2021年04月18日

軍事郵便に消印省略開始

関東_2.jpg関東_1.jpg日本軍事郵便の収集家の間で日中戦争期や太平洋戦争期は不評です。この時代の軍事郵便には消印が押されないのが普通で、いつ、どこから発信されたものか分かりません。

切手展に出展を目指す人にとっては、郵便史部門の3要素とされる「料金、経路、郵便印」のうち料金はもちろん郵便印さえも欠いて、腕を振るう余地が制限されます。「軍事郵便は出展に不向き」と敬遠される理由ともなっています。消印省略2.jpg

これを逆に見ると、消印がない軍事郵便でも発信地や時期を割り出し、第三者にも納得させる技量こそが「見せ場」となります。まあ、審査員諸賢らにその理解力を求めるのはムリというものでしょうが。―― そういった面倒な話は今回は棚に上げて、いつから、なぜ、軍事郵便に野戦局などの消印が押されなくなったのかを考えて見ます。

軍事郵便への押印省略の開始は、一般に言われている「日中戦争開始時(1937年7月)から」ではありません。満州に駐屯する関東軍が1935(昭和10)年12月1日から軍事郵便の消印の「押捺ヲ省略スルコトニ致シ候」と陸軍省に通知(11月28日付關副乙第1167号=右図)していたのです。

例年、年賀状の特別取扱は12月上旬に始まります。関東軍将兵からの大量差出が始まる直前のタイミングで決定したのでしょう。以後、1945年の敗戦時まで軍事郵便の消印省略は続きます。この通知に基づいて消印を押さなくなった最初の年賀状を右上図に示しました。「皇紀2596年1月1日」と印刷されていますが、これは1936(昭和11)年元旦を意味します。
奉天/9-1.jpg
比較のためこの前年、昭和10年の関東軍兵士からの年賀状(左図)も示します。これが年賀特別取扱を受けた軍事郵便に消印が押された最後です。奉天局第9分室(熱河省朝陽野戦局)の例ですが、新京、四平街局の分室(野戦局)でも同様でした。昭和11、12年の元旦印を持つ分室の年賀状は存在しません。

これらの実例から、消印省略は日中戦争から始まったとする通説が誤りなのは明らかです。省略した理由も、従来は「軍事機密が漏れるのを防ぐため」とする考えが有力でした。しかし、1935年当時の満州と関東軍は平穏で、とくに軍機漏洩を恐れる状況ではありません。理由は単純に「省力化」だったでしょう。

ところで、関東軍の「押印省略」通知に対応する逓信当局の告示・公達類は見当たりませんでした。軍事郵便を取り扱う野戦局だけの問題ですが、関東軍の一存で決定できるはずもありません。関東逓信局が関与したことは疑いなく、その関連資料の発掘が今後の課題です。
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2021年04月01日

玉砕した拉孟守備隊から

金光部隊.jpg金光部隊_2.jpgの軍事郵便はがきは中国雲南省の拉孟らもうから発信されました。拉孟の日本軍守備隊は内陸部なのに孤立無援となり、玉砕した部隊として太平洋戦史上有名です。

発信アドレス「ビルマ派遣 龍第6739部隊」の「龍」は第56師団を表す符号であり、「6739」は野砲第56聯隊の部隊番号です。しかし、中国にいた部隊からというのに肩書きが「ビルマ派遣」とは、どういうことでしょうか。

私たちの常識ではビルマと中国とは大きく離れた別の国ですが、実は両国は内陸部の奥深くで背中合わせになっています。ビルマ東部を南北に貫流してインド洋に注ぐ大河・サルウィン河は上流では中国を流れ、怒江と呼ばれます。雲南省は怒江を西に越えてビルマ側のシャン高原上に大きく張り出しています。拉孟はシャン高原の東端、怒江を渡る恵通橋を見下ろす断崖上にあり、英領ビルマと中国とを結ぶ交通の要衝でした。

太平洋戦争初期、日本軍はビルマ側から侵攻して雲南省の「張り出し」地域を占領しました。ビルマから中国の蒋介石政権に援助物資を送り込む「最後の援蒋ルート」だったからです。日本軍は占領した北部ビルマと「張り出し」地域とを合わせて「北緬ほくめん=北部ビルマ」と呼び、第56師団を含む第33軍が守備しました。

前置きが長くなりすぎました。このはがきがなぜ拉孟守備隊からと断定できるかというと、アドレスに「金光部隊」の文字があるからです。金光恵次郎少佐は野砲56聯隊第3大隊長で、拉孟守備隊長を務めました。この大隊が拉孟守備隊の最大兵力だったからです。金光部隊とは拉孟守備隊そのものでした。

やや厚手の洋紙を切り「郵便はがき」のスタンプを押して代用はがきとしていることなどから、日用品も逼迫した1944(昭和19)年1月23日の発信と思われます。拉孟から龍稜の第301野戦郵便所第2分所まで不定期連絡便で運び出されたと見られます。最奥地の最前線だった拉孟からの、これが最終便になったかも知れません。

拉孟守備隊の主力は本来は歩兵第113聯隊でした。1944(昭和19)年5月に拉孟と並ぶ北緬の要地だった龍稜、騰越の守備が危うくなったため同聯隊は救援に回り、野砲56聯隊第3大隊など千名前後が残されました。拉孟は翌6月から怒江を渡河した中国の雲南遠征軍第6、8軍によって攻囲されます。遠征軍は4万名を超え、米式訓練・装備の最新鋭部隊でした。

守備隊は40倍の中国軍と3ヵ月間戦い抜いた末、9月6日に金光守備隊長が戦死し、残る80人の傷病兵も翌日全滅します。この間、日本軍は拉孟に一兵も増援できず、南方総軍、ビルマ方面軍、第33軍司令官が守備隊の武勲を称える「感状」を電報で送るばかりでした。
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2021年03月29日

台湾三角錐山非常通信所

三角錐山.jpg「三角錐山」の台湾非常通信所エンタイアが初めて世に出ました。未知の非常通信所の存在が知られるのはこれが初めて、1世紀の時を経ての出来事です。

台湾の林志明氏が日本語ブログ「鉄道郵便印の備忘録」でごく最近に公表しました。先に発表していた日付印の印影に続き、はがきの全影が掲載されています。同氏のご好意で、その非常通信のはがき(右図)を転載させていただきます。林氏は中国と戦前の日本の鉄道郵便の専門家として知られます。

これは大正3(1914)年8月10日に「松山稜司令部」から台北に宛てた私製絵はがきです。切手貼付位置に角枠「非常通信」の朱印が押され、「台湾・三角錐山/非常通信所 3年8月12日」の台湾櫛型日付印があります。台湾総督府が1914年夏に行った原住民タロコ族に対する大規模な討伐作戦時のものです。

GANは当初、この日付印の不鮮明な局名を「三角錐山」と読むのには抵抗がありました。しかし、林氏のご教示を元に手持ちの詳しい地図を調べて、この地名が実在することを確認しました。下の地図の中央上部に8229尺(2,494m)の三角錐山が描かれています。地図の左中央部にある「西麓倉庫」に三角錐山非常通信所が開設されたと見られます。

タッキリ渓概念図.jpg国立公園切手で知られるタッキリ渓は台湾東岸部、花蓮港北方の新城に河口があります。それを遡るとブロワン社などタロコ族集落を経て三角錐山中腹を抜けます。さらに遡って、左岸からの支流タウサイ渓との合流点上流側に「西麓倉庫」はありました。

正確には「三角錐山西麓倉庫」で、作戦ルート上の主要な兵站基地でした。はがき発信者のいた「松山稜」はタウサイ渓を遡った地点にあったようです。タッキリ渓の上流、討伐軍司令部が置かれたセラオカフニをさらに登って合歓山や嵜莱主山が連なる中央山脈を西に越えると、埔里社、台中方面に出られます。

タロコ族討伐作戦で開設された非常通信所は埔里社など8個所の名前が知られています。「セラオカフニ非常通信所」は告示はないものの他の資料で言及され、片手ほどの数のエンタイアも知られていました。エンタイアはもちろん名前さえ知られていなかった非常通信所は三角錐山以外にありません。

告示が出された7個所の非常通信所はいずれも中央山脈上とその西側です。セラオカフニ、三角錐山など中央山脈の東側(タッキリ渓流域)については、本来出るべき告示がなぜか出ていません。今後は新資料が発掘されて未知の-たとえば「ブロワン非常通信所」など-が現れないとも限らなくなりました。楽しみなことです。
                    ☆
本稿の執筆に当たっては賀田直治著『臺灣中央山脈横断記』(1914年)を参照しました。
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2021年03月19日

空襲警報ノ為送信遅延ス

空襲警報.jpgは滋賀県高宮局で昭和20(1945)年4月7日に引き受け、同じ県内の木之本局に宛てた電報頼信紙です。午前9自23分に受け付け、午後1時34分に送信したことが分かります。同局のこの前後の頼信紙を見ると、普通は受付後5分か10分ぐらいで送信を終わっています。この時だけ仕事が立て込んで、後回しにでもされたのでしょうか。

実は、その釈明が1行半の電文に続き、その左側に書き込まれています。
  空襲警報ノ為遅延ス
記入を証明するため、扱った局員の認印がその下に押されています。
空襲警報2.jpg
恐らく、この賴信を受け付けている最中、あるいはその直後に米軍機の来襲を知らせるサイレンが鳴ったのです。警報が出たら携行できる周辺の重要品だけ持って、すぐに避難しなければなりません。警報発令の間、局員らは全員が防空壕に駆け込んで退避していたのでしょう。幸い局舎は被害を免れたとしても、事後の片付けや整理などで執務再開までに大変な時間がかかったのです。
電報配達改.jpg
当時の日本はサイパン、硫黄島と相次いで失陥し、これらを基地とする米軍機により日常的に無差別爆撃を受けていました。召集と徴用で男性局員の姿が薄れ、電報配達などの外勤業務を女性が任されることもあるような時代(右図は当時の絵はがき)です。

「空襲警報ノ為‥‥」は恐らく規則で定められた書式ではなかったでしょう。しかし、担当職員は「決して仕事をサボって時間を空費したのではない」と個人の責任に於いて証明したかったのだと思います。この局員が自己の職務に忠実に、誇りを持って従事していた状況がうかがわれます。

ところで、この頼信紙を郵便史のマテリアルとして展覧会に出したら、どうなるでしょうか。オツムの固い日本の審査員は「料金、逓送路、消印の3要素のどれとも関係ない」の決まり文句で減点対象にするでしょう。しかし、もしGANが審査員だったら、「よくこんなブツを探し出したね」と努力点を加点します。

太平洋戦争敗戦の直前、「本土決戦」の掛け声が空しく交わされて日本全体が大混乱に陥っていた時期、郵便局での執務状況がどういうものだったか。それを生々しく伝える現物史料として評価すべきだと思います。
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2021年03月13日

占領地郵便史を論じよう

ソロ市.jpg太平洋戦争中、日本軍は南方の占領地で郵便を管理・監督または直接運営しました。しかし、「南方占領地郵便史」は戦後4半世紀を経た今日に至っても「概論」どころか「序論」すら発表されていません。

昔は富岡昭氏が『日本の占領切手』(1965年)を書いて大略を示しました。その後、「南方切手のすべて」を余さず書き尽くすという題だけは大層な本も出ましたが、富岡氏の域を出ず羊頭狗肉でした。世に「南方占領地の専門家」を自称する日本人は多いというのに、この点はいったいどうなっているのでしょうか。

まったくの部外者であるGANでも言えるのは、大筋を見失っていることです。多種多彩な加刷切手とそのエラーやバラエティー、更にはニセカバーにまで目を奪われているからでしょう。カタログで台切手と加刷型とのキリのない組み合わせリストなど示されてもサッパリ面白くありません。各地域ごとの不統一性に振り回された挙げ句、「ゴールポスト(収集の完結地点)」がどこかすら見えないのです。

「占領マライ」とか「占領ビルマ」などというおかしな表現が南方切手で幅をきかせています。前の語が後を修飾する日本語で「占領するマライ」では意味をなしません。「躍進マライ」「新生ビルマ」などと比べれば誤用は明らかです。「日本軍占領下のマライ」「占領されたoccupiedマライ」を一語で表したければ、正しくは「被占領マライ」でしょうに。

「正刷切手」も同じく南方切手世界だけの伝統的「業界用語」です。「加刷ではない」という意味のようですが、切手は加刷しない方がむしろ当たり前で、そんな日本語は元もとありません。こういった言葉遣いを平然と続けて不思議とも感じない。他を顧みぬ「ガラパゴス郵趣」の残渣とでも言うほかありません。

南方占領地の郵便史をもし書くことになったとします。GANだったら、この地は①拡張された日本郵便系と②現地(たとえばマライ)郵便系、そして日本郵便系の一部とも言える③日本軍事郵便系と3種の郵便系が重なり合った圏域であるとの理解(史観)を根底に置きます。各郵便系の推移を解明し、相互の関係を述べることになるでしょう。

この「郵便系」の概念は郵便史の収集家・研究者なら無意識のうちに必ず頭の中に置いています。「なぜこの料金の切手が貼られているのか」を考える前提、大原則だからです。GANは近く発行される某郵趣誌で郵便系を根拠に一群のカバー類のニセモノ論を開陳しました。紙幅の都合で舌足らずに終わりましたが、郵便系論の初の実践応用と自負しています。

最後になってしまいましたが、冒頭のはがきは、1944年に内国料金でジャワに宛てており、拡張された日本郵便系と現地郵便系との複合例です。従来の南方切手論ではこの説明は出来ません。もちろん、日本郵便系と日本軍事郵便系、日本軍事郵便系と現地郵便系との複合例も存在します。詳しくは後刻、再論したいと思います。
posted by GANさん at 02:20| Comment(0) | 主張・雑感 | 更新情報をチェックする

2021年03月07日

義兵闘争鎮圧へ臨時派遣

大邱派遣隊発.jpg大邱派遣隊0.jpg日露戦争で適用されていた満州と朝鮮(韓国)での無料軍事郵便は戦後も長く続きました。廃止は1910(明治43)年のことです。

本来なら講和条約発効-部隊の撤退-軍事郵便廃止と進むべきはずでした。ところが、ロシアに代わって新たな敵、「義兵」が朝鮮で生まれました。日本軍の兵力は戦争中よりも増え、軍事郵便を続けざるを得なかったのです。

歴史用語としての義兵とは、外国の侵略に抵抗して武装蜂起した(官兵でない)朝鮮人民衆を言います。日露戦争後の日本統治に対する闘争がとくに有名で、鎮圧のため日本は撤退どころか新たな軍隊を増派しなければならなくなりました。の2点のはがきは、その派遣隊の司令部に発着したものです。

は全羅北道大邱の臨時韓国派遣隊司令部からの軍事郵便で、大邱局明治43(1910)年8月30日に引き受けられています。は逆に大邱の司令部に宛てた年賀状です。全羅南道の霊巌守備隊から菊1.5銭切手を貼って43年12月中に差し出されました。霊巌には大邱の臨時派遣歩兵第2聯隊から1個小隊が分遣されています。

同じ時期の同じ軍人なのに、なぜ8月は無料で12月は有料なのか--。43年11月末で無料軍事郵便が打ち切られ、軍事切手制度に切り替わったからです。12月1日以降は毎月2枚だけ無料で配られる軍事切手を使い、3通目からは有料となりました。従って、右のはがきは有料化された最初期使用例です。

日露戦争後、日本は韓国から外交と防衛権を奪って保護国とします。ところが、1907(明治40)年に「ハーグ密使事件」を起こした韓国皇帝を退位させ、さらに韓国軍隊を解散させると、朝鮮全土が憤激し旧兵士や農民らの義兵蜂起が相次ぎました。駐屯する韓国駐剳ちゅうさつ軍の1個師団だけでは対処できません。

日本から軍隊を逐次投入しても収まらず、ついに09年5月に臨時韓国派遣隊(渡辺水哉司令官)を編成して送り込みました。派遣隊は歩兵2個聯隊を主力とする旅団規模で、義兵闘争が特に活発な南部の大邱に司令部を置きました。駐剳軍に協力して「南韓討伐作戦」と称する徹底的な焦土作戦を行いますが、義兵は衰えません。

派遣隊は1910(明治43)年の韓国併合で「臨時朝鮮派遣隊」と名称が変わります。無料軍事郵便が廃止されたのも、併合により「戦時は終結した」との建前論のためと考えられます。しかし、義兵闘争は併合で一段と燃えさかり、派遣隊に最大の活躍が求められました。大正初期までかかってようやく鎮圧には成功します。

派遣隊のその後はよく分かりません。1919(大正8)年、竜山に第20師団が創設されて韓国駐剳軍の後身・朝鮮軍の2個師団常駐態勢が完成します。そのさいに派遣隊は解隊、吸収されたとGANは考えていました。ところが最近、春川局大正9年5月の使用例を見つけました。臨時朝鮮派遣隊が廃止されたのはいつか、その時期を明記した資料は未見です。
                   ☆
この記事の作成に当たり、朝鮮駐剳軍司令部編『朝鮮駐剳軍歴史』(1909年)、海野福寿著『韓国併合』(1996年)を参考にしました。
posted by GANさん at 02:35| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする

2021年02月13日

広州湾租借地から絵葉書

広州湾_1.jpg長いこと探していたフランス租借地・広州湾のエンタイアを最近入手することが出来ました。インドシナ専門の収友らも「よく知らない」と言い、かなりの稀品のはずとご満悦です。単に人気薄だけなのか知れませんが。

GANは収集テーマの一つが「日露戦争」で、2004年のJAPEX(全国切手展)に中間報告を出展しました。戦争の前史として「三国干渉」を意識し、ロシアの関東州、ドイツの膠州湾カバーは集めたのですが、フランス広州湾だけどうしても手に入りません。作品自体は幸い好評価を得たものの、「広州湾」はずっと心残りでした。

広州湾は中国広東省にあります。省都の広州(広東)とは無関係で、海南島に突き出た雷州半島の東側付け根の小さな湾です。1897年にフランス軍艦BAYARDバヤールが偶然寄航して広州湾_3.jpg良港と知り、軍隊を送って占領しました。2年後の1899年に一帯を租借する条約を清国と結び、仏領インドシナ連邦に組み入れます。

租借は領土の割譲に等しい行為ですが、清国にはそれを認めざるを得ないほどの「借り」がフランスにありました。日清戦争で日本が獲得した遼東半島を返還させた三国は清国に見返りを要求したのです。その結果、ロシアが関東州(旅順・大連)、ドイツが膠州湾(青島)、そしてフランスが清国から奪ったのがこの広州湾でした。

香港の先駆的な郵便史研究家・李頌平氏の名著『客郵外史』(1966年、中文)によると、フランスは1901年以降、租借地内の6カ所に郵便局を開設しました。そのうち西営(仏名FORT BAYARD)にはフランスが兵営と要塞を築き、赤坎(TCHEKAM)は商業の中心地でした。李氏は「広州湾の郵便印については系統的な記録がない(ため詳細は不明)」とし、最初期のタイプとしてTCHEKAM局1916年の印影を示しています。

広州湾_2.jpg今回入手した絵はがき(上図)は裏面に安南女性10C切手に4分加刷した広州湾の普通切手が貼られています。1909年3月1日に仏中ハイブリッド印(左図)でKOUANG-TCHEOU-WAN広州湾局が引き受け、香港ビクトリア局を経て3月17日に東京・麹町のマミヤマ(樅山、籾山?)氏に届きました。発信者はフランス人で、通信内容は絵はがきの交換についてです。

この「広州湾局」タイプの日付印は李氏の本にはありません。局が存在した記述自体がなくロケーションは不明ですが、要塞や政庁が置かれた西営にあったと思われます。このはがきは広州湾租借地のエンタイア最古例となるかも知れません。ただし、『客郵外史』から半世紀以上が経つ間に発表され、GANが知らずにいるだけの可能性は大いにあります。

フランスは当初、広州湾を英領香港並みに発展させる意気込みだったのですが、山が迫って交通不便のため失敗しました。軍事施設を建設したほかは格段の開発投資もせず、半ば放棄状態でズルズルと租借し続けたようです。1926(大正15)年段階で租借地のフランス人は225人でした。郵趣品を除き、まともな郵便使用例を見かけないのは当然かも知れません。

太平洋戦争中、日本はフランスのビシー政府と相互防衛協定を結んで1943(昭和18)年2月に広州湾を占領します。華南担当の第23軍が独立混成第23旅団の2個大隊を寸金橋(赤坎)などに派遣し、「雷州支隊」として駐屯しました。支隊の主力部隊は独立歩兵第128、129大隊と第70、248大隊でした。

雷州支隊の軍事郵便も探しているのですが、残念ながら未収です。広州湾租借地は戦後中国に返還されて広東省湛江市となり、現在では西営は霞山区、赤坎は赤坎区の名で市の中心になっているようです。
                  ☆
このはがきの仏文解読には沢株正始氏のお手を煩わせました。感謝します。

posted by GANさん at 23:55| Comment(0) | 主張・雑感 | 更新情報をチェックする

2021年02月08日

樺太拓殖博記念絵はがき

樺太1.jpg樺太庁が発行した記念絵はがきと思われるセット(左図の上はそのうち1種)を近年のヤフオクで入手しました。島田健造氏『日本記念絵葉書総図鑑』(2009年復刻版)には採録されていないので、新発見となる可能性があります。

樺太の風光や産業を撮影した写真版で、青色4種、セピア5種の計9枚ですが、E6A8BAE5A4AA4.jpg青色1種が欠けていると思います。表面(宛名面=左図の下)には「郵便はがき」と英文「POST CARD」だけで、「〇〇記念」といった発行目的を示す表記はありません。裏面(絵面)に写真説明(後述)と並んで「樺太廳發行」と発行者名が印刷されています。

この絵はがきはすべての絵面に櫛型印を模した樺太1-2.jpg「樺太/1.10.1/拓殖博覧会記念」の紫色スタンプ(右図の上)が押されています。印刷したような鮮明印ですが、1枚ごとに押印位置や傾きが異なるので印刷ではないようです。さらに、ほとんどの絵はがきでこの紫色印の日付部分だけを隠すように黒色スタンプが再押印されています(右図の下)。
樺太2-1.jpg
「拓殖博覧会」は今日では死語ですが、戦前の大日本帝国時代には多用されました。各植民地での開発(拓殖)進展ぶりを内地(日本本土)国民に示して国威発揚を図る大がかりなイベントでした。内地からの移住促進も大きな目的だったはずです。呼び物は現地を再現するジオラマで、産出品の現物や風物写真の展示が中心でした。こういった点から、この絵はがきは樺太庁が管内事情を広く紹介するために10種1組袋入りで発行したと思われます。

大正元(1912)年10月1日から開かれる拓殖博覧会の会場パビリオン内でこれが発売される予定でした。ところが、印刷完了後にその趣旨の表示が欠けていることに気付きます。刷り直しを避ける窮余の策として、スタンプの加捺でそれを補い、急場をしのぎました。

しかし、計算違いが起きます。用意した絵はがきは売り切れるどころか、逆に大量の売れ残りを出してしまいました。樺太庁は次に開かれる拓殖博での再利用を図ります。日付を巧みに消し、いつの拓殖博でも使えるようにしました。--という、以上2段落はGANの単なる推測です。

樺太3.jpgこの9種セットとは別に、1枚だけ単独で入手した紙厚の薄いもの(右図)があります。厚手の9種セットの方は紙厚0.3㎜ですが、薄手のこれは0.2㎜です。用紙を替え、印刷が2回行われたことを意味します。

また、同図案を青色とセピアで刷ったものが2組ずつあり、どの図案も色違いの2色で印刷されたことを示唆しています。全貌は分からないものの、なかなかバラエティーの豊富なシリーズです。

樺太3-2.jpg樺太3-1.jpg薄手の絵はがきには紫色と茶色のスタンプが押されています。紫色印(右図の左)は厚手と同じ文言ですが、形式が丸二型類似です。茶色印(右図の右)も丸二型類似印ですが、日付は「2-4-21」で博覧会名に「明治紀念」が加わり、E欄部分には「大阪」と入っています。

これらから、大正2年4月に大阪で開かれた明治紀念拓殖博でこの絵はがきが再利用されたことが推測されます。先に示した二重スタンプで日付部分を抹消した絵はがきセットが大阪でも売られた可能性はありますが、断定は出来ません。

絵はがき9種に付けられている写真説明は次の通りです。
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太畑地ノ開墾、樺太海馬島(以上青色)
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太産蔬菜類、樺太漁場生鰊ノ貯藏、樺太農家
 ノ収穫(以上セピア)

なお、これらの絵はがきが「大正」ではなく、「昭和」に発行されたのではないかとの疑いも起こり得ます。しかし、これは「大正」で正しいと思います。2種の紫色スタンプの日付「1-10-1」が根拠です。大正元年は7月から12月まであるのに対して、昭和元年は12月しかないからです。
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2021年01月28日

富士山季節局の42年活字

富士山42年2-1 .jpg季節局としての富士山局・富士山北局の印影変化にはなかなか面白いものがあります。毎シーズンの使用例を、せめて大正初期ぐらいまでは集めたいと思っているのですが、道半ばどころか、その遙か手前です。つい最近入手した1点で、小さいけど新しい発見がありました。

右図は明治42(1909)年7月21日に富士山局で引き受けられた青菊はがきです。日付印の年活字「42」が国内全局で使われる標準的なフォントとは全く異なる「異体字」なのに気がつきました。故・水野虎杖氏を信奉するGANとしては改めて水野教のバイブル『櫛型印の形態学』(1972-74年)に何か載っていないか当たってみましたが、直接関連する記述は見当たりません。

E5AF8CE5A3ABE5B1B142E5B9B42-220.jpgこの「42」年活字を隣の月、日活字と見比べます。フォント自体が日活字の「2」と全く違いますが、すぐ分かるのは、サイズが他の活字より一回り大きいことです。B欄を仕切る上下の桁につっかえるほど接するか、ほぼ接しています。こんなジャンボサイズな年活字は前代未聞です。以後の太平洋戦争混乱期でも見たことがありません。なぜ、このように特異な年活字か使われたのでしょうか。

これを見てすぐ思い浮かぶのが、樺太の軍政から民政へ移行直後の時期に使われた丸二型印、丸二型類似櫛型印の年号活字との関連です。かの水野尊師も前掲書に記録しておられます。しかし、調べてみると、これとは無関係なことがすぐ分かりました。樺太「42」年号活字もやや大型の非標準フォントですが、富士山局ほどまでサイズが大きくはありません。

樺太3.jpg樺太2.jpg右図は山下精一氏『樺太の郵便』(1978年)からの引用です。ノダサン局、トンナイチャ局の「42」はそれぞれ別々の「異体フォント」で、ノダサン局の方は丸二印の改造印のように見えます。しかし、どちらの活字も上下の桁からは十分に離れていることがはっきり分かり、富士山局とは異なるのです。

E5AF8CE5A3ABE5B1B142E5B9B42-2.jpg面白いことに、同じ富士山局42年印でも8月17日の日付印では年活字に標準型フォントが使われています(左図)。巨大「42」年活字はどうやら開局直後だけの短期間使用だったようです。

ここから先の3段はGANの妄想です。‥‥明治42年の夏山シーズン、7月20日の開局日直前のことでした。富士山局を管理する御殿場局で、担当局員が10ヵ月ぶりに倉庫から日付印箱を取り出し、ほこりを払って点検しました。すると、ナ、ナ、ナント、年活字は昨年の「41」だけ。今年用の「42」が見あたらないではありませんか。

日付印で使う12個の月活字セットや31個の日活字セットは同じものを何年でも使えますが、年活字だけは毎年新調しなければなりません。翌年分を監督局の横浜局に支給申請しておくと、毎年12月初めに送られてくるのが通例でした。しかし、夏期以外は閉局している富士山局だけは「員数外」で、うっかり申請を出し忘れていたのです。

さあ、えらいことになった。年活字がなければ通信日付印は用をなさず、使うことができません。日付印は郵便局の存在証明そのもので、下手すると開局さえ危うくなりかねません。局員は横浜局への通報もそこそこに、大あわてで町内のハンコ屋さんに走ります。渋る職人を拝み倒して「42」活字を手彫りで即製してもらい、何とか間に合わせたのでした。

‥‥といった「寸劇」が思い浮かびます。この筋書きなら、初体験の職人が「枠内に収まりゃいいんだろ」と目一杯のサイズで彫ったことも、横浜局から標準型の年活字がすぐ追送されて差し替えられただろうこともナットクです。季節局にはありそうなドタバタ劇の遺産ではないかとGANは考えるのですが、果たして真相や、いかに。
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2021年01月13日

薄絹式肉汁浸出型丸一印

インク浸出印2.jpgかなり退色したりよごれがついて見栄えの悪い菊紐枠はがきですが、右下に押されている到着印「京都局明治32年1月27日ト便」は「インク浸透式」丸一印です。ヤフオクで落札し、きょう到着しました。

このインク浸透式丸一印は片山七三雄氏によって報告されました。一いちインクを付けず、中から出るインクだけで押印する仕組が「シヤチハタ印」に似るとして、この名で呼ばれます。1888(明治21)年に導入された丸一印ですが、近年最大のトピックスとなりました。

明治から昭和期にかけて活躍した郵趣家で逓信省の役人でもあった樋畑雪湖によると、1898(明治31)年に新潟県の沢田喜内が「肉池(スタンプ台)要らず」の日付印を発明しました。樋畑は大臣の直命で採用の可否を調べ、次のようにその経緯を説明しています(『日本郵便物特殊日附印史話 附押印肉と押印能率の研究』、1938年)。
構造は普通の手押日附印に異ならざるも印軸の中枢に薄めたる印刷インキを貯蔵し、それが活字の間隙を透して押印する度毎に適度に注出され印面にはインキを平均浸潤せしむる為めと之れを調和塩梅する役目として薄絹に耐久用の薬剤を塗布したものを覆ふてある。
丸一印は局名と一体となった金属製丸枠の下部半円内に、黄楊つげや水牛角製の日付活字3、4個を植字する構造です。印には棒状の取っ手(印軸)が付いています。沢田の発明は印面直上の印軸内にインクタンクを埋め込んだことでした。重力と押印時の衝撃によって活字の間のわずかなすき間からインク(肉汁)が滲み出て印面に補給します。

これだけでは印面全体に適量のインクが行き渡らないなど補給にムラが出ます。この問題を沢田は印面を薄絹で覆うことで解決しました。滲み出たインクは薄絹の繊維の糸目を通じて均等に伸びるというアイデアです。絹の耐久性に即座に疑問が出るところですが、「薬剤の塗布」で乗り切ったようです。どんな薬剤だったのかまでは分かりません。

押印作業をすべて人力に頼っていた当時としては、確かに作業効率の上がる画期的な発明と言えるでしょう。樋畑は上記の本の中で、ほかにも多数の機械化、省力化の試みがあったことを記しています。しかし、沢田の提案は採用されませんでした。インク補給を調整出来ず、実用に耐えられなかったからです。
郵便局の窓口或は鉄道郵便車の乗務員等をして実際に使用して見たが肉汁浸出の調節が素人には思ふ様に行かぬ所から結局採用不能となった
これら樋畑の記述を実際のエンタイア上に初めて見出したのが片山氏でした。このテスト印は記述どおり明治31年末期から32年にかけて試用され、京都、名古屋、横浜局や東京横浜間の鉄道印などで相次いで見つかっています。消印カタログが書き換えられ、日附印の構造や材質に調査が進められる契機となりました。インク浸透式2.jpg

初めに示したはがきの印を拡大して観察すると、規則的な絹の織り目が印象されていることが分かります(右図)。しかし、文字以外の本来は空白であるべき部分にまで絹目が一面に出て、さらには周辺や裏面のインク汚れも目立ちます。鮮明な黒白の印影を期待できない構造的欠陥であり、確かに採用は無理でした。

ところで、メーカーによると、インク浸透印(シヤチハタ印)の最大の特徴は、印面のスポンジ状多孔質ゴムにインクを含ませられることです。「浸透」とは印材の中にインクが「浸み込んでいる」こと、あるいは印面が絶えずインクに「浸っている」状態を意味します。この多孔質ゴムの製法が特許になっているようです。

対してこの丸一印ではインクは「浸透」せず、活字間のわずかな隙間から「漏れ出る」だけです。敢えて言えば「滲出しんしゅつ」で、「浸出」も同じです。このさいGANは調査官・樋畑に敬意を払って「薄絹式肉汁浸出型丸一印」の名称を提案します。略して「薄絹浸出印」、または「薄絹印」で十分ではないでしょうか。この印の特徴を端的に表せると思います。

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