

しかし、ここほど軍事郵便の収集家・研究者を泣かせる地域もまたありません。アリューシャン撤退後に関係部隊がすべて廃止や改編されたため、当時の部隊記号(通称号)を読み解く資料がまったく失われてしまいました。通称号は陸軍の軍事郵便アドレスとして必ず使われるので、解読できないと部隊名が分かりません。
そんな中で、いくつかあるアッツ部隊の通称号解明を1件だけですが増やすことができました。上図は最近GANが入手したはがきで、発信アドレスに「北海派遣 北部第八十三部隊気付」と書かれています。この通称号「北部83部隊」とは、アッツ守備隊の主力として戦い全滅した「北千島要塞歩兵隊」と分かったのです。

隊長自身が記しているのですから、北部83部隊の正式名は「北千島要塞歩兵隊」以外にあり得ません。この部隊は1941年(昭和16)7月に札幌で編成され、9月に北千島の占守島別飛に派遣されて駐屯していました。42年10月にアリューシャン作戦に転用されてアッツを占領し、「米川部隊」と通称されました。
ところで、GANのはがきは米川部隊長からのものと少し異なり、「北部83部隊気付」と「気付」が付いています。これは何を意味するのでしょうか。ここでの「気付」は、歩兵隊本隊でなく、歩兵隊の「指揮下に配属された別の部隊」の意味で使われていると考えました。
通信文に「昨年の四月、北鮮の国境より帝都の防空設備の為八月迄出張、東京生活も僅かで又北の一線に飛び出した」「内地よりの便りは上陸以来六ヶ月になるのにまだ何の消息も耳に出来ません」などと書かれています。工兵関係の兵士が43年4月末か5月初めに発信したと推定できます。
公刊戦史『北東方面陸軍作戦<1>』によると、米川部隊への配属部隊はそう多くありません。これは北千島要塞歩兵隊に従ってアッツに進出した「第24要塞工兵隊ノ1小隊」でしょう。小隊長荒井善之助少尉以下、恐らく数十人の小部隊だったと思われます。部隊長の1枚のはがきをキーに、多くのことが分かりました。