯軍無料-表面.jpg支那駐屯軍無料-裏面.jpg1900年(明治33)の北清事変以来、日本軍は中国の天津、北京など華北の一部に部隊を駐屯させ続けました。「支那駐屯軍」(俗に「天津軍」とも)と呼ばれるその部隊の一部が1937年(昭和12)7月に盧溝橋事件を起こし、日中戦争の引き金となった事実はよく知られています。

支那駐屯軍に対する無料軍事郵便は、日中戦争に伴って37年8月2日に初めて適用された(逓信省告示第2226号)とこれまで考えられています。しかし、実際にはそれより1年早い36年(昭和11)夏から満州の関東軍と同様に無料軍事郵便が秘密裏に適用されていたことが最近の軍事郵便研究から明らかになってきました。

上図は支那駐屯軍司令部(天津)の兵士が昭和11年夏に発信した無料扱いの暑中見舞いはがきです。このはがきは駐屯軍の定期連絡兵によって天津から山海関まで鉄道で持ち運ばれたと考えられます。山海関には関東軍の軍事郵便取扱所(奉天中央局第7分室)が開設されていました。分室で引き受け、関東軍本来の軍事郵便に紛れ込ませて逓送ルートに乗ったのでしょう。

12年賀状-2.jpg12年賀状-1.jpgこの時期、支那駐屯軍には無料軍事郵便は適用されていないので、本来は1銭5厘切手を貼って有料扱いにしなければなりません。しかし、まったく同じ取り扱いがこの後の昭和12年(1937)年賀状(右図、皇紀2597年は1937年)でも見られることから意図的・組織的に行われたことが明らかです。宛先の内地局で未納料金を徴収された形跡はなく、逓信当局もこれら「不法郵便物」を黙認していたと推定されます。

この事実にGANは着目して、天津や北京の日本在外局が廃止された1923年(大正12)1月以降の支那駐屯軍からの郵便物を時系列で集めてみました。逓送ルートの明らかな変化があることが分かりました。初めは陸軍運輸部の定期連絡船などで大連や門司、神戸局まで運ばれ、普通有料便として発信されています。一部は中国切手を貼って中国郵政を利用したものも見られます。

1933年(昭和8)2月に関東軍が山海関軍事郵便取扱所を開設すると、少量ながら「奉天/7」「奉天中央/7」(共に山海関所在)の取扱所印で引き受けた無料軍事郵便が混じるようになります。そして36年夏からはおおっぴらにスタンプレス(切手も消印もなし)の無料軍事郵便が増加します。これは36年4月から支那駐屯軍が急速に兵力を拡張していたこと、前年12月から関東軍が軍事郵便への消印を省略したことと深い関係があると思われます。

このはがきにはリターンアドレスとして「神戸運輸部気付」が表記されています。内地から支那駐屯軍に宛てた郵便は陸軍運輸部神戸出張所が事実上の「交換局」だったことが示唆されます。運輸部では神戸局から配達された郵便物を郵袋にまとめて中国塘沽へ陸軍定期連絡船で運び、塘沽に着くと駐屯軍自身が軍用トラックで天津・北京へ輸送したのではないかと思います。

いずれにしろ、これらのエンタイアが存在することは、陸軍省と逓信省間で何らかの「裏協定」があったことを強く示しています。その流れの中で37年4月に事実上の野戦局として「支那駐屯軍軍用郵便所」が開設されたのでしょう。文書資料は未発見ですが、日中戦争以前から告示もないまま支那駐屯軍の無料軍事郵便が秘密裏に実施されていったことが分かります。
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2018年02月22日

ニセ泰緬郵便に310万円

s615839.jpg大手オークションハウス、ゲルトナーC.GAERTNER(ドイツ)の第39回「アジア」部門競売が2月19日にあり、いわゆる「泰緬鉄道郵便」印のあるはがき1枚が16,500ユーロで落札されました。手数料と消費税も加えて日本円に換算すると、ざっくり310万円。大変な高値です。

s615839-1.jpgこの出品物は太平洋戦争中に日本軍が建設した泰緬鉄道沿線に開設された「軍事郵便所」で使われたと称するマライ占領正刷4セントはがきです(右上図。下はその裏面)。カタログは「"死の鉄道"軍事郵便所4局の郵便印押し」「展覧会用に目を見張る逸品」と全文ゴチック活字で説明する煽りぶり。参考値も8,000ユーロと大変強気につけられていました。

落札者には大変お気の毒ですが、これは郵便史に無知なコレクター向けに作られたニセモノFAKEです。2点の致命的な問題があります。第1点はカタログが惹句にしている「4個もの軍事郵便所日付印」自体が郵便取扱の実務上はもちろん、郵便史的にもあり得ないものです。第2点は最高の軍事機密だった泰緬鉄道の路線と列車そのものの写真が絵葉書として使われていることです。

カタログの説明によると、はがきはプランカシー郵便所で1945年1月16日に引き受け、日本軍占領下マライのペナンに宛てられています。コンコイター、カンチャナブリ、ニーケの3郵便所でそれぞれ1月27日、2月6日、2月15日の中継印が押されている、とされています。しかし、これは地理的に大変おかしな「迷走経路」なのです。

泰緬鉄道路線図.jpg左の地図をご覧下さい。これは後述する土屋理義氏の本から引用したものです。プランカシーからマライに向かうには鉄道を地図の下方に南下しなければなりません。しかし、中継印のコンコイターは逆に北上してビルマ方面に向かう沿線にあります。何らかの理由で誤積載してしまったのかも知れず、次は「正しく」南下してカンチャナブリ印が押されました。しかし、その次に何と、再度「誤積載」し、今度は国境のニーケまで行ったというのです。

既存の南方占領切手収集家すべてが見過ごしていることですが、鉄道駅と郵便局とは連携はしていても全く別の存在です。鉄道に載せた郵便物に沿線局の中継印を押すには、列車から郵便物を降ろして郵便局に運び込み、郵袋を開けて検査、区分、押印をした上で再び郵袋に収め、駅まで運んで再び列車に載せなければなりません。

鉄道や郵便職員には大変大きな負担なので、郵便物は事前に区分して郵袋に分け収め、目的地の至近駅まで直送するのが大原則です。国境を越えたり規格(ゲージ=軌間)の異なる鉄道をまたぐ場合は例外で、積み替え、郵袋の開閉、押印が行われることもあります。このはがきの中継印と称する3印は存在自体が矛盾であって、説明がつきません。「紛来印」かも知れない? ナンセンスです。

裏面の写真はカタログが「高架橋上の線路を走る実際の列車」と説明しています。確かに、木材を組み上げて応急速成された泰緬鉄道の橋のように見えます。しかし、当時としては異常に鮮明すぎる写真に客車が写り込んでいます。泰緬鉄道には旅客を運ぶ目的など初めからなく、次期インパール作戦のための武器弾薬や食糧の輸送さえ意のままになりませんでした。実際に運行したのは貨車だけで、客車が走るのは戦後になってからのことです。このはがきは戦後撮影された写真に戦前の日付印が押されているのです。

泰緬鉄道とは、日本軍が独立国のタイ政府と苦心して協定を結んでまで相手国領土内に建設した極秘の作戦鉄道でした。それが戦争の最中に絵葉書写真となって、いくつもの郵便局の間をすり抜けることなど出来るものでしょうか? はがき表面にはプランカシー郵便所の大型角枠検閲印が押されています。サインを入れて盲判を押す検閲官がいたのでしょうか? 日本軍とか「ケンペー(憲兵)」など屁とも思わない、ずいぶん大胆不敵な行為ですね。

実は、このはがきは土屋理義氏著『泰緬鉄道の「軍事郵便所」郵便』(日本郵趣協会、2005年)の中で同氏が実際に調査したエンタイアとして「P-9」のナンバーで紹介し(p.77)、他の泰緬鉄道エンタイアと共にいわばお墨付きを与えていました。土屋氏は南方占領切手の権威として自他共に許し、「泰緬鉄道軍事郵便所のエンタイアはすべて真正品」と主張する人物です。

土屋氏はこの本を国際的に流通させることに配慮したのでしょう。国内の郵趣出版物としては珍しく、英文併記もしていました。効果は確かで実際に外国で広く引用されており、今回のゲルトナーの競売にも多大の影響を与えたはずです。少なくとも超々高額で取引されたこの出品物への疑義に対し、土屋氏には誠実に答える義務があるのではないでしょうか。
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2018年02月13日

預金者に優しい集金貯金

集金貯金-1.jpg集金郵便貯金の通帳を最近のヤフオクで入手しました。「集金貯金票」と呼ばれるシンデレラスタンプの一種、ミツバチを描いた額面入り証紙を使ったことで知られています。ただ、運用の実態はあまり分かっていませんでした。

この通帳は印刷局製の縦型帳面式8ページで、表紙に紫色で富士山が描かれています。1941年(昭和16)8月に東舞鶴局を受持局として発行され、記号番号は「集ちい」、原簿所管庁は京都貯金支局です。予定額100円に対して44年1月までの32回で計101円が預け入れられ、利子86銭が付いています。

集金貯金の歴史は比較的浅く、1938年(昭和13)6月21日から実施されました。制度的には明治以来の逓信省令「郵便貯金規則」に「集金貯金」の項目を付け加える改正をして発足させています。従来からあった積立郵便貯金とは別に、さらに「預金者ファースト」に弾力化させた制度でした。

集金貯金-2.jpg集金貯金は毎月1回、郵便局の職員が預金者の自宅や職場などを巡回して集金する点で積立貯金と似ています。が、積立貯金は預金額が毎回一定ですが、集金貯金には定額がありません。2、3、5、7、10、20、30円のどれかなら毎回ごとに自由でした。

実際、この通帳では2、3、30円と3額面の貯金票(正式には「預入金額票」)が使われています(右図)。預金者の都合で集金日以外に局の窓口で預け入れてもよく、さらに複数月分の前納も後納も可能と自在でした。

この集金貯金制度の大きな特徴が、預入額を証明するために貯金票を貼ったことでした。貯金票には7種の額面があり、うち20、30円の高額2種は1940年7月の追加発行です。貯金票の抹消には集金人印を使ったので、為替貯金用櫛型印は見られません。

制度導入後、一部の地方逓信局から「証紙より金額押印方式の方が簡単」との提案も出ましたが、本省貯金局は「制度設計の際に検討したが、労力もコストもほぼ同じ」と退けています。集金人は出先で不定額の現金をやり取りするわけですから、多種の金額印を用意して押印するよりも携帯した貯金票を貼る方が誤りがより少なかったと思えます。

御奉公.jpg官業で、既に積立貯金制度もあるのに、これほどに預金者奉仕の新制度を導入した理由は何でしょうか。前年7月に始まった日中戦争の厳しい情勢が背景にあったはずです。中国国民政府の首都・南京を占領しても相手の抗戦意思はくじけず、徐州作戦で国府軍主力を包囲しますが殲滅はできませんでした。外交的収拾にも行き詰まり、2年目を迎える戦況は泥沼化が始まっていました。

当局には戦争遂行のため、貯金を勧めて庶民の零細な資金をかき集め、膨れ上がる軍事費を支える必要がありました。同時に、生産が後回しとなる生活用品不足から起こるインフレの予防効果も期待されたでしょう。通帳の裏表紙中央には「貯金は誰も出来る御奉公」とさりげなく刷り込まれています(左図)。わずか一行ですが、この新制度の性格をすべて物語っているようにも見えます。

預金者にとっては融通の利くとても便利な制度ですが、単独事業としては集金コストがかさみ、赤字になりそうです。太平洋戦争末期には戦場や軍需工場にすべての人手を割かれ、継続困難に陥っただろうと思います。しかし、制度の一時停止や廃止の通達などは見当たりません。事実上の運用停止状態のまま戦後を迎え、制度整理の中でひっそりと廃止されたのではないでしょうか。
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2018年01月31日

満州国省名入り印の悲運

間島1-1.jpg「満州国」の地方行政組織の変更と満華通郵協定の効果が郵便物上の日付印の変化として表れた典型例をごく最近そろえることができました。

右図の書状と左下図のはがきは共に間島省の省都・延吉から差し出されていて、いわゆる「日本製丸二型印」が押されています。年号は共に康徳で、右は「間島省/元年(1934=昭和9)12月24日/延吉」、下は「間島/2年(1935=昭和10)1月19日/延吉」です。つまり、上図の日付印が1ヵ月足らずで下図のように変化したことになります。
間島2-1.jpg
当初は「東北3省」と呼ばれた奉天、吉林、黒竜江省で発足した満州国は、1934年12月1日に地方行政組織の全面改編を実施しました。以後、崩壊までの13年間に複雑な離合集散を何回も繰り返して混乱を極める、その第1回目です。新たな黒河、龍江、濱江、三江、吉林、間島、奉天、安東、錦州、熱河省と興安省が生まれ、11省体制となりました(興安4省問題は省略)。

初めからの吉林、奉天省と中途で成立した熱河、興安省とを除く黒河以下の新設7省にも「○○省」と上部に表示した従来型の「省名入り日付印」が12月1日から導入されました。7省管内の全局が一斉に使用開始できたかはよく分かっていません。しかも、この日付印はすぐ廃止され、わずか40日間の短命に終わっています。

地方組織改編直前の34年11月23日、「満州国」と中国(中華民国)との間で「満華通郵協定」がようやく妥結し、35年1月10日からの両国間の郵便交換再開が正式に決まりました。協定中には「現行の(満州国が定めた)省名のある日付印は使用しない」という趣旨の1項があり、満州国は通郵実施を前に、急遽「省」字のない日付印への切り替えを決めました。

間島2-2.jpg間島1-2.jpg突然のことだったので、恐らく多くの局所では新「省字無し日付印」の配給が間に合わなかっただろうと思われます。その場合、一部の局では旧印の上部印体(活字)の「省」字を鑿や鈩のようなもので削り取って使いました。間島(省)朝陽川、竜江(省)富祐、興安(省)海拉爾局などの例が報告されています。

はがきに押された「省」削り延吉局印(上図右)もこうして生まれたものです。仮に1月末までに新たに調製した正規の「省字無し日付印」が支給されたとすると、「省」削り印はわずか20日間程度の超短命な臨時印だったことになります。書状の「省入り」印(上図左)と並べると、「削り印」の削りっぷりがよく分かります。削り漏れたごく一部が残っているのが見えます。

この丸二型「省字無し日付印」も「大きすぎて使いにくい」という現場の声で、翌36年(昭和11)から日本と同じ櫛型印に切り替えられてしまいます。日本製丸二型印最後の1年強のドサクサぶりは、新国家誕生のそれを見事に反映した結果となりました。

本稿の執筆にあたり、共に満州国切手と郵便史の専門家である織田三郎氏の「満州国の省名入り丸二型日付印について」(『関西郵趣』、1978年)と穂坂尚徳氏の「『満州国』の消印と使用状況」(『日本郵趣百科年鑑85』、1985年)を参考にさせていただきました。
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2018年01月20日

臺中丸船内軍用電信取扱所

台中丸電報.pngアジア歴史資料センター(JACAR)の日露戦争関係資料を調べていて、丸一型「臺中丸」という日付印が押された数通の電報群を見つけました。これまで報告されていないタイプの電信印のようです。

この印はすべて聯合艦隊隷下の第2艦隊司令長官宛て電報送達紙(左図)に受信印として押されています。丸一型上部は単に「臺中丸」だけで国名なし、日付下部に「電信」と入っています(下図)。下部「電信」は電信専業局所を示し、局種は電信取扱所と思われます。時期はすべて明治38年(1905)6月中です。

38年5月27日の日本海海戦で聯合艦隊はロシアのバルチック艦隊を壊滅させましたが、一部のロシア艦艇が中国の上海、厦門などに逃れました。追跡のため第2艦隊が臨時編成した「南遣枝隊」からの報告電です。ほとんどが澎湖局発信の官報で、朝鮮・鎮海湾の松真取扱所か台中丸が受信しています。

丸一型台中丸.png海軍軍令部編『極秘 明治三十七八年海戦史』によると、海軍は日露戦争中、対馬や朝鮮南西岸を中心に29個所の軍用電信取扱所を特設しました。このうち臺中丸取扱所だけが「船舶局」で、臺中丸が聯合艦隊の根拠地となった鎮海湾に進出した38年3月10日に開設されています。臺中丸取扱所の他はすべて「陸上局」なので、この取扱所の特異さが際立ちます。

臺中丸はもと大阪商船の優秀な貨客船(3,300t)です。海軍がチャーターし、俊足を生かして仮装巡洋艦としました。旅順陥落後は聯合艦隊直属の事実上の通信船として改装・運用されたようで、第1艦船郵便所も開設されています。電信取扱所の閉鎖時期は明記されていませんが、臺中丸の解傭が近づいて鎮海湾を去った38年7月29日と見られます。

丸一印は上欄を「国名/局名」と2段で表示するのが大原則ですが、国名がなく局名だけ表示したタイプ(国名省略型)もわずかながら知られています。郵便印としては京都と小笠原島が昔から有名でした。丸一印専集の成田真之氏は電信印で京都、神戸、兵庫、岡山と劔崎、大本営の単片上印影を発表しています(ウェブサイト「趣味の消印」)。

これらの局所が国名表示を欠く理由は色々と考えられますが、いずれも陸上の定置局です。しかし、臺中丸取扱所は船舶内の移動局なので国名がありません。丸一印時代の移動局は国名に代えて「船内郵便」「鉄道郵便」や、野戦局印では軍名を表示しました。これらのどれとも異なる臺中丸取扱所は「表示のしようがない」唯一例だったと思います。

臺中丸を含む海軍の29軍用電信取扱所の開廃について、『逓信公報』には全く記事が掲載されていません。同様に、遠藤英男、成田真之両氏の力作『電信・電話専業局所リスト』(2004年)にもありません。軍用機関として終始し、公衆通信に開放されることがなかったため、共に採録しなかったと考えられます。

これまで日本の無線電信局所の開設は海岸局の銚子無線電信局と船舶局の天洋丸無線電信局の明治41年5月16日が最初とされてきました。しかし、実際にはそれより3年も前の丸一印時代に船舶内無線電信取扱所が開設されていたのです。新たな知見が得られました。
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2017年12月29日

返信料を前払いした電報

前納電報-1.jpg前納電報-2.jpg「返信料前納電報」というものがあったことを、ごく最近にヤフオクで現物を入手して初めて知りました。すぐに返事をもらいたい電報の発信者が、受信者からの返信電報代を先に立て替え払いしておく制度のようです。

これは明治39年(1906)11月6日に岩手県西閉伊郡遠野局管内の某氏から同県稗貫郡花巻局管内の「ヤマキテン」に宛て発信された電報に対する返信電報の料金として20銭が前納されていることを示す花巻局作成の證書(上図左)です。證書の裏面(上図右)はその返信電報用の賴信紙(未使用)になっています。往復はがきの返信部と似た性格と言えそうです。

この證書には発行した花巻局の黒色局印と朱角印が押され、さらに電信事務用の下部空欄丸一印も上下に押されています。下部ミシン線の下は局に残される発行控えと思われます。裏面は「返信料前納電報返信用紙」とタイトルがあり、賴信紙として使えるようになっています。未使用に終わったため印影類は何もありません。表裏とも青色で印刷されています。

證書の面には「受領者の心得」として使用方法が詳しく記されています。30日以内ならどこの局所からでも元の発信者(遠野)宛てに無料で電報を発信できること、実際の電報料が20銭をオーバーした場合は差額分を郵便切手貼付で支払うこと、證書を使わない場合は60日以内に元の発信局(遠野局)に請求すれば料金が還付されること、などです。

元の発信者とは無関係な第三者宛ての電報に流用できるのかどうか明記はされていませんが、「いつ、どこからの電報に対する返信」と記入されているので、事実上禁止されていたのでしょう。前納された20銭は、同一市町村以外に宛てる「市外電報基本料金」(15字以内)に相当します。

花巻局では元の電報の送達紙を配達する電信事務封筒にこの證書を同封して受信人に渡したと考えられます。しかし、受信人はこの證書を利用せず、しかも前納料金の還付請求もしませんでした。ただでさえ返信料前納電報の利用が少なかったのに加え、還付請求もしなかったために證書が市中に残りました。極めて希少な例ではないかと思います。

電報を打った遠野の某氏は大至急返事をもらいたかったので、この制度を利用したに違いありません。相手のその焦慮する心を知ってか知らいでか、花巻の「ヤマキテン」は返事をネグレクトしてしまいました--。この「続編」はどうなったのか、ちょっぴり知りたい気もします。
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2017年12月16日

奉天キャッスル局欧文印

大北門.jpg満州の奉天局大北門出張所で1908年(明治41)に引き受けられたドイツ宛てのはがきで、「MOUKDEN.C」という見慣れない欧文印が押されています。関西の大手オークションで落札し、ごく最近到着しました。

データを詳しく言うと、菊2銭2枚貼りを「奉天・大北門 41.7.6」で抹消し、さらに欧文印の「MOUKDEN.C 6.7.08」と「CHANGCHUN-S 7.7.08」が押されています。「CHANGCHUN-S」は長春駅(STATION)と理解されています。しかし「MOUKDEN(奉天) .C」がどこの局か分かりません。

MOUKDEN.C.jpg満州の欧文印については、 JOHN MOSHER『Japanese Post Office in China and Manchuria』(1978)や西野茂雄『外信印ハンドブック』(1985)が参考になります。しかし、両書ともMOUKDEN-Sは載っているのですが、MOUKDEN. Cはありません。少なくともこの段階では存在が知られていなかったようです。

「MOUKDEN. C」の候補となり得る局所は4つ考えられます。(1)奉天本局、(2)奉天局大北門出張所、(3)奉天局大西関出張所、(4)奉天局奉天駅出張所です。このうち大西関出張所は1908年8月、奉天駅出張所は1911年6月の開設なので除外できます。奉天駅出張所の欧文日付印は「MOUKDEN-S」と分かっています。奉天局は後ろに何も付かない「MOUKDEN」「MUKDEN」を使い続けたようで、これもはずれます。

消去法では大北門出張所が残ります。このはがきは大北門出張所でまず和文印で抹消されてすぐ、同じ郵便課の外国郵便係に回されて「MOUKDEN. C」印が押されたのでしょう。翌日に外国郵便交換局の長春局で区分の際、東清鉄道のロシア寛城子局との交換のため「CHANGCHUN-S」印を押しました。--このように仮定しても、不都合や矛盾はありません。

それでは「MOUKDEN. C」の「C」とは何か。CASTLE(城)、またはCITY(城郭都市の内部)の頭文字だろうとGANは考えます。大北門出張所は07年10月末までは独立の奉天城内局でした。11月1日に奉天局出張所に降格・改称されましたが、その後も奉天城内地区の集配を継続しています。この集配事務は08年8月に奉天局大西関出張所が別に開設されて引き継がれますが、大西関でも同じ欧文印を使い続けただろうと思います。

奉天(旧市内)は清朝が北京に遷都する以前の宮殿を城壁で四角形に囲んだ内城とそれを円周状に大きく取り巻く外城壁によって区画されます。大北門出張所は内城の北門内側、大西関出張所は外城の西門内側に設けられていました。満鉄本線奉天駅は内城の西方約5㎞離れた位置にあり、駅周辺の満鉄付属地一帯は「新市街」と呼ばれました。奉天局は奉天駅の東方300mの近距離でした。

やがて、奉天城内居住の在留邦人は便利な奉天駅周辺の新市街地に移り住むようになります。郵便物取扱が激減したため大西関出張所は1910年11月末限りで集配を廃止し、無集配局となりました。「MOUKDEN. C」印も同時に廃止されたのでしょう。この欧文印の使用開始期は不明ですが、奉天城内局-大北門出張所-大西関出張所と3代にわたって使われたはずです。

翌1911年6月に前出の奉天駅出張所が開設され、本局に代わって安奉線との郵便物積み替えのほか中国奉山線鉄道(山海関-奉天)との郵便交換を受け持ちます。「MOUKDEN-S」印はそのために使われたのでしょう。また、「MOUKDEN」や「MUKDEN」印は、奉天本局での外国郵便直接引受用のほか、奉天駅出張所開設までの間の郵便交換用にも使われたと見られます。

本稿での各局の郵便物集配状況や郵便交換事情については『関東都督府政務報告』各期(外務省外交史料館蔵)によりました。

追記(2018.01.27) 中国郵便史専門家の飯塚博正氏から「MOUKDEN.CはMOUKDEN CITYを意味する」とのご教示を得ました。同氏は近似例として1911年「天津城 TIENTSIN CITY」のバイリンガル印のある中国カバーを示され、GANもその通りだと思いました。この記事のタイトルは「奉天シティー局欧文印」の方が適切でした。飯塚氏に感謝します。
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2017年12月04日

「三笠艦大写し」の実逓

三笠艦大写し171129-11.png日露戦争記葉の珍品として昔から知られる「三笠艦大写し」がヤフオクに出品(左写真)されました。実逓便としては恐らく初出。注目していたら、なんと! 11月29日に22万4千円という破格の高値で落札されました。

このはがきは逓信省が日露戦争中に発行した多数の記念絵葉書のうち1905年2月の第3回「天長節の部」3種セットの1種、「海軍」です。三笠艦大写し171129-21.png聯合艦隊の旗艦「三笠」と司令長官東郷大将が描かれています。

当初印刷された「初版」では「三笠」の艦形を大きく描きましたが、満艦飾の「三笠」に差し替えられてしまいました。正式発行された「再版」の方が結果的に艦形は小さく、不明瞭になっています。

「初版」の大写し「三笠」は印刷倉庫の段階で全量廃棄されたはずですが、一部が市場に流出したようです。故・島田健造氏は『日本記念絵葉書総図鑑』(1985年)で、「現存数は2、3枚程度」「実逓使用例は発表されていない」と解説しました。差し替え理由は公式には「満艦飾の写真の方がより良い」ですが、島田氏は「郵趣界では防諜上の問題といわれる」と指摘しています。

今回出品の初版はがきは樺太の九春古丹野戦局で明治39年(1906)8月6日に引き受けられた軍事郵便です。日露記葉には軍事郵便用と普通郵便用とがありますが、これは普通郵便用はがきです。島田氏は「(初版は)恤兵(軍事郵便)用も印刷されたか不明」とも書いています。

発信人の「樺太郵便部 竹内友二郎」は樺太守備隊郵便部長で、野戦郵便の現地最高責任者でした。民政移管後もそのまま樺太庁郵便電信局長に横滑りし、初期樺太郵政を担った最高幹部です。廃棄はがきが「参考品」として配布され、使用できたとしても、それほど不思議ではありません。

大写し再版.jpg大写し初版.jpg『総図鑑』2009年復刻版所載のカラー写真(右写真、左が初版、右が再版)と今回出品物とを見比べると、図案は全く同じですが、色合いがかなり異なります。『総図鑑』写真が落ち着いたセピアとオリーブ色基調なのに比べ、出品物は全体に青色系が強調され、とくに東郷大将の上半身写真を囲む舵輪の青色が目立ちます。しかし、これは別の印色ということではなく、複写、出力上の技術的な発色違いと思われます。

蛇足ですが、初版を刷り直した真因は「満艦飾」や「防諜」ではないでしょう。このセットの他の一種、「陸軍」に描かれた満州軍総司令官・大山元帥には「Marshal Oyama」と説明がありますが、「海軍」の初版では東郷大将に説明がありません。単純ミスでしょうが、これではだれか分かりません。再版で「Admiral Togo 東郷大将」と加わりました。名前の入れ忘れの修正、GANはこっちが「正解」だと独断しています。
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2017年11月23日

沖縄本島から最後の便り

沖縄.jpg沖縄 1.jpg沖縄本島守備の軍人から新潟の故郷に宛てたはがきです。最近のヤフオクで入手した同一人発着の満州と沖縄発信ロットの1点です。

鳩兜の軍事郵便はがきに乃木3銭切手を貼り、博多局飛行場分室で昭和20年(1945)3月23日に引き受けられています。受取人の書き込みがあり、3月27日に新潟県の宛先に届いたことが分かります。

この軍人の沖縄からの11通目で、これ以後の通信はありません。沖縄は3月下旬から米軍の大艦隊に包囲されて大規模な艦砲射撃を受け、45年4月1日に米軍が本島に上陸、猛烈な戦闘が始まります。このはがきは沖縄本島からの結果的な「有料最終便」例と言えるでしょう。

発信アドレスは「那覇郵便所気付 台湾第19159部隊」で、第8飛行師団(台北)に属する第21航空通信隊です。沖縄防衛の「天1号作戦」部隊として44年(昭和19)7月に満州の寧安から沖縄本島に転進してきました。第8飛行師団はこの作戦中に第6航空軍(福岡)の指揮下に入り、隷下部隊の多くを南九州や沖縄に展開させました。このような事情から、沖縄と台湾が同居する形の特異なアドレス表記が生まれたと見られます。

沖縄には45年4月10日から無料軍事郵便が適用されますが、沖縄と鹿児島を結ぶ船便は3月上旬頃から途絶していました。郵便物は米軍の目をかすめるわずかな軍用機と潜水艦の連絡便に託して運ばれる程度です。このはがきも通信文に「急に便を得て走り書き……」とあります。福岡・太刀洗の陸軍飛行場に急に飛ぶことになった連絡機に託したと見られます。

4月以降、沖縄本島からの有料郵便は未見で、軍事郵便でも稀です。残存する4月以降の郵便のほとんどは陸上戦闘のなかった先島諸島や大東島方面部隊の軍事郵便です。発信者が属するこの第21航空通信隊は、大内那翁逸編『旧帝国陸軍編制便覧』によると、「玉砕部隊」となっています。
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2017年11月16日

徐州陥落記念印の使い方

徐州裏.jpg徐州.jpgいわゆる「中支野戦局記念印」の一種が押された実逓カバーです。「中北支連絡記念」赤色ゴム印で鳳陽野戦局が昭和13年(1938)6月6日に引き受けています。最近のヤフオクで入手しました。

華中の野戦局で使われたこの種の記念印や風景印は逓信省からの告示類はいっさいありませんが、使用当時から郵趣界に報告されていました。この印の場合は『切手趣味』第17巻第6号(1938年11月)のコラム「中北支連絡記念」に図入りで簡明に紹介されています。筆者の「NA生」は不明ですが、中支那派遣軍野戦郵便本部の関係者と思われます。

「NA生」によると、この記念印は徐州陥落を記念して鳳陽、徐州の両野戦局で使われました。鳳陽は南北からの連絡が通じた5月15日から使用開始し、徐州は攻略した5月19日に日付を固定して更新しなかったといいます。実際の軍事郵便に押されたこの記念印を見ても、確かにこの2種の日付が多く、鳳陽では5月15日以降6月に入っても使われています。

徐州作戦概念図.png徐州攻略作戦は38年4、5月に北方から北支那方面軍(の第2軍)と、南方からの中支那派遣軍が中国軍を挟み撃ちする形で行われました。北支軍は天津-浦口間の津浦線鉄道に沿って済南方面から、中支軍は長江を隔てて浦口対岸の南京方面から、同時に進撃しました(左図参照)。徐州占領により津浦線の打通には成功しましたが、本来の目的だった中国軍主力の包囲殲滅には失敗しました。

ところで、この記念印が表示する「鳳陽野戦局」「徐州野戦局」という名称の野戦局は実際には存在しません。野戦局は移動が前提なので、局名はすべて番号で表示され、原則として地名の野戦局はありません。鳳陽で開設されていた野戦局は中支軍野戦郵便隊の第110局でした。

この隊はさらに徐州陥落翌日の5月20日に第120局を開きますが、23日には撤退して第2軍野戦郵便隊の第61局に引き継ぎました。徐州の野戦局はその後も6月9日に第65局、7月10日に第60局と、激しく交替しています。いずれも第2軍の野戦局です。

この書状は裏面に「13.6.5」、通信文にも「嘉興ニテ六月五日」と発信の日時と場所が明記され、記念印の日付「6月6日」にマッチします。しかし嘉興は上海の南西で、鳳陽とは400㎞ほども離れており、徐州作戦とは無関係です。中支那派遣軍管内で最も徐州に近い野戦局は鳳陽(第110局)にありました。このため記念印に「鳳陽野戦局」名が利用され、第110局以外でも嘉興など管内の他の野戦局で共用されたのでしょう。

一方の「徐州局記念印」はそれほど広範囲に使われた様子が見えません。第2軍管内の野戦局で徐州とは無関係に使われたのではないでしょうか。第2軍は徐州作戦に続いて計画されていた武漢占領作戦に備え、漢口方面に向け次々と西進中でした。

要するに「中北支連絡記念」印は、日付はともかく局名が実際の引受局(発信地)を表していません。このような印を「通信日付印」と呼ぶのは、かなり難しい。「野戦局が自由な使用に提供した単なる記念スタンプ(私印)だが、通信日付印として使われた場合もある」と考えればよいと思います。
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