2020年10月08日

安着を知らせた南方電報

彼南_01.jpg白紙にタイプ印字されただけの、ごくありふれた電報送達紙ですが、2行目に「ペナン」とあります。太平洋戦争中に日本陸軍が占領し、海軍も根拠地としていたマライ半島西岸の大都市・ペナンから発信された電報です。最近のヤフオクで入手しました。

南方占領地との公衆電報は1942(昭和17)年7月1日にジャワ(第16軍の軍政地)と、同15日にマライ・スマトラ(第25軍の軍政地)との間で始まったのが最初です。国策会社の国際電気通信に業務委託し、陸軍の軍用電信網を利用して開設されました。取扱地はビルマからニューギニア(マノクワリ)まで陸海軍占領地のほぼ全域の都市に及びました。

占領地との電報は従来の内国電報、外国電報、東亜電報(満州、中国などとの間)とは別の第4の電報系として、昭和17年逓信省令第78号により「帝国占領南方諸地域トノ間ニ発著スル電報」の名で新設されました。逓信部内でもとくに略称はなかったようですが、GANは単純に「南方電報」と呼ぶことにしています。

南方電報の料金は宛先の距離によって異なりますが、マライ宛ての場合の基本料金は片仮名5字で2円40銭、以後5字ごとに80銭増しでした。当時の内国電報基本料金は15字40銭だったので、電文15字で比べると40銭対4円=10倍と高額です。現地発内地宛てもこのような料金設定と考えられます。利用者は進出企業幹部や軍高官、報道関係者など極めて限られていたでしょう。軍用電報、報道電報と官報は私報より安く設定されていました。

南方占領地では日本軍軍政下の電信局(または郵便局)が地域内電報と共に取り扱いました。現地で配達された南方電報はこれまで未発表のようです。送達紙の形式やどのような日付印が押されていたのかに興味があります。

最初に戻って、この電報は1944(昭和19)年6月17日に東京・荻窪局が配達しています。電報には7行に渡って漢数字と片仮名の文字列が印字されています。1行目「三四七」の意味は不明ですが、荻窪局が扱った電報としての通し番号のようです。以下を解読してみます。

彼南_02.jpg2行目(左図)がデータとしては最も重要です。15日の午後1時にペナン局第34号電報として受け付けられたことを示すと見られます。3から5行目は宛先、最終の7行目は荻窪局で17日午後7時58分に「タ」職員が受信したことを示すのでしょう。ペナンから昭南中央(シンガポール)電信局、東京中央電信局を経由して2日と7時間ほどで荻窪に配達されたことになります。

電報の6行目が本文で、「ミナブジカコチラゲンキヨ(皆無事か。こちら元気)」とあります。最後の「ヨ」は発信者名です。ペナンに赴任した商社員か軍政要員などから留守宅への「安着通知」だったのかも知れません。全文15字なので、前述したように4円相当の電報料が支払われたはずです。発信者はあるいは内地電報と同じと誤解して、「基本料金」の15字に収めた可能性があります。

太平洋戦争中は軍公用以外に航空郵便は利用できませんでした。44年半ばともなると、軍事郵便と民政郵便(軍政下での一般公衆郵便)とを問わず、南方占領地と内地との郵便連絡は途絶寸前の状態です。高額料金にさえ目をつむれば、南方電報の利用が最も速く確実な、無二の手段でした。

 【本稿執筆に当たっては逓信省・国際電気通信会社編『南方通信早わかり』(1942年10月
  刊)を参照しました。】
posted by GANさん at 01:54| Comment(0) | 南方戦区 | 更新情報をチェックする
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