
この通帳は印刷局製の縦型帳面式8ページで、表紙に紫色で富士山が描かれています。1941年(昭和16)8月に東舞鶴局を受持局として発行され、記号番号は「集ちい」、原簿所管庁は京都貯金支局です。予定額100円に対して44年1月までの32回で計101円が預け入れられ、利子86銭が付いています。
集金貯金の歴史は比較的浅く、1938年(昭和13)6月21日から実施されました。制度的には明治以来の逓信省令「郵便貯金規則」に「集金貯金」の項目を付け加える改正をして発足させています。従来からあった積立郵便貯金とは別に、さらに「預金者ファースト」に弾力化させた制度でした。

実際、この通帳では2、3、30円と3額面の貯金票(正式には「預入金額票」)が使われています(右図)。預金者の都合で集金日以外に局の窓口で預け入れてもよく、さらに複数月分の前納も後納も可能と自在でした。
この集金貯金制度の大きな特徴が、預入額を証明するために貯金票を貼ったことでした。貯金票には7種の額面があり、うち20、30円の高額2種は1940年7月の追加発行です。貯金票の抹消には集金人印を使ったので、為替貯金用櫛型印は見られません。
制度導入後、一部の地方逓信局から「証紙より金額押印方式の方が簡単」との提案も出ましたが、本省貯金局は「制度設計の際に検討したが、労力もコストもほぼ同じ」と退けています。集金人は出先で不定額の現金をやり取りするわけですから、多種の金額印を用意して押印するよりも携帯した貯金票を貼る方が誤りがより少なかったと思えます。

当局には戦争遂行のため、貯金を勧めて庶民の零細な資金をかき集め、膨れ上がる軍事費を支える必要がありました。同時に、生産が後回しとなる生活用品不足から起こるインフレの予防効果も期待されたでしょう。通帳の裏表紙中央には「貯金は誰も出来る御奉公」とさりげなく刷り込まれています(左図)。わずか一行ですが、この新制度の性格をすべて物語っているようにも見えます。
預金者にとっては融通の利くとても便利な制度ですが、単独事業としては集金コストがかさみ、赤字になりそうです。太平洋戦争末期には戦場や軍需工場にすべての人手を割かれ、継続困難に陥っただろうと思います。しかし、制度の一時停止や廃止の通達などは見当たりません。事実上の運用停止状態のまま戦後を迎え、制度整理の中でひっそりと廃止されたのではないでしょうか。