2021年01月28日

富士山季節局の42年活字

富士山42年2-1 .jpg季節局としての富士山局・富士山北局の印影変化にはなかなか面白いものがあります。毎シーズンの使用例を、せめて大正初期ぐらいまでは集めたいと思っているのですが、道半ばどころか、その遙か手前です。つい最近入手した1点で、小さいけど新しい発見がありました。

右図は明治42(1909)年7月21日に富士山局で引き受けられた青菊はがきです。日付印の年活字「42」が国内全局で使われる標準的なフォントとは全く異なる「異体字」なのに気がつきました。故・水野虎杖氏を信奉するGANとしては改めて水野教のバイブル『櫛型印の形態学』(1972-74年)に何か載っていないか当たってみましたが、直接関連する記述は見当たりません。

E5AF8CE5A3ABE5B1B142E5B9B42-220.jpgこの「42」年活字を隣の月、日活字と見比べます。フォント自体が日活字の「2」と全く違いますが、すぐ分かるのは、サイズが他の活字より一回り大きいことです。B欄を仕切る上下の桁につっかえるほど接するか、ほぼ接しています。こんなジャンボサイズな年活字は前代未聞です。以後の太平洋戦争混乱期でも見たことがありません。なぜ、このように特異な年活字か使われたのでしょうか。

これを見てすぐ思い浮かぶのが、樺太の軍政から民政へ移行直後の時期に使われた丸二型印、丸二型類似櫛型印の年号活字との関連です。かの水野尊師も前掲書に記録しておられます。しかし、調べてみると、これとは無関係なことがすぐ分かりました。樺太「42」年号活字もやや大型の非標準フォントですが、富士山局ほどまでサイズが大きくはありません。

樺太3.jpg樺太2.jpg右図は山下精一氏『樺太の郵便』(1978年)からの引用です。ノダサン局、トンナイチャ局の「42」はそれぞれ別々の「異体フォント」で、ノダサン局の方は丸二印の改造印のように見えます。しかし、どちらの活字も上下の桁からは十分に離れていることがはっきり分かり、富士山局とは異なるのです。

E5AF8CE5A3ABE5B1B142E5B9B42-2.jpg面白いことに、同じ富士山局42年印でも8月17日の日付印では年活字に標準型フォントが使われています(左図)。巨大「42」年活字はどうやら開局直後だけの短期間使用だったようです。

ここから先の3段はGANの妄想です。‥‥明治42年の夏山シーズン、7月20日の開局日直前のことでした。富士山局を管理する御殿場局で、担当局員が10ヵ月ぶりに倉庫から日付印箱を取り出し、ほこりを払って点検しました。すると、ナ、ナ、ナント、年活字は昨年の「41」だけ。今年用の「42」が見あたらないではありませんか。

日付印で使う12個の月活字セットや31個の日活字セットは同じものを何年でも使えますが、年活字だけは毎年新調しなければなりません。翌年分を監督局の横浜局に支給申請しておくと、毎年12月初めに送られてくるのが通例でした。しかし、夏期以外は閉局している富士山局だけは「員数外」で、うっかり申請を出し忘れていたのです。

さあ、えらいことになった。年活字がなければ通信日付印は用をなさず、使うことができません。日付印は郵便局の存在証明そのもので、下手すると開局さえ危うくなりかねません。局員は横浜局への通報もそこそこに、大あわてで町内のハンコ屋さんに走ります。渋る職人を拝み倒して「42」活字を手彫りで即製してもらい、何とか間に合わせたのでした。

‥‥といった「寸劇」が思い浮かびます。この筋書きなら、初体験の職人が「枠内に収まりゃいいんだろ」と目一杯のサイズで彫ったことも、横浜局から標準型の年活字がすぐ追送されて差し替えられただろうこともナットクです。季節局にはありそうなドタバタ劇の遺産ではないかとGANは考えるのですが、果たして真相や、いかに。
posted by GANさん at 19:57| Comment(2) | 静岡県駿東郡 | 更新情報をチェックする

2021年01月13日

薄絹式肉汁浸出型丸一印

インク浸出印2.jpgかなり退色したりよごれがついて見栄えの悪い菊紐枠はがきですが、右下に押されている到着印「京都局明治32年1月27日ト便」は「インク浸透式」丸一印です。ヤフオクで落札し、きょう到着しました。

このインク浸透式丸一印は片山七三雄氏によって報告されました。一いちインクを付けず、中から出るインクだけで押印する仕組が「シヤチハタ印」に似るとして、この名で呼ばれます。1888(明治21)年に導入された丸一印ですが、近年最大のトピックスとなりました。

明治から昭和期にかけて活躍した郵趣家で逓信省の役人でもあった樋畑雪湖によると、1898(明治31)年に新潟県の沢田喜内が「肉池(スタンプ台)要らず」の日付印を発明しました。樋畑は大臣の直命で採用の可否を調べ、次のようにその経緯を説明しています(『日本郵便物特殊日附印史話 附押印肉と押印能率の研究』、1938年)。
構造は普通の手押日附印に異ならざるも印軸の中枢に薄めたる印刷インキを貯蔵し、それが活字の間隙を透して押印する度毎に適度に注出され印面にはインキを平均浸潤せしむる為めと之れを調和塩梅する役目として薄絹に耐久用の薬剤を塗布したものを覆ふてある。
丸一印は局名と一体となった金属製丸枠の下部半円内に、黄楊つげや水牛角製の日付活字3、4個を植字する構造です。印には棒状の取っ手(印軸)が付いています。沢田の発明は印面直上の印軸内にインクタンクを埋め込んだことでした。重力と押印時の衝撃によって活字の間のわずかなすき間からインク(肉汁)が滲み出て印面に補給します。

これだけでは印面全体に適量のインクが行き渡らないなど補給にムラが出ます。この問題を沢田は印面を薄絹で覆うことで解決しました。滲み出たインクは薄絹の繊維の糸目を通じて均等に伸びるというアイデアです。絹の耐久性に即座に疑問が出るところですが、「薬剤の塗布」で乗り切ったようです。どんな薬剤だったのかまでは分かりません。

押印作業をすべて人力に頼っていた当時としては、確かに作業効率の上がる画期的な発明と言えるでしょう。樋畑は上記の本の中で、ほかにも多数の機械化、省力化の試みがあったことを記しています。しかし、沢田の提案は採用されませんでした。インク補給を調整出来ず、実用に耐えられなかったからです。
郵便局の窓口或は鉄道郵便車の乗務員等をして実際に使用して見たが肉汁浸出の調節が素人には思ふ様に行かぬ所から結局採用不能となった
これら樋畑の記述を実際のエンタイア上に初めて見出したのが片山氏でした。このテスト印は記述どおり明治31年末期から32年にかけて試用され、京都、名古屋、横浜局や東京横浜間の鉄道印などで相次いで見つかっています。消印カタログが書き換えられ、日附印の構造や材質に調査が進められる契機となりました。インク浸透式2.jpg

初めに示したはがきの印を拡大して観察すると、規則的な絹の織り目が印象されていることが分かります(右図)。しかし、文字以外の本来は空白であるべき部分にまで絹目が一面に出て、さらには周辺や裏面のインク汚れも目立ちます。鮮明な黒白の印影を期待できない構造的欠陥であり、確かに採用は無理でした。

ところで、メーカーによると、インク浸透印(シヤチハタ印)の最大の特徴は、印面のスポンジ状多孔質ゴムにインクを含ませられることです。「浸透」とは印材の中にインクが「浸み込んでいる」こと、あるいは印面が絶えずインクに「浸っている」状態を意味します。この多孔質ゴムの製法が特許になっているようです。

対してこの丸一印ではインクは「浸透」せず、活字間のわずかな隙間から「漏れ出る」だけです。敢えて言えば「滲出しんしゅつ」で、「浸出」も同じです。このさいGANは調査官・樋畑に敬意を払って「薄絹式肉汁浸出型丸一印」の名称を提案します。略して「薄絹浸出印」、または「薄絹印」で十分ではないでしょうか。この印の特徴を端的に表せると思います。

posted by GANさん at 18:58| Comment(0) | 郵便印 | 更新情報をチェックする

2021年01月09日

台湾郵便受取所型櫛型印

大西門.jpg菊5銭2枚貼り封書を台湾の台南大西門郵便受取所が1908年(明治41)10月7日に引き受けた書留書状です。明治末期の台湾だけで使われた特異なタイプの日付印で引き受けられています。

台湾では民政(普通)郵便を本格的に開始した直後の1896(明治29)年9月から集配を扱う1-3等郵便局とは別に、無集配の「郵便受取所」が新設されました。丸一印時代は局種による表示形式の区別はなかったのですが、明治39(1906)年10月から櫛型印に切り替わると、郵便局と受取所とでは形式が明確に分かれました(台湾総督府明治39年訓令第48号、135号)。

受取所型櫛型印の上部は櫛型がなく水平2行書きです(左図)。この時期は櫛型印が日本本土、在外局、植民地を通じ相次いで導入されましたが、このような表示形式が定められたのは台湾だけです。性格の似る満州大稲埕支局2.jpg(関東都督府管内)の出張所では、出張所名をC欄で時刻帯に代えて表示する形式でした。

台湾の受取所でこのような表示形式が採用されたのは、それまで使っていた丸一印の名残かも知れません。丸一印の上部局所名が「臺湾/臺北大稲埕」(台北局大稲埕支局)といった表示形式(右図)だったからです。すると、すぐ思い浮かぶのが「丸一印の上部印体を櫛型印に流用してはいないか」という疑問です。形式上は全く同じなので、もっともと言えます。

しかし、これについては既に水野虎杖氏が顕微鏡的な観察も加えて考察し、次のように明快に否定しています。
(受取所櫛型印の)上部印はしかし、丸一印のそれの転用ではなく、櫛型印用の印材に彫られたもの、丸一印用ならばもっと小形。(『櫛型印の形態学序論』第4巻p.78f、1972年)
なお、水野氏はこれら台湾の丸一印と初期櫛型印の上部印体(AD欄)は木や角のような印材を使った手彫りで、彫刻者も同一であったという考えも提出しています。(上掲書p.82n)

非常に示唆に富んだ台湾の受取所型日付印でしたが、1911(明治44)年一杯で姿を消します。大正に入ってからの使用例はありません。廃止を定めた告示類があるはずと筆者は考え、台湾の法令を2年間ほどにわたって捜したのですが、見当たりません。結局分かったことは、印影形式は廃止しないまま、受取所制度自体がなくなった事実でした。

台湾総督府の明治44(1911)年告示第190号によると、「45年1月21日から郵便受取所を3等郵便局に改定する」「但し郵便集配事務は扱わない」とあります。以後の3等局は集配局と無集配局とが併存することになりました。内地で先行する3等局制度に合わせたようです。

この上部2行書き櫛型印は「受取所ニ用ウルモノ」と訓令で定められていました。受取所が郵便局に変わると日付印も郵便局が使う普通の「A欄局所名/D欄櫛型」に変わります。受取所用印を使うべき局所がなくなるので、この形式を廃止する告示類は無要だったのです。

追記 】(2021.01.13) 「鉄道郵便印の備忘録」ブログのオーナー様から台湾での櫛型印導入時期は「明治39年10月から」が正しい旨のご指摘をいただきました。GANは初め、総督府訓令第48号に基づいて「39年7月から」としていました。ご指摘によりその後に訓令第135号が出て導入時期が3ヵ月遅らされた事実を知りました。このため記事中の「7月から」を「10月から」に訂正しました。

調べてみると、JPSの『日本郵便印ハンドブック』も訓令第135号の存在を知らずにGANと同じ過ちをしていました。鳴美の『郵便消印百科事典』もほぼ同様ですが、櫛型印導入で廃止されたはずの丸一印が明治39年9月まで使われている事実を指摘し、実証的です。ご教示下さった「鉄道郵便印の備忘録」オーナー様に改めて感謝します。
posted by GANさん at 23:45| Comment(0) | 植民地 | 更新情報をチェックする