2021年07月21日

戦艦香取に届いた英電報

電報_3.jpg英国ポーツマス軍港に停泊中だった日本海軍の戦艦「香取」に配達された電報です。軍艦郵便ならぬ「軍艦電報」でしょうか。久びさのヤフオク落札品です。

昭和天皇は皇太子だった裕仁親王時代の1921(大正10)年に当時の同盟国イギリスなど西欧5ヵ国を訪問しました。電報_1.jpg外国王室との親交、帝王学修得の一助が目的とされます。皇太子の乗艦が香取でした。

この航海と軍艦郵便については、本ブログで既に書きました。関心のある方は2014年06月07日「皇太子訪欧御召艦香取」をご参照下さい。

電報の受取人は皇太子の公式随員だった東宮侍従で伯爵の亀井茲常これつねです。亀井は東京帝大を卒業して宮内省に入り、式部官、主猟官などを経て東宮侍従になっています。当時37歳、働き盛りのキャリア官僚でした。宮内省から語学・式典研究で英国に派遣された経験もあり、通訳としても期待されたと見られます。

「Count Kamei, Japanese Warship Katori」宛て5月16日12時25分に東京中央電信局から発信されました。約1日後の17日11時50分にポーツマス局に着電し、同局は鉛筆で転写した送達紙を専用封筒(上図の下)に納め、日付印を押して配達しています。艀はしけで軍艦に渡ったと思われますが、艀使用料もNO CHARGE無料です。

電文は「ご病気と聞いたが、大丈夫ですか?」という見舞状です。発信者は東宮大夫だいぶの浜尾新(元東京帝大総長、文相)の身内の人たちのようですが、よく分かりません。亀井を含む一行は到着後ロンドンに移り、電報が届いた5月17日にはオールダーショット陸軍基地などを訪問中だったようです。

なお、この「ポーツマス」はイギリスでも長い伝統を誇る軍港で、日露講和会議が開かれた米ニューハンプシャー州の同名の地とは別です。
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2021年06月27日

朝鮮・南陽出張所唐草印

穏城・出2.jpg穏城・出1.jpg右図は昭和10年の軍事年賀郵便書状です。朝鮮国境に近い満州の図們守備隊から発信されました。第4種郵便物(印刷物)としたつもりか無封ですが、軍事郵便は無料なので無意味です。

それは措くとして、封筒左上部の小型な消印をご覧下さい。不鮮明ですが、「穏城・出/10.1.1/前0-8」と読めます(右下図)。これはいわゆる唐草印(L波機械印)のデータサイクル部で、穏城・出3.jpgこの上にある6本波線部は機械の送りエラーで印刷されていません。

局名の「出」は出張所の略で、朝鮮の穏城局南陽出張所を表します。満州との国境の図們江(豆満江)に面した咸鏡北道穏城郡柔浦面南陽洞に昭和9(1934)年4月16日に開設*されました。朝鮮の「面」は日本の村、「洞」は字(あざ)に当たるようです。別のはがきから櫛型印の方を右下に示します。南陽出張所は翌1935年10月1日に昇格して穏城/出.jpg南陽局となっています。
*正確には郵便取扱開始。末尾の【追記】をご参照下さい。

機械印研究者の関利貞氏著『林式郵便葉書押印機による印影について(中編)』(2001年)の唐草印使用局リストには南陽出張所はなく、昇格後の南陽局で11年1月1日のデータのみ載っています。日本内地と朝鮮を通じて出張所の唐草印データは同書に見当たらず、この年賀書状が初出のようです。9年正月にこの出張所は郵便未開設だったので、唐草印の使用は10年年賀用の一回限りだったと思われます。

穏城局ですら朝鮮の専門家しか知らないような山深い辺境の局です。まして出張所が開設された南陽はさらに辺鄙な小集落に過ぎません。そんなド田舎の出張所に、なぜ当時としては貴重で希少な郵便押印機が導入されたのでしょうか。NANYO2.jpg

明確な資料は未見ですが、南陽局が1935年12月に「満洲国」図們局との間の外国郵便交換局に指定されたことと関係がありそうです。交換局としての南陽局は「NANYO」の欧文印(右図=荒井氏の後述書より)を使ったことが知られています。そして、郵便交換は鉄道の開通で始まったと思われます。

南陽地図_2.jpg南満州鉄道会社(満鉄)が1938年に作成した鉄道線路図によると、満州の京図線図們駅と朝鮮の北鮮線南陽駅とが直結されています(左図)。両線とも満鉄の委託経営線でした。地図にはありませんが、南陽駅の二つ北(図では上)隣が穏城駅です。図們から図們江を鉄道橋で渡る連絡線を敷くと南陽に出るので、そこに新駅を作り、郵便局出張所も開設された、という順序だったかも知れません。

この年賀状を発信した図們守備隊は、もちろん満州側、関東軍の部隊ですが、満洲国の図們局ではなく川向こうの朝鮮局にわざわざ持ち込んでいます。北上して新京や奉天を経由する本来のルートより、朝鮮側に南下して会寧、清津経由で日本海を渡り、新潟に送った方が遙かに速達するからです。

南陽では独立局に昇格して正式な交換局に指定される以前から、事実として交換局に等しい役割を果たしていた模様がうかがえます。田舎の一出張所に過ぎないのに押印機が導入されたのも、当然の流れだったと言えそうです。

これとよく似た満鮮国境での別のケースについて、以前にも本ブログ「朝鮮局で取り扱う満州辺地便」(2014年2月19日)で書いたことがあります。関心をお持ちの方はこちらもご参照下さい。
                   
(本稿執筆に当たり、荒井國太郎氏『思い出の消印集』(1973年、日本郵便史学会刊)を参照しました。)
                   ☆
追記】(2021.07.01)鉄道郵便専収家の林志明氏から朝鮮総督府告示などにつきご教示いただき、南陽駅と南陽局開設の前後関係を次のように整理できました。林氏に感謝します。
 1932.11.01 北鮮線穏城-豊利間延伸、豊利駅開業
 1932.12.01 北鮮線豊利-南陽間延伸、南陽駅開業
 1933.02.16 南陽駅構内に南陽電信取扱所開設
 1933.04.20 満州・敦図線図們-南陽間連絡線開通
 1933.06.01 穏城局南陽出張所開設、南陽電信取扱所の電信事務移管
 1934.04.16 穏城局南陽出張所で郵便事務取扱開始
 1935.01.01 穏城局南陽出張所で機械印使用
 1935.10.01 南陽局開設(穏城局出張所が昇格)
 1935.12. - 南陽局を図們局との外国郵便交換局に指定

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2021年06月25日

「東芝ゼロ円」は無罪?

チラシ2.jpgヤフオクで商品説明に「参考品」「レプリカ」などと記しただけで済ますニセ切手がひところ我が物顔してはびこり、苦々しい限りでした。今年に入って警視庁保安課が1月、5月と立て続けに出品者を摘発したため、ようやく下火に向かいつつあるようです。

やれやれと思っていたら、関西の有力切手商A氏がこの事件についてブログで意外な「考察」を発表したのに仰天しました。それに誘われたように、つい最近、別の切手商B氏が「東芝ゼロ円模擬切手」を販売するチラシ(左図)をオークション会員に配りました。実はこれ、郵便切手類模造等取締法(以後「郵模法」)違反になりかねないヤバい話なのです。

警視庁が摘発した2事件がこの郵模法(クリックで条文表示)違反の容疑でした。郵便料金として使うための切手偽造は昔から郵便法第29条違反ですが、郵趣家目当てに古切手や「切手まがい」を模造・製造したり販売しても郵模法第1条違反に問われます。郵模法は郵便切手類の信用維持が主な目的で、違反者には最高1年の懲役や罰金刑(第2条)が科されます。

警視庁が5月14日に書類送検した2件目の事件では、横浜市の古物商(53)ら8人が「見返り美人」「ビードロを吹く娘」などのカラー印刷模造品や「旧郵政省が試し刷りした非売品の切手」をネットオークションで販売した疑い、と発表されました。この「試し刷り切手」とは「東芝ゼロ円模擬切手」のことでした。

1960年代中ごろから70年代初めにかけて、日立、東芝、NECなど大手電機メーカーは郵便物自動処理機の開発を競い合っていました。「東芝ゼロ円」はそこで使われた多くの実験用模擬切手の一種です。当時現行の「7円金魚」、「50円弥勒菩薩」の図案で、ホンモノと同じ大蔵省印刷局で66年ごろ製造されました。違いは額面「0」円と色検知バーなどです。

5月18日に更新したブログでA氏は「法的考察」をし、郵模法に抵触しない(違反にならない)ものとして次の具体例3点を挙げました。

 A、郵模法制定の1972年12月以前に製造されたもの(法令不遡及の原則による)
   例:菊切手の郵便目的用の偽物、手彫・旧小判の和田製の模造品・新昭和の輸出用の
     リプリント・切手経済社の月雁と見返りの摸刻
 B、郵政大臣(現・総務大臣)が認めた関連品
   例:全てのみほん切手・エッセイ・プルーフなど
 C、郵便切手でない印紙・シール・ラベル・証紙類
   例:村送り・坂東ラーゲル・印紙・証紙

A氏は「東芝ゼロ円」はこのA、B(あるいはCにも)に当たり、郵模法に抵触しないと考えているようです。この事件は「絶対に無罪だし、検事がストップを掛けて不起訴でしょう」と断定しました。しかし、GANに言わせればこれらは「トンデモ解釈」です。起訴、または略式起訴される可能性が非常に高い。少なくとも「嫌疑不十分」とはならないと思います。

法令不遡及という原則は確かにありますが、遡及しないのは製造、販売、使用などの「行為の時点」についてです。「法制定以前に製造された品」「大臣が認めた品」など「対象物」の全般的免責を指すのではありません。しかも、「東芝ゼロ円」は実験目的からして郵模法第1条第1項の「(郵便切手類に)紛らわしい外観を有する物」に作られています。たとえ東芝自身であっても、販売などしたら直ちに違法性を問われかねません。

ブログ記事が出た直後、全く知らない仲でもないA氏にGANは「法解釈が間違っていませんか」とメールで疑問を呈し、2、3のやり取りもしました。しかし、結果的にA氏には通じなかったようです。実際、B氏がこのような模擬切手販売チラシを配布するに至りました。残念なことです。
                   ☆
追記】(2021.07.12)関西の有力切手商A氏が7月9日に自身のブログを更新して「東芝ゼロ円」事件に関連し、再び郵模法の(新?)解釈を示しました。

「郵摸の法文は一条しかなく解釈に迷いません。紛らわしい外観を有する物を摘発の対象にし、適用外要件も明示しています。」というのです。これでA氏の「トンデモ解釈」の原因が分かりました。A氏は「犯罪構成要件」という概念をご存じなかったのです。刑法関係犯罪を構成する不可欠な要件は何かを決める「基本のキ」というべき考え方です。

郵模法第1条が規定する犯罪構成要件は次の3点となります。これを同時に満たさない限り、犯罪にはなりません。
 1、郵便切手類に紛らわしい外観を有する物であること(客体)
 2、総務大臣の許可を受けたものではないこと(客体)
 3、製造、輸入、販売、頒布、郵便使用すること(実行行為)

A氏はこのうち客体(対象物)だけ、しかもこの第2点目だけを強調して「無罪」説を主張しますが、根本的に「解釈に迷って」います。第1に「紛らわしい外観を有する物」というだけで摘発されるのではありません。第2に、許可されたのは東芝が製造することでした。今回の横浜の古物商による転売行為は二重に許可外で、ただちに第2点目に当たります。

あくまでもGANの素人判断ですが、第2点目の条文が平仮名で「もの」とされているのは、「者」にも「物」にも適用されるからではないでしょうか。古物商は主体として許可を受けていない者であり、客体としては許可を受けていない物を販売(実行行為)したと警察は判断していると見られます。

結局、この「東芝ゼロ円」事件は犯罪構成要件の上記3点を外形的には完全に満たし、摘発の対象となり得ます。個人的な意見の表明はもちろん自由ですが、A氏は「法的考察」以前に、共有すべき「法的常識」を学ぶべきでした。
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2021年05月25日

樺太占領作戦艦船郵便所

KOLSAKOV_2.jpgKOLSAKOV_1.jpg日露戦争最末期の樺太占領作戦に海軍から参加した郵便所があったことが分かりました。通信船の大義丸、次いで営口丸に開設された第4艦船郵便所です。艦船郵便所のほとんどは日本と朝鮮、満州方面を結ぶ艦船内に置かれたので、樺太進出は唯一の例外です。

大義丸(1,568トン)は大阪商船所属、営口丸(1,966トン)は日本郵船の所属汽船です。共に開戦直前の1904(明治37)年1、2月に海軍にチャーターされ、佐世保軍港と朝鮮南岸の鎮海湾との定期連絡に当たっていました。鎮海湾は開戦後、聯合艦隊の最大の根拠地でした。

ロシア領樺太の占領作戦は米ポーツマスで日露講和会議が始まる直前、陸海軍合同であわただしく開始されました。海軍では聯合艦隊から第3艦隊と第4艦隊、それに第1艦隊の第1駆逐隊が分遣され、「北遣(北海派遣)艦隊」と呼ばれます。艦隊の総指揮官は片岡七郎第3艦隊司令長官が務めました。使命は陸軍の攻略部隊・独立第13師団の輸送護衛と上陸援護です。

独立第13師団は北遣艦隊に護られて05(明治38)年6月29日に青森県大湊港を出撃します。7月8日に南部樺太の港湾都市コルサコフを占領、北部樺太最大のアレクサンドロフスクも7月24日に占領し、戦闘は7月末までに終了しました。陸上作戦の一段落後も、北遣艦隊には北樺太沿岸封鎖、オホーツク沿岸やカムチャツカの偵察などの任務が続きました。

一方、日本海海戦の勝利で聯合艦隊の根拠地が鎮海湾から対馬の竹敷に移り、佐世保と鎮海湾との定期連絡は廃止されました。通信船大義丸は05年7月25日に北遣艦隊への転用が命じられ、8月8日にコルサコフに進出しました。大義丸には第4艦船郵便所が設置されており、アレクサンドロフスク-コルサコフ-小樽間を月に2往復して郵便逓送に当たりました。

その後、僚船の営口丸が大義丸との交代を命じられました。両船は9月10日に小樽港で引継を行い、第4艦船郵便所も営口丸に移設されました。交代後、大義丸は佐世保軍港に帰港して解傭されました。さらに後、第4艦船郵便所も佐世保に帰って11月8日に廃止され、その直後に営口丸も解傭されています。

上図の書状は第4艦船郵便所が明治38(05)年10月6日に引受け、佐世保に宛てた軍事郵便です。発信アドレスに「新版図九春古丹碇泊/軍艦満州丸」とあります。九春古丹クシュンコタンはコルサコフの日本名で、後に大泊と改称されました。9月5日に調印された日露講和条約で樺太南部が割譲され、新たな版図(日本領)となったことを早くも表しています。

発信者が乗る「満州丸」とは、ロシアの東清鉄道汽船会社が戦前にダルニー(大連)-上海間で運航していた汽船「マンジュリア(満州)」(3,916トン)です。この会社は満州の東清鉄道を経営する東清鉄道会社の子会社でした。マンジュリアは修理のため長崎入港中に開戦となって日本海軍に接収され、05年3月に艤装が終わって仮装巡洋艦になっていました。

05年9月から上京不在中の片岡長官に代わって出羽重遠第4艦隊司令長官が北遣艦隊を指揮し、第4艦隊の旗艦が満州丸でした。艦隊に小樽方面警備の新任務が命じられたため、出羽長官は10月7日に満州丸で九春古丹(コルサコフ)を発し、8日に小樽に入港しています。休戦も講和も成立した後なので、これは北遣艦隊の実質的な任務解除でした。
第4艦船_3.jpg
この書状は裏面の書き入れから、満州丸が九春古丹を出港する直前の10月5日に発信され、翌6日に営口丸の第4艦船郵便所で引き受けられています(左図)。営口丸は航海表に従って6日九春古丹発、8日小樽に入港しているので、結果的に満州丸と同じ航程となりました。発信者が小樽に着いてからこの書状を出しても、宛先の佐世保到着は同じ10月12日だったはずです。

北遣艦隊は05年10月10日、東京湾で予定されている凱旋観艦式参加のため全艦に帰還を命じました。営口丸は10月10日に九春古丹を出て11日に小樽に着き、これが樺太での最後の航海となりました。第4艦船郵便所の樺太での引受郵便物は希少で、大義丸時代のエンタイアは知られていません。
                  ☆
本稿で北遣艦隊や各艦船の行動の詳細は海軍軍令部編『極秘 明治三十七八年海戦史』第3部第1編第2章「樺太占領」、北遣艦隊作戦班編「秘 北遣艦隊告示」、「第四艦船郵便所事務日誌」に拠りました。「日誌」を除く2件はJACAR(アジア歴史資料センター)でネット公開されています。
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2021年05月18日

哀惜・丸一印の田中さん

田中寛.JPG丸一型日付印収集と研究の第一人者として知られる田中寛さん(=2012年の切手研究会総会で)が4月29日に逝去されました。正しいお名前は「ゆたか」だったかと思いますが、だれからも「カンさん」で愛され親しまれていました。少し年長の収友であり、同じ日本郵便史の研究仲間として、もう半世紀ほどのお付き合いをいただいて来たので、本当に残念です。

田中さんを再認識したのは、彼の処女作である『たて書丸一印考』(右下=1975年、むさしスタンプ)を贈られ読んでからです。それまでは、都心のデパートで毎年数回開かれる切手市に並び、開店ダッシュで切手商ブースまで競走し合う、単なる常連同士に過ぎませんでした。

目指すブースには絶対に一番乗りせねばなりません。運悪く新着エンタイアの束を田中さんや、やはり常連の秋吉さんらに先に抜かれたら、もうクズ同然となってしまうからです。一段落後は近くの喫茶店に移って戦果を誇示し合うのが常連同士の楽しい慣例でした。

たて書丸一印考.jpg当時の消印党は、丸一印も含めて二重丸印から櫛型印まで、形式上の違いの分類に終始していました。国名か都市名か、年号や局種をどの欄にどう表示するか、などです。分類形式をABCなどのラテン文字や数字、カッコ類などの組み合わせで記号化し、詳細・複雑なほど「高級」とされました。その悪しき典型例を最近ではJPSの『日本郵便印ハンドブック』(2008年)に見ることができます。

丸一印は郵便用の横書き印が本流です。為替事務用の縦書き印は格下の「非郵便印」としてひと括りにされ、不人気でした。田中さんは敢えてその「傍流」に着目したのです。郵便法制上の取扱の変遷を克明に追い、それが消印形式の変化に忠実に反映されていることを豊かなコレクションの実例で明かしました。消印の変化やバラエティは法制や運用上の変更による地方的編年として説明できることを初めて実証した点に、この本の画期的な意義があると思います。

中野の料理屋の二階に大勢の収友たちが集まって出版祝賀会が開かれました。GANは指名されて田中さんの地道な研究が本になった意味について、つい熱を入れて語ってしまったことを思い出します。「郵便史的消印調査方法の教科書」「消印研究のコペルニクス的転回」などと言ったかも知れません。こういう仕事こそGAN自身がしたかったことなので、「先にやられた」と、ちょっぴり悔しく感じたことも白状しておきます。

本筋の(郵便用)丸一印については、後に雑誌『フィラテリスト』での連載を『丸一印の分類と楽しみ方』(1986年、日本郵趣出版)としてまとめ、田中さんの代表作になりました。今日でも丸一印収集のバイブルとして丸一印人気に大きく貢献していることは、丸一印の収集家・研究者ならだれでもご承知の事実です。

GANはついに門外漢に終わりましたが、田中さんは小判でも菊切手でも二重丸でも丸一印でも、何時のどの地方の使用状況でも知っていて、聞けば惜しみなく教えてくれました。偉大な物知りだった頼れる収友を失って、これからは心細くなります。寂しいです。
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2021年05月11日

郵便配達を隣組が肩代り

逗子2.jpg逗子1.jpgのはがきは終戦直後の昭和20(1945)年8月17日に大分県高田局で引き受けられたものです。宛先は神奈川県逗子(当時は横須賀市の一部)で、表面中央部に「逗子第四町内会」と紫色の印が押されています。

太平洋戦争最末期の日本は全国の主要都市が米軍機による空襲(無差別爆撃)を受け、郵便逓送路は崩壊寸前でした。郵便職員の多くは戦場か軍需工場に動員され、臨時の女性職員に外勤作業は任せきれません。郵便サービスの中核とも言うべき郵便物の戸別配達さえ危うく、何らかの対策が必要でした。

郵政当局(当時は運輸通信省の外局の通信院)は45年1月17日に運輸通信省令第2号「戦時、事変又ハ非常災害時ノ郵便業務運行ニ関スル件」を出しました。この第4項で空襲を受け大混乱中などの場合には郵便配達を止め、郵便物の窓口交付や「郵便局指定ノ場所」に配達できる、と定めました。指定場所は隣組・町内会の事務所や代表者宅が想定されていました。

これは俗に「隣組一括配達」と呼ばれます。郵便局から郵便物を受け取った隣組では組員を集めて郵便物を手渡したり、あるいは係を決めて戸別配達しました。隣組配達をするかどうかは郵便局がそのたびに局内に掲示を出せば済み、報告も不要でした。このため、どの郵便局がいつ実際に隣組配達を行ったかという記録は残っていません。
逗子3.jpg
上に示したはがきの「逗子第四町内会」印()は隣組一括配達に回された郵便物であることを示すものと思います。押印位置などから差出人が押したとは考えられません。配達局の逗子局が宛先は「逗子第四町内会」に含まれると判定した区分印でしょう。他の同地区宛て郵便物と一括して町内会事務所に持ち込んだと思われます。

紫印の下に赤ペンで「ナシ」と読める書き込みがあります。町内会で調べて該当者がいなかったり、戦災で他所に転出して現在は不在であることを示すものかも知れません。しかし、返戻付箋の跡や他の書き込みはなく、結局は無事に届いたと考えたいところです。いずれにせよ、町内会の印からこのはがきが隣組配達された可能性は濃厚です。

隣組.jpg関連してもう1通のエンタイアを示します。は滋賀県醒井局で45年6月22日に引き受けられた東京・世田谷代田宛ての書留速達扱い封緘葉書です。宛先アドレスは通常の所番地に加えて「(代田二丁目西町会第五班三十三隣組)」と隣組名までも「余計に」書かれています。

東京は空襲の最大の標的だったので、世田谷代田もいつ焼け野原になるか知れません。これは隣組配達となる事態をあらかじめ想定して書き込まれたのではないでしょうか。もちろん差出人の思い付きではなく、受取人から事前に依頼(指示)があってのことでしょう。

都内区部の各世帯には区役所や郵便局などから「郵便物のリターンアドレスに隣組名も加えるよう」指導が出ていた可能性が考えられます。しかし(想像ですが)この封緘葉書が実際に隣組配達されることはなかったでしょう。
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2021年05月05日

日中戦初期「野戦電報」

平津通信総局1.jpg日中戦争の初期に京都から北支派遣軍の兵士に宛てた電報です。右下の丸二型赤色印「天津/通信総局 12.11.13」は昭和12(1937)年11月13日に天津で配達されたことを表します。実質的な「野戦電信局」による「野戦電報」です。

日中戦争は1937年7月7日の北京(当時は北平)郊外芦溝橋での日中交戦が発端でしたが、戦火は7月29日に天津に広がりました。南京の中華民国政府(国府)交通部に属する市内の郵便局、電報局、電話局など通信機関の職員はほとんどが避難したため、外国租界を除く全市が通信途絶状態となりました。

戦争の前から北平・天津(平津)地区に駐屯していた支那駐屯軍はすぐ通信網再建に着手します。日本軍との協力組織の天津治安維持会に指示し、電信・電話業務を管理する「平津通信総局」を天津に開設させました。通信総局は一切の業務を満州電信電話株式会社に委託し、満州電電の派遣員によって運営されました。満州電電の通信系が実質的に華北に拡張されたことを意味します。上の電報も満州電電の透かしが入った電報専用白紙が使われています。

通信総局は8月7日に国府交通部の天津電報電話総局の接収に着手しますが、失敗します。フランス租界内にあったため、治外法権を楯に拒否されたのです。接収をあきらめた通信総局は8月20日に日本租界内に通信総局電報局を新設しました。この電報局は山海関を経由して日本・満州との間に日中両文による送受信をしました。

この後、通信総局は支那駐屯軍の命令を受けて河北省東部の北平、豊台、通州、塘沽、唐山などで中国側電報局を次々と接収し、業務を再開させていきます。これらはいずれも駐屯軍の地域内の主要都市です。各電報局では日本人幹部の下で中国人職員も採用されました。一方、接収を免れた国府交通部の電報総局は業務を日本側に奪われ、自然消滅の形で38年1月に閉鎖されました。

このように、平津通信総局は形式上は中国側の天津治安維持会の下部組織ですが、実質的には支那駐屯軍の「軍用電信電話管理局」として機能しました。上の電報は恐らく兵站病院に入院中の兵士に宛てたと見られますが、戦闘中の個人宛て私用電報は、このような「野戦電信局」でもない限り扱われなかったでしょう。

日本軍が華北の主要都市を占領していく中で1938年1月1日に北京(北平を再改称)に華北電政総局が開設されます。支那駐屯軍の後身の北支那方面軍の管理下で、平津通信総局などの臨時機関を統合して華北の電信電話業務(電政)を一元化しました。電政総局はさらに7ヵ月後の8月1日、日本の傀儡政権・中華民国臨時政府(王克敏首班)による日中合弁の華北電電会社に改組されます。平津通信総局、華北電政総局が運営した約1年間が「野戦電信局」時代と言えそうです。
                   ☆
本稿は主として外務省東亜局第1課編『支那事変関係執務報告』上巻第3冊(1937年)、北平陸軍機関編『北支事変解決後ノ處置』(1937年)によりました。共にJACAR(アジア歴史資料センター)の公開資料です。
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2021年04月18日

軍事郵便に消印省略開始

11年年賀改_2.jpg11年年賀改_1.jpg日本軍事郵便の収集家の間で日中戦争期や太平洋戦争期は不評です。この時代の軍事郵便には消印が押されないのが普通で、いつ、どこから発信されたものか分かりません。

切手展に出展を目指す人にとっては、郵便史部門の3要素とされる「料金、経路、郵便印」のうち料金はもちろん郵便印さえも欠いて、腕を振るう余地が制限されます。「軍事郵便は出展に不向き」と敬遠される理由ともなっています。消印省略2.jpg

これを逆に見ると、消印がない軍事郵便でも発信地や時期を割り出し、第三者にも納得させる技量こそが「見せ場」となります。まあ、審査員諸賢らにその理解力を求めるのはムリというものでしょうが。―― そういった面倒な話は今回は棚に上げて、いつから、なぜ、軍事郵便に野戦局などの消印が押されなくなったのかを考えて見ます。

軍事郵便への押印省略の開始は、一般に言われている「日中戦争開始時(1937年7月)から」ではありません。満州に駐屯する関東軍が1935(昭和10)年12月1日から軍事郵便の消印の「押捺ヲ省略スルコトニ致シ候」と陸軍省に通知(11月28日付關副乙第1167号=右図)していたのです。

例年、年賀状の特別取扱は12月上旬に始まります。関東軍将兵からの大量差出が始まる直前のタイミングで決定したのでしょう。以後、1945年の敗戦時まで軍事郵便の消印省略は続きます。冒頭のはがきは、この通知に基づいて消印を押さなくなった最初の軍事郵便年賀状です。「昭和11年元旦」とはっきり印刷されています。
奉天/9-1.jpg
比較のためこの前年、昭和10年の関東軍兵士からの年賀状もに示します。日付印の局名「奉天局第9分室」とは熱河省朝陽の野戦局です。これが満州で年賀特別取扱を受けた軍事郵便に消印が押された最終使用例です。新京と四平街局の分室でも同様でした。だから、昭和11、12年の元旦印を持つ分室(野戦局)の年賀状は存在しません。

これらの実例から、消印省略は日中戦争から始まったとする通説が誤りなのは明らかです。省略した理由も、従来は「軍事機密が漏れるのを防ぐため」とする考えが有力でした。しかし、1935年当時の満州と関東軍は平穏で、とくに軍機漏洩を恐れる状況にあったわけではではありません。理由は単純に「省力化」だったでしょう。

ところで、関東軍の「押印省略」通知に対応する逓信当局の告示・公達類は見当たりませんでした。軍事郵便を取り扱う野戦局だけの問題ですが、関東軍の一存で決定できるはずもありません。関東逓信局が関与したことは疑いなく、その関連資料の発掘が今後の課題です。
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2021年04月01日

玉砕した拉孟守備隊から

金光部隊.jpg金光部隊_2.jpgの軍事郵便はがきは中国雲南省の拉孟らもうから発信されました。拉孟の日本軍守備隊は内陸部なのに孤立無援となり、玉砕した部隊として太平洋戦史上有名です。

発信アドレス「ビルマ派遣 龍第6739部隊」の「龍」は第56師団を表す符号であり、「6739」は野砲第56聯隊の部隊番号です。しかし、中国にいた部隊からというのに肩書きが「ビルマ派遣」とは、どういうことでしょうか。

私たちの常識ではビルマと中国とは大きく離れた別の国ですが、実は両国は内陸部の奥深くで背中合わせになっています。ビルマ東部を南北に貫流してインド洋に注ぐ大河・サルウィン河は上流では中国を流れ、怒江と呼ばれます。雲南省は怒江を西に越えてビルマ側のシャン高原上に大きく張り出しています。拉孟はシャン高原の東端、怒江を渡る恵通橋を見下ろす断崖上にあり、英領ビルマと中国とを結ぶ交通の要衝でした。

太平洋戦争初期、日本軍はビルマ側から侵攻して雲南省の「張り出し」地域を占領しました。ビルマから中国の蒋介石政権に援助物資を送り込む「最後の援蒋ルート」だったからです。日本軍は占領した北部ビルマと「張り出し」地域とを合わせて「北緬ほくめん=北部ビルマ」と呼び、第56師団を含む第33軍が守備しました。

前置きが長くなりすぎました。このはがきがなぜ拉孟守備隊からと断定できるかというと、アドレスに「金光部隊」の文字があるからです。金光恵次郎少佐は野砲56聯隊第3大隊長で、拉孟守備隊長を務めました。この大隊が拉孟守備隊の最大兵力だったからです。金光部隊とは拉孟守備隊そのものでした。

やや厚手の洋紙を切り「郵便はがき」のスタンプを押して代用はがきとしていることなどから、日用品も逼迫した1944(昭和19)年1月23日の発信と思われます。拉孟から龍稜の第301野戦郵便所第2分所まで不定期連絡便で運び出されたのでしょう。最奥地の最前線だった拉孟からの、これが最終便になったかも知れません。

拉孟守備隊の主力は本来は歩兵第113聯隊でした。1944(昭和19)年5月に拉孟と並ぶ北緬の要地だった龍稜、騰越の守備が危うくなったため同聯隊は救援に回り、野砲56聯隊第3大隊など千名前後が残されました。拉孟は翌6月から怒江を渡河した中国の雲南遠征軍第6、8軍によって攻囲されます。遠征軍は4万名を超え、米式訓練・装備の最新鋭部隊でした。

守備隊は40倍の中国軍と3ヵ月間戦い抜いた末、9月6日に金光守備隊長が戦死し、残る80人の傷病兵も翌日全滅します。この間、日本軍は拉孟に一兵も増援できず、南方総軍、ビルマ方面軍、第33軍司令官が守備隊の武勲を称える「感状」を電報で送るばかりでした。
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2021年03月29日

台湾三角錐山非常通信所

三角錐山.jpg「三角錐山」の台湾非常通信所エンタイアが初めて世に出ました。未知の非常通信所の存在が知られるのはこれが初めて、1世紀の時を経ての出来事です。

台湾の林志明氏が日本語ブログ「鉄道郵便印の備忘録」でごく最近に公表しました。先に発表していた日付印の印影に続き、はがきの全影が掲載されています。同氏のご好意で、その非常通信のはがき(右図)を転載させていただきます。林氏は中国と戦前の日本の鉄道郵便の専門家として知られます。

これは大正3(1914)年8月10日に「松山稜司令部」から台北に宛てた私製絵はがきです。切手貼付位置に角枠「非常通信」の朱印が押され、「台湾・三角錐山/非常通信所 3年8月12日」の台湾櫛型日付印があります。台湾総督府が1914年夏に行った原住民タロコ族に対する大規模な討伐作戦時のものです。

GANは当初、この日付印の不鮮明な局名を「三角錐山」と読むのには抵抗がありました。しかし、林氏のご教示を元に手持ちの詳しい地図を調べて、この地名が実在することを確認しました。下の地図の中央上部に8229尺(2,494m)の三角錐山が描かれています。地図の左中央部にある「西麓倉庫」に三角錐山非常通信所が開設されたと見られます。

タッキリ渓概念図.jpg国立公園切手で知られるタッキリ渓は台湾東岸部、花蓮港北方の新城に河口があります。それを遡るとブロワン社などタロコ族集落を経て三角錐山中腹を抜けます。さらに遡って、左岸からの支流タウサイ渓との合流点上流側に「西麓倉庫」はありました。

正確には「三角錐山西麓倉庫」で、作戦ルート上の主要な兵站基地でした。はがき発信者のいた「松山稜」はタウサイ渓を遡った地点にあったようです。タッキリ渓の上流、討伐軍司令部が置かれたセラオカフニをさらに登って合歓山や嵜莱主山が連なる中央山脈を西に越えると、埔里社、台中方面に出られます。

タロコ族討伐作戦で開設された非常通信所は埔里社など8個所の名前が知られています。「セラオカフニ非常通信所」は告示はないものの他の資料で言及され、片手ほどの数のエンタイアも知られていました。エンタイアはもちろん名前さえ知られていなかった非常通信所は三角錐山以外にありません。

告示が出された7個所の非常通信所はいずれも中央山脈上とその西側です。セラオカフニ、三角錐山など中央山脈の東側(タッキリ渓流域)については、本来出るべき告示がなぜか出ていません。今後は新資料が発掘されて未知の-たとえば「ブロワン非常通信所」など-が現れないとも限らなくなりました。楽しみなことです。
                    ☆
本稿の執筆に当たっては賀田直治著『臺灣中央山脈横断記』(1914年)を参照しました。
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