2021年05月25日

樺太占領作戦艦船郵便所

KOLSAKOV_2.jpgKOLSAKOV_1.jpg日露戦争最末期の樺太占領作戦に海軍から参加した郵便所があったことが分かりました。通信船の大義丸、次いで営口丸に開設された第4艦船郵便所です。艦船郵便所のほとんどは日本と朝鮮、満州方面を結ぶ艦船内に置かれたので、樺太進出は唯一の例外です。

大義丸(1,568トン)は大阪商船所属、営口丸(1,966トン)は日本郵船の所属汽船です。共に開戦直前の1904(明治37)年1、2月に海軍にチャーターされ、佐世保軍港と朝鮮南岸の鎮海湾との定期連絡に当たっていました。鎮海湾は開戦後、聯合艦隊の最大の根拠地でした。

ロシア領樺太の占領作戦は米ポーツマスで日露講和会議が始まる直前、陸海軍合同であわただしく開始されました。海軍では聯合艦隊から第3艦隊と第4艦隊、それに第1艦隊の第1駆逐隊が分遣され、「北遣(北海派遣)艦隊」と呼ばれます。艦隊の総指揮官は片岡七郎第3艦隊司令長官が務めました。使命は陸軍の攻略部隊・独立第13師団の輸送護衛と上陸援護です。

独立第13師団は北遣艦隊に護られて05(明治38)年6月29日に青森県大湊港を出撃します。7月8日に南部樺太の港湾都市コルサコフを占領、北部樺太最大のアレクサンドロフスクも7月24日に占領し、戦闘は7月末までに終了しました。陸上作戦の一段落後も、北遣艦隊には北樺太沿岸封鎖、オホーツク沿岸やカムチャツカの偵察などの任務が続きました。

一方、日本海海戦の勝利で聯合艦隊の根拠地が鎮海湾から対馬の竹敷に移り、佐世保と鎮海湾との定期連絡は廃止されました。通信船大義丸は05年7月25日に北遣艦隊への転用が命じられ、8月8日にコルサコフに進出しました。大義丸には第4艦船郵便所が設置されており、アレクサンドロフスク-コルサコフ-小樽間を月に2往復して郵便逓送に当たりました。

その後、僚船の営口丸が大義丸との交代を命じられました。両船は9月10日に小樽港で引継を行い、第4艦船郵便所も営口丸に移設されました。交代後、大義丸は佐世保軍港に帰港して解傭されました。さらに後、第4艦船郵便所も佐世保に帰って11月8日に廃止され、その直後に営口丸も解傭されています。

上図の書状は第4艦船郵便所が明治38(05)年10月6日に引受け、佐世保に宛てた軍事郵便です。発信アドレスに「新版図九春古丹碇泊/軍艦満州丸」とあります。九春古丹クシュンコタンはコルサコフの日本名で、後に大泊と改称されました。9月5日に調印された日露講和条約で樺太南部が割譲され、新たな版図(日本領)となったことを早くも表しています。

発信者が乗る「満州丸」とは、ロシアの東清鉄道汽船会社が戦前にダルニー(大連)-上海間で運航していた汽船「マンジュリア(満州)」(3,916トン)です。この会社は満州の東清鉄道を経営する東清鉄道会社の子会社でした。マンジュリアは修理のため長崎入港中に開戦となって日本海軍に接収され、05年3月に艤装が終わって仮装巡洋艦になっていました。

05年9月から上京不在中の片岡長官に代わって出羽重遠第4艦隊司令長官が北遣艦隊を指揮し、第4艦隊の旗艦が満州丸でした。艦隊に小樽方面警備の新任務が命じられたため、出羽長官は10月7日に満州丸で九春古丹(コルサコフ)を発し、8日に小樽に入港しています。休戦も講和も成立した後なので、これは北遣艦隊の実質的な任務解除でした。
第4艦船_3.jpg
この書状は裏面の書き入れから、満州丸が九春古丹を出港する直前の10月5日に発信され、翌6日に営口丸の第4艦船郵便所で引き受けられています(左図)。営口丸は航海表に従って6日九春古丹発、8日小樽に入港しているので、結果的に満州丸と同じ航程となりました。発信者が小樽に着いてからこの書状を出しても、宛先の佐世保到着は同じ10月12日だったはずです。

北遣艦隊は05年10月10日、東京湾で予定されている凱旋観艦式参加のため全艦に帰還を命じました。営口丸は10月10日に九春古丹を出て11日に小樽に着き、これが樺太での最後の航海となりました。第4艦船郵便所の樺太での引受郵便物は希少で、大義丸時代のエンタイアは知られていません。
                  ☆
本稿で北遣艦隊や各艦船の行動の詳細は海軍軍令部編『極秘 明治三十七八年海戦史』第3部第1編第2章「樺太占領」、北遣艦隊作戦班編「秘 北遣艦隊告示」、「第四艦船郵便所事務日誌」に拠りました。「日誌」を除く2件はJACAR(アジア歴史資料センター)でネット公開されています。
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2021年05月18日

哀惜・丸一印の田中さん

田中寛.JPG丸一型日付印収集と研究の第一人者として知られる田中寛さん(=2012年の切手研究会総会で)が4月29日に逝去されました。正しいお名前は「ゆたか」だったかと思いますが、だれからも「カンさん」で愛され親しまれていました。少し年長の収友であり、同じ日本郵便史の研究仲間として、もう半世紀ほどのお付き合いをいただいて来たので、本当に残念です。

田中さんを再認識したのは、彼の処女作である『たて書丸一印考』(右下=1975年、むさしスタンプ)を贈られ読んでからです。それまでは、都心のデパートで毎年数回開かれる切手市に並び、開店ダッシュで切手商ブースまで競走し合う、単なる常連同士に過ぎませんでした。

目指すブースには絶対に一番乗りせねばなりません。運悪く新着エンタイアの束を田中さんや、やはり常連の秋吉さんらに先に抜かれたら、もうクズ同然となってしまうからです。一段落後は近くの喫茶店に移って戦果を誇示し合うのが常連同士の楽しい慣例でした。

たて書丸一印考.jpg当時の消印党は、丸一印も含めて二重丸印から櫛型印まで、形式上の違いの分類に終始していました。国名か都市名か、年号や局種をどの欄にどう表示するか、などです。分類形式をABCなどのラテン文字や数字、カッコ類などの組み合わせで記号化し、詳細・複雑なほど「高級」とされました。その悪しき典型例を最近ではJPSの『日本郵便印ハンドブック』(2008年)に見ることができます。

丸一印は郵便用の横書き印が本流です。為替事務用の縦書き印は「非郵便印」に一括されて見下され、人気がありませんでした。田中さんは敢えてその「傍流」に着目したのです。誕生からの郵便法制上の変遷を克明に追い、郵便史的な変化が消印形式の変化に反映されていることを豊かなコレクションを駆使して明かしました。消印形式の変化やバラエティは法制や運用上の変化による地方的編年として説明できることを初めて実証した点に、この本の画期的な意義があると思います。

中野の料理屋の二階に大勢の収友たちが集まって出版祝賀会が開かれました。GANは指名されて田中さんの地道な研究が本になった意味について、つい熱を入れて語ってしまったことを思い出します。「郵便史的消印調査方法の教科書」「消印研究のコペルニクス的転回」などと言ったかも知れません。こういう仕事こそGAN自身がしたかったことなので、「先にやられた」と、ちょっぴり悔しく感じたことも白状しておきます。

本筋の(郵便用)丸一印については、後に雑誌『フィラテリスト』での連載を『丸一印の分類と楽しみ方』(1986年、日本郵趣出版)としてまとめ、田中さんの代表作になりました。今日でも丸一印収集のバイブルとして丸一印人気に大きく貢献していることは、丸一印の収集家・研究者ならだれでもご承知の事実です。

GANはついに門外漢に終わりましたが、田中さんは小判でも菊切手でも二重丸でも丸一印でも、何時のどの地方の使用状況でも知っていて、聞けば惜しみなく教えてくれました。偉大な物知りだった頼れる収友を失って、これからは心細くなります。寂しいです。
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2021年05月11日

郵便配達を隣組が肩代り

逗子2.jpg逗子1.jpgのはがきは終戦直後の昭和20(1945)年8月17日に大分県高田局で引き受けられたものです。宛先は神奈川県逗子(当時は横須賀市の一部)で、表面中央部に「逗子第四町内会」と紫色の印が押されています。

太平洋戦争最末期の日本は全国の主要都市が米軍機による空襲(無差別爆撃)を受け、郵便逓送路は崩壊寸前でした。郵便職員の多くは戦場か軍需工場に動員され、臨時の女性職員に外勤作業は任せきれません。郵便サービスの中核とも言うべき郵便物の戸別配達さえ危うく、何らかの対策が必要でした。

郵政当局(当時は運輸通信省の外局の通信院)は45年1月17日に運輸通信省令第2号「戦時、事変又ハ非常災害時ノ郵便業務運行ニ関スル件」を出しました。この第4項で空襲を受け大混乱中などの場合には郵便配達を止め、郵便物の窓口交付や「郵便局指定ノ場所」に配達できる、と定めました。指定場所は隣組・町内会の事務所や代表者宅が想定されていました。

これは俗に「隣組一括配達」と呼ばれます。郵便局から郵便物を受け取った隣組では組員を集めて郵便物を手渡したり、あるいは係を決めて戸別配達しました。隣組配達をするかどうかは郵便局がそのたびに局内に掲示を出せば済み、報告も不要でした。このため、どの郵便局がいつ実際に隣組配達を行ったかという記録は残っていません。
逗子3.jpg
上に示したはがきの「逗子第四町内会」印()は隣組一括配達に回された郵便物であることを示すものと思います。押印位置などから差出人が押したとは考えられません。配達局の逗子局が宛先は「逗子第四町内会」に含まれると判定した区分印でしょう。他の同地区宛て郵便物と一括して町内会事務所に持ち込んだと思われます。

紫印の下に赤ペンで「ナシ」と読める書き込みがあります。町内会で調べて該当者がいなかったり、戦災で他所に転出して現在は不在であることを示すものかも知れません。しかし、返戻付箋の跡や他の書き込みはなく、結局は無事に届いたと考えたいところです。いずれにせよ、町内会の印からこのはがきが隣組配達された可能性は濃厚です。

隣組.jpg関連してもう1通のエンタイアを示します。は滋賀県醒井局で45年6月22日に引き受けられた東京・世田谷代田宛ての書留速達扱い封緘葉書です。宛先アドレスは通常の所番地に加えて「(代田二丁目西町会第五班三十三隣組)」と隣組名までも「余計に」書かれています。

東京は空襲の最大の標的だったので、世田谷代田もいつ焼け野原になるか知れません。これは隣組配達となる事態をあらかじめ想定して書き込まれたのではないでしょうか。もちろん差出人の思い付きではなく、受取人から事前に依頼(指示)があってのことでしょう。

都内区部の各世帯には区役所や郵便局などから「郵便物のリターンアドレスに隣組名も加えるよう」指導が出ていた可能性が考えられます。しかし(想像ですが)この封緘葉書が実際に隣組配達されることはなかったでしょう。
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2021年05月05日

日中戦初期「野戦電報」

平津通信総局1.jpg日中戦争の初期に京都から北支派遣軍の兵士に宛てた電報です。右下の丸二型赤色印「天津/通信総局 12.11.13」は昭和12(1937)年11月13日に天津で配達されたことを表します。実質的な「野戦電信局」による「野戦電報」です。

日中戦争は1937年7月7日の北京(当時は北平)郊外芦溝橋での日中交戦が発端でしたが、戦火は7月29日に天津に広がりました。南京の中華民国政府(国府)交通部に属する市内の郵便局、電報局、電話局など通信機関の職員はほとんどが避難したため、外国租界を除く全市が通信途絶状態となりました。

戦争の前から北平・天津(平津)地区に駐屯していた支那駐屯軍はすぐ通信網再建に着手します。日本軍との協力組織の天津治安維持会に指示し、電信・電話業務を管理する「平津通信総局」を天津に開設させました。通信総局は一切の業務を満州電信電話株式会社に委託し、満州電電の派遣員によって運営されました。満州電電の通信系が実質的に華北に拡張されたことを意味します。上の電報も満州電電の透かしが入った電報専用白紙が使われています。

通信総局は8月7日に国府交通部の天津電報電話総局の接収に着手しますが、失敗します。フランス租界内にあったため、治外法権を楯に拒否されたのです。接収をあきらめた通信総局は8月20日に日本租界内に通信総局電報局を新設しました。この電報局は山海関を経由して日本・満州との間に日中両文による送受信をしました。

この後、通信総局は支那駐屯軍の命令を受けて河北省東部の北平、豊台、通州、塘沽、唐山などで中国側電報局を次々と接収し、業務を再開させていきます。これらはいずれも駐屯軍の地域内の主要都市です。各電報局では日本人幹部の下で中国人職員も採用されました。一方、接収を免れた国府交通部の電報総局は業務を日本側に奪われ、自然消滅の形で38年1月に閉鎖されました。

このように、平津通信総局は形式上は中国側の天津治安維持会の下部組織ですが、実質的には支那駐屯軍の「軍用電信電話管理局」として機能しました。上の電報は恐らく兵站病院に入院中の兵士に宛てたと見られますが、戦闘中の個人宛て私用電報は、このような「野戦電信局」でもない限り扱われなかったでしょう。

日本軍が華北の主要都市を占領していく中で1938年1月1日に北京(北平を再改称)に華北電政総局が開設されます。支那駐屯軍の後身の北支那方面軍の管理下で、平津通信総局などの臨時機関を統合して華北の電信電話業務(電政)を一元化しました。電政総局はさらに7ヵ月後の8月1日、日本の傀儡政権・中華民国臨時政府(王克敏首班)による日中合弁の華北電電会社に改組されます。平津通信総局、華北電政総局が運営した約1年間が「野戦電信局」時代と言えそうです。
                   ☆
本稿は主として外務省東亜局第1課編『支那事変関係執務報告』上巻第3冊(1937年)、北平陸軍機関編『北支事変解決後ノ處置』(1937年)によりました。共にJACAR(アジア歴史資料センター)の公開資料です。
posted by GANさん at 23:31| Comment(0) | 中国戦区 | 更新情報をチェックする