2021年03月29日

台湾三角錐山非常通信所

三角錐山.jpg「三角錐山」の台湾非常通信所エンタイアが初めて世に出ました。未知の非常通信所の存在が知られるのはこれが初めて、1世紀の時を経ての出来事です。

台湾の林志明氏が日本語ブログ「鉄道郵便印の備忘録」でごく最近に公表しました。先に発表していた日付印の印影に続き、はがきの全影が掲載されています。同氏のご好意で、その非常通信のはがき(右図)を転載させていただきます。林氏は中国と戦前の日本の鉄道郵便の専門家として知られます。

これは大正3(1914)年8月10日に「松山稜司令部」から台北に宛てた私製絵はがきです。切手貼付位置に角枠「非常通信」の朱印が押され、「台湾・三角錐山/非常通信所 3年8月12日」の台湾櫛型日付印があります。台湾総督府が1914年夏に行った原住民タロコ族に対する大規模な討伐作戦時のものです。

GANは当初、この日付印の不鮮明な局名を「三角錐山」と読むのには抵抗がありました。しかし、林氏のご教示を元に手持ちの詳しい地図を調べて、この地名が実在することを確認しました。下の地図の中央上部に8229尺(2,494m)の三角錐山が描かれています。地図の左中央部にある「西麓倉庫」に三角錐山非常通信所が開設されたと見られます。

タッキリ渓概念図.jpg国立公園切手で知られるタッキリ渓は台湾東岸部、花蓮港北方の新城に河口があります。それを遡るとブロワン社などタロコ族集落を経て三角錐山中腹を抜けます。さらに遡って、左岸からの支流タウサイ渓との合流点上流側に「西麓倉庫」はありました。

正確には「三角錐山西麓倉庫」で、作戦ルート上の主要な兵站基地でした。はがき発信者のいた「松山稜」はタウサイ渓を遡った地点にあったようです。タッキリ渓の上流、討伐軍司令部が置かれたセラオカフニをさらに登って合歓山や嵜莱主山が連なる中央山脈を西に越えると、埔里社、台中方面に出られます。

タロコ族討伐作戦で開設された非常通信所は埔里社など8個所の名前が知られています。「セラオカフニ非常通信所」は告示はないものの他の資料で言及され、片手ほどの数のエンタイアも知られていました。エンタイアはもちろん名前さえ知られていなかった非常通信所は三角錐山以外にありません。

告示が出された7個所の非常通信所はいずれも中央山脈上とその西側です。セラオカフニ、三角錐山など中央山脈の東側(タッキリ渓流域)については、本来出るべき告示がなぜか出ていません。今後は新資料が発掘されて未知の-たとえば「ブロワン非常通信所」など-が現れないとも限らなくなりました。楽しみなことです。
                    ☆
本稿の執筆に当たっては賀田直治著『臺灣中央山脈横断記』(1914年)を参照しました。
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2021年03月19日

空襲警報ノ為送信遅延ス

空襲警報.jpgは滋賀県高宮局で昭和20(1945)年4月7日に引き受け、同じ県内の木之本局に宛てた電報頼信紙です。午前9自23分に受け付け、午後1時34分に送信したことが分かります。同局のこの前後の頼信紙を見ると、普通は受付後5分か10分ぐらいで送信を終わっています。この時だけ仕事が立て込んで、後回しにでもされたのでしょうか。

実は、その釈明が1行半の電文に続き、その左側に書き込まれています。
  空襲警報ノ為遅延ス
記入を証明するため、扱った局員の認印がその下に押されています。
空襲警報2.jpg
恐らく、この賴信を受け付けている最中、あるいはその直後に米軍機の来襲を知らせるサイレンが鳴ったのです。警報が出たら携行できる周辺の重要品だけ持って、すぐに避難しなければなりません。警報発令の間、局員らは全員が防空壕に駆け込んで退避していたのでしょう。幸い局舎は被害を免れたとしても、事後の片付けや整理などで執務再開までに大変な時間がかかったのです。
電報配達改.jpg
当時の日本はサイパン、硫黄島と相次いで失陥し、これらを基地とする米軍機により日常的に無差別爆撃を受けていました。召集と徴用で男性局員の姿が薄れ、電報配達などの外勤業務を女性が任されることもあるような時代(右図は当時の絵はがき)です。

「空襲警報ノ為‥‥」は恐らく規則で定められた書式ではなかったでしょう。しかし、担当職員は「決して仕事をサボって時間を空費したのではない」と個人の責任に於いて証明したかったのだと思います。この局員が自己の職務に忠実に、誇りを持って従事していた状況がうかがわれます。

ところで、この頼信紙を郵便史のマテリアルとして展覧会に出したら、どうなるでしょうか。オツムの固い日本の審査員は「料金、逓送路、消印の3要素のどれとも関係ない」の決まり文句で減点対象にするでしょう。しかし、もしGANが審査員だったら、「よくこんなブツを探し出したね」と努力点を加点します。

米軍による連日の無差別爆撃で日本の全都市壊滅、本土への侵攻も間近と大混乱状態だった太平洋戦争最末期、郵便局での執務状況がどういうものだったか。それを生々しく伝える現物史料として評価すべきだと思います。
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2021年03月13日

占領地郵便史を論じよう

ソロ市.jpg太平洋戦争中、日本軍は南方の占領地で郵便を管理・監督または直接運営しました。しかし、「南方占領地郵便史」は戦後4半世紀を経た今日に至っても「概論」どころか「序論」すら発表されていません。

昔は富岡昭氏が『日本の占領切手』(1965年)を書いて大略を示しました。その後、「南方切手のすべて」を余さず書き尽くすという題だけは大層な本も出ましたが、富岡氏の域を出ず羊頭狗肉でした。世に「南方占領地の専門家」を自称する日本人は多いというのに、この点はいったいどうなっているのでしょうか。

まったくの部外者であるGANでも言えるのは、大筋を見失っていることです。多種多彩な加刷切手とそのエラーやバラエティー、更にはニセカバーにまで目を奪われているからでしょう。カタログで台切手と加刷型とのキリのない組み合わせリストなど示されてもサッパリ面白くありません。各地域ごとの不統一性に振り回された挙げ句、「ゴールポスト(収集の完結地点)」がどこかすら見えないのです。

「占領マライ」とか「占領ビルマ」などというおかしな表現が南方切手で幅をきかせています。前の語が後を修飾する日本語で「占領するマライ」では意味をなしません。「躍進マライ」「新生ビルマ」などと比べれば誤用は明らかです。「日本軍占領下のマライ」「占領されたoccupiedマライ」を一語で表したければ、正しくは「被占領マライ」でしょうに。

「正刷切手」も同じく南方切手世界だけの伝統的「業界用語」です。「加刷ではない」という意味のようですが、切手は加刷しない方がむしろ当たり前で、そんな日本語は元もとありません。こういった言葉遣いを平然と続けて不思議とも感じない。他を顧みぬ「ガラパゴス郵趣」の残渣とでも言うほかありません。

南方占領地の郵便史をもし書くことになったとします。GANだったら、この地は①拡張された日本郵便系と②現地(たとえばマライ)郵便系、そして日本郵便系の一部とも言える③日本軍事郵便系と3種の郵便系が重なり合った圏域であるとの理解(史観)を根底に置きます。各郵便系の推移を解明し、相互の関係を述べることになるでしょう。

この「郵便系」の概念は郵便史の収集家・研究者なら無意識のうちに必ず頭の中に置いています。「なぜこの料金の切手が貼られているのか」を考える前提、大原則だからです。GANは近く発行される某郵趣誌で郵便系を根拠に一群のカバー類のニセモノ論を開陳しました。紙幅の都合で舌足らずに終わりましたが、郵便系論の初の実践応用と自負しています。

最後になってしまいましたが、冒頭のはがきは、1944年に内国料金でジャワに宛てており、拡張された日本郵便系と現地郵便系との複合例です。従来の南方切手論ではこの説明は出来ません。もちろん、日本郵便系と日本軍事郵便系、日本軍事郵便系と現地郵便系との複合例も存在します。詳しくは後刻、再論したいと思います。
posted by GANさん at 02:20| Comment(2) | 主張・雑感 | 更新情報をチェックする

2021年03月07日

義兵闘争鎮圧へ臨時派遣

大邱派遣隊発.jpg大邱派遣隊0.jpg日露戦争で適用されていた満州と朝鮮(韓国)での無料軍事郵便は戦後も長く続きました。廃止は1910(明治43)年のことです。

本来なら講和条約発効-部隊の撤退-軍事郵便廃止と進むべきはずでした。ところが、ロシアに代わって新たな敵、「義兵」が朝鮮で生まれました。日本軍の兵力は戦争中よりも増え、軍事郵便を続けざるを得なかったのです。

歴史用語としての義兵とは、外国の侵略に抵抗して武装蜂起した(官兵でない)朝鮮人民衆を言います。日露戦争後の日本統治に対する闘争がとくに有名で、鎮圧のため日本は撤退どころか新たな軍隊を増派しなければならなくなりました。の2点のはがきは、その派遣隊の司令部に発着したものです。

は全羅北道大邱の臨時韓国派遣隊司令部からの軍事郵便で、大邱局明治43(1910)年8月30日に引き受けられています。は逆に大邱の司令部に宛てた年賀状です。全羅南道の霊巌守備隊から菊1.5銭切手を貼って43年12月中に差し出されました。霊巌には大邱の臨時派遣歩兵第2聯隊から1個小隊が分遣されています。

同じ時期の同じ軍人なのに、なぜ8月は無料で12月は有料なのか--。43年11月末で無料軍事郵便が打ち切られ、軍事切手制度に切り替わったからです。12月1日以降は毎月2枚だけ無料で配られる軍事切手を使い、3通目からは有料となりました。従って、右のはがきは有料化された最初期使用例です。

日露戦争後、日本は韓国から外交と防衛権を奪って保護国とします。ところが、1907(明治40)年に「ハーグ密使事件」を起こした韓国皇帝を退位させ、さらに韓国軍隊を解散させると、朝鮮全土が憤激し旧兵士や農民らの義兵蜂起が相次ぎました。駐屯する韓国駐剳ちゅうさつ軍の1個師団だけでは対処できません。

日本から軍隊を逐次投入しても収まらず、ついに09年5月に臨時韓国派遣隊(渡辺水哉司令官)を編成して送り込みました。派遣隊は歩兵2個聯隊を主力とする旅団規模で、義兵闘争が特に活発な南部の大邱に司令部を置きました。駐剳軍に協力して「南韓討伐作戦」と称する徹底的な焦土作戦を行いますが、義兵は衰えません。

派遣隊は1910(明治43)年の韓国併合で「臨時朝鮮派遣隊」と名称が変わります。無料軍事郵便が廃止されたのも、併合により「戦時は終結した」との建前論のためと考えられます。しかし、義兵闘争は併合で一段と燃えさかり、派遣隊に最大の活躍が求められました。大正初期までかかってようやく鎮圧には成功します。

派遣隊のその後はよく分かりません。1919(大正8)年、竜山に第20師団が創設されて韓国駐剳軍の後身・朝鮮軍の2個師団常駐態勢が完成します。そのさいに派遣隊は解隊、吸収されたとGANは考えていました。ところが最近、春川局大正9年5月の使用例を見つけました。臨時朝鮮派遣隊が廃止されたのはいつか、その時期を明記した資料は未見です。
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この記事の作成に当たり、朝鮮駐剳軍司令部編『朝鮮駐剳軍歴史』(1909年)、海野福寿著『韓国併合』(1996年)を参考にしました。
posted by GANさん at 02:35| Comment(0) | 軍事郵便(陸軍) | 更新情報をチェックする