
金沢駅や富山駅など北陸地方で見かける鉄道電信取扱所印のようにも見えますが、実はこれは「三島駅」という名称の郵便受取所の日付印です。明治35(1902)年2月1日に全国113個所で一斉開設された受取所の一つでした。1928(昭和3)年に「三島駅前局」と改称されていることから、駅構内ではなく駅前に設置されていたのでしょう。

下土狩の三島駅と「伊豆の三島」、つまり旧東海道三島宿だった三島市街地との間は伊豆鉄道(後に駿豆鉄道)の路面電車が結んでいました。距離感からすると、この電車で30分近くかかったのではないでしょうか。現在は新旧の両三島駅間は廃線となり軌道は撤去されましたが、新三島駅の先は伊豆箱根鉄道となって修善寺まで運行されています。三島駅受取所の集配局の三島局はもちろん、三島市街の大中島にありました。

1934(昭和9)年に箱根山の下をくぐる丹那トンネルが貫通すると、東海道線は沼津から先が、「伊豆の三島」、熱海、小田原を経由する路線に替わります。新三島駅が三島町内で開業したため、旧三島駅は御殿場線下土狩駅と変わりました。同じ名称の「三島駅」でも、丹那開通の前と後とではまったくの別ものなのです。
かつての三島駅受取所は、現在も下土狩駅前広場の南東50mほどの場所で無集配の下土狩局として続いています。それなら所名も初めから「長泉受取所」とか「下土狩受取所」にしていれば良さそうなものを。しかし、逓信当局としてはあくまでも東海道線三島駅と結びついた郵便機関と考え、地元民のために開設する考えは薄かったのでしょう。
結局、「駿河/三島駅」という矛盾に満ちた丸一印は、「静岡・三島駅」と表示(たぶん)された櫛型印に切り替わる1910年まで8年近く続きました。この田型ブロックの印影は廃止4ヵ月前の使用例だったことになります。