2021年01月09日

台湾郵便受取所型櫛型印

大西門.jpg菊5銭2枚貼り封書を台湾の台南大西門郵便受取所が1908年(明治41)10月7日に引き受けた書留書状です。明治末期の台湾だけで使われた特異なタイプの日付印で引き受けられています。

台湾では民政(普通)郵便を本格的に開始した直後の1896(明治29)年9月から集配を扱う1-3等郵便局とは別に、無集配の「郵便受取所」が新設されました。丸一印時代は局種による表示形式の区別はなかったのですが、明治39(1906)年10月から櫛型印に切り替わると、郵便局と受取所とでは形式が明確に分かれました(台湾総督府明治39年訓令第48号、135号)。

受取所型櫛型印の上部は櫛型がなく水平2行書きです(左図)。この時期は櫛型印が日本本土、在外局、植民地を通じ相次いで導入されましたが、このような表示形式が定められたのは台湾だけです。性格の似る満州大稲埕支局2.jpg(関東都督府管内)の出張所では、出張所名をC欄で時刻帯に代えて表示する形式でした。

台湾の受取所でこのような表示形式が採用されたのは、それまで使っていた丸一印の名残かも知れません。丸一印の上部局所名が「臺湾/臺北大稲埕」(台北局大稲埕支局)といった表示形式(右図)だったからです。すると、すぐ思い浮かぶのが「丸一印の上部印体を櫛型印に流用してはいないか」という疑問です。形式上は全く同じなので、もっともと言えます。

しかし、これについては既に水野虎杖氏が顕微鏡的な観察も加えて考察し、次のように明快に否定しています。
(受取所櫛型印の)上部印はしかし、丸一印のそれの転用ではなく、櫛型印用の印材に彫られたもの、丸一印用ならばもっと小形。(『櫛型印の形態学序論』第4巻p.78f、1972年)
なお、水野氏はこれら台湾の丸一印と初期櫛型印の上部印体(AD欄)は木や角のような印材を使った手彫りで、彫刻者も同一であったという考えも提出しています。(上掲書p.82n)

非常に示唆に富んだ台湾の受取所型日付印でしたが、1911(明治44)年一杯で姿を消します。大正に入ってからの使用例はありません。廃止を定めた告示類があるはずと筆者は考え、台湾の法令を2年間ほどにわたって捜したのですが、見当たりません。結局分かったことは、印影形式は廃止しないまま、受取所制度自体がなくなった事実でした。

台湾総督府の明治44(1911)年告示第190号によると、「45年1月21日から郵便受取所を3等郵便局に改定する」「但し郵便集配事務は扱わない」とあります。以後の3等局は集配局と無集配局とが併存することになりました。内地で先行する3等局制度に合わせたようです。

この上部2行書き櫛型印は「受取所ニ用ウルモノ」と訓令で定められていました。受取所が郵便局に変わると日付印も郵便局が使う普通の「A欄局所名/D欄櫛型」に変わります。受取所用印を使うべき局所がなくなるので、この形式を廃止する告示類は無要だったのです。

追記 】(2021.01.13) 「鉄道郵便印の備忘録」ブログのオーナー様から台湾での櫛型印導入時期は「明治39年10月から」が正しい旨のご指摘をいただきました。GANは初め、総督府訓令第48号に基づいて「39年7月から」としていました。ご指摘によりその後に訓令第135号が出て導入時期が3ヵ月遅らされた事実を知りました。このため記事中の「7月から」を「10月から」に訂正しました。

調べてみると、JPSの『日本郵便印ハンドブック』も訓令第135号の存在を知らずにGANと同じ過ちをしていました。鳴美の『郵便消印百科事典』もほぼ同様ですが、櫛型印導入で廃止されたはずの丸一印が明治39年9月まで使われている事実を指摘し、実証的です。ご教示下さった「鉄道郵便印の備忘録」オーナー様に改めて感謝します。
posted by GANさん at 23:45| Comment(0) | 植民地 | 更新情報をチェックする
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