
素直に見れば、だれでもそういう説明を付けたくなるところです。しかし、これは郵便史的には大きな間違いとなります。なぜか。
民政移管によって関東都督府が発足し、同時に郵便業務全般を管理する関東都督府郵便電信局が06年9月1日に大連で開設されます。従来の野戦局と電信専業の軍用通信所55局所は一律にその支局として改編され、再発足しました。
ところが、旧大連野戦局と大連通信所が統合されてできたのは都督府郵便電信局で、「大連支局」ではありませんでした。この封書が発信された10月13日の時点では「大連局」を名乗れる郵便局は存在していなかったのです(東大連支局は別の局所です)。
この間、大連市内での郵便事務を取り扱っていたのは都督府郵便電信局本局でした。正確には本局の中の通信課郵便掛の担当です。監督官庁が現業事務も兼務したことになります。そんな事情から、後に大連支局が正式に発足すると、通信課長(兼規画課長)の樋野得三が支局長も兼務しています。
これ自体は珍しいことではなく、さかのぼれば、郵便創業当初の「東京局」も駅逓寮の一部門(発着課)でした。満州と同時期で言えば、樺太でも樺太庁郵便電信局発足当時はコルサコフ(大泊)の郵便電信局本局がやはり現業も兼務しています。丸二型「樺太庁/郵便電信局」の日付印が使われたことでよく知られています。
樺太と違い満州では「大連支局」を仮想表示しましたが、やはりムリ筋です。いろいろな矛盾も露呈してきたのでしょう。3ヵ月以上も経った12月10日に、改めて独立現業局としての大連支局を正式に開設しました。郵便印も本局時代と同じものを使いました。従って、同じ「満・大連」櫛型印でも39年9月1日から12月9日までは本局(都督府郵便電信局通信課)の消印であり、大連局(大連支局)のものではない、が結論です。

『関東逓信三十年史』(満州逓信協会、1936年)には「管理事務に限り大連本局にて之を処理したるも……」という断片的な記述(pp.89-90)が見られます。郵便切手に日付印を押すような「管理事務」など果たしてあるのか。または、これらの印影はこの記事とはまったく無関係か。--判断するにはまだ資料不足です。この印影の問題については後考に俟ちたいと思います。