2021年02月13日

広州湾租借地から絵葉書

広州湾_1.jpg長いこと探していたフランス租借地・広州湾のエンタイアを最近入手することが出来ました。インドシナ専門の収友らも「よく知らない」と言い、かなりの稀品のはずとご満悦です。単に人気薄だけなのか知れませんが。

GANは収集テーマの一つが「日露戦争」で、2004年のJAPEX(全国切手展)に中間報告を出展しました。戦争の前史として「三国干渉」を意識し、ロシアの関東州、ドイツの膠州湾カバーは集めたのですが、フランス広州湾だけどうしても手に入りません。作品自体は幸い好評価を得たものの、「広州湾」はずっと心残りでした。

広州湾は中国広東省にあります。省都の広州(広東)とは無関係で、海南島に突き出た雷州半島の東側付け根の小さな湾です。1897年にフランス軍艦BAYARDバヤールが偶然寄航して広州湾_3.jpg良港と知り、軍隊を送って占領しました。2年後の1899年に一帯を租借する条約を清国と結び、仏領インドシナ連邦に組み入れます。

租借は領土の割譲に等しい行為ですが、清国にはそれを認めざるを得ないほどの「借り」がフランスにありました。日清戦争で日本が獲得した遼東半島を返還させた三国は清国に見返りを要求したのです。その結果、ロシアが関東州(旅順・大連)、ドイツが膠州湾(青島)、そしてフランスが清国から奪ったのがこの広州湾でした。

香港の先駆的な郵便史研究家・李頌平氏の名著『客郵外史』(1966年、中文)によると、フランスは1901年以降、租借地内の6カ所に郵便局を開設しました。そのうち西営(仏名FORT BAYARD)にはフランスが兵営と要塞を築き、赤坎(TCHEKAM)は商業の中心地でした。李氏は「広州湾の郵便印については系統的な記録がない(ため詳細は不明)」とし、最初期のタイプとしてTCHEKAM局1916年の印影を示しています。

広州湾_2.jpg今回入手した絵はがき(上図)は裏面に安南女性10C切手に4分加刷した広州湾の普通切手が貼られています。1909年3月1日に仏中ハイブリッド印(左図)でKOUANG-TCHEOU-WAN広州湾局が引き受け、香港ビクトリア局を経て3月17日に東京・麹町のマミヤマ(樅山、籾山?)氏に届きました。発信者はフランス人で、通信内容は絵はがきの交換についてです。

この「広州湾局」タイプの日付印は李氏の本にはありません。局が存在した記述自体がなくロケーションは不明ですが、要塞や政庁が置かれた西営にあったと思われます。このはがきは広州湾租借地のエンタイア最古例となるかも知れません。ただし、『客郵外史』から半世紀以上が経つ間に発表され、GANが知らずにいるだけの可能性は大いにあります。

フランスは当初、広州湾を英領香港並みに発展させる意気込みだったのですが、山が迫って交通不便のため失敗しました。軍事施設を建設したほかは格段の開発投資もせず、半ば放棄状態でズルズルと租借し続けたようです。1926(大正15)年段階で租借地のフランス人は225人でした。郵趣品を除き、まともな郵便使用例を見かけないのは当然かも知れません。

太平洋戦争中、日本はフランスのビシー政府と相互防衛協定を結んで1943(昭和18)年2月に広州湾を占領します。華南担当の第23軍が独立混成第23旅団の2個大隊を寸金橋(赤坎)などに派遣し、「雷州支隊」として駐屯しました。支隊の主力部隊は独立歩兵第128、129大隊と第70、248大隊でした。

雷州支隊の軍事郵便も探しているのですが、残念ながら未収です。広州湾租借地は戦後中国に返還されて広東省湛江市となり、現在では西営は霞山区、赤坎は赤坎区の名で市の中心になっているようです。
                  ☆
このはがきの仏文解読には沢株正始氏のお手を煩わせました。感謝します。

posted by GANさん at 23:55| Comment(0) | 主張・雑感 | 更新情報をチェックする

2021年02月08日

樺太拓殖博記念絵はがき

樺太1.jpg樺太庁が発行した記念絵はがきと思われるセット(左図の上はそのうち1種)を近年のヤフオクで入手しました。島田健造氏『日本記念絵葉書総図鑑』(2009年復刻版)には採録されていないので、新発見となる可能性があります。

樺太の風光や産業を撮影した写真版で、青色4種、セピア5種の計9枚ですが、E6A8BAE5A4AA4.jpg青色1種が欠けていると思います。表面(宛名面=左図の下)には「郵便はがき」と英文「POST CARD」だけで、「〇〇記念」といった発行目的を示す表記はありません。裏面(絵面)に写真説明(後述)と並んで「樺太廳發行」と発行者名が印刷されています。

この絵はがきはすべての絵面に櫛型印を模した樺太1-2.jpg「樺太/1.10.1/拓殖博覧会記念」の紫色スタンプ(右図の上)が押されています。印刷したような鮮明印ですが、1枚ごとに押印位置や傾きが異なるので印刷ではないようです。さらに、ほとんどの絵はがきでこの紫色印の日付部分だけを隠すように黒色スタンプが再押印されています(右図の下)。
樺太2-1.jpg
「拓殖博覧会」は今日では死語ですが、戦前の大日本帝国時代には多用されました。各植民地での開発(拓殖)進展ぶりを内地(日本本土)国民に示して国威発揚を図る大がかりなイベントでした。内地からの移住促進も大きな目的だったはずです。呼び物は現地を再現するジオラマで、産出品の現物や風物写真の展示が中心でした。こういった点から、この絵はがきは樺太庁が管内事情を広く紹介するために10種1組袋入りで発行したと思われます。

大正元(1912)年10月1日から開かれる拓殖博覧会の会場パビリオン内でこれが発売される予定でした。ところが、印刷完了後にその趣旨の表示が欠けていることに気付きます。刷り直しを避ける窮余の策として、スタンプの加捺でそれを補い、急場をしのぎました。

しかし、計算違いが起きます。用意した絵はがきは売り切れるどころか、逆に大量の売れ残りを出してしまいました。樺太庁は次に開かれる拓殖博での再利用を図ります。日付を巧みに消し、いつの拓殖博でも使えるようにしました。--という、以上2段落はGANの単なる推測です。

樺太3.jpgこの9種セットとは別に、1枚だけ単独で入手した紙厚の薄いもの(右図)があります。厚手の9種セットの方は紙厚0.3㎜ですが、薄手のこれは0.2㎜です。用紙を替え、印刷が2回行われたことを意味します。

また、同図案を青色とセピアで刷ったものが2組ずつあり、どの図案も色違いの2色で印刷されたことを示唆しています。全貌は分からないものの、なかなかバラエティーの豊富なシリーズです。

樺太3-2.jpg樺太3-1.jpg薄手の絵はがきには紫色と茶色のスタンプが押されています。紫色印(右図の左)は厚手と同じ文言ですが、形式が丸二型類似です。茶色印(右図の右)も丸二型類似印ですが、日付は「2-4-21」で博覧会名に「明治紀念」が加わり、E欄部分には「大阪」と入っています。

これらから、大正2年4月に大阪で開かれた明治紀念拓殖博でこの絵はがきが再利用されたことが推測されます。先に示した二重スタンプで日付部分を抹消した絵はがきセットが大阪でも売られた可能性はありますが、断定は出来ません。

絵はがき9種に付けられている写真説明は次の通りです。
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太畑地ノ開墾、樺太海馬島(以上青色)
・樺太廳立豐原小學校運動會、樺太ノ森林、樺太産蔬菜類、樺太漁場生鰊ノ貯藏、樺太農家
 ノ収穫(以上セピア)

なお、これらの絵はがきが「大正」ではなく、「昭和」に発行されたのではないかとの疑いも起こり得ます。しかし、これは「大正」で正しいと思います。2種の紫色スタンプの日付「1-10-1」が根拠です。大正元年は7月から12月まであるのに対して、昭和元年は12月しかないからです。
posted by GANさん at 21:35| Comment(0) | 植民地 | 更新情報をチェックする