2021年04月18日

軍事郵便に消印省略開始

11年年賀改_2.jpg11年年賀改_1.jpg日本軍事郵便の収集家の間で日中戦争期や太平洋戦争期は不評です。この時代の軍事郵便には消印が押されないのが普通で、いつ、どこから発信されたものか分かりません。

切手展に出展を目指す人にとっては、郵便史部門の3要素とされる「料金、経路、郵便印」のうち料金はもちろん郵便印さえも欠いて、腕を振るう余地が制限されます。「軍事郵便は出展に不向き」と敬遠される理由ともなっています。消印省略2.jpg

これを逆に見ると、消印がない軍事郵便でも発信地や時期を割り出し、第三者にも納得させる技量こそが「見せ場」となります。まあ、審査員諸賢らにその理解力を求めるのはムリというものでしょうが。―― そういった面倒な話は今回は棚に上げて、いつから、なぜ、軍事郵便に野戦局などの消印が押されなくなったのかを考えて見ます。

軍事郵便への押印省略の開始は、一般に言われている「日中戦争開始時(1937年7月)から」ではありません。満州に駐屯する関東軍が1935(昭和10)年12月1日から軍事郵便の消印の「押捺ヲ省略スルコトニ致シ候」と陸軍省に通知(11月28日付關副乙第1167号=右図)していたのです。

例年、年賀状の特別取扱は12月上旬に始まります。関東軍将兵からの大量差出が始まる直前のタイミングで決定したのでしょう。以後、1945年の敗戦時まで軍事郵便の消印省略は続きます。冒頭のはがきは、この通知に基づいて消印を押さなくなった最初の軍事郵便年賀状です。「昭和11年元旦」とはっきり印刷されています。
奉天/9-1.jpg
比較のためこの前年、昭和10年の関東軍兵士からの年賀状もに示します。日付印の局名「奉天局第9分室」とは熱河省朝陽の野戦局です。これが満州で年賀特別取扱を受けた軍事郵便に消印が押された最終使用例です。新京と四平街局の分室でも同様でした。だから、昭和11、12年の元旦印を持つ分室(野戦局)の年賀状は存在しません。

これらの実例から、消印省略は日中戦争から始まったとする通説が誤りなのは明らかです。省略した理由も、従来は「軍事機密が漏れるのを防ぐため」とする考えが有力でした。しかし、1935年当時の満州と関東軍は平穏で、とくに軍機漏洩を恐れる状況にあったわけではではありません。理由は単純に「省力化」だったでしょう。

ところで、関東軍の「押印省略」通知に対応する逓信当局の告示・公達類は見当たりませんでした。軍事郵便を取り扱う野戦局だけの問題ですが、関東軍の一存で決定できるはずもありません。関東逓信局が関与したことは疑いなく、その関連資料の発掘が今後の課題です。
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2021年04月01日

玉砕した拉孟守備隊から

金光部隊.jpg金光部隊_2.jpgの軍事郵便はがきは中国雲南省の拉孟らもうから発信されました。拉孟の日本軍守備隊は内陸部なのに孤立無援となり、玉砕した部隊として太平洋戦史上有名です。

発信アドレス「ビルマ派遣 龍第6739部隊」の「龍」は第56師団を表す符号であり、「6739」は野砲第56聯隊の部隊番号です。しかし、中国にいた部隊からというのに肩書きが「ビルマ派遣」とは、どういうことでしょうか。

私たちの常識ではビルマと中国とは大きく離れた別の国ですが、実は両国は内陸部の奥深くで背中合わせになっています。ビルマ東部を南北に貫流してインド洋に注ぐ大河・サルウィン河は上流では中国を流れ、怒江と呼ばれます。雲南省は怒江を西に越えてビルマ側のシャン高原上に大きく張り出しています。拉孟はシャン高原の東端、怒江を渡る恵通橋を見下ろす断崖上にあり、英領ビルマと中国とを結ぶ交通の要衝でした。

太平洋戦争初期、日本軍はビルマ側から侵攻して雲南省の「張り出し」地域を占領しました。ビルマから中国の蒋介石政権に援助物資を送り込む「最後の援蒋ルート」だったからです。日本軍は占領した北部ビルマと「張り出し」地域とを合わせて「北緬ほくめん=北部ビルマ」と呼び、第56師団を含む第33軍が守備しました。

前置きが長くなりすぎました。このはがきがなぜ拉孟守備隊からと断定できるかというと、アドレスに「金光部隊」の文字があるからです。金光恵次郎少佐は野砲56聯隊第3大隊長で、拉孟守備隊長を務めました。この大隊が拉孟守備隊の最大兵力だったからです。金光部隊とは拉孟守備隊そのものでした。

やや厚手の洋紙を切り「郵便はがき」のスタンプを押して代用はがきとしていることなどから、日用品も逼迫した1944(昭和19)年1月23日の発信と思われます。拉孟から龍稜の第301野戦郵便所第2分所まで不定期連絡便で運び出されたのでしょう。最奥地の最前線だった拉孟からの、これが最終便になったかも知れません。

拉孟守備隊の主力は本来は歩兵第113聯隊でした。1944(昭和19)年5月に拉孟と並ぶ北緬の要地だった龍稜、騰越の守備が危うくなったため同聯隊は救援に回り、野砲56聯隊第3大隊など千名前後が残されました。拉孟は翌6月から怒江を渡河した中国の雲南遠征軍第6、8軍によって攻囲されます。遠征軍は4万名を超え、米式訓練・装備の最新鋭部隊でした。

守備隊は40倍の中国軍と3ヵ月間戦い抜いた末、9月6日に金光守備隊長が戦死し、残る80人の傷病兵も翌日全滅します。この間、日本軍は拉孟に一兵も増援できず、南方総軍、ビルマ方面軍、第33軍司令官が守備隊の武勲を称える「感状」を電報で送るばかりでした。
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