2018年05月29日

特高検閲(?)のはがき

HECKER.jpg昨日到着したばかりのヤフオクで落札した絵はがきです。一見して部隊検閲を受けただけのありふれた郵便ですが、二重検閲らしい点に注目しました。

この絵はがきは乃木3銭が貼られ、帯広局昭和19年(1944)9月16日の標語機械印で引き受けられています。裏面は札幌出身の水彩風景画家・繁野三郎が描いた北海道帝国大学のキャンパス風景です。

発信アドレスは帯広市の「北部軍経理部出張所気付 学徒隊第2中隊第4小隊」です。発信者は帯広の陸軍施設に勤労動員された北大学生のようです。

宛名は札幌市の戦時下では珍しい片仮名名前で「ヘルマン・ヘッカ」。わきに「独逸ドイツ人」と国籍が書かれています。ヘッカーは北大予科でドイツ語とフランス語を教えていた専任講師でした。

寺島.jpg発信アドレスの右端に角枠「検閲済」印が紫色で押され、枠内に「木村」の赤色認印があります。この検閲印の右隣に単独で紫色「寺島」認印が押されています。「寺島」印は角枠検閲印とは同じ紫色系でも色合いが異なり、別の場所で押されたことを示唆しています。

角枠検閲印は太平洋戦争直前から部隊・軍衙に課された部隊検閲印であることが形式から明らかです。それでは「寺島」印は何でしょう。部隊検閲を2人で行ったのでしょうか。

戦地発信の軍事郵便では部隊検閲が二重に行われた例をよく見ます。戦況から軍機保持が特に必要な場合、郵便担当の下士官による通常の検閲に加えて将校がダブルチェックしました。しかし、このはがきの場合は日本国内での経理事務を扱うだけの軍事官庁で、しかも出先の地方機関です。特別重要で機微な軍機を扱ったとはとても思えません。

あるいは、部隊内でドイツ語で書かれた通信文が翻訳され、その認印が押されているのでしょうか。墨の抹消部分が5ヵ所もあり、そうとも見えます。しかし、その場合も責任者はあくまでも郵便担当下士官なので、翻訳者が捺印することはあり得ません。そもそも検閲に不向きな外国語での通信自体を禁止したはずです。

実は北大では41年12月の開戦直後、特別高等警察(特高)によるでっち上げだったことが戦後になって分かる「レーン・宮沢スパイ事件」が起きていました。ヘッカーの同僚の米国人で英語の専任講師ハロルド・レーン夫妻が教え子の学生宮澤弘幸と共に逮捕され、軍機保護法違反で共に懲役15年という重刑判決を受けた冤罪事件です。

レーン家とヘッカー家は北大構内で隣合う教員宿舎に住み、2人で教師・学生の文化交流サークル「心の会」を運営していました。レーン最大の「同志」ヘッカーはまた、ファシズム反対・ナチス嫌いの言動でもよく知られていました。同盟国のドイツ人なので事件への連座こそ免れましたが、「危険人物」として特高の厳重な警戒・観察下に置かれました。

そうしたヘッカーに発着する郵便はすべて、特高の「要観察者名簿」つまりブラックリストに基づいて発信地か配達先の郵便局で秘密裏に検閲されていたはずです。となると、この「寺島」印は札幌局か帯広局に常駐していた特高の「検閲済」印ではないでしょうか。

戦前の特高が「要観察者」たちの郵便物を秘密検閲していたことは当局側の多くの断片的な資料から明らかです。しかし、その詳しい実態は不明で、検閲印や再封緘紙が使われるなどの「痕跡」はまだ全く知られていません。

ヘッカー宛てのこのはがきが特高による秘密検閲を受けたであろうことは、蓋然性の高い推測です。が、「寺島」印をそれに結びつける直接的な根拠はありません。「特高の検閲印」の可能性は五分五分とGANは見ます。将来、特高(及び憲兵隊)による郵便検閲の資料が発掘、解明されることに期待を託します。

(本稿執筆に当たり、逸見勝亮「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件再考」(2010年)、上田誠吉『ある北大生の受難 国家秘密法の爪痕』(2013年)を参照しました。)
posted by GANさん at 05:17| Comment(5) | 郵便検閲 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
釜澤克彦様 重ねてコメントいただき、ありがとうございます。ヘッカー先生は戦後も母国に帰らず、レーン先生は再来日してまで、両先生とも北大で教え続けていたことを改めて知りました。日本側の仕打ちへの言い分は限りもなかったでしょうに、それを超えた北大と学生らへの両先生の愛情が伝わります。それほどの魅力ある北大という学校をとても羨ましく感じました。「浜茄子紅き磯辺にも……」は、高校時代から私の愛唱歌の一つです。
Posted by GAN at 2021年07月23日 18:05
前メールで書き忘れました。
葉書上部の読めなかった部分ですが、「先生そしてかわいい子供さんたち、ごきげんいかが。ママさんは帰国されたのですか。」と読めました。ご参考まで。
Posted by 釜澤克彦 at 2021年07月23日 15:44
懇切なご返事ありがとうございます。
私自身は北大1961年(昭和36年)卒ですが、ヘッカ―先生には教えて頂く機会はなかったものの、構内を歩く姿はよくお見掛けしました。ただ田舎者の私は恥ずかしくて話しかけることもなかったのは今思うと残念です。私の卒業後まもなく札幌で亡くなられたはずです。
米国人のハロルド・レーン夫妻には英語を学びましたが、戦時中特高にひどい目にあったことなど、一切恨み言もなく、私たちも卒業後初めて知ったほどです。ヘッカ―先生はナチ嫌いを隠さなかったので、厳しい監視下におかれたはずです。先生がドイツ語の授業をよく芝生で、ギターを持ってドイツ歌曲や民謡を歌ったりしたそうですから、この学生が「ドイツ語の詩を」と書いていることは、その授業が楽しかったことを表すものでしょう。この学生が戦争を無事生き延びたことを祈りたいです。
重ね重ね有難うございました。
Posted by 釜澤克彦 at 2021年07月23日 15:00
釜澤克彦様 高名な作家のお目にとまり、光栄です。独語の通信文を読解して頂き、ありがとうございました。発信者が「機微な問題」に触れないよう配慮して書いているニュアンスがよく伝わってきます。
釜澤様がヘッカー先生と実際にお会いしているとは、驚きました。当時の北大生とは思えませんので、幼少時のご記憶でしょうか。貴重なご体験と思います。なお、葉書の画像はやや鮮明なものに取り替えておきました。
Posted by GAN at 2021年07月11日 03:12
大変驚きました。ヘッカ―さんへの葉書は学徒動員先からのものでしょうが、墨で消された部分が気になります。友達同士のように「du」で呼び掛けているのはヘッカ―さんから他人行儀でなく親しみを込めて使うように指導されていたのでしょう。「先生そして(読めない)子供たち(黒塗り)、ここは札幌より寒いです。鉄道では眠ろうとしたけど、やっと二~三時間眠っただけです。今日は八月?で休暇です。まだ盲腸の痛みはなく、心配しないで下さい。仕事が最も難しい時こそ義務を果たすよう頑張ります。どうか時間があれば私に手紙を、詩を、書いて下さい。私の現住所は・・・。あなたのカズオ、さようなら。」おそらくドイツ語の詩を、という若者の願いに胸をうたれます。ヘッカ―先生は戦後も北大構内でお見掛けしましたが、戦時中ハロルド・レーン夫妻の受難もあって大変厳しい生活だったはずです。
大変貴重な資料を有難うございました。
Posted by 釜澤克彦 at 2021年07月11日 00:47
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