
なお、電報の発信者は大阪商船社長の村田省蔵。村田は後に貴族院議員となり、太平洋戦争中は日本軍占領下に独立したフィリピン共和国駐在大使を務めた大物です。
結論から先に言ってしまうと、これはレッキとした日本の青島電信局が取り扱った電報です。第1次大戦中の青島野戦局が1922(大正11)年末に撤退する際、中国側との協定により電信専業に切り換わって残留した局です。櫛型印も昭和年号も当然、となります。
荒井国太郎氏『思い出の消印集』(日本郵便史学会刊)によると、青島電信局は佐世保-青島間の海底電線を経由して対日電信を扱っていました。1940年現在で「直接受信・配達業務ハ扱ハズ」との記述もあるため、「では、この電報を取り扱ったのはどういうことか」と疑問がさらにふくらみます。
GANの考えでは、青島電信局は大正期から和文電報に限って受発業務を扱ってきたと思います。ところが、1938年8月に日中合弁の華北電信電話会社が北京に設立されました。そこで、青島電信局は同社に業務を委譲し、現業から手を引いたのではないでしょうか。委譲までの間、青島では日本の青島電信局と華北電電の青島電電総局とが併存していた可能性があります。
実はこの時期の青島にはもう一つ、日本海軍が管理した青島電報局なるものもありました。荒井氏の本にはその日付印が掲載されています。話はとても面白いのですが、この3者の関係は余りにも複雑になり過ぎます。検討は別の機会に譲りたいと思います。