2017年12月04日

「三笠艦大写し」の実逓

三笠艦大写し171129-11.png日露戦争記葉の珍品として昔から知られる「三笠艦大写し」がヤフオクに出品(左写真)されました。実逓便としては恐らく初出。注目していたら、なんと! 11月29日に22万4千円という破格の高値で落札されました。

このはがきは逓信省が日露戦争中に発行した多数の記念絵葉書のうち1905年2月の第3回「天長節の部」3種セットの1種、「海軍」です。三笠艦大写し171129-21.png聯合艦隊の旗艦「三笠」と司令長官東郷大将が描かれています。

当初印刷された「初版」では「三笠」の艦形を大きく描きましたが、満艦飾の「三笠」に差し替えられてしまいました。正式発行された「再版」の方が結果的に艦形は小さく、不明瞭になっています。

「初版」の大写し「三笠」は印刷倉庫の段階で全量廃棄されたはずですが、一部が市場に流出したようです。故・島田健造氏は『日本記念絵葉書総図鑑』(1985年)で、「現存数は2、3枚程度」「実逓使用例は発表されていない」と解説しました。差し替え理由は公式には「満艦飾の写真の方がより良い」ですが、島田氏は「郵趣界では防諜上の問題といわれる」と指摘しています。

今回出品の初版はがきは樺太の九春古丹野戦局で明治39年(1906)8月6日に引き受けられた軍事郵便です。日露記葉には軍事郵便用と普通郵便用とがありますが、これは普通郵便用はがきです。島田氏は「(初版は)恤兵(軍事郵便)用も印刷されたか不明」とも書いています。

発信人の「樺太郵便部 竹内友二郎」は樺太守備隊郵便部長で、野戦郵便の現地最高責任者でした。民政移管後もそのまま樺太庁郵便電信局長に横滑りし、初期樺太郵政を担った最高幹部です。廃棄はがきが「参考品」として配布され、使用できたとしても、それほど不思議ではありません。

大写し再版.jpg大写し初版.jpg『総図鑑』2009年復刻版所載のカラー写真(右写真、左が初版、右が再版)と今回出品物とを見比べると、図案は全く同じですが、色合いがかなり異なります。『総図鑑』写真が落ち着いたセピアとオリーブ色基調なのに比べ、出品物は全体に青色系が強調され、とくに東郷大将の上半身写真を囲む舵輪の青色が目立ちます。しかし、これは別の印色ということではなく、複写、出力上の技術的な発色違いと思われます。

蛇足ですが、初版を刷り直した真因は「満艦飾」や「防諜」ではないでしょう。このセットの他の一種、「陸軍」に描かれた満州軍総司令官・大山元帥には「Marshal Oyama」と説明がありますが、「海軍」の初版では東郷大将に説明がありません。単純ミスでしょうが、これではだれか分かりません。再版で「Admiral Togo 東郷大将」と加わりました。名前の入れ忘れの修正、GANはこっちが「正解」だと独断しています。
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2017年11月23日

沖縄本島から最後の便り

沖縄.jpg沖縄 1.jpg沖縄本島守備の軍人から新潟の故郷に宛てたはがきです。最近のヤフオクで入手した同一人発着の満州と沖縄発信ロットの1点です。

鳩兜の軍事郵便はがきに乃木3銭切手を貼り、博多局飛行場分室で昭和20年(1945)3月23日に引き受けられています。受取人の書き込みがあり、3月27日に新潟県の宛先に届いたことが分かります。

この軍人の沖縄からの11通目で、これ以後の通信はありません。沖縄は3月下旬から米軍の大艦隊に包囲されて大規模な艦砲射撃を受け、45年4月1日に米軍が本島に上陸、猛烈な戦闘が始まります。このはがきは沖縄本島からの結果的な「有料最終便」例と言えるでしょう。

発信アドレスは「那覇郵便所気付 台湾第19159部隊」で、第8飛行師団(台北)に属する第21航空通信隊です。沖縄防衛の「天1号作戦」部隊として44年(昭和19)7月に満州の寧安から沖縄本島に転進してきました。第8飛行師団はこの作戦中に第6航空軍(福岡)の指揮下に入り、隷下部隊の多くを南九州や沖縄に展開させました。このような事情から、沖縄と台湾が同居する形の特異なアドレス表記が生まれたと見られます。

沖縄には45年4月10日から無料軍事郵便が適用されますが、沖縄と鹿児島を結ぶ船便は3月上旬頃から途絶していました。郵便物は米軍の目をかすめるわずかな軍用機と潜水艦の連絡便に託して運ばれる程度です。このはがきも通信文に「急に便を得て走り書き……」とあります。福岡・太刀洗の陸軍飛行場に急に飛ぶことになった連絡機に託したと見られます。

4月以降、沖縄本島からの有料郵便は未見で、軍事郵便でも稀です。残存する4月以降の郵便のほとんどは陸上戦闘のなかった先島諸島や大東島方面部隊の軍事郵便です。発信者が属するこの第21航空通信隊は、大内那翁逸編『旧帝国陸軍編制便覧』によると、「玉砕部隊」となっています。
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2017年11月16日

徐州陥落記念印の使い方

徐州裏.jpg徐州.jpgいわゆる「中支野戦局記念印」の一種が押された実逓カバーです。「中北支連絡記念」赤色ゴム印で鳳陽野戦局が昭和13年(1938)6月6日に引き受けています。最近のヤフオクで入手しました。

華中の野戦局で使われたこの種の記念印や風景印は逓信省からの告示類はいっさいありませんが、使用当時から郵趣界に報告されていました。この印の場合は『切手趣味』第17巻第6号(1938年11月)のコラム「中北支連絡記念」に図入りで簡明に紹介されています。筆者の「NA生」は不明ですが、中支那派遣軍野戦郵便本部の関係者と思われます。

「NA生」によると、この記念印は徐州陥落を記念して鳳陽、徐州の両野戦局で使われました。鳳陽は南北からの連絡が通じた5月15日から使用開始し、徐州は攻略した5月19日に日付を固定して更新しなかったといいます。実際の軍事郵便に押されたこの記念印を見ても、確かにこの2種の日付が多く、鳳陽では5月15日以降6月に入っても使われています。

徐州作戦概念図.png徐州攻略作戦は38年4、5月に北方から北支那方面軍(の第2軍)と、南方からの中支那派遣軍が中国軍を挟み撃ちする形で行われました。北支軍は天津-浦口間の津浦線鉄道に沿って済南方面から、中支軍は長江を隔てて浦口対岸の南京方面から、同時に進撃しました(左図参照)。徐州占領により津浦線の打通には成功しましたが、本来の目的だった中国軍主力の包囲殲滅には失敗しました。

ところで、この記念印が表示する「鳳陽野戦局」「徐州野戦局」という名称の野戦局は実際には存在しません。野戦局は移動が前提なので、局名はすべて番号で表示され、原則として地名の野戦局はありません。鳳陽で開設されていた野戦局は中支軍野戦郵便隊の第110局でした。

この隊はさらに徐州陥落翌日の5月20日に第120局を開きますが、23日には撤退して第2軍野戦郵便隊の第61局に引き継ぎました。徐州の野戦局はその後も6月9日に第65局、7月10日に第60局と、激しく交替しています。いずれも第2軍の野戦局です。

この書状は裏面に「13.6.5」、通信文にも「嘉興ニテ六月五日」と発信の日時と場所が明記され、記念印の日付「6月6日」にマッチします。しかし嘉興は上海の南西で、鳳陽とは400㎞ほども離れており、徐州作戦とは無関係です。中支那派遣軍管内で最も徐州に近い野戦局は鳳陽(第110局)にありました。このため記念印に「鳳陽野戦局」名が利用され、第110局以外でも嘉興など管内の他の野戦局で共用されたのでしょう。

一方の「徐州局記念印」はそれほど広範囲に使われた様子が見えません。第2軍管内の野戦局で徐州とは無関係に使われたのではないでしょうか。第2軍は徐州作戦に続いて計画されていた武漢占領作戦に備え、漢口方面に向け次々と西進中でした。

要するに「中北支連絡記念」印は、日付はともかく局名が実際の引受局(発信地)を表していません。このような印を「通信日付印」と呼ぶのは、かなり難しい。「野戦局が自由な使用に提供した単なる記念スタンプ(私印)だが、通信日付印として使われた場合もある」と考えればよいと思います。
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2017年11月10日

バリックパパンの櫛型印

BALIKPAPAN.jpg浅草のJAPEX'17で開かれた大手オークションで落としたばかり、ホヤホヤの南西方面艦隊民政府管内(いわゆる「海軍地区」)の書留カバーです。南ボルネオのバリックパパン局で昭和18年(1943)6月25日に引き受け、セレベスのトンダノ局に7月2日に到着しています。

切手は蘭印新女王30centに赤色左書き「大日本に錨」加刷があります。書状10+書留20centの合計額相当のようです。BALIKPAPAN-裏.jpg加刷タイプはカタログで言う「バンジェルマシン型」となるのでしょう。

南方カバーにお門違いのGANが手を出したのは、海軍地区で櫛型(類似)日付印の使用が珍しいと映ったからです。

この地区の郵便引受印は、旧オランダ製日付印の改造を除けば日付のない丸二型「大日本/局名/帝国政府」の形式が一般的だとこれまで思っていました。日本櫛型印の占領地型バラエティーを検討する格好の材料、とも考えました。

昔むかし大門会でお世話になった故・青木好三氏に頂いた『私録じゃがたら郵便 占領中の旧蘭印での郵便』(1986年)を読み返してみました。日付なし丸二型印が使われたのは海軍地区でもセレベス、セラムの両民政部管内だけでした。残るボルネオ民政部(バンジェルマシン所在)管内、つまり南ボルネオ地区の局では日本式櫛型に似た日付印が使われたことが強く示唆されています。

KAMPON.jpgさらに蘭印専門家の収友・増山三郎氏のご教示では、この櫛型タイプ日付印はVosseの『日本占領期蘭印とインドネシア共和国で使用された消印』(2013年)でも南ボルネオでの類似例が報告されていました。青木氏著書にはバリックパパン局カンポンバル分局印のスケッチ(右上図)があります。この印は局名は右書き、日付だけ手書きで、年号を皇紀(神武紀元2600年+)で「04(昭和19年)」と表しています。

BALIK-2.jpgこのカバーの印は局名左書きで、日付は櫛型印と同じ鮮紫色の数字印を押しています。数字6桁スタンプ「186・25」は「昭和18年6月25日」を表していると考えられます(右下図)。裏面のトンダノ局丸二型印の下部に黒紫色鉛筆「18.7.2」(18年7月2日)の書き込みがあるからです。書留なので証明のため到着印を押して日付を記入したのでしょう。バリックパパン本局でこのタイプの印のカバーはどうやら初出のようです。

バリックパパン局印をさらに詳しく見ると、A欄片仮名局名のうち「ツ」が促音の小字ではなく他と同大なのが特徴です。B欄は日付を書き込めるよう縦2本線で3分割されています。D、E欄は10本の櫛型。C欄はやや不揃いなクロスロード(十字路型)3個です。これだけはオランダ印特有の要素で、日蘭ハイブリッド性の表れと言えます。本来の日本印なら★3個となるところです。

このカバーは、同じ南西方面艦隊民政府管内でも「3個の民政部ごとに郵便印など郵便実務の細部が異なっていた」というGANの勝手な仮説に1つの傍証を加えるものと思います。資料が将来増えて、ボルネオ民政部管内の3支部-ポンチャナック、タラカン、バリックパパン-の各管内ごとに郵便印表示形式の違いも出て来たら、もう言うことはないのですが。
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2017年10月31日

朝鮮駐屯の軍人無料為替

猪島.jpg日露戦争で日本軍が占領・駐屯した朝鮮には前進する野戦局の業務を引き継ぐため、併合以前から日本の普通局が次々に開設されていきました。ただ、野戦局の軍事郵便為替は普通局では取り扱えない規則だったため、「軍人無料為替」という便宜的な措置が講じられました。1904年(明治37)5月逓信省令第37号で定められています。

指定された普通局で軍人・軍属が振り出す通常為替の為替料(振出手数料)を無料とし、一般では上限のある振出額を無制限とするものです。為替証書は振出局で調製して受取人に直送しました。この点が為替貯金管理所が調製して送る軍事郵便為替と大きく異なります。野戦局から管理所に振出を依頼する手間と時間が省け、早く届きました。

開戦3ヵ月後の04年5月15日にまず京城、仁川両局で取扱が始まりました。以後、軍隊の駐屯地を中心に、朝鮮統監府告示によって取扱局が増えています。同じような事情の満州でも同様の取扱例が見られます。

上図は韓国・猪島局で明治38年(1905)6月9日に振り出された軍人無料為替の受領証です。為替金を受け取った証拠として振出請求者(送金依頼者)に渡されます。為替金を表示する枠内に「軍」の朱印が押されている点で一般の受領証と区別できます。その下の「證書送達」の角印は、猪島局から受取人に為替証書を直送するという意味でしょう。

猪島は釜山の西方にあり、陸軍の鎮海湾要塞司令部が設けられた小島です。全島が軍事施設なので、猪島局の利用者は日本軍人ばかりだったはずです。この受領証の左欄外に「大阪毎日新聞社へ送金」の墨書メモがあります。送金額「96銭」は、要塞勤務の士官あたりが「大毎」紙を取り寄せる月額購読料プラス第3種郵送料だったのかも知れません。
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2017年10月29日

消えた龍岩浦野戦局

丸一龍岩浦2.jpg日露戦争終結後、朝鮮から満州に宛てた公用の軍事郵便です。韓国・龍岩浦局の丸一印で明治39年(1906)8月29日に引き受けられ、即日満州の安東県野戦局に到着しています。つい最近のヤフオクで入手しました。

龍岩浦は朝鮮の最北西端に当たる鴨緑江河口南岸にある港湾です。現代では忘れ去られていますが、日露戦争当時は極めて時事的な地名でした。北清事変で満州を占領したロシアは更に朝鮮進出を目指し、鴨緑江岸の木材伐採を名目に03年8月に租借して砲台を築きます。日露が開戦すると第1軍がただちに龍岩浦を占領し、仁川-大連航路の重要な中継港としました。

その後、鴨緑江軍、遼東守備軍、遼東兵站監部、関東総督府などと所管が目まぐるしく変転しますが、龍岩浦には一貫して野戦局が置かれました。05年11月1日には関東第5野戦局となり、更に06年5月1日から他の野戦局と共に地名を名乗り「龍岩浦野戦局」に改称されています(右下図)。5月21日からは龍岩浦も含む大部分の野戦局で民間人の普通郵便事務も扱い始めました。

龍岩浦野戦局.jpg軍政機関の総督府は06年(明治39)9月1日から民政組織の関東都督府に切り替わります。同日の都督府告示第1号は全野戦局所の普通局への継承を定め、告示第3号で普通局55局の全局名を挙げています。例えば、元の安東県野戦局は安東県支局(正確には関東都督府郵便電信局安東県支局)となりました。しかし、この中に「龍岩浦支局」だけがありません。

この局だけ朝鮮にあったからでしょうか。前後の朝鮮統監府や関東総督府の関係通達類を調べても、龍岩浦野戦局の廃止にかかわる記事はまったく見当たりません。以後、一切の記録から消えているのです。この野戦局は06年8月31日に廃止されたまま継承されなかったと考えられてきました。

龍岩浦電信印.jpg龍岩浦には一方で普通局もありました。06年3月20日に電信だけ扱う新義州局龍岩浦出張所が開設されています。龍岩浦軍用通信所が3月19日に廃止されたのを継承するためです。従って、同じ丸一型「龍岩浦」印でも、06年3月19日までは軍用通信所(左図)、20日以後は普通局(出張所)の日付印として区別する必要があります。

龍岩浦出張所はさらに5月1日から郵便事務も開始し、7月1日には独立局に昇格しました。5月以降の龍岩浦には野戦局と普通局の2郵便局が併存したことになります。朝鮮の丸一印は出張所も独立局も形式上の違いがありませんが、左上図の軍事郵便書状は龍岩浦局時代の取扱いです。

軍事郵便を普通局で引き受けていることから、龍岩浦野戦局はこの8月29日以前に既に廃止されていた可能性が濃厚です。この野戦局はいつ廃止され、普通局との関係はどうだったのか。丸一印時代の龍岩浦のエンタイアは少なく、他には出張所時代の「明治39年6月29日」の軍事郵便1点しか知られていません。今後のエンタイアや新資料の発掘を待ちたいと思います。
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2017年10月25日

仏印特派大使府海軍部

仏印特使府.jpg平凡な海軍用の特別軍事航空はがきに過ぎませんが、発信アドレスがなかなかユニークです。「仏印221野戦郵便所気付 仏印特派大使府海軍部」とあります。発信時期が分かりませんが、1942年(昭和17)秋から翌春にかけての頃と思います。最近のヤフオクで落札しました。

仏印特派大使府は1941年7月の南部仏印進駐後、仏印総督府との間で「政務、経済関係をも一元的に処理する」ための外交機関として10月14日ハノイに特設されました。8月8日に開設が閣議決定されてから2個月も経っており、何か混乱があったことをうかがわせます。第221郵便所もハノイに開設されていた陸軍の野戦局です。

「特派大使府」とは他に聞かない名前です。従来のハノイ総領事館を拡充し、陸海軍代表も加えて事実上独立国の大使館並みに組織されました。特命全権大使には元駐仏大使の大物外交官・芳沢謙吉が任命されています。当時のフランスはドイツ占領下にありました。傀儡のビシー政権には東洋にまで外交権を及ぼす力がなかったための便宜的措置と思われます。

大使府には他の外交公館付属の陸・海軍武官府に相当する「陸軍部」と「海軍部」が領事部や経済部などと並んで置かれました。陸軍は仏印からの援蒋ルート遮断を監視する「西原機関」をハノイに設置していましたが、大使府に吸収されずに残りました。恐らく陸軍省が既得権を手放さず、外務省による「一元化」に抵抗したのでしょう。

このはがきは大使府海軍部からの発信ですが、海軍ではなく陸軍の郵便機関が取り扱っています。陸海軍の反目関係から見て、かなり珍しい使用例と言えます。海軍は第41軍用郵便所をサイゴンのセレター軍港内に開設していましたが、ハノイ方面には郵便機関がありません。やむを得ず陸軍の好意にすがった、ということでしょうか。

逆の例、陸軍側が海軍の郵便機関を利用したケースなら、中部太平洋方面などにたくさんあります。が、こうした場合はいずれも大本営の陸・海軍部間で「通信支援協定」が結ばれていました。1928年の済南事件の際や上海事変後の1935年にも陸海軍省間協定があります。この当時の仏印ではそのような協定は見当たらず、ごく少数の現地限りでの取扱だったと見られます。
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2017年10月19日

満鉄楕円欧文印の使用局

行動局改.jpg畏友・片山七三雄氏が郵便史研究会紀要『郵便史研究』第44号(2017年9月)に新論文を発表しました。「南満州鉄道の欧文鉄道郵便印を使用した『局』は何か ─突然現れて突然消えた翻訳語を追いかけて(1)─」と、とてもアトラクティブなタイトルです。

10ページもある論文は一読して意欲的力作と分かるのですが、高度に難解です。幸い、月初に開かれた郵便史研究会の総会で片山氏の同題の講演があり、傍聴しました。氏の学たるや古今東西に飛躍するに対し1時間の持ち時間はチョー短くて、やはり難解。「何が分からないのかも分からず」状態に陥ってしまいました。

片山氏の問題意識「この欧文印を使った第1・第2行動局とはどういう性格の局か」だけは辛うじて共有できたかと思います。片山氏は主に逓信公報の記事に語学上の考察を加えた形而上学的視点からの解明を試みました。GANは同氏とは別の資料からアプローチして郵便史的には既に結論を得ています。ルートは異なるものの、帰結としては片山氏とほぼ同じだろうと考えます。

その資料とは、関東都督府が外務省に各期ごとに提出した業務報告書です。都督府は関東州租借地と満鉄付属地の統治機関で、外務省(または拓殖局)から政務上の監督を受けました。業務報告書は外務省外交史料館に残り、アジア歴史資料センターでネット公開されています。GANはJAPEX '04に「日露戦争」を出展した際、第128リーフ「日本初の行動局」のカバー(上図)のキャプションをこれに依りました。

関東都督府が報告した『明治44年度自4月乃至9月期 諸般政務状況』中の「通信事務」の部に次の記事があります。
行動郵便事務開始 欧州直通急行便ト連絡スヘキ我南満鉄道急行列車ニ依ル郵便物ニシテ管内及朝鮮北清等ヨリ発スルモノハ交換手続を了スル必要上一応之を長春郵便局ニ持込ミ欧州ヨリノ着便亦一旦長春郵便局ヲ経由セシムル結果共ニ当該便ニ結束ヲ失スルコトヽナリ少ナキハ一日大キハ三日以上ノ遅延ヲ来シ一般ノ不便甚シカリシカ本期九月一日以降上下急行列車便ニ行動郵便事務ヲ開始シ外国郵便交換事務ヲ取扱フコトヽナシタル為叙上ノ不便ヲ全ク芟除スルヲ得タリ
それまで、欧州宛て外国郵便物は満鉄線終点の長春駅に到着後、すべて長春局まで運んで区分・閉嚢処理をしてロシア寛城子局側に引き渡していました。9月からは急行列車搭載の満州、朝鮮、北清(華北)発郵便物に限り、奉天-長春間郵便車の行動局で郵便掛員が区分・閉嚢締切作業を完了させ、寛城子駅でロシア側に引き渡す、というのです。

日本内地からの便は東京、門司などの各交換局で既に完全な閉嚢に締め切って送られて来るので、行動局内ではいっさいの処理作業が不要でした。長春駅と寛城子駅間には連絡線があり、すべての郵袋は寛城子始発ロンドン行き直通急行列車に簡単に積み替えられます。これで1-3日間を短縮できました。欧州発の逆方向便はすべてが長春-奉天間の行動局内で処理されました。

続く明治44年度下半期の報告には「外国郵便交換の車中取扱事務を長春局から分離し、独立の交換局として第1行動局、第2行動局を設置した」との趣旨の記事もあります。この行動局独立は安奉線の広軌化が完工(明治44年11月1日)して奉天が名実ともに満鉄線の中心となったことを受け、鉄道郵便事務を奉天局に集中させるのに合わせて45年3月21日に実施されました。

ここで「行動局」とは「移動局」と同義です。通常の「固定局(定置局)」とは異なり、移動しながら取扱をする郵便機関を指します。日本郵便史上では船舶、鉄道、自動車内のほか野戦郵便局が開設されました。郵便掛員だけが乗務して扱う場合も業務上は「局」と見なすこともあります。外国との接続路線の多くでは外国郵便交換業務も扱いました。「第1、2行動局」の場合は普通名詞でなく、交換局としての固有名詞である点で特異です。

以後、第1、2行動局の鉄道郵便掛員は身分上は奉天局員ですが、外国郵便交換業務に限っては正式な交換局として単独の判断で処理できることとなりました。満鉄線はゲージ(軌道幅)が狭いため広軌の東清鉄道に列車を乗り入れることができません。東清鉄道「ヨーロッパ急行」との連絡を最速でスムーズに行うための「現場ファースト」の処置だったと思われます。

最後になりましたが、上図のカバーは朝鮮・西大門局明治45年(1912)3月15日引受のフランス・マルセイユ宛て書留5倍重量便です。奉天-長春間の第1行動局が3月17日(日曜日)に処理して書留ラベルを貼り替え、封の左上部にこの欧文印を押して閉嚢に納めています。朝鮮発欧州宛て書留郵便物には必ず押される、この印の典型的な使用例です。
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2017年09月30日

高雄局年賀機械印の誤刻

高雄.jpg台湾の高雄局が年賀特別取扱で引き受けた1936年(昭和11)の年賀はがきです。この年から発行されるようになった年賀切手を貼り、台湾だけで使われた年賀用特別図案の入った大型機械印が押されています。

この機械印の図案は、上部に交差した日章旗の中に「謹賀新年」の文字、その下部に椰子の樹と華風楼閣を配し、波間に飛ぶ海鳥がそれらを結んでいます。台湾の新年を象徴する分かりやすいデザインです。内地など台湾以外で使われた「松喰鶴」図案の小型機械印が地味に感じられてしまいます。

台北年賀2.jpgよく見ると、機械印下部の局名や日付などを表す円形のデータサイクル内で、左右の唐草模様が「・」(中点、黒点)で結ばれています。台湾では「台」字を図案化した台湾逓信の徽章を入れるのが本来で、現に同じ機械印が使われた他の1、2等局10局ではすべて正常な逓信徽章入りを使っています(左図)。この高雄局印は従って、エラーです。

戦前に活躍した高名な収集家の藤堂太刀雄氏は当時、植民地も含めた日本の全郵便局(!!)に郵賴して年賀印を集めました。成果の一つとして、この台湾の年賀機械印は全11局で図案の細部がすべて異なっていることを報告しています(『切手趣味』V.13 N.4=昭和11年4月号)。鋳型で大量生産したのではなく、「手彫り」らしいことを示唆しているのです。

高雄データサイクル2.JPG藤堂氏は高雄局年賀機械印の異常な「黒点」は発表しましたが、原因にまでは踏み込んでいません。GANの解釈では、図案部だけでなくデータサイクル部も手彫りした結果と考えます。年賀特別扱の専用印で日付更埴が不要だからです。「高雄」の字体にも「手彫り感」があります。逓信徽章を彫る際に位置の見当として「仮彫り」し、そのまま「忘刻」となったのではないでしょうか(右図)。

ところでこの年賀状、受取人の「戸田龍雄」は「藤堂太刀雄」(筆名)の本名です。裏面は普通の人からで、藤堂氏が郵賴して返ってきたものではありません。切手、消印、練達の筆書き、それらにプラスして消印のエラー。数十年前に入手しましたが、大事にしている一品です。

追記(2017.11.16)近着の台北発行『環球華郵研究』第4期所載の簡宗鈞「台湾日治時期変異郵戳蒐奇」によると、簡氏はこの「変異」の原因を逓信博物館の練習機を持ち込んで臨時使用したため、としています。逓博は逓信講習所ではないかとも思いますが、GANは基本的にこの見解に賛成です。簡氏は特に根拠を示してはいませんが、確認できれば上記した「手彫りによる忘刻」説は撤回します。
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2017年09月17日

神田『野戦局々名目録』

局名録01.jpg局名録02.jpg100年以上前の郵趣の大先輩がまとめた我が国初の軍事郵便研究書を最近のヤフオクで入手しました。1913年(大正2)に神田柳吉氏が自家出版した『野戦局々名目録』です。存在は知られていましたが、実物が世に出たのは、少なくとも戦後は、初めてではないでしょうか。

これは小型の和本で、上質な和紙に活版印刷され紺色の平紐で綴じられています。判型はJIS規格以前の菊判の半裁というのでしょうか、15.6×11.5㎝でA6判とB6判の間です。表紙を除く本文15葉(30ページ)、うち2葉は挿絵です。奥付に「大正2年5月26日発行、発行者・神田柳吉」と記されています。

局名録03.jpg内容は日清・日露戦争と明治36年大演習で実際に使われた野戦局(艦船郵便所を含む)印の局名リストが主体です。附録として、日露戦争の野戦局で使われた朱色と紫色の色変わり印、記念印のリストもあります。日清戦争で20局、大演習の全6局、日露戦争では164局もの局名が挙げられています。

日露戦争の野戦局が全廃された1907年(明治40)からわずか6年後でこれだけの局種・局名を集めたとは、大きな驚きです。神田氏は他にも郵便日附印、記念日附印(特印)使用の公達、特設局開設告示、郵便税消印番号印(記番印)リスト等々を同じ体裁で続々と自家出版しました。日本郵便印・郵便史研究の偉大な先蹤者です。

印刷技術上の制約からか、この本には印影図が採録されていません。代わりに、軍名、日付、局名を2本の区画線で3段に区切って丸二型野戦局印を説明しています(上図左ページ)。神田氏は後にこの本の増補改訂版とも言うべき「野戦郵便局日附印形式及局名」を郵趣誌『郵楽』に連載(1916-7年)し、そこでふんだんに印影写真を載せました。

この本は神田氏の自家出版本の大部分を収めている郵政博物館資料センター(旧「逓博」)にもありません。吉田景保氏の労作『日本の郵趣文献目録』(1973年)にはタイトルなどが採録されていますが、どうも現物は見ていないようです。題名、編者名がやや不正確な上、消印大好き人間だった吉田氏が内容に一言も触れていないのはヘンだからです。

以上のようなわけで、この『野戦局々名目録』は単に稀覯本というだけでなく、GANにとっては先達の足跡をたどる上で欠かせない第一着の文献です。大事にしたいと思います。
posted by GANさん at 21:54| Comment(0) | 論文・文献 | 更新情報をチェックする