2020年01月29日

旅順局で籠城2年の書状

captured mail5.jpgcaptured mail.jpg帝政ロシアが支配する東清鉄道のスポンサー、露清銀行ポート・アーサー(後の旅順)支店からペテルブルグに宛てた書状です。裏面(右下図)封じ目に内国料金の7コペーク紋章切手を貼り、1904年8月24日(日本の明治37年9月6日)にロシア旅順局で引き受けられています。近年のeBayで入手しました。

一見して素直なカバーに見えますが、ペテルブルグの到着印はなんと、1906年9月11日(明治39年9月24日)です。通常なら2週間ほどで着くというのに、この書状はまるまる2年間をいったいどこでどう過ごしていたのでしょうか。

その釈明を裏面上部に貼られた封緘ラベルが果たしています。「この書状は旅順の降伏により日本軍に押収されていたが、ロシア帝国対日使節団を通じてハバロフスク郵便電信局に引き渡され、名宛人に配達された」とロシア語6行にも及んで印刷されています。

読者各位がすでにご賢察のとおり、これは日露戦争で輸送路が途絶して逓送がストップしていた「掩留えんりゅう=延滞カバー」です。しかも日本軍によって押収されたCaptured Mail(押収=被捕獲郵便物)だというのです。表面右下の赤鉛筆書きは「木七二乙九三」とも読め、日本側の管理番号のようです。ラベルはハバロフスク局でロシア軍当局が開封検閲し、再封のために貼ったのでしょう。積極的に「検閲した」と書かれてはいませんが、としたら、これは検閲カバーでもあります。

日本の第2軍は遼東半島南岸に上陸し、半島先端部を横断して04年5月26日に半島北岸の要地・金州を攻略しました。金州守備のロシア軍は追撃を絶つため東清鉄道南部支線の鉄橋を自ら破壊して撤退したので、ロシア軍の旅順要塞は名実ともに孤立します。ただし、当時はまだロシア太平洋艦隊が旅順港内で健在だったので、海路でのわずかな連絡があった可能性は残ります。

さらに乃木大将の第3軍によって8月初旬には旅順攻囲態勢が完了しました。その1ヵ月後、封鎖中に引き受けられた書状なので、他の郵便物と共に旅順局の地下倉庫にでも保管されたままとなったのでしょう。ロシア側は日本軍の攻撃に耐え抜いて勝利し、遠からず逓送が再開されると信じていたのかも知れません。実際には連絡遮断され籠城7ヵ月の末、05年1月2日に旅順要塞はついに陥落してしまいます。

時がさらに経った講和成立の翌06年、日本軍との善後協議のため現地に派遣されたロシア使節団にこれらの郵便物は引き渡されました。旅順局だけでの限られた期間ですから、郵便物は全体でもそう多くはない量だったはずです。東清鉄道を避けて黒竜・沿海地方の中心地、ハバロフスクに送られ、ようやく逓送ルートに戻ったのだと思います。
posted by GANさん at 22:45| Comment(0) | ロシア極東 | 更新情報をチェックする
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