2020年11月25日

神奈川平尾前郵便受付所

平尾前-1.jpg平尾前-2.jpgのはがきに押されている日付印は中央の日付欄に「.12.9.28」とあるだけで、局名も時刻もありません。上下の印体を入れ忘れた櫛型印のようにも見えます。いったいこれは櫛型印か、それとも櫛型がないから丸二印?

差出人の住所は「横浜東神奈川渡辺山」とあります。はがきが銘付き分銅であることから、関東大震災直後の大正12(1923)年9月28日に横浜市の東神奈川から発信されたことが分かります。この一帯は被災した神奈川局の受持区域でした。神奈川局が復旧して業務を再開し、このはがきを引き受けたのでしょうか。

関東大地震の直撃を受けた横浜市は家屋が軒並み倒壊し、続発した火災で全市が壊滅しました。横浜局と市内2等局の長者町、桜木、横浜駅前、神奈川の全局が一瞬にして機能を失ってしまいます。翌日から市内郵便システムの再建が始まりましたが、断片的な記録しかなく詳しい経緯は分かっていません。

信頼できる資料の一つ、「(公報)震災彙報いほう神奈川版」第1号(臨時震災救護事務局9月11日発行)によると、まず9日までに全市を網羅する8ヵ所にテント張りなどで郵便受付所が急設されています。はがきと書状だけ受け付け、東西2方向に区分して横浜港から軍艦など船で運び出しました。関東以北は東京の品川港へ、関西方面へは静岡県清水港向けでした。

8ヵ所の郵便受付所の一つに「神奈川平尾前」があります。神奈川局職員の独身寮と見られる「合宿所」が充てられました。「平尾前」は当時の横浜市神奈川町内の小字で横浜市域の北端部でした。現在の神奈川区平川町に当たり、JR東神奈川駅の500mほど西にある神奈川工高の場所になります。はがきの発信アドレスにある「渡辺山」も神奈川町の小字のようですが、当時の地図に見当たりません。

神奈川局が復旧したのは10月後半か11月初旬と見られ、C欄「★★★」の特異な日付印を使ったことが昔からよく報告されています。その前、9月から10月半ばぐらいの間に「平尾前郵便受付所」で使われたのが、この「丸二型様日付印」だとGANは考えています。似た使用例がこの地区で複数あることが根拠です。

ただし、神奈川局が意外に早く9月下旬には再開し、復旧局で最初に使ったのがこの日付印だった可能性も残ります。8ヵ所の郵便受付所がいつまで業務を続け、廃止されたのかを明かす資料がその後の「震災彙報神奈川版」も含めて見当たらないからです。

以下はGANの推測です。--神奈川局の廃墟から焼け残った日付印の印顆と数個の日付活字が見つかりました。最寄りの平尾前受付所でこの焼け残り印が活用されます。神奈川局の業務ではないので局名欄は空白とし、1日1回だけの発送なので時刻欄も不要でした。年活字「12」がないので、前に点のある月日活字「.12」で代用しました。

このような推測を重ね、最初に示したはがきは平尾前受付所で扱われた可能性が強いと考えられます。同じ時期に焼け残り日付印を回収して使った例は他に「横浜公園内郵便受付所」でも見られます。
posted by GANさん at 20:25| Comment(0) | 関東大震災 | 更新情報をチェックする

2020年11月16日

縦ペア連刷の恤兵絵葉書

長大はがき-2.jpg連刷恤兵絵はがき.jpg右図は2枚のはがきを縦に置いたのではありません。これは縦長な1枚の裏表。陸軍恤兵部が太平洋戦争初期に発行した恤兵絵はがきの1種です。

恤兵部は満州事変の当初から太平洋戦争末期までの長期間に無数の恤兵絵はがきを発行しましたが、2枚続きの連刷はこれだけです。印刷所としては通常の裁断工程を1回ずつ飛ばして注意深くカットしなければならない上に、二つ折りという余計な工程も加わります。官公需とはいえ、「勘弁してくれ」と悲鳴をあげたことでしょう。

画題は「コタバル敵前上陸」で、猛烈な砲煙弾雨の中を匍匐して海岸に突進する兵士らが描かれています。作者は戦前の大衆雑誌で挿絵画家として活躍した鈴木御水。太平洋戦争開戦劈頭のマレー半島奇襲上陸作戦に題を取っています。

原画は超横長で、恐らくメートル単位の大作だったのでしょう。10センチそこらの絵はがきに収まるように縮小したら何が描かれているのかさえ分からなくなってしまいます。次善の策としてこの形が採用されたと思われます。

このような連刷絵はがきは当時同じような戦争画を多数回発行した陸軍美術協会の絵はがきにも複数回見られます。発行者の意図は美術品としての鑑賞用で、使用時に二つに切り離すことが想定されていました。実際、こういった絵はがきの使用例はほとんど全部が切り離されていて、つながったままで使われた「完全品」はまず見られません。

普通にある往復はがきの形式は2枚横並びの「横ペア」ですが、この恤兵絵はがきは「縦ペア」です。このようなはがきに郵便局はどう対処したでしょうか。郵便法令上の便宜的措置として第1種の封書並みに扱われました。これが有料郵便だったら当時のはがき料金2銭切手1枚だけではアウトですが、封書料金4銭が貼られていればOK、となったはずです。

一方、無料の軍事郵便では取扱種類が「第1種:書状、第2種:郵便葉書」などと厳しく制限されていました。「葉書状のものの縦ペア」は第2種と言えず、もちろん書状でもない。違反郵便物ですが、まさか第1種封書料金の2倍、8銭もの未納料金を受取人から徴収するのも忍び難い。未納印や付箋の形跡などは見当たらず、「便宜有効」とされたのでしょう。

ところで、この恤兵絵はがきの発信アドレス「第1642部隊」は中国・長江沿岸の九江陸軍病院を表します。病院勤務の衛生兵が今は内地に帰還している元従軍看護婦に宛てて発信したようです。病院内外の変化を1年ぶりの通信で綴ったため長文となりました。あるいはこの当時、はがきの発信だけが許され、封書は禁止されていたのかも知れません。
posted by GANさん at 22:39| Comment(0) | ステーショナリー | 更新情報をチェックする

2020年11月05日

自社製の船内郵便日付印

36共同丸_01.jpg36共同丸_02.jpg「船内郵便/5.8.4/第三十六共同丸」の青印が下部中央に押されたはがきです。船内郵便印に丸二型(あるいは変形櫛型)もあったのか、これは新発見! ではなく、船会社の自家製「郵便印」です。

このはがきは阿波国共同汽船会社所属の貨客船「第36共同丸」で大連-青島線に乗務する船員が発信しました。大連局機械印で昭和5(1930)年8月4日に引き受けられています。通信文には世界大恐慌の中での海運不況に加えて中国銀貨暴落のダブルパンチなど興味深い内容に溢れていますが、それらは省略します。

この船員は復航最終日の8月4日、大連に入港する当日に船内郵便箱に投函したのでしょう。もちろん、船内郵便局が開設されていたわけではありません。入港後に担当事務員が開函し、航行中に船内で投函された郵便物全部にこの日付印を押して大連局に直接持ち込んだと考えられます。このため大連局ではPAQUEBOT印や「船内郵便」印を押していません。

発信者としては上陸後に港内のポストまで行くより船内で投函した方が便利で、結果的にも大連局に早く運ばれることを知っていたのでしょう。会社の経営状況などの詳細な内幕を述べる通信文のニュアンスから、船長や事務長クラスの幹部ではないかと思います。

阿波国共同汽船-1.jpg明治期に徳島県の藍玉業者らが徳島-大阪航路を共同運航するために設立した会社が阿波国共同汽船のルーツです。四国内の鉄道事業や朝鮮西岸・満州・華北航路にも進出するなど隆盛しました。昭和12(1937)年の同社絵はがきには大阪-小松島線など内航6線、大連-芝罘線など外航5線の定期航路が描かれています(右図)。

阿波国共同汽船が扱った「船内郵便」印については、大昔の『消印とエンタイヤ』誌に別の共同丸の日付印が発表されています。今回その記事を求めて大捜索しましたが、結局見つかりませんでした。記憶ではこれより大型で左書きの印だったような印象がありますが、半世紀以上も前のことで定かではありません。

この時代に大連局で引き受けられた船内郵便については、縦書き明朝体「船内郵便」印などがよく知られ、詳細を究めた稲葉良一氏の展示作品「大連局の船内投函郵便印」(2007年)もあります。船会社の「私印」ではありますが、今回のような印も船内郵便印の一種として扱うべきだとGANは考えています。

16共同丸.jpg追記 】(2020.11.08)この記事を見た畏友・飯塚博正氏から有益な情報をご提供頂きました。それにより同種印が掲載された『消とエ』は第13巻第2号(1955年)と分かりました。大阪の小林芳一氏所蔵の中国ジャンク官葉に丸二型左書きで「第十六共同丸/7.7.22/船内郵便」の紫色ゴム印が押されています(右図)。

このはがきは青島の在留邦人から大阪の製薬会社宛てで、大連局欧文印で引き受けられています。発信者は青島入港中のこの船を訪ねて船員に託し、復航便の船内郵便箱に投函されたのでしょう。青島からの発信として、考えられる最速の逓送路に載ったことになります。

なお、飯塚氏によると、この「船内郵便」印は郵便箱から取り出して把束した最上部の1通に押したとのことです。とすると、この種の印を持つ郵便物は往航と復航でわずか1通ずつしか存在しないことになります。「洛陽の紙価」ならぬ「葉価」を高めていただきました。
posted by GANさん at 22:49| Comment(0) | 満洲・関東州 | 更新情報をチェックする