2020年10月20日

日独戦恤兵絵葉書に新種

新規-1.jpg日独戦争(第1次大戦)の際の恤兵絵はがきはこれまで陸軍大臣官房が発行した袋入り3種1組だけが知られていましたが、1世紀以上も経った今になって新種が出現しました。右図は今日届いたばかりのヤフオク落札品です。

絵面は提灯行列する群衆が主題で、上部左右に逓信省庁舎と皇居二重橋の写新規-2.jpg真を配しています。上部中央には月桂樹のリースを首にかけ翼を広げた金色の鷲が描かれてもいます。発行趣旨を表すような文字はありませんが、全体として戦勝を祝賀するような華やかな雰囲気です。

表面(宛名面)は洋風の横型です。日露戦争から太平洋戦争までの長期にわたって多種多様な恤兵はがきが発行されていますが、宛名面横型は他に例を見ません。切手貼付位置の角枠内に「恤兵はかき」、下部と左端に英文で次のような印刷があります。いずれも青色です。

ISSUED FROM THE RELIEF FUND BY THE I.J.WAR-MINISTER'S SECRITARIATE.
Printed by Toppan Printing Co.

「恤兵寄金により日本帝国陸軍大臣官房発行」「凸版印刷会社印刷」のような意味でしょうか。横書きに弱いGANには「FROM」と「BY」の関係をうまく訳出できません。絵面は写真を組み合わせた金色を含む多色印刷にエンボスを施し、大変手の込んだ作りです。明治末期から大正中期(震災前)に盛行した典型的な様式に見えます。

このような様式などから日独戦争時に発行された恤兵絵はがきと考えられます。補強する材料として、既に知られている日独戦争の恤兵絵はがきと同じ写真が今回の絵はがきにも使われていることを指摘します。

既知-1.jpgに示すのは既知の恤兵絵はがきの一種で、右上方の皇居二重橋の写真が今回のものと全く同じです。この既知のはがきは表面に日本語で「郵便はかき」「軍事郵便」「恤兵 陸軍大臣官房 凸版印刷株式會社印行」などと青色で印刷されています。複数の使用例があり、日独戦争の恤兵絵はがきと分かっています。

飛躍しますが、今回の絵はがきには英文が使われる一方で「郵便はがき」の表示がありません。この表記は内国第2種郵便物(はがき)には必須の要件でした。更に、日本のデザインとしてはなじみの薄い鷲が大きくあしらわれています。これらから、同盟国の英軍兵士用に提供されたものかとも考えられます。

今回の絵はがきの発行時期は二通りが想定されます。第1は既知の恤兵絵はがきに先行する初期の製造。既知の絵はがきはそれに続くシベリア出兵の恤兵絵はがきと形式が同じです。それらに先立つ試行的な作品という考えです。第2は逆に、既知の絵はがきの後の製造。図案がいかにも戦争に勝ち、それを祝うというテーマだからです。この場合は先述した英軍との関係が想起されます。

現段階ではどちらとも決めかねます。1種だけの単独発行とは考えられず、別図案の絵はがきやそれらの袋、実際の使用例などが出現するのを待って、更に考えたいと思います。
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2020年10月13日

北支有事へ朝鮮軍先遣隊

大邱-1.jpg大邱-2.jpg朝鮮の釜山局で昭和12(1937)年7月27日に引き受けられた軍事郵便です。普通、釜山局消印の軍事郵便は内地で動員されて大陸へ派遣途中の部隊からと決まっています。しかし、この書状はアドレスにより朝鮮内の大邱の部隊からなので、事情が一変します。

37年7月7日に起きた盧溝橋事件は日中戦争への引き金として知られますが、当初は偶発事件とされ、「北支(華北)事変」と呼ばれました。現地の支那駐屯軍と中国側との交渉で事実上は収拾されていたのです。それが陸軍内「拡大派」の策謀で近衛内閣が7月27日に内地3個師団を送る閣議決定をしたため、本格的な戦争に発展してしまいました。

--おおかたの通俗的解説書ではこのように説明されています。しかし、陸軍にはかねて「北支有事」が起きたら関東軍と朝鮮軍から各1個師団を応急派兵する計画があり、それが半ば自動的に発動されてしまいました。内地師団の動員当日にはすでに先遣隊が北平(北京)地区で中国軍に総攻撃を仕掛けていたのです。

先遣隊として朝鮮軍はまず7月13日に第20師団(竜山)を動員し、関東軍も派遣のための独立混成旅団2個を新編成しました。20師団は歩兵4個聯隊と騎兵、野砲兵聯隊が主力で、19日までに天津に集結しています。その部隊の1つが大邱駐屯の歩兵第80聯隊でした。先の書状の発信アドレス「大邱歩八〇」が、まさにそれです。

日中戦争では37年8月2日付逓信省告示第2226号で軍事郵便が正式に開始されました。注目すべきなのは、この書状が軍事郵便適用1週間前の7月25日に発信されていることです。先遣部隊の郵便は8月2日の前日までは有料のはずですが、この書状により実際には無料軍事郵便が先取り実施されていたことが分かりました。

8月以降の動員部隊の軍事郵便発信アドレスは「北支派遣〇〇部隊」と部隊長名で表記されるのが普通です。この書状には派遣方面がなく、直後から禁止される正式な部隊名(歩兵第80聯隊)を表記しているのが大きな特徴です。天津地区から戻る陸軍輸送船に搭載されて釜山に運ばれたと見られます。日中戦争の軍事郵便として最初期使用例になります。

発信者が所属する「山本部隊」は不明です。歩80「気付」とあるので80聯隊を構成する大隊や中隊名などではなく、動員に当たり聯隊に配属された小部隊を表すようです。なお、発・受信者は戦前・戦後にわたって活躍した高名な収集家兼ディーラー父子と見られますが、郵便史的には無関係です。
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2020年10月08日

安着を知らせた南方電報

彼南_01.jpg白紙にタイプ印字されただけの、ごくありふれた電報送達紙ですが、2行目に「ペナン」とあります。太平洋戦争中に日本陸軍が占領し、海軍も根拠地としていたマライ半島西岸の大都市・ペナンから発信された電報です。最近のヤフオクで入手しました。

南方占領地との公衆電報は1942(昭和17)年7月1日にジャワ(第16軍の軍政地)と、同15日にマライ・スマトラ(第25軍の軍政地)との間で始まったのが最初です。国策会社の国際電気通信に業務委託し、陸軍の軍用電信網を利用して開設されました。取扱地はビルマからニューギニア(マノクワリ)まで陸海軍占領地のほぼ全域の都市に及びました。

占領地との電報は従来の内国電報、外国電報、東亜電報(満州、中国などとの間)とは別の第4の電報系として、昭和17年逓信省令第78号により「帝国占領南方諸地域トノ間ニ発著スル電報」の名で新設されました。逓信部内でもとくに略称はなかったようですが、GANは単純に「南方電報」と呼ぶことにしています。

南方電報の料金は宛先の距離によって異なりますが、マライ宛ての場合の基本料金は片仮名5字で2円40銭、以後5字ごとに80銭増しでした。当時の内国電報基本料金は15字40銭だったので、電文15字で比べると40銭対4円=10倍と高額です。現地発内地宛てもこのような料金設定と考えられます。利用者は進出企業幹部や軍高官、報道関係者など極めて限られていたでしょう。軍用電報、報道電報と官報は私報より安く設定されていました。

南方占領地では日本軍軍政下の電信局(または郵便局)が地域内電報と共に取り扱いました。現地で配達された南方電報はこれまで未発表のようです。送達紙の形式やどのような日付印が押されていたのかに興味があります。

最初に戻って、この電報は1944(昭和19)年6月17日に東京・荻窪局が配達しています。電報には7行に渡って漢数字と片仮名の文字列が印字されています。1行目「三四七」の意味は不明ですが、荻窪局が扱った電報としての通し番号のようです。以下を解読してみます。

彼南_02.jpg2行目(左図)がデータとしては最も重要です。15日の午後1時にペナン局第34号電報として受け付けられたことを示すと見られます。3から5行目は宛先、最終の7行目は荻窪局で17日午後7時58分に「タ」職員が受信したことを示すのでしょう。ペナンから昭南中央(シンガポール)電信局、東京中央電信局を経由して2日と7時間ほどで荻窪に配達されたことになります。

電報の6行目が本文で、「ミナブジカコチラゲンキヨ(皆無事か。こちら元気)」とあります。最後の「ヨ」は発信者名です。ペナンに赴任した商社員か軍政要員などから留守宅への「安着通知」だったのかも知れません。全文15字なので、前述したように4円相当の電報料が支払われたはずです。発信者はあるいは内地電報と同じと誤解して、「基本料金」の15字に収めた可能性があります。

太平洋戦争中は軍公用以外に航空郵便は利用できませんでした。44年半ばともなると、軍事郵便と民政郵便(軍政下での一般公衆郵便)とを問わず、南方占領地と内地との郵便連絡は途絶寸前の状態です。高額料金にさえ目をつむれば、南方電報の利用が最も速く確実な、無二の手段でした。

 【本稿執筆に当たっては逓信省・国際電気通信会社編『南方通信早わかり』(1942年10月
  刊)を参照しました。】
posted by GANさん at 01:54| Comment(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする