2017年03月27日

熱田丸が扱った軍艦郵便

金剛-2.jpg金剛-1.jpg日露戦争後の日本海軍最高のエースとなる超弩級巡洋戦艦「金剛」を引き取るため、1913(大正2)年に発注先の英国へ赴いた回航員の軍艦郵便です。ヤフオクでつい最近入手したばかりです。

これは日本郵船の欧州航路客船「熱田丸」の絵はがきで、菊紫色1.5銭切手に欧文「TSURUGA 10.5.13(敦賀局 大正2年5月10日)」のゴム印が押され引き受けられています。発信アドレスは「横浜局気付 軍艦金剛」です。紫色の角枠「軍艦郵便」印も敦賀局で押されたと見られます。

大正2年2月4日付の「海軍公報」には海軍省内の金剛回航員事務所を閉鎖し、以後の事務を日本郵船会社の熱田丸船内で扱うことと熱田丸の航路予定記事が載っています。同時に熱田丸船上の回航員との間で軍艦郵便を「横浜局気付 軍艦金剛」のアドレスで開始することが告知されました。

「金剛」は当時、イギリス西海岸のバローにあるビッカース社の造船所で建造中でした。副長の正木義太中佐が全乗員の半数に当たる約600人の回航員を引率して熱田丸に乗船し、13年2月12日に横浜を出航しました。シンガポール、スエズ経由で4月9日ロンドンに着き、一般旅客が下船した後、回航員を乗せたままバローに向かいました。

4月17日にバローに入港した熱田丸は「金剛」に船体を横付けして回航員を移乗させました。試運転などの手続き完了後、「金剛」は8月16日にビッカース社から引き渡され、日本海軍の軍艦旗が掲げられました。副長予定者だった正木中佐は引き渡し直前に事故に遭い、交代しています。

アジア歴史資料センターの「金剛」回航関係資料により、このはがきの発信者は機関中尉だったことが分かっています。文面からバロー到着直後の発信のようです。他の回航員の郵便物と共に閉嚢に収められ、ロンドン経由ヨーロッパからシベリア鉄道でウラジオストクまで運ばれ、日本海を敦賀に渡ったのでしょう。

帰航する熱田丸に託すのではでなく、大陸経由の方が日本に速達することが明らかなための特別措置と思われます。これに対応して、逓信省は13年2月5日付の通外第711号で日本から在英「金剛」宛ての軍艦郵便はすべて敦賀局に送るよう部内に通牒しています。「金剛」のバロー出港は8月中旬と予定されていたので、それまでは大陸ルートの方が断然有利です。

「金剛」という軍艦は8月16日の正式引き渡し以前には存在しません。船体のあるバローには英国側との折衝や技術習得などに当たるため艦長の中野直枝大佐以下少数の要員が先発していました。しかし、こちらには軍艦郵便は適用されず、英国の郵便しか利用出来ませんでした。

軍艦郵便は軍艦の乗員に適用されるのが普通です。今回は軍艦ならぬ商船熱田丸に回航員が乗船したため指定されました。商船が軍艦郵便を単に輸送しただけなら無数の例がありますが、商船自体に軍艦郵便が適用された例は他にないと思われます。

明治海軍は英国を初めヨーロッパ各国に何隻も軍艦を発注したり買収したりしています。これらの回航員は少数だったり海軍自身の軍艦で運ばれました。客船での大量派遣は「金剛」が初めてだったでしょう。35.6センチ連装砲4基、排水量27,500トンという大艦巨砲主義そのものの巨艦だったからこそのことでした。

「金剛」以降の主力艦はすべて国産化されたので、回航員を外国に大量派遣すること自体がなくなっていきます。結果として、この「商船が扱った軍艦郵便」は極めて希少な使用例となりました。
posted by GANさん at 04:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 軍艦郵便 | 更新情報をチェックする
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