
右図の書状と左下図のはがきは共に間島省の省都・延吉から差し出されていて、いわゆる「日本製丸二型印」が押されています。年号は共に康徳で、右は「間島省/元年(1934=昭和9)12月24日/延吉」、下は「間島/2年(1935=昭和10)1月19日/延吉」です。つまり、上図の日付印が1ヵ月足らずで下図のように変化したことになります。

当初は「東北3省」と呼ばれた奉天、吉林、黒竜江省で発足した満州国は、1934年12月1日に地方行政組織の全面改編を実施しました。以後、崩壊までの13年間に複雑な離合集散を何回も繰り返して混乱を極める、その第1回目です。新たな黒河、龍江、濱江、三江、吉林、間島、奉天、安東、錦州、熱河省と興安省が生まれ、11省体制となりました(興安4省問題は省略)。
初めからの吉林、奉天省と中途で成立した熱河、興安省とを除く黒河以下の新設7省にも「○○省」と上部に表示した従来型の「省名入り日付印」が12月1日から導入されました。7省管内の全局が一斉に使用開始できたかはよく分かっていません。しかも、この日付印はすぐ廃止され、わずか40日間の短命に終わっています。
地方組織改編直前の34年11月23日、「満州国」と中国(中華民国)との間で「満華通郵協定」がようやく妥結し、35年1月10日からの両国間の郵便交換再開が正式に決まりました。協定中には「現行の(満州国が定めた)省名のある日付印は使用しない」という趣旨の1項があり、満州国は通郵実施を前に、急遽「省」字のない日付印への切り替えを決めました。


はがきに押された「省」削り延吉局印(上図右)もこうして生まれたものです。仮に1月末までに新たに調製した正規の「省字無し日付印」が支給されたとすると、「省」削り印はわずか20日間程度の超短命な臨時印だったことになります。書状の「省入り」印(上図左)と並べると、「削り印」の削りっぷりがよく分かります。削り漏れたごく一部が残っているのが見えます。
この丸二型「省字無し日付印」も「大きすぎて使いにくい」という現場の声で、翌36年(昭和11)から日本と同じ櫛型印に切り替えられてしまいます。日本製丸二型印最後の1年強のドサクサぶりは、新国家誕生のそれを見事に反映した結果となりました。
本稿の執筆にあたり、共に満州国切手と郵便史の専門家である織田三郎氏の「満州国の省名入り丸二型日付印について」(『関西郵趣』、1978年)と穂坂尚徳氏の「『満州国』の消印と使用状況」(『日本郵趣百科年鑑85』、1985年)を参考にさせていただきました。